2011年4月15日金曜日

理趣経的密教房中術 3

理趣経的密教房中術 3

二匹の絡まる蛇を象徴した龍頭の華原磬(かげんけい)。磬は吊り下げ、撞木しゆもくで打ち鳴らす楽器のことである。

●転法輪呼吸法

 「眠れる蛇」の火竜のクンダリ-ニは、一旦眼を醒ますと七つのチャクラを這(は)い昇る。クンダリ-ニの通る回路は中央部の柱であるスシウムナに絡む陰の路線イダ、それに陽の路線ピンガラの二路線があり、火竜は丹田より性根部に下り、そこから会陰(えいん)と尾閭(びろう)を経由して「陰」である背面を昇り、命門(めいもん)に達して、更に脊柱(せきちゅう)を昇り、頭頂部の泥丸(でいがん)に達した後、「陽」である前面に進み、再び丹田に戻って人体を一周する。これが火竜の循環する「小周天」の回路である。
「眠れる蛇」

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 背面の脊柱を昇って玉枕(ぎょくちん)に至り、玉枕で温養し、更にそれが昇って頭頂へ精気が昇ったと自覚した時、息を止め、息を吐きながら精気を前面の丹田まで降ろす呼吸法が密教房中術では「転法輪(てんぽう‐りん)呼吸法」と呼ぶ。

この呼吸法は、宇宙天体の運行と同質のものと考えられ、天を巡るのである。これは自己の肉体と宇宙の天体が一体化することの瞑想法であり、ここに真の生命力を求める密教房中術では、この修法を重要視するのである。

この呼吸法で注意すべきことは、吸う時には必ず、肛門を締めておく事である。吐気の時も、寛
(ゆる)やかに肛門から力を抜かねばならない。肛門の括約筋【註】肛門・尿道・幽門その他の中空性器官を取り巻き内容物を間欠的に排出させる筋肉)が弛(たる)んでいるのは、丁度、財布の紐が弛(ゆる)んでいるようなもので、金銭は幾ら稼いでも、溜まることがないのと同じである。底が笊(ざる)になっていては、どんどん抜け落ちるばかりである。

この状態は、交会・性交において、性の乱れと暴走において、精の浪費に繋
(つな)がるのと同じ事である。
宇宙間の大周天に対し、人体はこれに対して小周天の形をとる。これは天体と対峙
(たいじ)させ、背面の陰を「月」とし、前面の陽を「太陽」と看做(みな)し、精気を循環させることと非常によく似ている。また、月は女性であり、太陽は男である。

こうして考えると、人体においても、前を「男」とし、後ろを「女」とする考え方であり、一人の人体には男女が同時に合体していることになる。この発想は、自己の体内を巡る精気が、精子と卵子に分かれ、一つの体内で生殖作用を起しているとする考え方である。

人間には心的な状態を考えても、善と悪の二つが常に同居している。あるいは黒雲のように湧き上がる煩悩
(ぼんのう)は悪の一面を司り、慈愛深い仏心の芽生えは善を司っている。こうした善悪の二つが、一体の中に同時に同居しているのは、自己生殖の為であると考えられている。

特に無闇矢鱈
(むやみ‐やたら)と相手に惚(ほ)れたがる強い性欲は、自己生殖だけではもの足らず、他人の肉体を征服して、自分の強い精気を相手に移植し、自己生殖の領域を拡張しようとする植民地的な発想から起るものである。いい女を抱きたいとか、世界中の美女を吾(わ)がものにしたいという発想は、明らかに自己生殖の植民地にする為の、一種の涙ぐましい願望である。

人間の心の裡
(うち)には、こうした願望が渦巻いているので、これは単なる妄想とは言えまい。つまり、「小周天(しょうしゅうてん)呼吸法」が完成すると、実際にセックスが非常に強くなるのである。然(しか)も、単に年から年中、毎日のように発情するのではなく、定期的に自制の利く、節度ある交会の認識が保たれるのである。正安定が得られるのである。



●異端視された真言立川流

 密教房中術と真言立川流は密接な関係を持っている。
ドクロ学によれば、「月輪とは、大頭の頂上もしくは眉間
(みけん)などの前の如く取りて、大頭の中なる脳の袋をよく干し、洗いて、月輪形の裏にムキ漆にて伏せ、その中に種々の相応物などの秘符を込むること、まはハク押し、曼荼羅(まんだら)を書き、和合液を塗ること、みな前の如し。月輪の面に行者特念の本尊を絵具にて描くべし。裏には朱を差すべし、己にしたてなば、女人の月水げっすい/成熟した女性の子宮から周期的(約28日ごと)に数日間持続して出血する血)に染めたる絹にて、九帖(くちょう)の袈裟(けさ)を作りて包むべし。九重(ここのえ)の桶の中に入れ、七重(ななえ)の錦の袋に入れて、首にかけて特念すること、前の如し」と記されている。

こうして「月水」まで用いるのであるから、この猟奇性は愈々
(いよいよ)増してくる。更に、この髑髏本尊製造法は、まだまだ種々の故実口伝があり、『受法用心集』のほんの一部の“くだり”に過ぎない。

『受法用心集』に挙げられているドクロ製造法の要点は、髑髏の眼窩
(がんか)に、玉を入れて目玉とし、顔面には、彩色化粧して口紅まで付け、美女のようにする事とあるのだ。
更に、頭蓋
(ずがい)の上に緊迫を張り、そこへ曼荼羅を描く事とある。頭蓋の裡側(うちがわ)には春画や秘符を入れ、その墨なる絵具には、男女交合の和合液を用いれとある。
つまり、生と死の合体であり、エロスの女神と死に神の結婚を顕わすようなものなのである。此処に真言立川流の原点があるのである。

まさにこの流儀は、性魔術の極みであり、例えば、女性に膣に射精された精液と、女性の愛液を、特別な霊薬としてフル活用していることである。また、シヴァやその妃
(きさき)を象徴する髑髏を加工して、これを 本尊とし、髑髏盃(どくろ‐さかずき)を製作する際には、交合しあった男女の愛液は不可欠な霊薬となるとしている。霊薬を得る為に、髑髏礼拝をし、髑髏を本尊とするのである。

しかし、多くの人間は、子供の時から天ばかりを仰いでいた。天ばかりを見詰め、天国を、地獄に対比した極楽浄土と考えて来た。その一方、地の底には殆ど目を向けなかった。あるいた大海の海底の底には目を向かなかった。
本来、生物の故郷
(ふるさと)は「海」である。また、大地の養分が海に流れ出し、そこで大いなる生命を造り出して来た。海は、生物を生成させた根源である。この根源の中に、真言立川流の髑髏を本尊とする“大地大海思想”はあるものだと考えられる。
人間の想念の根源には“大地大海思想”が横たわっている。
地球は誕生以来、大地が、大量の雨に洗われ続けて来た結果、大地の土壌中の多くのミネラルが海に流れ込んだ。もともと大地にあった必要なミネラルは、大海に溶け込んでしまったのである。

人間が、大海をさして「母なる海」などと表現するのは、この大海に生命の根源が宿っているからだ。
また母なる海は、もともとがミネラル分の宝庫であり、これこそが人間の必要とする大切なミネラル源となっていた。このミネラル源は、食品としての価値も大きい。そして、そこで生命は育まれた。

生物学上の進化の過程からみて、下等な海中動物は、体全体が均質になっていて、それぞれの体内には、独特で微量な元素を保有している生き物が多い。その中でも、貝類
【註】アワビや二枚貝などを含む一般の貝など)やマナコなどは銅や亜鉛、バナジウムなどの微量元素を保有し、これが体質を陽性化する特性を持っているのである。この体質改善の食品を人間が食すれば、それこそ「精力絶倫」になる。

古来より海は、交会
(こうえ)と深い関係があった。そのために貝類などが好んで食べられ、“貝塚”として歴史の中に留められている。それは性と生殖器に大きな関係があったからだ。そのために海から得られるミネラルが必要だった。それは体質を陽性化するために、である。

一方、体質が、逆に陰性化した場合はどうなるのか。
陰性化した体質は、気力的に無気力になり、思考が酸毒思考に犯されて短絡的なものに固執し、生活習慣から慢性病に罹
(かか)り易くなり、更には精力の減退を招く。内臓器官も弱り、精気が衰える。性力も弱り、気力も萎(な)え、交会は中途半端なものになる。男ならば、からっきしだらしのない状態が生まれる。意気地なしの状態だ。そして女なら不感症である。

したがって、陽性化する必要があった。健康と精力を維持するならば、精気の陽性化が必要なのである。
人間が大地と大海を見て、過去の昔に戻ろうとする“懐かしい脳”には、哀愁を感じるのである。この哀愁こそ「大地大海思想」によって導かれる体質保全の 意識だったのである。大地を思い、大海を思うその根底には、生命維持の願いと、生命力エネルギーを旺盛にする、生命の火である“焦”を燃やす陽力があった のである。

人間の死と生は「中有
(バルド)の思想」によれば、死のプロセスを辿れば、まず“死の刹那(せつな)のバルド”が現れ、次に“レアリティーを経験しているバルド”更には“再生を求めるバルド”の三つが現れ、死に就くのであるが、生はこの逆のプロセスで行われる。
生まれるという郷愁に似た懐かしさには、根底に「大地大海思想」が横たわっているからである。
 しかし、一方で大地大海思想は、天を仰ぐ宗教や宗派から不浄とされ、外道(げどう)とされた歴史を持っている。上を見ず下を検(み)るからである。
ある意味でこれは、大気の存在しない天空で、実際には人間は存在できないのであるから、極楽浄土を目指し、天に憧
(あこが)れるのは、余所(よそ)の花が赤く見えるのと、余り大差のない思考であろう。

髑髏礼拝の真言立川流は、その奥を探って行くと、地球上的、非常にリアルな人間宗教としての視点が見えて来る。髑髏崇拝は、人間の最も原始的な信仰の形であり、男女のマイトゥナ
(性交あるいは交会)による「金剛界胎蔵界」の両部合体は、即身成仏(そくしん‐じょうぶつ)としての教義が立てられている。

人間の「生まれる」という現象を追えば、これは三つのバルドが関与していることは明白になろう。
東洋医学にもこの「三つのバルド」が解かれている。
東洋医学の定義によれば、横隔膜
(おうかくまく)から上を「上焦(じょうしょう)」といい、横隔膜から脾(ひ)の神闕(しんけつ)までを「中焦(ちゅうしょう)」といい、臍(へそ)から会陰(えいん)までを「下焦(かしょう)」という。

つまり、「誕生のプロセス」は、「焦
(しょう)」を焦(こが)すことから始まる。この意味は「火を焦す」という意味でもある。
では、何の火を焦すのか。
それは「生命の火」である。
誕生は生命の火を焦すことから始まる。
まず、オギャーと生まれ落ちて一番最初の一呼吸をする。と、同時に。臍の緒
(お)を切る。それは母体から離れ、独り立ちの準備が完了したことを顕わす。これにより成長が始まる。そして下焦で大小便をするプロセスが整う。これが人間の誕生である。

また、人の死はこの逆のプロセスにより死が始まる。
例えば「自然死」の場合、下焦の会陰が閉じられる。この際に生命力は中焦の神闕を経由して、上焦のブラフマへと向かい、この蓋が開いて、生命力は体外へと出る。
誕生は生命の火が焦げはじめることであり、死は生命の火が消えることである。精液という自ら生じた生命力は、焦の尽きる時、だから「末期
(まつご)の水」を必要とするのである。この水で、生命の火を消さなければならないからである。

人の死とは、その人の業
(ごう)の定めにより、まず鬼神(肉体霊)が去って、ついで魔(精神霊)が断たれ、その生命力はブラフマの開き口から、「中有の世界」に戻ることをいうのである。
この流れが、中有→水(精液)→焦→末期の水→中有というプロセスを辿り再生が行われるのである。つまり、これが「生まれ変わり」である。髑髏は、その象徴とされる。
真言立川流の髑髏について、これをどう位置付けるか、『受法用心集』は、更に続ける。




●愛液から魔神が出現するとした真言立川流

なぜ愛液を塗るのか。なぜ和合液を用いるのか。更に、何ゆえ髑髏(どくろ)を用いるのか。
こうした疑問は、真言立川流に憑
(つ)き纏(まと)う。
これを真言立川流では、次のように答える。

「衆生の身中は三魂七魄
(さんこん‐ななはく)であり、ここには十神の心がある。衆生が死すれば、三魂(さんこん)は去り、六道(りくどう)に生を受けて、更に七魄(ななはく)は裟婆(しゃば)に留まりて、本骸を護る鬼神となる。夢に見え、物に託することのみ、みなこの七魄のなすところなり。人この髑髏を取りて、よくよく養い祀(まつ)れば、その七魄喜び行者の所望に遵(したが)って、有漏うろう/漏は煩悩の意であり、煩悩のある状態)の福徳与うるなり、曼荼羅を書き、秘符をつめれば、曼荼羅と秘符の威力に因りて通力自在なり。この故に種々の建立(こんりゅう)するなり」

また、「衆生の生益することは、男女の種として生ずるが故に、男女の愛液を髑髏に塗りて、髑髏に籠
(こも)る七魄を生ぜしむものなり。たとわば、水にあいて諸の種の生ずるが如し。そもそも、人身の三魂七魄は男女の仲に備わり、母の胎内にて、ようよう固まりて肉となり、人の躰になるに遵(したが)い、魂魄同じくして生長し、智慧(ちえ)賢き人とも生いたてり。然らば、男女の混合愛液を髑髏に塗らば、三魂と髑髏の七魄が寄り合いて、生身の本尊となるべし」と『受法用心集』は説明している。

神を見、神と一体化する幻影を得る思想を持つ宗教は少なく、神との一体化は、宗教的恍惚感の中に、性的エクスタシーを昇華させる聖女テレジアのケースな どに見る事が出来る。また、日本でも、観音菩薩との性交の話がよく出てくるところである。そして真言立川流は、性魔術として忽然
(こつねん)と姿を顕わすのである。

ヒンドゥー教の、シヴァ神のシャクティ
(性力)を 崇拝するシャークタ派の文献をベースにするタントラの考え方は、万物は、男性原理と女性原理の二者によって、それが一体化した時、生命力が生ずるとしてい る。インドの後期密教の聖典により、また、インド密教を総称してタントラ仏教というが、この宗教の根源には、物質変成を成就する為には二者の結合が必要で あるとしているのである。

性魔術の目的は人体における、王妃パールヴァティーの結合が必要であるとしている。男性原理と女性原理は、人体の同じ場所にいるのではなく、男性原理であるシヴァは頭部に居り、女性原理のパールヴァティーは脊髄
(せきずい)の最下部に横たわっているとしている。パールヴァティーの本質は「眠れる蛇」であり、これを「シャクティ」と呼んでいる。シャクティは生命力の根源であり、この力を「性力」ともいう。この性力は、屡々(しばしば)「とぐろを巻く蛇」であり、「眠れる蛇」に象徴されている。

この蛇を覚醒させ、脊髄に沿って走る見えない霊的器官を上昇させ、頭部に位置するシヴァと一体化させるのである。タントラの性魔術は、脊髄の最下部に位置する腰骨付近の「眠る蛇」を覚醒させて解脱する修法だったのである。

ちなみに女性原理は、「眠れる蛇」あるいは「とぐろを巻く蛇」が脊髄
(せきずい)最下位の腰骨付近に因縁として生まれながらに鎮座しており、これはある日突然、脊髄を駆け上り頭部に至って爆発すれば、精神分裂状態となる。世の精神分裂病は、男女が性交こうする事により、女性側(あるいは男性であっても、過去世に女性の因縁を持っていれば、その霊的本体は女性である)にあった、「眠れる蛇」の仕業(しわざ)であり、これが頭部で爆発したに過ぎない。

一方、タントラの性魔術の解脱法は、蛇を覚醒
(かくせい)させない以上、王のシヴァと、王妃のパールヴァティーは、引き裂かれたままであり、いつまでも一体化することができない。この覚醒法として最も一般的なのが、酒(マドゥヤ)、肉(マーンサ)、魚(マツヤ)、炒穀しょうこく/ムドラ)、性交(マイトゥナ)であった。
十一世紀のヒンズー教の大神・踊るシヴァ
この方法を実践する場合、まず、ドラッグ(媚薬や妙薬)によって精神状態を日常の世界から解き放ち、祈祷(きとう)と秘呪(ひじゅ)に続いて、魚が食べられる。続いて牛肉が食べられ、媚薬びやく/性欲を催させる薬で、淫薬とも)としての野菜の炒穀を食べ、次に葡萄酒(ぶどうしゅ)が口に運ばれる。そして性交の儀式が最高頂に達し、秘儀が繰り広げられるのである。

しかし特記されるべき事は、ヒンズー教の伝統を持ち、これを信仰する者が、牛の肉を食べると謂
(い)う事は、最も恐ろしい破戒(はかい)行為であり、戒律破りを冒している事に注目すべきである。
また、今日でもスワッピングを楽しむ夫婦間では、牛肉と葡萄酒は性への興奮を煽
(あお)る為の必需品とされている。更に、エクスタシーの作用を高める為に、大麻を使うスワッピング集団もある。

タントラの性魔術によれば、男達は自らを“シヴァの化身”であると信じ、それを観念しながら、三角形の図の描かれたシーツの上に女を横たわせ、性交を開 始する。三角形は「眠れる蛇」のシャクティの象徴であり、女はそれを観念する。そしてこの性行為には長時間が費やされる。
この時の性交には、秘教的な道筋が有り、段取りがあって、その二人の絡み合いを取り巻く参会者は、絶えずマントラを唱える。
更に、王と王妃はクライマックスのオルガスムスを迎え、脱魂状態に至るのである。

真言立川流にも、こうした流れを見る事が出来、この宗派の祖は平安時代末期の密教僧・仁寛
(にんかん)とも言われ、仁寛は武蔵国立川(むさし‐の‐くに‐たちかわ)の陰陽師(おんみょう‐じ)であるといわれる。しかし実際には、その詳細は定かでない。
仁寛伝説によれば、天皇家の政争に加担して敗れ、伊豆
(いず)に流された後、その地で投身自殺した仁寛が、立川の陰陽師の見蓮(けんれん)ら数人に、その法を授(さず)けたとされるものである。

その左道密教の流れが、鎌倉時代に入り、各地に拡がったとされるもので、これが後に都にも流れ込み、隠然
(いんぜん)たる勢力を保持して行く事になる。
後醍醐天皇
(ごだいご‐てんのう)に仕えた東寺(とうじ)の長者・文観(もんかん)が、この法を用いて世を惑わしたと排撃され、真言立川流の排斥運動が起った。そして江戸時代に至ると、完全に抹殺されたようになった。



●邪教視された真言立川流の悲劇

真言立川流の根本教典は『般若理趣経』である。
これは密教房中術の交会思想と同根を為
(な)す。人間にとって、一番根本的で、最も大切な真理とは何か、と説き明かしたのが、そもそもの『理趣経』の興りである。

『理趣経』には、男女の愛欲、あるいは男女の二根交会は清らかなものと説いている。また、仏の心としての側面である「妙適清浄句
(みようてき‐しょうじょう‐く)」「二根交会五塵大仏事(にこんこうえ‐ごじん‐の‐だいぶつ‐じ)」等を説き、それを文字通りに、浅く解釈し、表面を安易に狭義的に解釈した考え方が、真言立川流は邪教である決め付けた要因だった。
こうした浅はかな評価が、真言立川流を邪教視して来た要因である。それ故に、平安後期の仁寛
(にかん)を祖とし、十四世紀に文観(もんかん)により大成され中世に広まったが、後に邪教として取締りをうけて衰えた経緯がある。

しかし、男女の愛や性の交わりと云ったものは、教典で説明されなくても大自然の法則であるから、人間が地球に生息した時点から、極めて正しいことに決まっていたのである。
それなのに狭義的な誤解が生まれ、これを賤
(いや)しみ、邪教視したのである。

真言立川流の説くところは、精気や性交を面白半分に猥談的に展開した邪教の教えではない。そもそも人間の男女二根交会を通じて、宇宙の根元にある生命力を人間形成の根本において、これを人生に活用する生命エネルギーとして、生きる智慧
(ちえ)を解き明かすことにある。

また、真言立川流は真言密教の一派だが、『理趣経』を基盤にして出来上がった、男女の性的な結合を即身成仏の秘術とされるだけに、この秘術は『理趣経』と同じくするものが多い。

本来、真の神仏は神社仏閣よりも、自分の裡側に内蔵する性意識の中に、本来の神々がいる。それ故、精気や愛液を神聖視するのである。
地球上の人類が、『理趣経』の「五秘密尊曼荼羅
(ご‐ひみつ‐そん‐まんだら)」のように、慾触愛慢(よくそ‐あいまん)となり、男女の性愛が清らかなものになれば、まず、昨今に急増している性犯罪は一気に解決するだろう。また、流行のようになっている醜い離婚問題も、一気に解決しよう。
これは男女の性愛そのものが、
“金剛さった”の顕われと観(かん)じればよいからである。

五秘密尊曼荼羅とは、慾金剛菩薩、触金剛菩薩、愛金剛菩薩、慢金剛菩薩に、主尊の
“金剛さった”を加えた五尊の事である。

美男美女の異性を見て、抱きたい、あるいは抱かれたいと願う心、欲する心。また、愛欲や欲情により貪りたいと思う色欲。
自分の好みの異性と交際したり、接吻とか性交をして、肉体的に関わること。身体で触れて知覚されるもの、あるいは触境。感官と対象が接触すること。
異性の肉体と関わることによって、単にプラトニックより、更に情が深まること。また、男女間の、相手を慕う情で求愛などをいう。
男女が肉体と愛情の交換によって、心から満足すること。望みが満ち足りて不平のないこと。欠けた所のない完全な形になる。
以上を簡単に云えば、恋愛結婚に至る男女の姿である。恋愛を通じて性愛の中で人間の心が芽生え、相手を労り合う優しい気持ちが生じる。その気持ちそのものが、“金剛さった”の働きであると言う。また、これこそが男女のペアで行う即身成仏の体験であると『理趣経』は教える。

真言立川流の教えは、『理趣経』の教えに遵
(したが)い、愛の形を正しく伝えようとするものである。したがって、「性」を矢鱈(やたら)に鼓吹謳歌(こすい‐おう‐か)し、猟奇に満ちた性犯罪魔や、痴漢をつくり出すものではなく、男女に正しい恋愛の姿を薦め、夫婦和合の道を開かせようとするものなのである。



●五秘密法身の修法

 では、『理趣経』にある修法を実践すると、どうなるか。
『理趣経』には「五秘密中の大秘密」という、房中術特有の秘法が伝えられている。これは「五神通
(ごじん‐つう)」のことであり、また「五神変」ともいわれる秘事口伝の法である。これによると、その修法の実践者は成就の暁には、五つの「神変法力」を得るとされている。
その一つ
「天眼通(てんがん‐つう)」で、凡人には見えないものが見える霊眼。可視世界から不可視世界への移行。肉眼から霊眼への移行ならびに開発。
その二つ
「天耳通(てんじ‐つう)」で、凡人には聴こえない、天からの囁(ささや)きが聞こえる霊耳(れいじ)。霊的波調の聴覚開発。
その三つ
「他心通(たしん‐つう)」で、他人の心の裡(うち)を見抜いたり、意図的に隠された考えを読む霊読。思念、意念の傍受開発。
その四つ
「宿命通(しゅくめい‐つう)」で、他人の過去や、過去世(かこ‐ぜ)を知る習気知(じっけ‐ち)。これは他人の過去世からその人の性格を知る術である。
その五つ
「如意通(にょい‐つう)」で、自分の思うまま、意のままに他人を操る術である。また、思いのままに動かす術。
 そしてこの修法を行うには、まず十八日間の禁欲【註】性欲や食欲を慎みのは愚か、一切の艶夢なども脳裡から駆逐しなければならない)が求められる。

十八日間と限定されているのは、九天九地
(きゅうてん‐きゅうち)の合計数からである。
「九」とは、極限を意味する数であり、「九天九地」は自分の棲む世界の最果ての事を云う。特に、中心地から最も遠く離れた果ての地のことであり、本当に愛する異性が見つかる間では、喩
(たと)え天地の果てであろうと探し求め、さすらいの旅を続ける事を指すのである。
そして此処での誓約は、大切な生命の精液を無駄にしないと天命に誓い、十八日間の精進潔斎
(しょうじん‐けっさい)を約束し、それだけ性力エネルギーが溜まるわけであるから、この修法が房中術会得の為の原動力となるのである。

この会得にあたり、「精液」「肉体的エネルギー」「異性を求める情念」の三つは、やがて一つに纏
(まと)まった強力な「陽之気」に変換される。この陽之気に変換される事により、肉体が五秘密の法身と変化(へんげ)し、ここに唸(ねん)が起る。
密教房中術では、この唸によって力波羅密と火竜を合わせて、唸を起し、唸によって恋人を引き寄せるのである。

自己の体内に五秘密法身の姿勢を作り、左手が慾金剛菩薩、右手が触金剛菩薩、左足が愛金剛菩薩、右足が慢金剛菩薩であり、頭部より胴体にかけてを
“金剛さった”と観じるのである。


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理趣経的密教房中術 2

理趣経的密教房中術 2

護摩壇の火

●三密観の五大

有感化の異常は、「精気」を急速に減少させている。精気を蓄えることが出来なくなった現代人は、著しく正常感覚を狂わせている。肉体と「性」が一致しないようになって来ている。これは「食」と「性」の氾濫(はんらん)により、生存本能が狂わされているからだ。「食」と「性」の、波動の不一致が起り始めているからだ。
要するに、現代人に多い欧米型の食生活が日本人に異質な波調を作り出し、これが本来の日本人を狂わせていると云えよう。
その一つが
「性腺異常」と言えよう。

欧米型の食生活の主体は、動物性蛋白質である。この動蛋白食品は酸毒化する体質を造る。
しかし一般には肉をはじめとする動蛋白食品は躰に良いと信じられ、“肉は最高のスタミナ食”と現代栄養学では教えてきた。ところが、肉には多くの人体には不必要な種々の有害腐敗物質が含まれている。そして、この食品こそ人間には不向きな食品である。

現代栄養学の教えるところは、「肉に含まれる動蛋白の組成は良質のアミノ酸が含まれている」という栄養学上の論理を展開させ、これを盛んに摂取することを奨励してきた。
ひところは「蛋白質が足りないよ」などとテレビにコマーシャルで宣伝し、盛んに肉食やパン食をすることを指導してきた。

現代栄養学の説かんとする仮説は、“肉に含まれる構成要素は良質のアミノ酸”という結論に結び付けて、このアミノ酸こそ食肉奨励の根拠であったわけだ。
しかし、人間には現代栄養学が云う、良質のアミノ酸を消化させる酵素を持たない。特に日本人の場合、欧米人に比べて、食肉文化の伝統がなく、欧米人と日本人のそれは“腸の長さ”の比較で分かることであろう。
そして動蛋白が持つアミノ酸こそ、有害物質の温床であり、そこにはアミン、アンモニア、フェノール、硫化水素などの酸毒物質が、そのまま今度は人間の腸内に停滞し、酸毒化させる温床となる。この温床は、様々な病理現象を起こすのである。

動蛋白は腸内で停滞し、便秘を引き起こす食品である。腸内に停滞し、異常醗酵を起こし、これが毒素となる。
血液が汚れるとは、この「毒素」を指しているのである。この汚れは単に血液を汚すだけでなく、「酸毒化」する要因となる。血液が酸毒化すれば、細胞機能に混乱が生じる。その混乱の最たるものが、体細胞の
「ガン化」である。
その一方で、細胞機能が混乱すれば、大量の老廃物が組織に停滞する。この停滞は組織の粘膜を刺激し、異常分泌を起こしたり、組織の血行不全や組織破壊を起こす。

また動蛋白に含まれる消化過程の中で、そこで生じた強酸類は、「異常性腺刺戟」を起こすと云うことだ。つまり性的な興奮状態が起こり易いと云うわけであ る。この異常なる性腺刺戟は、心身の衰弱を招く病因となる。同時に、内臓機能の老化を速める。東洋人の場合、同じ摂取量でも、西洋人に比べて肉食文化の伝 統がなかった分だけ、東洋人の方が短命である。日本人の場合、これが顕著に顕われる。

そして肉常食者の罹
(かか)り易い病気は、ガン発症を始めとする種々の成人病である。肉常食者が概して短命なのは内臓の機能の老化が早いからである。これが短命なる人体を構築する。病根を抱えた人体だ。病根を抱えた神代は病魔に犯され易く、短命となる。仮に短命でなくとも、長寿と倶(とも)に生命維持装置のお世話になり、寝たっきりの老後を過ごさなければならなくなる。これでは長寿であっても、動くことの出来ない動物的な長寿である。

食肉には、種々の有害腐敗物質がある。その有害性は強酸類で明確になる。強酸類は血液も酸毒化し、新陳代謝を根底から狂わせる。その結果、性的な病的興 奮が起り易くなる。その上で、深刻な排泄障害を起こすのである。これが慢性化すると、心筋梗塞、狭心症、肝炎、腎炎、ガンなどの疾患に罹り易くなり、同時 に、早熟と早老が顕われる。昨今の青少年が、早熟で早い時期から性に関心を抱くのは、この為である。

それは血液中の過剰なる強酸類が、性腺を刺激するからだ。これにより異常なる性的興奮が起る。また排泄機能を司る腎臓は、アルカリ性の条件下において活 発に働くのであって、肉食によって血液が酸性化すると、著しい機能失墜を起こすのである。機能が失墜した状態で、清らかな愛の交流である、房中術など出来 る分けがないのである。

性腺を刺激され、あるいは排泄障害やその他の機能障害を起こした男女が性交に及べば、その後の結果が如何なるものになるか、その悪影響は容易に想像できよう。この性交こそ、それ事態が凶事であることは疑いようもない。
それに人間の持つ霊的世界の「精気の居場所」としてのチャクラーまで狂わせてしまうのである。

七つのチャクラ

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 人間には「精気」の保存場所と、その通路として、縦に「七つのチャクラ」を持っている。
チャクラとは、呼吸によって体内に取り入れられた精気と、精気を受けて、力を有した生命エネルギーの蓄え場所であり、此処からは清らかな霊力ホルモンが 分泌されている。それが現代では、食の誤りにより、清らかなものが穢いものになっている。また霊的ホルモンが正しく分泌されず、また現代人の解釈間違いに よる“性概念”の誤りによって、性の氾濫と共に、性の浪費が行われている。それは精液の愚かな浪費を考えても、明白であろう。

現代の世は、至る所で「精禄
(せいろく)」の無駄な浪費が繰り返され、“死に急ぎ現象”が起っているのである。自ら知らずに寿命を縮めているのだ。
人間の寿命とは、単に生存年齢だけではない。長く生存しても、単に生きているだけの、寝たっきり植物と状態であっては、もう人間の機能を果たしていないことになる。
「人間の寿命」と云うのを正しく定義すれば、「先ず健康であり、歳をとっても五体満足に機能し、それに加えて男女二根交会も可能である」というのが人間としての寿命であり、交会すら果たされないのであれば、これは寿命を喪失していると云っても過言ではない。

端的に云えば、「二根交会」が可能な状態を云うのである。
この「二根交会」は男女の交会であり、ホモ同士の性交は含まれない。
男女の交会は陰根と陽根が交わってこそ、その性的バランスは健全に安定するのであって、陽根同士では安定しようがない。
したがって『理趣経』では、男女二根交会の
“清らかな愛の喜び”を説いているのである。

そこで、「三密観
(さんみつ‐かん)の五大」の即身成仏の“義”に遵(したが)い、これを正していく必要があるのだ。
三密観とは、人間の持つ、身・口・意の三つの働きを指し、これが仏の働きと同化した時、偉大に力が発揮されると云われている。
身は「肉体」であり、口は「真言」、意は「心」である。肉体には「地」である足と性根部があり、「水」である腹部と消化器があり、「火」には心臓、「風
(ふう)」には顔面と口や鼻腔を含め肺臓までの呼吸器管、「空」には頭脳の五大原理がある。それに加えて、真言と、真言を唱える心があり、これが仏教的な七つのチャクラとなる。
人体の五大原理を顯す五重塔。五重塔は 地・水・火・風・空の五大にかたどって、5層に造った、仏舎利をまつる塔である。
 正しく呼吸して、吐気から始め、次に後頭部に軽く抜けるように呼気を吸い込み、それを腹に溜め、次 に静かに重く吐気で吐き出す。吐き切ったところで、再び軽く静かに後頭部に、その“軽き気”が抜けるように吸気を始める。この呼吸法をもって、精気を身・ 口・意に行き渡らせて蓄えれれば、人間も神仏のごときエネルギーが発揮されると言う。

密教では、護摩壇
(ごま‐だん)を設け、護摩木を焚(たい)て息災・増益・降伏・敬愛などを本尊に祈る。これは古くからインドで行われていた祭祀法(さいきほう)を採り入れたものである。智慧(ちえ)の火で煩悩の薪(まき)を焚くことを象徴するという。
こうした目的で修法する行を密教では「内護摩
(ない‐ごま)」という。

また、戒壇
(かいだん)に火炉をつくり、木を燃やす修法を「外護摩(げ‐ごま)」というが、これは自分の体内を「壇」として、自らの精神力を仏の智火として、自分の内部にある害敵を殲滅(せんめつ)することを目的にした内護摩法(ないごま‐ほう)である。

現代人は食と性の乱れにより、裡側
(うちがわ)に多くの害敵を溜め込んでいる。この害敵が心身に大きな悪影響を及ぼしているのである。特に昨今多く見られるようになった、統合失調症(とうごう‐しっちょう‐しょう)をはじめとする精神障害は、明らかに精気の減退から起る病気であり、精気不足は「神(しん)」を冒し、これにより精神障害者が増加しているのである。

食と性の誤りは、人間の心と躰を蝕んでいる。しかし、これに自覚症状を感じる人は少ない。無自覚の儘
(まま)、食と性の間違った行いを続けているのである。現代は食も性も、貪(むさぼ)るだけのもになっているのである。しかしこの怕(こわ)さを知る人は少ない。



●人間臭い経典『般若理趣経』

食と性を貪ることと、堪能し賞味することとは違う。両者は貪ることではなく、味わうものであると言う事が分かろう。美食を貪りそれに狂えば「禄」を使い果たして早死にを招く。また精も貪れば、「禄」を使い果たして、早死にする。
「禄」とは、食を「食禄」といい、性を「精禄」という。何
(いず)れも“精的エネルギー”に深い関係をを持っている。そして、「人間が生きている」とは、『三つの中有(ちゅうう)』を経験しているからに他ならない。
上 焦
横隔膜より上の督脈の百会(ひゃくえ)の泥丸(でいがん)までを指す。
中 焦
横隔膜から脾の神闕(しんけつ)までを指す。
下 焦
任脈の(へそ)から下の会陰(えいん)までを指す。
人間の誕生のプロセスは「焦(しょう)」から始まる。焦とは、火を焦(こ)がすと言う意味である。阿吽(あ‐うん)の呼吸でいえば「阿」であり、生まれ墜ちてオギャーと呼吸し、臍の緒(お)を切って成長する。更に下焦で大小便をするプロセスが人間の誕生である。

一方、死はその逆の順序で顕われる。
自然死の場合、まず下焦の会陰が閉じられる。体内に存在する生命力は中焦の神闕を通って、上焦に移行し、泥丸の蓋が開き、そこから体外へと出るのである。

人間の誕生は生命力が焦げはじめることから始まる。逆に死は、生命の火が消えることを云う。本来人間は、「精液」という自ら生命力が誕生した。そして生命の火が尽きる時、「末期
(まつご)の水」を必要とするのである。“死を致す”とは、咽喉(のど)が渇く行為なのだ。つまり人間は次のプロセスを辿るのである。
中有→
水(精液)→
焦→
末期の水→
中有
人間は天地の陰陽が体内に顕われた生き物である。『霊枢』(邪客篇)には「これ人は天地とあい応ずるものなり」とある。これは天地と反応すると言う事が述べられている。非存在なる「人間」という生き物は、男も女も天地と反応するように出来ているのである。男女は天地と反応するとあるから、その反応に応じて栄えるも滅ぶも天地の間の「人間(じんかん)」次第と云うことになる。

陰陽は、
“あい和す”の である。“あい和す”ことによって生命力が、活動の源として体内に充満する。これが保持する力を生み、活気を帯びる。活気の源泉は心包経である。心包経は 三焦経と陰陽を成し、これが身体の動き、労働、変化、生殖と云った精力へと変換される。自分から子孫への移行と云う行為は三焦の働きである。
腎の中の生命力である精液は、三焦と云う機能臓腑の玄気であり、この玄気が全身に分配される。三焦経と対になる心包経は、器質の代表として、心の代弁者として、知覚、記憶、思考、随意運動、感情、意志などを心の機能として司る。

また心包経は心の代行機関として、生理機能を主宰するだけではなく、邪気を除去する働きがある。邪気が心に中
(あた)らないように保護する役目を持っているのである。同時に心の働きは感情を司る。
感情は精神の働きを知、情、意に分けた時の、情的過程全般を指す。

つまりそれは情動、気分、情操などが含まれる。そしてそこに映る感覚は「快い」「美しい」「感じが良い」「気持ちが良い」などというような、主体が状況や対象に対する態度、あるいは価値づけをする心的過程を為す。その時に心は天の気を支配する「神
(しん)」と結び、地の気を支配する「精」と結んで、「天・人・地」を為すのである。

この「天・人・地」の結びの中に、男女の交会
(こうえ)も存在する。男女二根交会と云う、この人間臭い経典に『般若理趣経』なるものがある。密教の経典であり、その経典の中でも、最も人間臭い経典である。男女の性欲を、開けっ広げに説いている。悦楽の曼陀羅を経典の中に展開している。
しかし性欲は貪ってはならないことも、同時に記している。「堪能するべし」とある。「清らかなもの」は、貪るのでなく、賞味するのである。



●性を貪る現象人間界

真言立川流には「ドクロ譚(たん)」なるものがある。
この「ドクロ譚」の説くところは、「髑髏
(どくろ)本尊」について、文永三年(1270)に誓願房心定(せいがんぼう‐しんじょう)が著わしたとされる『受法用心集』に記され、これによると、「この秘法を修行して大悉地だいしっち/密教の修行によって成就した大いなる妙果)を得んと思わば、本尊を建立すべし。女人の吉相のことは、今注するに能(あた)わず。その御衣木みそぎ/仏像彫刻に用いられる木材のことで、檜・白檀(びやくだん)・栴檀(せんだん)・朴(ほお)の類を指す)というは髑髏なり」とある。

誓願房心定は健保三年
(1216)に、現在の石川県豊原に生まれ、後年、円福寺心定上人と号した密教僧だった。
真言立川流は「二根交会
(にこん‐こうえ)」を、“悟りの道”とするため、本来ならばその本尊を美女に求めるのであるが、本尊は皮肉にも「髑髏」である。したがって御衣木(みそぎ)も木材ではなく、人骨の髑髏(どくろ)なのである。

「この髑髏を取るに十種の不同
【註】共通に揃ったものでなく、異なった不揃いのものを指す)あり。一、智者。二、行者。三、領主または国王。四、将軍。五、大臣。六、長者。七、父親。八、母親。九、千頂せんちょう/千人の髑髏の上部を集め、それを砕いて粉にし、粉を練って団子にして作り上げた本尊)。十、法界髑ほうかい‐どく/重陽の日の陰暦の九月九日に、死陀林(寒林の意味で墓場を指す)に入り、髑髏を集めていき、毎日、荼枳尼天(だきに‐てん)の神呪を唱えて祈り、霜の降りた朝、霜のついてない轆轤を選び、頭蓋に縫合線のないものを用いて、これを本尊にするのが最高と言われる)なり」

そして、以上のようにして集めた髑髏が、法界となるには「これを本尊として用いる場合、建立
(こんりゅう)するに三種の不同あり。一、大頭。二、小頭。三、月輪形(円形)。大頭とは本髑髏をはたらかさずして顎(あご)を造り、舌を造り、歯を付けて、骨の上に、ムキ漆にて、木屎こくそ/漆塗りの下地の隙間などを填うめるのに用いる、繊維くずや木粉を漆に練り混ぜたもの)をかいて、生身の肉のように、醜くなきところなく造り定むべし。その上を、よき漆(うるし)にて、能々(よくよく)塗固め、箱の中に納め置き」とある。

この安置した髑髏を枕頭に安置し、相愛の美女と交会
(こうえ)して、流出した愛液を髑髏に塗るのである。『受法用心集』には、「百二十度、塗り重ねるべし」と記載してある。
これは120回交会して、男女の和合液を集めなければならないことになる。60花押
(かおう)に陰陽の2を掛けて120回としたと思われる。更にその上、毎夜、子丑(ねうし)の時【註】午前零時から午前二時まで)には、反魂香はんごんこう/漢の武帝が李夫人の死後、香を炊いて、その面影を見たという故事から由来したもので、香を炊けば死者の姿を煙の中に現すという香)を炊き込め、反魂(がんごん)の真言を千回唱えるとある。そしてこれだけの面倒に手間暇掛け、その後、髑髏の中に種々の秘法の呪符(じゅふ)や春画を納め、これこそが最高であるとされる。

しかし、こうした非日常的な行為を振り返れば、ここには何とも言えない、猟奇性を感じるではないか。
思い起こせば、魔力とか、神通力と言うのは、それを得る為に怪奇性が備わり、あるいは猟奇性を追い求めねば得られぬ、筆舌に尽くし難い異端の“タントラ性魔術”の恐ろしさを感じる。

ここには、性のエネルギの飽くなき活用が見られ、世界の宗教の戒律には屡々
(しばしば)こうした禁欲主義が漂っているのは、宗教的恍惚感(こうこつ‐かん)の裡側(うちがわ)に性的エクスタシーがあり、それを昇華させる為に、厳しい戒律が設けられているとも言える。

修行僧が、夢幻のうちに、観音菩薩と性交した話は『日本霊異記
(にほんりょういき)』などにも記され、一方、これに対し、第二の性エネルギーの利用法として、男女交合を通じて変成(へんせい)意識状態に自らを導く方法であり、この修法は屡々、呪術や魔術と結びついた。こうした歴史的背景の裏側に、真言立川流が興(おこ)ったのである。

真言立川流は、武蔵国
(むさし‐の‐くに)立川(たちかわ)の陰陽師(おんよう‐じ)仁寛(にんかん)よりその修法が広まったとあり、一応 真言密教の一派とされる。その特徴は、男女の性的な結合である「交会」を通じ、即身成仏の秘術とすることである。平安後期の仁寛を祖とし、十四世紀に文観(もんかん)により大成され、中世に広まったが、のち邪教として取締りをうけて衰えた。それが真言立川流が「夜の宗教」であった為だ。

そして、真言立川流の本尊建立は、まだまだ続きがあるのである。
真言立川流は、男性原理と女性原理の結合を意味し、タントラ性魔術の実践が、万物の一体化を顕わすとしている。そのこは男性原理と女性連理が一体化した時に、生じる生命力が物質変成を成就する原動力になると説いている。

大いなる物質変成を成就する為には、「王」と謂
(い)われる原理と、「王妃」と謂(い)われる原理の「結婚」は必要であり、タントラの男性原理と、女性原理の結合は生命力を作り出す象徴的な意味合いを持っていた。これを象徴したものが、真言立川流では「ドクロ譚」であり、「ドクロ学」であった。

真言立川流の「ドクロ学」では、大頭
(だいず)では持ち難いとして、小頭(しょうず)の製造法を特記してある。
「大頭の頂上を八分にて切断し、その骨を面像として、霊木
(れいぼく)をもって頭を造り、具して“ハク”を押し、曼荼羅(まんだら)を書き、男女の和合液を塗る」としている。こうして造り出した小頭に秘密呪符を入れ、首に掛け、体温をもって供養するとある。

密教房中術で云う性魔術は、内護摩を特長とする。内に棲む害敵を殲滅することにある。したがって、男女二根交会に際し、ベットの中での内護摩は、まず修 法者自身が心を正しくして静なる境地を確保しなければならない。そこに「破魔息」の呼吸法があり、この呼吸法をもって「三密五大内護摩法」に入るのであ る。

真言立川流では「ドクロ学」こそ、性魔術に秘儀とされ、精気を蓄え「眠る蛇」を
“七つのチャクラ”に這(は)わせることを、一種の菩薩行(ぼさつ‐ぎょう)としているのである。
この行に入る際、破魔息
(はまそく)をもって、体内に入った精気を臍下丹田(せいか‐たんでん)に蓄えたと感じたら、次の息を吸う時、その蓄えた精気を丹田から性根に移動させ、更に会陰部を経由して、脊柱(せきちゅう)に伝わらせ、これを上昇させていくのである。性根(せいこん)に降りた精気は、ここで生命の基礎に火を点じる役目を持つのである。

また、「ドクロ学」には、一つの戒めがあり、貪り過ぎると、最後には哀れな死が待ち受けていることを、髑髏を表現型において、それを無言で示しているとも言える。ドクロ学は単に猟奇
(りょうき)と捕らえるのではなく、貪(むさぼ)る結果が、こうなると示しているのがドクロ学であり、まず修法者は、性力を示す「力波羅密(りきはらみつ)」を交会に結び付け、同時に精気を体内に回して全身に力が漲らなければならないとしている。この力の漲ぎりこそ、「火竜」なのである。

火を負う火竜はクンダリーニ
と同じもので、クンダリーニは性根部に潜む霊的な蛇の事である。平素は、「三巻き半」の蜷局(とぐろ)を巻いて休止しているが、修法が始まると眼を醒(さ)まし、陰極たる性根部から七つのチャクラを通って上昇し、頭蓋(ずがい)の裡側(うちがわ)にある陽極の「千蓮座(せん‐れんざ)【註】結跏趺坐(けっか‐ふ‐ざ)の意で、「跏」は足の裏、「趺」は足の甲のこと。足の表裏を結んで坐する坐相あるいは降魔坐(こうま‐ざ)のこと。坐して足の裏は天に向く)に達し、これを陰陽を結んで、体内に自家発電を起こさせ、人間に強いエネルギーを充満させると云われる。



●大楽とく『般若理趣経』

『理趣経』の正確な経題は『大楽金剛不空真実三昧耶経(たいたく‐こんごうふこう‐しんじつ‐さんまいや‐きょう)』という。この経典は七世紀から八世紀に掛けて、インドで完成したものであると推測されている。

大楽金剛とは、この経典が示す
“金剛さった”のことである。“金剛さった”と云う菩薩を通して、大楽と云う男女の欲望を倶(とも)に体現し、清らかな愛を交流させて、一つは長寿を全うし、もう一つは健康なる長寿と倶に覚醒を覚え、悟りを得ると云うことである。

『理趣経』では、男女の二根交会を“あるがままの欲望”と解する。この欲望こそ、「真実」と定義しているのである。そこの不純は存在しないと説くのである。そしてこれを体現し、その中の
「人となる」のである。
般若波羅蜜多
(はんにゃ‐はらみた)とは、智慧(ちえ)で溢れていることを云う。

波羅蜜多とは、完成、熟達、通暁の境地を云い、現実界の生死輪廻の此岸から、理想界の涅槃
(ねはん)の彼岸に到達するという意味だ。理想郷の意味でもある。理想郷に向かう為に、この智慧を「愛の行動」に移し、男女が二根交会をすることを、「うま味のある理趣(りしゅ)」という分けだ。
『理趣経』では、この理趣を“物事の道理”と説いている。つまり“事”の分けを説き、そこに男女の道理があるとしているのである。

したがってこれを「般若波羅蜜多理趣品
(はんにゃ‐はらみた‐りしゅぼん)」ともいう。そしてここで言う「品(ぼん)」は、一部を分けたと解釈し、“経典の一部”を指している。そして密教では、この経典の母体を『金剛頂経』ともいう。
元々は10万句あったとされ、その中から抜き出して広付されたものが理趣経なのである。

それによれば、ある日、大毘盧遮那如来
(たい‐びるしゃな‐にょらい)は、欲界にある他化自在(たけじざい)という天人の宮殿で、金剛手(ごんごうしゅ)らの八人の菩薩と、80億人に及ぶ大衆を相手に「総てのものは、もともと清らかなものである」という説法をしていた。この中でも、男女の欲望は、取り分け清らかなもので、これを「十七項目」に渡って説いたと云う。
この主題とするところは、欲・触・愛・慢という言葉を象徴したもので、これを他にして人間生活はあり得ないとしたのである。

この欲・触・愛・慢という事柄からそれを、一種の煩悩
(ぼんのう)として嫌って逃げ出すのではなく、この中に突っ込んで行けと教えているのである。これを素直に受け入れれば、光り輝く生き方ができ、「人間道」を全う出来ると説いているのである。

これを拝聴していた80億人の聴衆は、これを自分達の心の問題として、進んでその内容を発表するという経典の仕組みになっている。心の中の問題は、変化 きわまりない宇宙間の事象を捉えて、その限りない変化の世界に分け入り、これを理解し、体現しようと試みたのである。
密教ではこれを象徴的に捉えている。それに似つかわしい言葉で絶唱しようとする。これが所謂
(いわゆる)密教の曼陀羅(まんだら)の表現となる。

『理趣経』は日々に聞き及び、またそれを読経し、そうすることによりその人の心が、自然に悦びに溢れて、安らかになるというのが、そもそもの「大楽」の意味であり、金剛のように堅固な地位に至るであろうと『理趣経』では結んでいるのである。

ちなみに、大毘盧遮那如来とは大日如来
(だいにち‐にょらい)のことで、また『華厳経』【註】けごん‐きょう/大乗経典の一つで、華厳宗の所依の経典。全世界を毘盧遮那仏の顕現とし、一微塵の中に全世界を映じ、一瞬の中に永遠を含むという一即一切・一切即一の世界を展開している)などの教主で、万物を照らす宇宙的存在としての仏である。そして毘盧遮那(びるしゃな/ Vairocana)は、「輝きわたるもの」の意で光明遍照(こうみょう‐へんじょう)と訳す。
光明遍照とは、阿弥陀仏の慈悲が広大で、この世の衆生をことごとく済度
【註】さいど/仏や菩薩が、苦海にある衆生(しゅうじょう)を済(すく)い出して、涅槃(ねはん)に度わたらせること)するのを、光明が遍(あまね)く照らすのに例えることだ。

『理趣経』の説くところは、「男女の愛は清らかで、その徳望こそ、“人間道”を全うする道」としている。このことは、大日如来が80億人の民衆を前にして説法を説いたことからも明らかである。
ところが、日本に於いては、“男女の性愛”が、儒教的な精神風土も強く、また明治維新以降はキリスト教の「禁欲生活」の輸入もあって、現代に至っても、 国民の民情にはマッチしてない節がある。その一方で、こうした金欲の世界が仇となり、間違った「性教育」が小中学校の教育現場で行われている。

多くの日本人は、男女の愛を「性教育」と評しているが、この教育は間違いらだけの、“性教育”からは程遠い、明らかに避妊対象の為の「性器教育」であ る。早熟の男女を、どうしたら妊娠せずにセックスを楽しむかの、そうした快楽主義に誘う元凶を、恐れ多くも、「教育」の名を語って、避妊を指導しているこ とだ。
つまり、避妊とは男女の無差別の性交と云う、享楽を楽しむと云うところに重点が置かれている。

この思想は『理趣経』でいう、「愛は清らかなものだ」とする真実の二根交会からは程遠い。また、仏教には性愛を説く経典があるが、この経典は日本では儒教の輸入に因り、完全に無視されてきた。
『理趣経』が江戸時代、経典にある性欲を初めとする欲望についての、人間否定を行った為、ややともすれば誤解を招き、歪
(いぶつ)にこれらを“邪経”と一蹴(いっしゅう)した節が否めない。

このような事情から、特に『理趣経』は大衆的流通は固く禁じられたのである。それは真言立川流が“邪宗”と禁じられたようにである。
真言密教の伝統的な教学からすれば、『理趣経』を読むに能
(あた)っては、まず、密教の阿闍梨(あじゃり)の弟子となり、一定期間修行しなければ、よむことは出来なかった。

こうした厳しい条件がつけられたのは、この経典が宇宙の規則性を包含しているという真理性と同時に、危険性をも持っていることを証明している。
ある意味で『理趣経』はそれほど危険なものであり、読み間違いや偏見的な解釈によって起る怕
(こわ)さが内包されているということである。



理趣経的密教房中術 1

理趣経的密教房中術 1





金銅密教法具。金剛盤(こんごうばん)、独鈷杵(どっこしょ)、五鈷杵(ごこしょ)、五鈷鈴(ごこれい)の五つを完好な一具とする。

●「現代」という人の世

 過去を振り返れば、世界の人口が20億人になるには、農業革命以降から4000年もかかったのに、20億人になった、1930年から今日までの76年あまりで、65億人に達すると言うのであるから、この殖(ふ)え方は、まさに「爆発的」と言う外ない。

では、何故、爆発的な人口増加が見られたのか。
この謎を探る鍵は、これまでの近代歴史学者が定説としていた、「人口は食える、豊かなところで増加し、食えない貧しい地域では、人口は増える事はない」とした理論の誤りにあったことだ。

特にアジア、アフリカ地域の人口増加は著しく、63億7,760万人の世界人口のうち、アジア地域が38億人7050万人と、世界人口の半数以上が集中 しており、アフリカ地域が8億6,900万人で続いている。2050年にはアジア地域が52億人、アフリカ地域が18億人と、両地域合わせて70億人にな ると推定されている。

そして、このように人口増加の多くをアジア、アフリカなどの開発途上国が占めていることによって、貧困の増加、食糧不足問題などが発生している。アジア 地域では今後も経済成長が続くと推測されているが、一人当たりのGNPは依然低い状態であり、貧困問題は解決されずに残ると考えられている。その最たるも のが南北問題ではなかったか。

更に、以上に加えて、特に先進国では平均寿命が男女共伸びている事だ。
平均寿命が世界一の日本では、男が78.4歳。女が85.3歳
【註】日本での平均寿命としている大半は、長寿村で云う健康な状態での長寿でなく、生命維持装置を借りたりしての薬漬け状態の長寿であることを忘れてはならない)であり、この後を追い駆けているのが、スイス、オーストラリア、スエーデン、カナダ、フランス、イタリアの順になっており、何れも先進国である。

つまり先進国では、高齢者が植物状態を含めて長生きをし、若い世代が、一人で複数の高齢者を抱えると言う現象が起こっているのである。
この儘
(まま)で行けば、男女の平均寿命は更に伸びる一方であろう。平均寿命が90歳になるのも、そんなに遠い未来ではなかろう。

仮に、近い未来に平均寿命が90歳になったとして、交通事故や大異変などで死ぬ事がない限り、その殆どが90歳まで生きる事になるであろう。
一般的に見て普通、男女は30歳前後で結婚するであろう。それによって子孫が生まれる。そうした一軒の家の中を覗いてみると、まず90歳の男女が一組、 次に60歳の男女が一組、更には30歳の男女が一組となる。そして30歳で子供を生むと、赤ん坊も男女が一組と言う事になる。
つまりこれが、90歳以下の男女の年齢の一組と言うわけだ。これで考えると、実際には60歳の男女が二組、30歳の男女が四組、赤ん坊が八組ということになる。

60歳が、人間の人生の大半を占め、その後の三十年は、60歳以上の老人で大半が占められる事になる。そうなればどういう事が起るかと言うと、貨幣の価値は高騰
(こうとう)するであろう。そうなればデフレ地獄が再来し、超不景気が訪れる事になる。

実際に60歳以上は、老後に備えて、若い時から猛烈に働き、預貯金を溜め込んでいる。利子や年金暮しで、余生を楽しむ生活を夢見ている。若い時に、うんと働いて、年を取ったら働かなくてもいいように、働いた分の余録で、生活しようと考えている。
つまり現実の世界は、歳を取るだけ、預貯金を持っていると言うわけなのだ。

これはどう言う事かというと、短い人生であれば、自分の財産を自分の後輩に与え、あるいは譲って、この世から姿を消して行く。しかし、長生きをすれば後輩に与える事なく、老人が自分自身で、その財産を食い潰して死んで行くことになる。問題はここにある。
また、この現実が、直ぐそこに到来している事を予測している経済学者は少ない。

歴史を遠望して、全体を見回してみると、歴史の中には、必ずと言っていい程、「例外」という現象が起こっている。そのもっとも明白な例外が、豊かな先進国の文明圏で人口が減り始め、貧しい後進国で人口が増加して居る事である。近代常識は、時間を経て、覆
(くつがえ)される現象が起こっているのである。

太古よりの蛋白質の摂取は、穀類などを中心にした食物に限られていたが、やがてそれを海に需
(もと)め、更に、動物に需めることになった。東南アジアでも、仏典に保護されている動物を食べ始めたのである。“四ツ足”の動物を食べることは、自らの「死を穢すこと」でもあった。
“四ツ足”動物を食べることは、「血を穢すこと」でもあった。四ツ足動物を食べれば、血液が汚染される。そしてそれは同時に『仏典』で禁じ、また『理趣経』でも禁じられている「禁忌」を犯し、「戒律」を破ることでもあった。
そして禁忌を犯し、また、日時・方位・行為・言葉などについて、忌むべきものとして禁ずる行いをした者は、悉
(ことごと)く「報い」を受けるのである。
また、戒律においても、性生活のタブーを犯せば、二根交会
(にこん‐こうえ)に至った男女は、悉く「報い」を受けるのである。

「殺すな。保護せよ」という“四ツ足”を喰らい、禁忌を犯し、戒律を破れば、そこに視るものは阿鼻叫喚
(あび‐きょうかん)の「生き地獄」である。その生き地獄を、自らが体験することが、つまり「報い」なのである。
“四ツ足”を喰らい、交会に及んだ男女は、どうなるか。
双方は、血を汚した結果として、肉の過剰な酸類は、性腺を異常刺激して、奇形的な性的興奮状態が起こる。これは肉自体に、早熟であり早老食である因子を含むからだ。
また、排泄障害も避けられない。同時にこの状態は、血液が酸性化する為に、著しい機能障害を起こす。その元凶がガン発症に代表される成人病だ。成人病の急増は、“四ツ足”動物の屠殺量と比例する。

こうした状態から、産まれた子供はどうなるのか。
同じような、親と相似関係で生まれ、その顕著な症状は、アレルギー体質であり、また、歯並びの悪さとなって、その「報い」は明白となる。
だから釈尊は、こう言ったのである、
「動物は殺すな。殺して喰うな。むしろ彼等は人間が保護する生き物だ」と。
そしてこれを破れば、人間はその「報い」を受けるのである。
 そして昨今の動蛋白を摂取する食文化は、人口増加に伴い、開花の一途を辿る。これを考えると、人間と食べ物、食べ物から作られる人間の欲望や思考は、結局、その人が何を食べているかということで判明するようである。



●二つの天地

 人間界には「二つの天地」がある。この天地は、それぞれ天上と地上を交えなが ら存在しながらも、実は各々に異なり、別々に運用されているのである。一つは天の神が支配し、もう一つは地の神が支配している。天の神に支配するところは 精神領域で、地の神の支配は物質領域に着及ぶ。そして各々に上下の領域格差があり、陰陽の変わり目でそれを隔てている。

現世という、人間現象界では、形のあるものはやがて消えていく。東洋医学的な思想も、此処に由来する。東洋医学の特徴は、「命の変幻」という思想がその背景にあり、姿形のあるものは、やがて変化して消えていくという思想的基盤がある。

しかし、その一方で、この世の中の「性的エネルギーは限りなく膨張する」という思想を抱え込んでいる。今世こそ、拡大・膨張の数直線上の天の上にあるの である。この世の中は一切に性的エネルギーを抱え込んでいて、それが総てに満たされ、ますます膨張しているのである。

この事は、人間という存在がなくならないことが雄弁に物語っている。人間の存在は繁殖にある。よって、繁殖期の第一次は、第二次で上回り、性的エネルギーは無限大に殖
(ふ)えていくのである。

この東洋医学的な発想で、世の中というものを考えた場合、此処には至る所で、エクスタシーが溢れ、その顕れが、つまり、「私」が生まれ、「あなた」が生 まれたことである。これは同じエクスタシーの中から生まれたことを顕している。そして、それぞれは、一見個々に動いているようであって、実は同じエクスタ シーのエネルギーによって動かされているのである。

現代人の多くは、この現実を殆ど見逃している。しかし、同根のエクスタシーから発祥したとするならば、私たちはこの点について、もっと大きな価値観を置き、この価値観を求めるように行動してもよいのではないか。

どう贔屓目
(ひいきめ)に検(み)ても、同根の性的エネルギーが至る所で溢れ、時代が下るにしたがって、益々氾濫(はんらん)する状態になっている。
水晶蓮華坐台。「水晶は塵(ちり)を受けず」という俚諺(りげん)がある。これは、清廉・潔白な人が不義・不正を憎む喩(たと)えだ。そしてその象徴が「水晶」である。澄み渡るという意味を持つ。
 生命というものは、みな姿形を変えていく中で、仙人だけが何ゆえ、姿形を変えずに、長生きが可能なのか。
それは仙人の持つ「先天の気」ではなく、「後天の気」が関係していることが多いようだ。仙人は、伝説上の人間なのか、あるいは実際に存続を続けて居たのかは別として、ここには一種の気宇壮大
(きう‐そうだい)なロマンがあり、仙人は「後天の気」より、性的エネルギーを取り出して、それを生きる原動力としたという推測が成り立つ。

一般に食物には、「精」が宿っており、それが生きている間、そこから生命を抽出して、躰の中に詰め込む方法を編み出したのが、「仙術」という、仙人ご自慢の術である。
一般に考える仙人像は、「霞
(かずみ)を食べて生きている」といわれるが、一体これは、どういう意味なのか。

人間の持って生まれた「先天の気」であるエネルギーを、多くの人間が、繁殖の為に使い果たして死んでいく。ところが仙人は、「先天の気」を先祖から貰ったエネルギーとして増殖させ、これを安易に使い果たすことはない。更に、このエネルギーを自己内で増殖させ、然
(しか)もそれを使わないのである。益々溜め込み、「精」へと変換していくのである。

一方、仙人は山の高いところに登る。あるいは高いところに棲
(す)む。それはエネルギーを上に挙げていく為である。高山を好むのは、エネルギー保存に最も優れ、山に居ることで、仙人としての資格は保たれる。仙人は「山に居る人」である。だから「仙人」という。

その一方で、「俗人」という種族の人が居る。俗人は、「谷に落ちる人」の意味である。つまり、先祖や親から貰った性的エネルギーを使って、射精や排泄によって使い果たし、身を落としていく人のことをいう。だから、「谷に落ちる人」のことを、「俗人」という。

これは、仙人とは対照的である。この事が、俗人といわれる所以
(ゆえん)である。俗人は、高山のような空気の綺麗なところには居ない。下界の淀(よど)んだ空気の中に居る。経済優先で、利益追求に余念がない。金・物・色にほだされて、これに奔走する。夜の巷(ちまた)の嬌声(きょうせい)の中を徘徊(はいかい)する。
だから、淀みの中で種々の病魔に襲われる。

また一方、俗人は生殖器を通じて、因縁から起る子供を作るが、仙人は自己の体内の中に、「光の子供」を宿す。 この「光の子供」こそ、極めてよく練り上げられ、昇華されたエネルギーのことである。
したがって、次世代に繋
(つな)げる生命の性的エネルギーに加えて、更に食物の中からも、同じような性的エネルギーを抽出するのに、優れた能力を持っている。それが仙人である。

仙人は食物の中から、裡側
(うちがわ)に蓄える性的エネルギーを抽出するのである。この性的エネルギーは、四ツ足などの、人間と同じ性(さが)を同じとする共食いを避ける為に、動物の肉は摂らない。動物の肉は、血液を汚染し、短命する元凶であるからだ。
また、従来の性的エネルギーを、更に精選して、「精的エネルギー」に変換させるのに、動物や乳製品などの動蛋白は不適当であるからだ。

仙人は、食物から第二種の工程で、「精的エネルギー」を変換する方法を知っている。それは、一つは酸素であり、また、食物を酸素で分解するのである。こうして昇華された「精的エネルギー」が作られる。

酸素により、食物をよりよく分解する為には、空気の汚い俗人界では、目的が達せられない。だから仙人は、山頂の空気の綺麗な高山に棲
(す)み、そこで植物が新鮮に繁茂(はんも)しているところでしか生きていけない。

したがって、仙人は、性的な衝動が起ったとしても、これに安易に排泄はしない。更に仙人は、膨大で絶大な精的エネルギーを溜め込んでいるにもかかわらず、排泄という、射精の類
(たぐい)の愚行は行わず、更に欲情すらも外に漏らさず、内に溜め込むのである。
こうして溜め込むことにより、これまでの俗人とは違う「性的エネルギー」を溜め込み、その溜め込んだ後、遂にこのエネルギーを、1ランク上の「精的エネ ルギー」に変換させ、昇華させ、精なるエネルギーに満たされて、千年単位の長寿が全うできるという。これが仙人が霞
(かすみ)を食べ、何千年々も生きられる秘訣であるらしい。



●肉食文化の裏側で

 では、仏典には何ゆえ、「動物の肉は食べてはならない」としているのか。
理由は明白である。血液が汚れるからだ。俗に言う、「血が泥腐る」のである。「泥腐る」の表現は、動蛋白の中に、動物を食べれば人間の血を汚す病因が含まれているからだ。
血液の汚れは慢性病を招く。その慢性病の代表格が、
「ガン発症」であろう。

往々にして、肉常習者は短命である。また、常に異常性欲に迫られる。肉ばかりを食べ、更には体質が酸性に傾く食事をしていると、性欲異常が起こる。それば肉の成分が、性腺を刺激し、早熟を招き、色情に狂う感情を露
(あらわ)にさせるからだ。

また早熟は、完全なる成人の肉体が完成しないうちに性欲異常に走らせる為、未熟な肉体に欲情の先走りがあり、こうした相関関係が種々の凶事を招くのである。
この際たるものが、男の童貞現象であり、包茎現象である。その上に早い時期から、異性や同性との性交に奔り、その凶事が表面化して来る。

また童貞現象は、戦争で男が死ぬと言う政治状況が、現代は辛うじて食い止められていることから起こっている。戦争になれば男の数は激変するが、戦争と戦 争の間に起こる「平和」と言う一時現象は、童貞男を増出する。女の数が少なくなり、男の数が増えるからだ。男一人に、一人の女が充てがわれない、女不足が 起こるからである。これが平和という時代に起こる社会現象であり、この社会現象は歴史を見ても一目瞭然である。その為に、童貞男が増え、同時にその童貞の 多くは包茎で、亀頭部にはたっぷりと恥垢を抱え込んでいる。包茎と童貞の因果関係は深い。

包茎男と関わった女性はどうなるか。
それは子宮ガンとしての病魔が姿を顕わす。

また、肉体的未熟男はその殆どが包茎であるから、亀頭部に恥垢
(ちこう)が溜まり、包皮と亀頭の間に溜まるこの垢様の物質は、その多くが包茎に見られ、これがやがて陰茎ガンの病因となることがある。スメグマともいう。

同時にこれは、肉体的未熟者が女性と性交に及んだ場合、未熟男と接した女性は、子宮ガンになる確率が非常に高くなる。子宮ガンは子宮頸部に発症する事が 多い。その元凶を招くものが、男根亀頭部の恥垢である。包茎や不潔がこれに絡んでいるからだ。したがって、男も包茎であっては、陰茎ガンになり易い。同時 にこうした男達と絡む、職業売春婦も子宮ガンになり易く、また早熟であり、早くから色気を振りまき、尻軽で未熟な少女も、この手の男達と絡むと、子宮ガン の確率が高くなり、常に汚れた男根からの危険を担うことになる。

恥垢発生の成分の中で、同じ恥垢でも血液の汚れによる垢様の物質は、ガン発症に関連する多くの物質を含んでいる。だから、仏典では動蛋白の摂取を戒律によって禁じているのである。肉を常食すれば、やがて肉食常習者となる。これは子供でも同じである。

近年は肉好きの子供が急増した。肉を好んで食べる。野菜と肉の量が逆転し、更には主食などの米や麦の量より、肉の摂取量が多い者までいる。この逆転現象が、種々の成人病を招いている。
また、感情の世界では動蛋白の性腺刺戟によって、異常性欲に奔り、異性を求めて、同性を求めて夜の巷を徘徊することになる。現代の性の氾濫はこうした西洋食文化の、肉食主義と無縁ではなさそうである。

平和な時期に童貞で然も、包茎男達が増え続けたらどうなるか。男余り現象が起こればどうなるか。
言わずと知れた同性愛現象が起こる。同性愛は女には殆ど無く、同性愛と言えば、歴史を見ても男同士のホモを指す。

これらは既にネズミなどの実験でも知られ、同じ箱の中にネズミを繁殖させ、過剰状態にしておくと、その箱の中では共食いが始まり、同性愛現象が起こると言う実験結果の報告がなされている。
これは同じ哺乳動物である人間も同じであろう。

多忙に追われる現代の就業者の多くのうちで、約三分の二は男で占められているが、その男どもの中には急速にホモ現象が進んでいると言う。多忙と精神的ストレスの多い現代社会は、社会現象の一つとして、おとこどもがホモ化に奔
(はし)るという現象が起こり、性欲の捌け口を女だけに求めるのではなく、同性へと求め、男色に奔ることだ。この背景には、現代の肉常食の、食肉文化と無縁ではない。

人口増加の裏には、仏典で禁止されていた牛肉を、これまで宗教的に抑圧されていた後進国が、牛肉などの動蛋白を食する事が直接的な起因となっている。「性」への興奮が抑えきれず、こうした国では、益々欲情へと煽
(あお)られ、人口は更に爆発的な増加を見せて行く事であろう。

人間の野望は、遠心分離器が高速回転をするように、加速度がつき、拡散・膨張を始める。こうした欲望の中には、物財や金銭に対する欲望だけではなく、セックスから享受する快楽も、当然含まれよう。この快楽が含まれれば含まれるほど、性欲も拡散・膨張の方に趨
(はし)り、更に人口増加は歯止めの掛からぬものへとなっていくであろう。

こうした背景には、性を貪
(むさぼ)る魔力のセックスが、背後に漂っているように見える。動蛋白摂取による異常性的興奮である。食肉を食した場合、肉の分解によって生じた強酸類は、まず、血液を酸毒化する。

次に、この酸毒化の結果、代謝機能は根底から狂わされる。この狂いが生じた結果、性的な病的興奮が起り、そこで深刻な排泄障害が起る。体質の酸毒化は、心筋梗塞や狭心症、肝炎や腎炎、それにガンなどの疾病に繋
(つな)がるが、精神的には異常興奮が発生する事だ。

血液中の過剰な酸類は、まず、性腺を異常刺激する。これが異常な性的興奮状態を引き起こす。早熟を誘い、肉体の老化を早めるのだ。そして速攻性の顕われとして、異常な性的興奮が発生するという事である。

これはヒンズー教の、「タントラ
(tantra)【註】ヒンドゥー教のシヴァ神のシャクティ(性力)を崇拝する。これはインドの後期密教の聖典やシャークタ派の文献にみられる)の考え方を見れば一目瞭然になる。万物の生成は男性原理と女性原理によって、一体化することで、新たな生命力が造り出される。しかし、自然体を逸し、人工的にこれを行えばどうなるか。

ヒンズー教の一部には性魔術集団がある。この性魔術の目的は、女性原理のパールヴァティーと、男性原理のシヴァとの結合である。女性原理のパールヴァティーは脊髄
(せきずい)の最下位部の腰骨を辺に横たわり眠っている。この眠ったものを「眠れる蛇」という。

男性原理と女性原理が結合する事は、このとぐろを巻いて眠っている「眠れる蛇」を覚醒させる事にある。その為に、ヒンズー教では牛肉を食べる事を禁じているのであるが、魔性集団は敢
(あえ)てこの牛肉を食して、異常興奮を起こす儀式に、これを用いるのである。

ヒンズー教徒にすれば、牛肉を食べる事は「破戒行為」であり、それを敢
(あえ)て、性的興奮を起こす事のみに絞って、牛肉を食べるのである。また、秘呪に用いられる媚薬(びやく)を使い、葡萄酒(ぶどうしゅ)などをアルコールが使われる。

人間の持つ性
(さが)とは、食物や酒によって操られてしまうと言う悲しい一面を、ひっさげているのである。こうした「破戒行為」が、現代社会にあっては、肉欲の求めるままにオープンになり、上から下まで、性魔術的な目的により、セックスと美食が貪(むさぼ)られているのである。
そして、性魔術はその封印が解かれ、猛威を振るう事になって行くであろう。
また、それは奇
(く)しくも、発展途上国の人口増加に拍車を掛ける行為ではなかったか。

しかし、これが時代と、歴史の自然体である限り、民族や国家、文化や宗教の栄枯盛衰は、まさに「自然の摂理」に他ならない。この観点から見れば、人口増 加も、一見自然の成り行きに見えてしまう。だが、果たして「現代」を出現させた時代の移り変わりは、果たして自然の成り行きで変化してものであろうか。
本来、おおらかなものが歪曲
(わききょく)されて、現代の異常事態が発生しているのである。

その証拠に、殖
(ふ)え続けた現代人は、あまりの異常発生に狂いを生じさせているではないか。
生存環境が悪化すると、地球上の多くの生物は、腸内微生物同様に、腸内秩序が乱れ、混乱が生じて来る。これは腸内細菌の世界であっても、人間世界であっても同じである。

この混乱によって、死滅する善良な市民も数を増す。また、これによって暴動が起きる。暴動が起これば、多くの生物に見られるように、「善と悪」や「陰陽」の中庸
(つうよう)バランスが崩れ、共食いが始まったりする。
更に、雄・雌の異性間の正常関係が狂わされ、同性同士が結びついて、一定量以上、増殖してはならない連中までが増加する現象が起る。これらはマウス実験 などでも見られ、これを超小型の世界に置き換えたのが、腸内微生物の世界の、愛すべき善玉菌などの、腸内微生物の死滅である。

これは人間社会でも同じである。今日の不穏な社会は、悪玉菌が増え続ける腸内微生物の世界と、まさに同じである。
現代という時代は、地球上の人口過密状態にある。人口過密が起れば、人間の有感化
(うかんか)は悪化し、邪気ばかりを吸い込むことになる。

一方、物質至上主義が持て囃
(はや)され、物質一辺倒、科学万能になって来ると、社会構造全体の遠心分離器化した器の回転数が高速化する。高速化すれば、そこから弾き出される者が出て来る。常識とは異なった考えの者が出て来る。

これまでの秩序を破壊しても、何とも思わない者が出て来る。その結果、常識は一変する。愛情の表現も変わる。必ず同性愛現象が起って来る。これが現代社会の恥部とも云うべき「ホモ増加現象」だ。彼等は市民権を求めて運動する。これにより畸形
(きけい)なる思考が常識化する。
これは現代人が、腸内微生物と同じような環境に置かれている事を、これらは如実に物語っている。

物事の善悪が崩れ、陰陽の中庸バランスが崩れ始めている、人間社会の今日の実情を見れば、人間社会も、腸内の微生物世界と同じ事が繰り広げられていると 分かる。人間社会でも、腸内の微生物世界でも、これまで、底辺を支えていた「愛すべき庶民的微生物」の数が確実に激少しているのである。腸内微生物の生態 系に、異常事態が発生しているのである。
つまり、これが「腸内異常醗酵」である。

愛すべき庶民的微生物は、腸内異常醗酵によって苦しめられ、苛められて、テロや暴動によって、次々に抹殺されているのである。まさにこれは人間社会の、何の罪も、落ち度もない民間人がテロによって殺されている、あの悪夢ではないか。

昨今の人間社会での不穏を呈する世情不安は、まさに腸内微生物の世界と全く同じの、生態系の異常と看做
(みな)す事が出来る。
この生態系異常は、腸内微生物のミクロの世界から、地球規模のマクロの世界にまで及び、悉々くが異常を生じさせているのである。

この「現代」と言う世の異常の起因を探れば、それは男女の「性機能」がうまく機能していないことであろう。男女機能に不完全が起り、この不完全が「気」の根元である、有感化まで狂わしているのである。



理趣経的密教房中術・プロローグ

理趣経的密教房中術・プロローグ

理趣経的密教房中術・プロローグ








不動明王坐像 法橋清玄/作


理趣経的房中術を読むにあたって

 ここでは『理趣経』そのものを挙げているのではない。あくまでも“理趣経的”なのだ。“理趣経的房中術”である。
『理趣経』の「愛は清らかなもの」という法説に基づき、これを真言立川流の教義に基づいて、「房中術」を紹介してみたまでである。

したがって、真言立川流がいう、男を不動明王
(ふどう‐みょうおう)として、女を愛染明王(あいぜん‐みょうおう)に配し、男女の二根交会(にこん‐こうえ)・赤白二(せきびゃく‐にてい)和合をもって「大仏事を成す」などいうような教えは『理趣経』の中にはない。こうした思想は立川流独自のものであって、『理趣経』とは無関係である。

また、『理趣経』には男女二根交会を、「大地大海思想」で説かれていないこともご注意願いたい。大地大海思想は、立川流の教義である。髑髏
(どくろ)礼拝も同じである。こうした猟奇性を帯びたものは『理趣経』にはない。『理趣経』が、立川流に対して責めを負うべきところは何のいわれもない。

更に、男女の性液を陰陽に配当し、人間の骨肉の成り立つ仕組みや、男女の産み分け方などの教義も『理趣経』にはなく、また『理趣経』は何処までも清らか な愛の実践を説くだけであって、況して、赤白についての説明においても、赤とは“女の経血”であり、白とは“男の精液”などという法説も『理趣経』には論 じられていない。
したがって、ここで論じているのは飽くまでも《理趣経的》であって、『理趣経』そのものでないことをご注意して頂きたい。
論じる主旨は《理趣経的房中術》であることを念頭に止めておいて頂きたい。



●性命双修の概念

 人生の愉(たの)しみとは何であろうか。
「享楽」だと答える人が居る。また、人生を「恋愛」だと云って憚
(はばか)らない人もいる。恋して過ごす一生ほど、有意義なことはないと云う人もいる。
19世紀のイギリスの唯美主義者オスカー・ワイルド
(Oscar Wilde)は、有名な戯曲『ウィンダミア夫人の扇』や『サロメ』の著者であるが、晩年に人格的破滅に落ちて行った。そして、『懺悔録(ざんげ‐ろく)』を書いて、宗教へ転身している。

人生を恋愛と看做した唯美主義者達は、道を説く「道学」を嘲笑
(あざ‐わら)い、次のような歌まで詠んだ。
柔らかき乙女の肌に触れもせで 淋しからずや 道を説く君
 上記は道学を嘲笑した著名な一女流歌人の歌である。道学が、“道”だの、“人”だのを問題にしてい る、いたずらな空虚で、形式主義に過ぎない冷固さを嘲笑ったのである。そして、これ以降、道は世人から見向きもされなくなり、人生の幸福は「美」と「享 楽」にあるとする追求が始まったのである。官能的かつ現実的幸福感は、享楽を享受することである、と言い切ったのである。
これは「いのち短かし恋せよ乙女……」とか、「青春君が眉に幾時ぞ……」とか、「酔と恋と歌とは、若い魂の三部曲……云々」の享楽主義に、人生の意義を求めるのである。

あるいは一方、健康に気を付けて「長生き」することだと云う人が居る。更には、人生は総
(すべ)て金であり、「金を儲ける」ことだと云う人が居る。

(いず)れを考えて見ても、その意識の下に根付くものは“欲望”である。煩悩(ぼんのう)から起る切なる希(のぞ)みである。
これは心の充
(あ)て、あるいは愉(たの)しみである。そして要約すれば、どんなに不幸であり、苦労の最中にあっても、それに抂(め)げず、崩れず、自分を振るい立たせ、激励し、あるいは鼓舞する「何か」を、心の拠(よ)り所として求めて居る事である。

しかし、その根本には、何といっても飲食する事と、性欲を満足させる事が、人生の中心課題に置かれていることは、何人
(なんびと)も否定できまい。
そして何人
(なんびと)も、人生で、頭を悩ますのは、長生きはしたいが、享楽を損なわない長生きであり、また苦痛を伴わない長生きである。したがって、生命維持装置の力を借り、植物的に生かされるような長生きなど、真っ平(まっ‐ぴら)御免と考えるのである。いつまでも健康で長生きをして、健全に働ける晩年を夢見て、人は長生きをしようと考えるのである。

こうした願望から、「性」と「命」を収める修法が、房中術の思想体系を作ったのである。これが房中術で云う「性命双修
(せいめい‐そうしゅう)」である。
一方この考え方が、仙道に於ては、不老長寿の悟りへの境地になった。つまりこの境地には、「性」と「命」を修め、これを行法として「性」を悟り、「命」を修養する事としたのである。

伝説によれば、仙道は、老子
(ろうし)がその始祖であると伝えられている。その時代は中国の春秋時代のことである。
老子は誰に学んだか分からないが、老子は仙道を会得した後、尹文始
(いん‐ぶんし)と王少陽(おう‐しょうよう)の二人の弟子に仙道を伝えたとある。これにより仙道は、二つの主流をもつようになるが、もともと尹文始や王少陽なる人物の存在も定かでなく、謎の部分が多い。

さて、仙道房中術の説くところは、仙道特有の生理観にある。それは人間の躰
(からだ)の中には「精(せい)」「気(き)」「神(しん)」の三要素があり、これが躰を形作り、これを「三宝(さんぽう)」としていることである。
精・気・神(しん)の表。人間は期の形態を顕わすのに、精気、元気、神気の三つがある。
 房中術で云う「精(せい)」 は、肉体を象徴する“精液”の事であり、男は生殖器から分泌された多数の精子を含む「精水」のことであり、女性は絶頂感の時に放出された精水を「精」と称 するのでる。一般には“愛液”の名で知られている。つまり、男の“精液”と、女に陰水である“愛液”が混ざり合うことにより、生命エネルギーが放出される と信じられているのである。

人間は生きていく為には、それに伴う運動がなければならない。物を移動したり、歩いたり、走ったり、泳いだり、それらを競ったり、意見の喰い違いに争っ たり、欲望の成就の為に、様々なアクションを起す。これが運動であり、行動であり、その根元は「精力」が司っている。

これは人間だけの及ばず、天地大自然も同じ働きをしている。その運動エネルギーの根元になるのは、則
(すなわ)ち「精力」である。
精力が天体の運行までもを司っているのである。その宇宙にある「精」を、人間は天地から吸収して、“水冷式哺乳動物”の形態をとって生きている。

生きている人間は、「精」を自分の精力にし、それが生殖に回されると、「精液」という有形化した物体へと形を変える。有形化とは、物質化することであ り、眼に見えないものを、眼に見える形にすることである。「無」から「有」が出現するのも、「精」が有形化した為である。

次に「気」とは、「陽気」であり、また「元気」である。この気は、主に精神力を司る気であり、元気がある時は精神力が充実し、“元気”を失えば、その “気”は病むことになる。したがって、人間が天地から、「精」を吸収している間は、元気を維持していることになる。
一方、元気を失えば、天地から「精」を吸収することが出来ず、精力を失う一方、肉体を司る「精」は減少し、やがては“生命の火”を燃やす力がなくなって、死に至る分けである。

これらの元気を有感化
(うかんか)したのが、「陽気」である。
陽気には万物が動き、または生じようとする気を派生させる。この「気」は、本来は無感覚のものであるが、これが意識の中で感じられると有感化することになる。

元気は元々、無感覚の「気」であり、自分が元気かどうか、健康な時にはこれを殆ど意識していない。しかし、疲れたり、病気になると、元気が失われていることに、忽
(たちま)ち気付かされるのである。

仙道の行法や、房中術によって、陽気を蓄える修法を行えば、丹田から発した陽気は、男の場合、会陰
(えいん)に下り、背後の尾閭(びろう)を経由して、命門(めいもん)に至り、これが脊柱(せきちゅう)の昇り始めて、玉枕(ぎょくちん)に至る事を「有感化」という。
また、女性の場合は、丹田に陽気が発生し、男とは逆のコースを辿り、躰
(からだ)の前面を陽気が昇り始める。更に頭頂に至り、玉枕に向かって下り、脊柱を下って命門に至り、尾閭や会陰を経由して、再び丹田に帰着すると言う一順を繰り返す。

天地の存在は「気」によって造られ、これが宇宙を構成している。この天地間を満たすものが「気」である。
人間はこの「気」を吸収して、自分の「気」としている。普段の場合、「気」に対しては何の感覚もなく、ごく自然な形で、それが元気であるとも、陽気であ るとも知らないで、自然のうちに、それを吸収しているのである。そして、これ等の「気」を有感化したものが「陽気」である。

しかし、普段は気付かぬ筈
(はず)の陽気も、例えば運動のやり過ぎや、セックスのやり過ぎにおいて、足腰が立たぬようになり、気が失われたことに自覚症状が顕われる。「やり過ぎ」は、精力不足を齎(もたら)すからだ。

こうした状態に陥った時、精力が不足すると、天地から吸収不足になっている分だけの、気が「陽気」に変わり、陽気が精力に変わって、その不足分を補おう とするのである。過度の運動やセックスは、精力を直接消耗するものである。精液の浪費は精液不足に陥り、精力が精液を補う為に有形化し、浪費し過ぎた人自 身は、その不足から有感化が起るのである。
「へこたれた」「足腰が立たぬ」とは、こうした有感化の不足現象である。

更に「神
(しん)」を挙げれば、神は「意念」と「霊能」のことである。
一般に「霊」などと称すと、神霊学や霊能者の用いる霊媒
(れいばい)を連想するようであるが、ここでいう「霊」とは、動植物に備わる精神的実体である。この霊は、肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる意念であり、これは人間の場合、生まれた時に天地から授(さず)かるものである。そして人間には、霊がある為、天地から「神(しん)」を吸収することが出来るのである。

霊による一切の能力を「霊能」という。この霊能は、インチキ霊媒師だけの専売特許ではない。霊能は、人間である以上、誰にも備わっている。その霊能が有情化
(うじょうか)したものが、「意念」である。
「有情
(うじょう)」というのは、本来は仏教用語であり、情(心の働きや感情)を持つものの意味で、生きとし生けるものの総称である。あるいは「衆生(しゆじよう)」を指す。更には意識の具現で、「愛憎の心の有る」ことを云う。つまり、「意識する」ことであり、「意識して行う」ことである。

人間は普段、霊能のあることを意識しない。しかし、「意識したり」「考えたり」「思い詰めたり」すると、意念が入り、これが有情化するのである。
こうした有情化する起因の一つに、「元気が足りない時」などに、自身で「今日は何となく元気がない」などと思う事がある。これが霊能の有情化である。
これが起ると、無理に不足する元気を、意念によって補おうとする。これを「意識の力」というのである。つまり、意念が働いたことを云うのである。

意念で元気を補おうとすると、意念の分だけ不足が起る。不足した意念を補う為に、霊能の有情化が起るのである。
これを房中術の図式に当て嵌
(は)めと、精液を蓄えることによって精力が漲(みなぎ)り、精力を陽気に変え、陽気を蓄えることによって元気が漲ってくる。陽気が漲ると、霊能が強化され、これが不老長寿に繋(つな)がるとするものである。
つまり、房中術で云う意念は、生命の「火」を司り、呼吸は生命の「風
(ふう)」を司るのである。

「火」と「風」は、男女二根の交会
(こうえ)によって、不老長寿の妙薬を躰(からだ)の裡側(うちがわ)から作り出す。男女はお互いの持つ特有の「気」で、磁石の如く引き合い、同調し合い、呼吸し合う。そして交会することで、お互いに不足する栄養を交換し合い、染み込ませ、吸い合うのである。
その時に、完全な快感が訪れ、二根を通じて、妙薬を授かるというものなのである。この「妙薬」こそ、不老長寿の源薬
(げんやく)なのである。

人間は、人生を生きて行く上において、必要なものは総
(すべ)て自分の裡側(うちがわ)に備わっている。外部から物理的な力を借りなくても、内部には生まれた時から、「人生を生き抜く要素」が内蔵され、これを乳幼児期・幼児期・少年期・青年期・壮年期・老年期とそれぞれに使い分けていくのである。

したがって、性欲は生まれたその日から起り、それが死ぬ直前まで続くのである。生命の「火」と「風」が止
(や)まぬ間は……いつまでも。
つまり、人間が性的要素を訓練すれば、自然と共に、自らも発達し、人生を深みのある、豊かなものにしていくのである。本来は、ここにこそ人間の本当の営みがあったのである。



●男根噴水・女陰発熱

 人間の歴史は、有史以来、欲望を満足させる為に、その努力が払われたが、その欲望の根元には、「世界中のもの」を吾(わが)がものにしたいと言う願望が働いていた。
元々、セックスは、良い女を抱きたい、あるいは良い男から抱かれたいという願望が、性欲と重なりあった為に、人類の発展する起因を作った。これが子孫を残す原動力となった。

要は、良い女を抱きたい、世界中の女を吾
(わ)がものにしたいという男の夢と願望が、世界を拓(ひら)き、これに応じる女性本能が、人間の歴史を作り上げたと言える。「性」は人間の、生命の原点であったわけだ。

ところが、「良い女を抱きたい、世界中の女を吾がものにしたい」という男の“夢”と“願望”は、ある時代から別の形で動き始める。
最終的には「性の願望」を満たす目的をもっているのだが、その手段として、「支配する側」と「支配される側」の階級構成が、歴史と共に明かになっていく。人間の階級的なヒエラルキーが出来上がるのである。

人間の歴史は、十七世紀後半において、プロレタリア階級の都会への集中が始まり、男根
(なんこん)噴水、女根(にょこん)発熱の結果、肉体の宿る「生命の火」の作用によって、徐々に人口が殖(ふえ)え始め、近代資本主義の基盤を固めて行った。
近代資本主義は、一種の人口増加を齎
(もたら)したと言える。この時代の人間の性器は、単なる動物的な、人口増加を齎す生殖器だった。非常に未熟なものへと退化したのである。これが「性の氾濫(はんらん)」であった。

その結果、性が乱れるだけでなく、“性の錯覚”が起った。
世間には、性欲の対象として利用される女達が、セックスすることで「自分は愛されている」と錯覚していることである。
この“思い込み”によって、性的な満足というのは、真底愛されていると云うことに比べれば、何の変哲もない事なのである。ちっとも素晴らしくも、素敵でもないのである。
ところが“性の錯覚”によって、肉体さえ繋がっておれば、それが愛だと思い込んでしまったのである。これが現代の世の、“性の錯覚”なのである。

そして“性の錯覚”は、精の浪費と、物品の消費を促す社会を作り上げた。
この時代を機転に、時代は物質化の方向に大きく傾き、正守護神
せい‐しゅご‐しん/霊的神性を司る神で、中心帰一の中心力を持つ。左旋)に変わり、副守護神ふく‐しゅご‐しん/物質的欲望を司る神で、中心から大きく懸け離れ、拡散・膨張の遠心力を持つ。右旋)が猛威を振るう事になる。唯神論から唯物論に変化した時代であると言える。肉体の物理化や科学化が、一方で物質主義を蔓延こらせ、人体の霊体・幽体・肉体のうち、“肉体”だけの「官能」と「快感」に眼が奪われると言う現象が起ったのである。
その時代は、奇しくも、金融経済が主導権を握り、西欧に植民地主義や帝国主義が猛威を振るい始めた頃からであった。そして、これが引き金となり、その後の人口爆発が起り始めるのである。

人口が増加するメカニズムを説明するのに、「蓮
(はす)の池」の話が、よく人口学者により、説明されることがある。
おそらくこれは、密教の故事などから得た喩
(たと)え話であろうが、これには次のように説明されている。
「池の中に一株の蓮
(はす)が生えた。これが年々二倍になり、百年後には池一杯になって、総(すべ)ての蓮は窒息し、総てが死に絶えた」

これは、一つの暗示である。
人口学者の説明は、これだけに留
(つど)まらない。次ぎのような問題を提示し、これに解答を求めるのである。
問として、「では、この蓮が池の半分を占めたのは、蓮が生えて何年目のことか?」と。
答は「99年目であり、全滅する一年前の事である」と。

そして人口学者は、地球を、この話の「池」に喩
(たと)え、人間を「蓮」に喩える。年々増加する蓮が、九十八年も掛かって、やっと池の四分の一を占めた。98年も掛かって、まだ四分の一だ。四分の三という、大半は空きではないかと。
そして後、四分の三の面積が余っているのだから、池一杯になる心配はない。第一、池の四分の一を占めるのに、98年も掛かったではないか。池が満杯になって、蓮に危機が訪れる等、何を心配する必要があろうと。


蓮の花の池


ルンキラモ
 蓮 は、古くは大陸から渡来したといわれる仏教とのかかわりが深い植物である。寺院の池、また池沼・水田などで栽培され、蓮を植えてある池を蓮池という。ま た、蓮には、「蓮の糸」なるものがあり、この糸は、蓮の繊維を集めてつくった糸の事を言うが、この糸自体に極楽往生の縁を結ぶとの俗説がある。

ところが、水面下の茎下の蓮芋
(はす‐いも)の部分は、小さく硬くて食用にならない。その上に、一年後とに二倍の勢いで増えて行き、最後は池全体を占領すると言う繁殖力を持っている。したがって池の所有者は、10年に一回か、15年に一回、蓮を蓮芋(はすいも)ごと“間引く”のである。この「間引き」をしないと、蓮は池一杯になり、やがては全滅するのである。
蓮を見ると、その花は確かに美しい。しかしその美しさの下に、「全滅」と因子を抱え込んでいるのである。

そしてこの「因子」は、どこか人間に共通したものを持っているではないか。
時代の変化は、その節目ごとに異変が起り、あるいは戦争が起る。特に戦争を考えた場合、軍産複合体の武器消化周期は10年から15年であると言われてい る。太平洋戦争終結から朝鮮戦争、朝鮮戦争からベトナム戦争、ベトナム戦争から湾岸戦争、湾岸戦争からイラク戦争と、過去の歴史を振り返れば、10年から 15年で繰り返されているではないか。
これは、地球の人類が殖え過ぎない為の抑止力か。何故か、そう思えてならないのである。そして人類は、滅亡の方向に向かって驀進
(ばくしん)しているのかも知れない。
池の半分を占めた99年目の半分になった時点でも、まだ半分は残っていると高を括(くく)った。その一年前の98年目も、四分の三は空いているではないかと安心しきっていた。
だが、その98年目から数えて、二年後には蓮の総
(すべ)てが全滅するのである。しかし全滅する翌年の99年目にも、「まだ半分は残っている」と高を括るのである。そして100年目に全滅する日を迎えるのである。

これは一種の密教的な挿話であろうが、地球の人口も、この話に密接な関係を持っている。つまり、この挿話の裏には、人口増加率は同じでも、爆発的な人口増加率により、接待数は、倍々ゲームで増えていくのである。

例えば、地球の土地や資源はまだあると思いながら、半分の状態になった時は、その翌年の運命の日が訪れ、総てが死滅してしまうのである。今日の地球は、 その限界を迎える日が、目前に迫っているのかも知れない。事実、人類はカオス理論で云う、「特異点」に向かって、まるでウシ科の哺乳類・ヌーの群れのよう に突き進で出いるのである。

今日の地球規模で、人口増加率を観
(み)て行くと、その爆発的な人口増加は、実に凄(すさ)まじい。
1970年代から1980年代の十年間で、世界の人口は7億9,000万人も増加した。これは1750年の全世界の人口に匹敵する。そして、1990年代には8億8,000万人の人口が増加し、十七世紀後半から十八世紀にかけて、産業革命
industrial revolution/1760年代のイギリスに始まり、1830年代以降、欧州諸国に波及した産業の技術的基礎が一変した産業技術革命。この産業革命を経て、初めて近代資本主義経済が確立し、小さな手工業的な作業場に代って、機械設備による大工場が成立する)が始まった約二百年間で、爆発的な勢いで、加速度を付け増え始めているのである。

世界的な人口増加の兆候が見え始めたのは、十九世紀初頭だった。英国の経済学者マルサス
Thomas Robert Malthus/「人口論」を発表して社会に大きな衝撃を与えた。1766~1834)は、人口増加が深刻な食糧不足を齎(もたら)すと予告した。
しかし十九世紀後半からは、南北アメリカでの土地開発や化学飼料の出現で農作物や家畜が思った以上に繁殖し、食料生産が急速に進んだ為、その懸念
(けねん)は薄れた。この結果、近代文明社会では、その科学力をもって、限り無く食糧を人類に提供出来ると言う傲慢(ごうまん)な考えが生まれた。

かつて紀元前2000年前頃の世界の人口は、3,000万人程度であったと推測されている。それが当時の農業革命で、農業基礎が本格化されると、徐々に殖
(ふ)え始め、灌漑治水(かんがい‐ちすい)によって、紀元前1200年頃になると、世界の人口は1億人に達したと言う。その後、気温の寒冷化もあって、一時期、人口の伸び率は停滞したが、紀元前400年頃になると、再び急増が始まった。

紀元前後には4億人に達し、この四百年の間に、西洋ではローマ帝国の成長期にあり、中国では春秋戦国時代の真っ只中で、その直後、秦
(しん)ならびに漢王朝が栄えた。インドでは、マウリア王朝の大帝国が出現し、世界は古代物質文明に突入したのである。しかし、それから百年後の二世紀に入ると、地中海沿岸や中東ならびに中国黄河流域などにおいては、古代文明の先進地域で人口の減少が起り始めた。
一方、今日のフランス、ドイツ、ウクライナ方面の北ヨーロッパ、ならびに中国の南部や西域、漠北部では人口の増加が起り、先進地域との逆転現象が起り始めた。

四世紀に入ると、世界的に激減傾向が起り、400年から600年にかけては、世界の総人口は3億人を切るようになる。西ローマ帝国の滅亡や、中国南北朝 に当たる中世初期には激減傾向を見るのである。こうした人口の激変が回復するのは、それから800年後の十三世紀になってからであった。

また十五世紀になると、ヨーロッパでペストが大流行し、更には気温の寒冷化により、約50年間で25%の人口が激減したと言う。世界の人口変動は複雑化を見せ、奇怪な波動を見せ始めたのである。
ところが1600年代に入ると、世界の人口増加の傾向は、まさに「池の蓮」の様相を見せ始めたのである。この時代に到って、世界の人口が5億人を突破した。
1800年には10億人、1930年頃には20億人、1960年頃には30億人、1975年頃には40億人、1987年頃には50億人となった。そして1999年には60億人
(1999年10月12日にはついに60億人を突破)、更には2050年頃には89億人を突破すると予測されている。

地球上の人口は、確実に殖
(ふ)え続けている。歴史の変化を目紛(めまぐる)しくさせながらも、確実に殖え、「支配する側」と「支配される側」は明確になり、階級的ヒエラルキーが出現することになった。今や、スーパーリッチとワーキング・プアーの差は、一目瞭然(いちもく‐りょうぜん)になり始めている。「持てる者」と「持たざる者」が明確になり始めた。
そして、これをユダヤの黄金率で分割すると、
28:72という明確な分離比が出て来るのである。

人類の有史以来の歴史を振り返れば、民族、王朝、国家、企業などは、総て「欲望の原理」で動かされて来た。しかし、これは手段に過ぎなかった。その背後 にあるものは、飲食を満たし、性欲を満足させるものが、最終目的であった。この最終目的を満たす為に、様々な手段が用いられた。

歴史を変化させる原動力も、一つは、人間の最終目的を成就させる為の手段であり、それが富の形成だったに過ぎなかった。
民族や国家間の闘争も、その動機が欲望を満足させる為の単なる手段であり、その背後には最終目的である
「享楽」が隠されていた。ホンネは享楽を享受したいが為に、欲望を燃やし、努力を惜しまず、完成の暁(あかつき)には、贅(ぜい)を凝らした享楽に浸る事であった。

歴史には、享楽に至る為の手段として、表側だけしか記されていないが、潜在的な欲望は、良い女を抱きたい、世界中の女を吾
(わ)がものにしたいという男の夢と願望が、世界を拓(ひら)き、これに応じる女性本能が、人間の歴史をつくり出したことは、その欲望が「性」に求められたことが、何よりも歴史は雄弁に物語っている。そして、そこに人間の「性」が絡んで居た事は、全く否定できないことである。

しかし、「享楽主義」の行き着いた先は、人類の破滅を暗示している。物質主義の謳歌
(おうか)は、「若さ」を享楽的な青春に置き換え、これを若者に「人生」イコール「享楽」という図式を植え付けた。そして一生かかって享楽を手に入れることに奔走(ほんそう)させる人生観を、現代と言う世に出現させた。享楽に趣(おもむ)くのは、人間の自然の性向だと煽(あお)った。

これにより、性交遊戯に戯
(たわむ)れる世の中が出現した。また、戲れから、義人(ぎじん)が減り、邪人(じゃじん)が増える世の中に変貌した。世の中には、邪人だらけである。
しかし、この現実を凝視すると、青春は享楽によって輝くのではなく、かえって享楽により、廃
(すた)れる現実をつくり出したのである。
(すなわ)ち、享楽によって、若さは栄えるのではなく、享楽により崩れ、腐蝕する世の中をつくり出したのである。享楽主義の誤りから、人口増加の皺寄(しわよ)せが、此処にも顕われることになる。

密教房中術は、人生の意義は享楽にあるのではないと説く。男女の愛は清らかであるが、肉欲を滾
(たぎ)らせて、それに浪費させることではないと説く。肉体的な浪費ではなく、生命力の燃焼こそ、人生を大いに豊かにすると教えているのである。人生の目的は、多くの物財に囲まれたり、美男美女に囲まれたりの物質的な幸せにあるのではない。
男女二根交会を通じ、「性」の本質を知り、如何に自己を偉大な悟りに近付けたかを、人類に向けて問い続けているのである。



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