2011年4月12日火曜日

道教:黄金の華の秘密 11

黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版

第十一話 確証の体験

呂祖師は言った。

 ところで、点検できる確証の体験が三つある。その第一は、瞑想の状態に入ったときに神々が谷間にいるという体験である。人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ、そのひとつひとつがひじょうに鮮明である。だが、その音はすべて谷間でこだまが反響するように聞こえる。いつも聞くことができるのだが、自分自身の声はけっして聞こえない。これが「神々が谷間にいる」といわれる体験である。

ときおりのような体験が起こることがある。人が静かな状態になるとすぐに、目の光が燃えあがりはじめ、眼前にあるものがすべて明るく輝き、まるで雲のなかにいるかのように感じられる。目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。これはひじょうによいしるしである。

あるいは、坐って瞑想していると、肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる。坐ったままでいるのがむずかしくなる、上に引きあげられるような感じがする。これは「精神が天に帰り、その頂点に触れる」と呼ばれる体験である。やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。

さて、これらの三つの体験はすべてこの世で得ることができる。だが、これですべてを説明しつくせたわけではない。各人の気質や性癖に応じて異なった現象が現れるからだ。もしこういったことを体験したなら、それはよい素質のしるしである。こういった現象は、人が水を飲んで、その冷暖をおのずから知るような性質のものである。それと同じように、人はこれらの体験を自分で確かめてみなければならない。そのときはじめてそれは本物の体験になる。

呂祖師は言った。

 光を巡らせる訓練は徐々に成果が現れてゆく。その際、日常の務めを放棄してはならない。古人は「仕事がやって来れば、それを引き受けなければならない。ものごとがやって来れば、それを根底から理解しなければならない」と言っている。正しい思考によって事を適切に処置してゆくなら、光は外界の事物によって散らされることなく、みずからの法則に従って巡る。穏やかな目に見えない光の循環でさえこのようにして起こりはじめる。すでにはっきりとした形をとった真の光の循環の場合は言うまでもない。

日常生活のなかで、自他の思いをいっさい混入することなく、ものごとに対してつねに打てば響くように対処する力をもつなら、それは環境から生じる光の循環である。これが第一の奥義である。

 朝早く、世間のしがらみをいっさい断って、一、二時間瞑想することができれば、さらに、あらゆる外界の活動と事物に主観をいっさい交えず、打てば響くように対処することができれば、そしてそれを途切れることなくつつ゛けることができれば、二、三ヶ月後には天上から真人たちがやって来て、その行為を認めてくれるであろう。

ある美しい朝のことだった。今朝と同じような朝だったにちがいない。
涼しい風が吹き、濡れた大地の甘い香りが一面に立ちこめていた。
鳥たちが歌い、太陽が地平線から顔を出そうとしていた。
朝露が草葉の上で真珠のように輝いていた。

朝はいつも美しい。
必要なのはそれを見る目だけだ。
鳥たちがそこにいて、毎朝のように歌っている。

だが、誰がそれを聴いているだろう?
樹々は花を咲かせているが、誰がその美を味わっているだろう?
美的な感覚をそなえたこころハートが欠け、計算高い頭マインドだけが働いている。
あなたが醜い世界に住んでいるのはそのためだ。

私はあなたがたに遠い昔の物語を話そうとしている。
ゴータマ仏陀のサニヤシンたちがマンゴーの樹々の下で瞑想をしていた……

朝ほど瞑想にふさわしい時はない。
一晩中休息を取ったおかげで、
あなたはみずからの実存のすぐ近くにいる。

他のどの時間よりも、早朝ほど意識して
中心に入ってゆきやすい時はない――
あなたは一晩中その中心にいて、たった今
そこを後にしてきたばかりだからだ。

千とひとつのものごとが立ち現れる世界はまだはじまっていない。
あなたは事物に向かい、外界に出てゆく途上にあるが、
内なる中心はすぐそこに、ほんの間近にある。

ちょっと振り返れば、そこにあるものを
――真理、神、光明を見ることができる。
夢も見ないほど深い眠りのなかで訪れていたもの
を見ることが……だが、あなたはそのときは無意識だった。

深い眠りには若返らせる力がある。
あなたは実存の中核に入ってゆくからだ――
無意識ではあるが、入ってゆくことに変わりはない。

外界での疲れはすべて取り去られ、傷はすべて癒され、
ほこりはすべて消え失せる。あなたは湯を浴びてきた。
みずからの実存のなかに深く身を浸していた。

パタンジャリが「深い、夢のない眠りはサマーディとよく似ている」
と言うのはそのためだ。だが、よく似てはいるが、まったく同じではない。

どこが違うのだろう?違いはごくわずか
だとも言えるし、ひじょうに大きいとも言える。
が、そこにはこれだけの違いがある――つまり眠りのなかでは意識がないが、
サマーディのなかでは意識がある。だが、その空間は同じだ。

だから、朝、眠りから覚めたばかり
のとき、あなたは中心のすぐそばにいる……
間もなく周辺があなたをつかまえ、乗っ取ってゆく。
あなたは仕事の世界に入ってゆかなければならない。

その外界の旅に出かける前に、
意識的に自分が誰であるかを見る
ことができるように振り返ってみる――
まさにそれが瞑想というものだ。

だから、いつの時代にも、朝には、
大地が目覚め、鳥たちが目覚め、太陽が目覚め、
大気全体に目覚めが満ちてゆく早朝には、
この状況を使うことができる。

あなたはこの目覚めの潮流に乗って、
油断なく目を見張り、醒めながら、みずからの
実存のなかに入ってゆくことができる。

そうすればあなたの生全体が変容を遂げる。
あなたに異なる方向感覚がそなわることで、
その日一日がそっくり変容を遂げる。

そうなったら街の雑踏マーケットプレイスに入ってゆきながら、
内なる中核と依然として接触を保ちつつ゛けることができる。
そして、それは最も深遠な秘法、黄金の華の秘密だ。

……その朝、仏陀のサニヤシンたちはマンゴーの樹々の下で瞑想をしていた……
あなたがたが私のまわりに集まってきているように、何千人もの人々が
仏陀のまわりに集まってきていた。瞑想の他に学ぶべきものはなかった。

ブッダたちは教えるのではなく、ただ分かち合うだけだ。
彼らは教義を授けるのではなく、まさしく実践法を授ける。
彼らは信条を授けるのではなく、まさしく信頼の味を味わわせる。

そして信頼をほんの一滴味わうだけで、生は変貌を遂げる。

覚醒した人と結びつくには、
あなたの側でも少しは醒めるより他にすべはない。
なぜなら、似た者同士しか親しくなれないからだ。

ブッダとともにあるためには、日常生活で
求められるよりもいくらか多くの注意深さが求められる。

日常生活では、あなたはロボットのように機械的にならなければいけない。

師のもとへ行くと、あなたは
機械的であることをやめ、自動的に反応することをやめ、
もう少し注意深くなり、ものを見つつ゛けるだけでなく、
みずからの実存をも想起することを求められる。

……仏陀の弟子たちは瞑想をしていた……

こんなに美しい朝を取り逃がすわけにはゆかない。
鳥たちが朝の太陽を讃えているときには、
あなたも神を讃えなければならない。

樹々が風にそよいでいるときには、
あなたもこの永遠の舞ダンスに加わらなければならない。
あなたもお祝いをしなければならない。

新しい日がはじまる――
過去を忘れ、過去を引きずらず、
新しく生まれ変わりなさい。
(p380)



……仏陀にはスブーティという名前の弟子がいた。
弟子たちの何人かは本当に稀な者たちだった。スブーティは
覚者ブッダの境地の瀬戸際に立っていた希有な者たちのひとりだった。
あとわずか一歩で、彼はブッダになるところだった。

彼はわが家に帰りつつあった。
刻一刻とわが家に近つ゛きつつあった。
自我エゴが消え神が生まれる中心へと、
あなたが死んで全体が生まれる中心へと
どんどん近つ゛きつつあった。

中心に到ると、部分は全体のなかに消え、調和のとれた宇宙が生まれ、
あなたはもはや死を恐れ身震いしている分離した存在ではなくなる。
そうなったら、あなたはこの<存在>の永遠の遊戯の一部になる。

スブーティはまさに瀬戸際にいた。
彼は仏陀の弟子のなかで 最 も 静かな者たちのひとりだった。
あまりに静かだったので、ほとんど存在していないかのようだった、
と経典は伝えている。彼がやって来ても、誰も注意を払わなかった。
彼が通り過ぎても、誰も彼が通り過ぎたことに気つ゛かなかった。
彼はじつに静かなそよ風のようだった……

ふつうあなたは
注目を浴びたがっている。
注目されないと、あなたは傷ついてしまう。あなたは
注目を浴びたい。

注目をされたがっているのはいったい誰なのだろう?

自我エゴが注目を浴びたがっている。
自我は注目を浴びることで生きている。

誰にも相手にされなかったら――あなたがやって来ても誰も気つ゛かなかったら
、あなたが通り過ぎてもまるで相手にされず、誰も「おはよう、元気かい?」と
声をかけなかったら――あなたは傷ついてしまう。あなたはこのように考えはじ
める。「私は無視されている。私が誰であるかをあの連中に教えてやらなければ」

自我はつねに注目を浴びたがっている。

……スブーティはとても静かだった。
注目を浴びたいという彼の欲望は消えてしまっていた。
注目を浴びたいという欲望が消えたとたん、あなたの
実存からはいっさいの政治が消える。

そうなったらあなたは宗教的になっている。
そうなったらあなたは自分が何者でもないことにすっかりくつろいでいる。
そうなったらあなたはまったく異なった生を生きる。
そうなったらあなたはとても静かに生きるので、
どんな物音も立てず、さざ波ひとつ立てず、一度も
去来したことがないかのように去来してゆく。

スブーティはいながらにしていなかった……

実のところ、真 に 存在する瞬間、あなたは
自我エゴという観念をそっくり落としてしまう。

人々が自我という観念をもち歩いて
いるのは、彼らが存在していないからだ。
この逆説を理解しようとしてみなさい。

存在していない者たちには自負心がある。彼らは何がなんでも自負心をもたざるをえない。彼らは世間に向かって自分を証明しなければならず、絶えず演技をしつつ゛けている。演技をしなければ、自分が誰でもない者になってしまうことを知っているからだ。彼らは演技をし、声を張りあげ、騒ぎ立て、他人の目を引きつけなければならない。

アドルフ・ヒトラー、ジンギス・カーン、チムールや歴代の無数の愚かな政治家たち、彼らがしてきたことは、人々の注意をもっともっと自分に引きつけることだった。こういった連中は真に存在していない人々だ。

存在している人々はみずからの実存に深く満足している。

他人が注目するかどうかなど誰がかまうだろう?

彼らは自分だけで満ち足りている。
自分自身で充分に満足している。

だから、これはパラドックスだ。存在していない人間は、
自分を大きく見せようと努力し、特別な誰かであるふりをする。

存在している人間はふりをせず、
自惚れず、とても静かな存在になる。

……彼はあたかもいないかのように存在していた……

そして不在のなかではじめて真の臨在プレゼンスが現れてくる。
人物が消え失せて、臨在が現れてくる。

……彼はゆっくりと溶けてゆき、人物として消え去った……

それが起こるとき、その奇蹟が起こるとき、
そのまさに不在そのものが光輝く臨在となる。

……スブーティも樹の下に坐っていたが、瞑想すらもしていなかった。
他の者たちは瞑想をしていたが、彼はただ何もせずそこに坐っていた。
それは最も高度な瞑想の姿だった……

瞑想を す る のは、あくまで初心者にすぎない。
初心者は瞑想をしなければならない。

だが、瞑想を理解した者は
す る という見地でとらえることさえできない。

何かをしたとたん、あなたが揺れ動くからだ。
何かをしたとたん、あなたは緊張する。
何かをしたとたん、自我が再び裏口からしのび込む
――行為とともに行為する者が現れてくるからだ。

瞑想とは無為の境地だ。

確かに最初のうちは や ら なければならない。

だが、ゆっくりと瞑想が深まるにつれ、
理解が生まれ、行為は消えてゆく。そうなったら
瞑想は行為ではなく、実存のありようになっている。

行為は所有の世界の一部だ。
行為は所有のもうひとつの側面だ。もちたければ、
行為しなければならない。もちたければ、
行為せざるをえない。

数限りない人々が行為と所有の世界にとどまっている。

これら二つの彼方にもうひとつの世界
――存在ビーイングの世界がある。

そこではあなたは何ももたず、行為の主体でもない。

すべては完璧に静かだ。
すべては完全に受動的であり、さざ波ひとつ立っていない。

……だから彼は瞑想をしていたのではない、いいかね。
彼は何もせずにただ坐っていただけだ。

すると突然、彼のまわりに花が舞い落ちはじめた。
それはふつうの花ではなかった。
この世の花ではなかった。
地上の花ではなかった。

それらは樹々から落ちてくる
のではなく、空から舞い降りてきた。
いずこからともなく、忽然と現れてきた。

彼はこれほど美しく、鮮やかで、
かぐわしい花を見たことがなかった。
それらは彼方の花、黄金の華だった。
彼が畏敬の念に打たれ、驚嘆したのも当然だ。

すると神々が
「あなたの空(くう)についての講話は何とすばらしいのでしょう」
とささやきかけてくる声が聞こえてきた。

彼はすっかり当惑してしまった。
「空についての講話ですって?
私は空について話してなどいません」
とスブーティは言った。

「あなたは空について話さなかったし、
私たちは空について聴きませんでした」と神々は応えた。
「それが真の空なのです」

そして花がスブーティの上に雨のように降り注いだ。

これは私がこれまでに出会った最も美しい物語のひとつだ。
そこには深遠な意味が隠されている。

あなたが沈黙していれば、完全に沈黙していれば、
<存在>があなたの上に降り注ぎはじめる。
祝福が雨のように降り注いでくる。

あなたが沈黙していれば、
あなたが瞑想の状態にあり、
何もせずただ存在しているなら、
全存在が、その恩寵のすべて、その
美と祝福のすべてをあなたの上に結集させる。

これがイエスが「至福の境地」と呼んでいる状態だ。
はじめてあなたは<存在>の荘厳な輝きに気つ゛くようになる。

そうなったら、一瞬一瞬が永遠であり、息をする
ことでさえすばらしい喜び、すばらしい祝祭になる。

あなたが消えた瞬間、苦しみも消える。
苦しみは自我の影だ。

が、祝福は自然な現象であり、
それはあなたがからっぽになった
とたんに、ひとりでに起こってくる。
全存在が押し寄せ、爆発する。

ルートヴィッヒ・ヴィットゲンシュタインは「神秘的なのは
世界の成り立ちではなく、それが存在するということだ」と言っている。

世界が存在すること自体が神秘だ。

どこか他の場所に出かけてゆく必要はない。

神秘は隠されていない。
神秘は至るところにある。
世界が存在すること自体が神秘だ!

神秘を探すために深く掘り下げる必要はない。

神秘は至るところにある。
深みにだけでなく表面にもある。

ただそれを感じるこころハートがあればいい。
ただいつでも呼応できるように開いている実存があればいい。
ただ油断なく醒めていれば――努力や緊張をいっさいともなわずに
油断なく醒めていればいい。

必要なのは瞑想の状態だけだ。
それがあれば、<存在>の恩恵が雨のように降り注ぎはじめる。
(p384)




さて、経文だ――

呂祖師は言った。
ところで、点検できる確証の体験が三つある。その第一は、瞑想の状態に入ったときに神々が谷間にいるという体験である。人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ、そのひとつひとつがひじょうに鮮明である。だが、その音はすべて谷間でこだまが反響するように聞こえる。いつも聞くことができるのだが、自分自身の声はけっして聞こえない。これが「神々が谷間にいる」といわれる体験である。

呂祖は、三つの確かな手応えのあるしるしについて語っている。

彼は最初のしるしを「神々が谷間にいる」と表現している。
歩んでゆく者たちは――あなたがたはみな瞑想に向かって歩んでいる
――この奇妙だがとてつもなく美しい空間に出くわすことになる。

瞑想があなたの内側で結晶しはじめた最初のしるしは
「神々が谷間にいる」と述べられている体験だ。

この隠喩メタファーは何を意味しているのだろう?
それは瞑想があなたのなかで起こりはじめると、
たちまち全存在が谷間となり、あなたは丘の頂上に立つ
ということだ。あなたは上昇しはじめる。

全世界が遥か遠くに見下ろせる深い谷間となり、
あなたは日の照る丘の上に坐っている。

瞑想はあなたを上昇させる
――物理的にではなく、霊的にだ。
その現象が起こるときにははっきりわかる。
それらがしるしになる。

瞑想しながら内側に入って
ゆくと、突然、あなたは自分と
周囲の騒音のあいだに大きな距離
が生まれているのに気つ゛く。

あなたは雑踏マーケットプレイス
の只なかに坐っているかもしれないが、
突然、自分と騒音のあいだにすきま
が生まれているのに気つ゛く。

ほんの一瞬前には、これらの騒音はほとんど
あなたと一体化していた。あなたはそのなかにあった。
今やあなたはそれらから遠ざかりつつある。

あなたの身体は前と同じようにそこにある。
山に出かける必要はない――
これは内側にある本当の山を見いだす方法だ。
これは内側にあるヒマラヤを見いだす方法だ。

あなたは深い静けさのなかへと入ってゆく。

すると、すぐそばで聞こえていた騒音が
――そこにはひどい混乱があった――
にわかに遠ざかり、後退してゆく。

外の世界はすべてこれまで通りで、何ひとつ変わって
いない。あなたは瞑想をはじめた同じ場所に坐っている。
が、瞑想が深まってゆくにつれて、それが感じられてくる。
外界の事物とのあいだに距離が生じてくるのが感じられる。

人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ……

まるでふいに世界があなたから遠ざかってしまったかのようだ。
あるいはあなたが世界から遠ざかってしまったかのようだ。

だが、ひとつひとつの思考はきわめてはっきりとしている。
外側で語られている言葉はすべてきわめてはっきりしている。
実のところ、かつてなかったほどはっきりしている。
これが瞑想の不思議な働きだ。

あなたは無意識になってゆくのではない。
というのも、無意識のときにも騒音は消えてゆくからだ。
例えば、クロロホルムを嗅がされれば、あなたは
これと同じ現象が起こってゆくのを感じるだろう。

騒音がどんどん遠くへ遠くへ遠ざかってゆき……やがて消えてゆく。
が、あなたは無意識になってしまっている。
何ひとつはっきりと聞くことはできない。

瞑想のなかでもまったく同じことが起こるが、
違いがある――騒音がどんどん遠ざかってゆくが、
ひとつひとつの音がひじょうにはっきり聞こえてくる。
かつてなかったほどはっきりと聞こえる。

それは目撃者が生まれてきているからだ。

最初はあなたも騒音の一部と化していた。
あなたは騒音のなかに失われていた。

今やあなたは目撃者、観察者であり、あまりに静かなので、
あらゆるものをありありと鮮明に見ることができる。騒音は遠く
にあるが、かつてなかったほど鮮明にはっきり聞こえてくる。

瞑想しながら音楽を聴いていると、これが起こる。
まず音楽が遠ざかってゆくのが感じられる。
つつ゛いて、それと同時に、ひとつひとつの音が
かつてなかったほど鮮明にはっきり聞こえてくる。

以前は、音と音が混ざり合い、互いに重なり合っていた。
今や、ひとつひとつの音がみな原子のようにきわだっている。

ひとつひとつの音が分離している。

人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ、そのひとつひとつがひじょうに鮮明である。だが、その音はすべて谷間でこだまが反響するように聞こえる。

そして、三つめのことが感じられる。
音が直接ではなく、間接的に聞こえてくる。
まるで音そのものではなく、こだまのように。

音はだんだん希薄になり、その実体が失われる。
音はだんだん実質をなくし、その物質性が消える。
それらはもはや重くなく、軽い。

その重力のなさを感じることができる――
それはこだまのようだ。

全存在がこだまのようになる。

ヒンドゥー教の神秘家たちが世界を「マーヤ
――まぼろし――と呼ぶのはそのためだ。

「まぼろし」とは非現実という意味ではなく、
たんに影やこだまに似ているということだ。
それは実在しないという意味ではなく、
たんに夢に似ているということだ。

影のようであり、夢のようであり、
こだまのようだ――そのように感じられる。
それらが現実だとは感じられない。

全存在が夢と化し、ひじょうに鮮明にくっきり
と見えるのは、あなたが目を見張っているからだ。
夢まぼろしのようなのは、あなたが目を見張っているからだ。

最初、あなたは夢のなかに我を忘れていた
――注意を怠り、これが現実だと考えていた。

あなたは自分の想念マインドに同一化していた。
今はもう想念に同一化することなく、
分離した実体があなたのなかに生まれている
――それが注意深く見守る状態、サクシだ。

いつも聞くことができるのだが、自分自身の声はけっして聞こえない。

そして四つめのことが感じられる。

あなたはまわりにあるすべてのものを聞くことができる
――人々が話したり、歩いたりしている。子供たちが笑っている。
誰かが泣いている。鳥が鳴き、車が通り過ぎる。飛行機や汽車……
あなたはあらゆる音を聞くことができる。

が、ただひとつ例外がある――
あなたは自分自身の声を聞くことができない。
あなたは完全に消えてしまっている。

あなたは空からであり、ひとつのスブーティになりつつある。
あなたはもぬけのからだ。
あなたはひとつの実体として
自分自身を感じることができない。

あらゆる騒音がそこにあるのに、
あなたの内なる騒音だけは消えている。

ふつうは外界よりも内界のほうが騒々しい。
本当の混乱はあなたの内側にある。
本当の狂気はそこにある。

そして、外側の狂気と内側の狂気が出会うとき、地獄が生み出される。

外側の狂気はつつ゛いてゆく。それは
あなたがつくりだしたわけではないから、消し去る
ことはできないが、内なる狂気は簡単に消し去ることができる。

それはあなたの手の内にある。
内なる狂気が消えてしまえば、
外なる狂気は実体を失う。

それは現実感をすっかり失って、まぼろしになる。

自分の古い声は見つからない。
内側に思考が湧いてこないので、音がない。
これが「神々が谷間にいる」と呼ばれる体験だ。

あなたはからっぽになっている。
あらゆるものが谷の底深くに沈んでゆき、
聞こえてくるのはこだまだけだ。

そして、こだまが聞こえてきても、
あなたはけっして影響を受けることがない。

先日、狂った男がアヌラーダを強姦しようとした。男は強姦未遂でつかまった。
私は、彼女がその事件に影響されたかどうか確かめようとアヌラーダを呼んだ。

ひじょうに嬉しいことに、
彼女はまったく影響されていなかった。
事件はまったく尾を引いていなかった。

瞑想のなかへと成長する
ことの美しさがそこにある。
たとえ殺されても、あなたは
影響を受けないままでいる。

さあ、彼女を強姦しようとするのは残忍なことだ。ひとりのインド人が強姦しようとした。これがインドの真の姿であることをモラジ・デサイに知らせてやろう。
そして事件はこれ一件だけではない。それはありふれた出来事になりつつある。
私のサニヤシンが外を歩くのはひじょうに危なくなっている。

この醜いインドは私のインドではない。
この醜いインドはモラジ・デサイシャラン・シンアドヴァニやその一党に属している。私はこの醜いインドとはまったく関係がない。

だが、もうひとつのインドがある。
覚者ブッダたちのインド、永遠のインドだ。
私はその一部だ。あなたがたはその一部だ。

実のところ、瞑想が起こっている場所ならどこでも、
その人はこの永遠のインドの一部になる。

その永遠のインドは地理的なものではなく、霊的な空間だ。
その永遠のインドの一部になることがサニヤシンになることだ。

私は嬉しかった。このうえもなく嬉しかった。

アヌラーダを見ると、彼女はまったく影響されていないし、
恐怖のかけらすらなく、何もなかった――まるで何事もなかった
かのように、まるでその企ては夢のなかで行なわれたかのように。

人はこのようにしてゆっくり瞑想のなかへ成長してゆく。
あらゆるものが実体を失ってゆく。人は
あらゆるものを見ることができる。

彼女は応戦した。
彼女は勇気があり、どうどうとしていた。
彼女は為すべきことはすべてやった。
彼女は屈服しなかった――が、
内なる意識は影響を受けていなかった。



これが「神々が谷間にいる」といわれる体験である。
ときおり次のような体験が起こることがある。人が静かな状態になるとすぐに、目の光が燃えあがりはじめ、眼前にあるものがすべて明るく輝き、まるで雲のなかにいるかのように感じられる。目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。これはひじょうによいしるしである。

さあ、第二のしるしは「からっぽの部屋が明るく輝く」と呼ばれている。
からっぽにならないかぎり、あなたは暗いままだ、暗闇のままだ。

「からっぽの部屋が明るく輝く」――
あなたが完全にからっぽであり、
あなたの内側に誰もいないとき、
光が現れる。

自我エゴの存在が闇をつくりだす。
暗闇と自我は同じ意味だ。
無我と光は同じ意味だ。

だから瞑想の技法はすべてみな、
どこを目指そうとも、最終的には、
あなたの内なる実存であるこの
からっぽの部屋に向かう。

沈黙の空間だけが残され、
あなたはその空間に、
光源をもたない大いなる光が現れるのを見る。
それは太陽が昇るときに見える光のようではない。

太陽からやって来る光は永遠のものではありえないからだ。
夜になればそれは再び消え失せる。またそれは燃料を必要とする光
のようではない。なぜなら、燃料がつきるとその光は消えてしまうからだ。

この光にはひじょうに神秘的な性質がある。
それには源がなく、原因がない。
それは引き起こされるものではない。

それゆえに、この光はひとたび現れると
存続し、けっして消えることがない。
実際、それはすでにそこにある。

それが見えるほどあなたがからっぽでないだけだ。

そしてこの光が内側で成長しはじめると、
人が静かな状態になるとすぐに
次のような体験が起こる。

あなたが沈黙して坐り、静かで、穏やかになり、
内も外も不動であるなら、ただちに
目の光が燃えあがりはじめる。

突然、目から光が放たれているのに気つ゛く。
これはまだ科学が気つ゛いていない体験だ。

科学者は光が目に飛び込んでくると考えるが、その逆はけっして思いつかない。
光は外からやって来て、目に飛び込み、あなたのなかに入る。
これは物語の半分に過ぎない。後の半分は神秘家と瞑想者だけが知っている。
光が入ってくる――これは一面にすぎない。

光が目から放たれるというもうひとつの側面がある。そして
光が目から放射されはじめると、
目の光が燃えあがりはじめ、
眼前にあるものがすべて明るく輝く。

そうなったらこの存在全体が明るく輝く。
そうなったら樹々はかつてなかったほど青々
と繁り、その緑は光輝くような性質を帯びてくる。
そうなったら薔薇はかつてなかったほど色鮮やかに見える。

薔薇は同じだし、樹々も同じだが、
あなたから放たれた何かが注ぎ込まれることで、
今まで以上にはっきりと見える。

そうなったら小さなものごとがすばらしく美しくなる。

覚者ブッダの目にはただのきれいな石が、エリザベス女王に
とってのコイヌール・ダイヤモンドよりも美しく見えている。
エリザベス女王には世界最大のダイヤモンドであるコイヌールでさえ、
覚者の目に映るふつうの石ほどにも美しく見えてはいない。

なぜだろう?
覚者の目は光を放つことができるからだ。

その光を浴びると、
ふつうの石がコイヌールになる。
ふつうの人々が覚者になる。

覚者にとっては、あらゆるものが仏性に満ちている。
「私が光明を得た日、全存在が光明を得た。
樹や山や川や岩――あらゆるものが光明を得た」
と仏陀が言ったのはそのためだ。

全存在がさらなる豊かさへと高められた。

それは、あなたが<存在>にどれだけ
多くのものを注ぎ込めるかにかかっている。
あなたが注いだ分だけが返ってくる。

何も注ぎ込まなければ何ひとつ返ってこない。
得るためにはまず注ぎ込まなければならない。

創造的な人々が非創造的な人々よりも
美や喜びをたくさん知っているのはそのためだ。
なぜなら、創造的な人々は<存在>に何かを注ぎ込んでいるからだ。
<存在>は応えてくれる……気前よく応えてくれる。

あなたの目はうつろだ――何も与えず、ひたすら養ってゆく。
ため込むばかりで、分かち合うことがない。

だから分かち合う力をもった目に出くわすと、
必ずそこにはとほうもない質の違いが、
とほうもない美しさ、静けさ、力、潜在能力がある。

光をあなたに注ぎ込むことのできる目を見ること
ができたら、あなたはこころの底から揺り動かされる。

だが、その光を見るのでさえ、今より
もう少し注意深くならなければいけない。

太陽が昇り、夜が明けているのに、あなたはぐっすり眠っているかもしれない。
だとしたら、あなたにとって太陽は昇っていないし、朝は来ていない。
あなたは暗い夜のなか、悪夢のなかをさまよっているのかもしれない。
あなたはもう少し醒めていなければならないのに、こうしたことが起こっている。

現代人の意識のなかで、この種の体験は幻覚剤サイケデリックスを通して
わずかながらも訪れた。それは強いられたものであり、暴力的なものだ。
それは自然なものではなく、みずからの生化学反応を無理やりねじ伏せている。

だが、その体験は起こり、たくさんの人々が薬物ドラッグを通して
瞑想にたどり着いた。それは薬物が、彼らが一度も自覚して
いなかったことに気つ゛かせてくれたからだ。

ある薬物を取ると、世界が今よりもっと美しく見えてくる。
何の変哲もないものが並はずれたもののように見える。
何が起こっているのだろう?

その薬物は、内なる光があなたの目から事物の上に放たれるように強いている――
だが、それは強いられた現象であり、危険だ。薬物による幻覚体験が終わるたびに
、あなたは前よりももっと深い暗闇に落ちてゆく。そして薬物を長いあいだ
常用してきた人の目は ま っ た く うつろになってしまう。

彼は目から光を放射してきたが、それをつくりだすすべを知らないからだ。
彼はもっと多くの光をつくりだすために、どうやって内なる光を巡らせたらよいかを
知らず、放射してばかりいる。だから薬物を摂取する者は次第に目の活力、目の
若々しさを失ってゆく。彼の目はどんよりと曇った、暗い、ブラックホールになる。

それとまったく逆のことが瞑想を通して起こる。

あなたが静かになればなるほど、
さらにたくさんの光が生み出される――
そして、それは強要された現象ではない。

あなたがあまりに多くの光を蓄えているので、
それはあなたの目からあふれはじめる。
それはただただあふれはじめる。

雲が水分でいっぱいになると
雨を降らさざるをえないように、
ありあまるほどもっているので
あなたは分かち合わざるをえなくなる。

あなたが光に満ちていると、そこへ
さらにたくさんの光が入り込んできて、
刻一刻と流れ込み、それが果てしなくつつ゛いて
ゆく――今やあなたは分かち合うことができる。

あなたは樹々や岩や人々と分かち合うことができる。
あなたは天地万物に与えることができる。
これはひじょうに好ましいしるしだ。

だが、薬物ドラッグにだまされてはならない。薬物によって得られるのは
偽りの体験、強要された体験にすぎず、そして強いられた体験はすべて
あなたの内なる生体環境エコロジー、あなたの内なる調和にとって
破壊的であり、最後には、あなたは得るのではなく、失ってしまう。



ときおり次のような体験が起こることがある。人が静かな状態になるとすぐに、目の光が燃えあがりはじめ……

あなたはそれを体験するだろう!
あなたの目は炎のように燃えあがる。

そして目が燃えあがると、まるで事物がもはや
三次元ではなく四次元になったかのように、天地万物の
すべてが新しい色合い、新しい深み、新しい次元を帯びるようになる。
新しい次元――光輝く次元がつけ加わる。

目の光が燃えあがりはじめ、眼前にあるものがすべて明るく輝き、まるで雲のなかにいるかのように感じられる。

あたかも太陽に照らされて、
雲全体が燃えているかのようであり、
あなたは雲のなかにいて、その雲は
陽光を反射し火のように輝いている。

人はこの光の雲のなかで暮らすようになる。
人はそのなかで眠り、そのなかを歩き、そのなかで坐る。

この雲には切れ目がない。
この雲は霊光オーラとしてとらえられてきた。
見る目をそなえた人々は聖人の頭のまわりや、身体のまわり
に光を見る。精妙な霊光が彼らを取り巻いている。

今や科学でさえそれを認めつつある――特にロシアでは、
キルリアン写真はきわめて意義深い結論に達した。

そのひとつはあらゆるものが精妙な霊光に囲まれている
というものだ――見る目さえあればいい――
その人の状態が変わると霊光も変わる。

さあ、これは科学的な結論だ。
病気のときには、あなたの霊光も変わる。
それはくすんでいて、悲しげで、艶がない。

死が六か月以内に迫っていれば
、あなたの霊光は消えてしまう。
そうなるとあなたの身体の
まわりには光がなくなる。

あなたが幸せで、喜びにあふれ、
充実し、満たされていると、霊光は
どんどん大きく広がり、どんどん明るくなってゆく。

もちろん、キルリアン写真の実験は
覚者ブッダにはまだ行なわれたことがない。
それにソ連では、とりわけ現代では、仏陀の
ような人を探し出すのは容易なことではない。

不幸なことだが、国中がまったく
愚かな罠に陥ってしまっている。
国中が唯物主義の罠に陥っている。

これまで唯物主義がひとつの国を支配したことはなかった。
ソ連のようにひとつの国が唯物主義に条件つ゛けられたことはかつてなかった。
子どもたちは神も魂も存在せず、人間はただの肉体にすぎないと教え込まれる。
祈りのことなど、瞑想のことなど、いかにして静かになるかなど眼中にない。

イエスや仏陀やスブーティのような人に出くわしたら、
キルリアン写真の技術者は奇蹟を目の当たりにするだろう。
そうなったら彼らは最も純粋な光、最も涼しい光に出くわすだろう。
それは光であり、生命であり、愛だ。

目を開けて身体を探しても……

あなたの内側が光に満ち、目が火を放ち、
全存在が新しい生命の炎と化しているその瞬間に、
目を開いて身体を見つけようとしても見つからない。

こういった瞬間には物質は消滅する。

実際、現代物理学は「物質はいっさい存在しない。すべてはまぼろしだ」
と言っている。

あなたの身体はけっして固いものでできているのではない。

現代物理学は「奥深くでは、あなたの身体は電子でできている」
と言う。電子とは光の粒子、光の原子のことだ。

だからこの内なる火があかあかと燃えあがり、
そこに現前しているときに、目を開いても、
自分の肉体を見つけることはできない。

身体がそこにないのではない。
それはそこにあるのだが、
これまで見てきたように
それを見ることはできない。

それは光の雲と化している。
あなたは霊光オーラを見ている。
光景が一変してしまっている。

これまで一度も見たことがないものが見え、
それまで見てきたものはすべて姿を消している。
それはあなたの透視力ヴィジョンによる。

霊的なものを見る透視力をそなえていないので、
あなたは肉体、物質的なものしか見ることができない。
物質を見るには、何もいらない――知性もいらないし、
瞑想的な質もいらないし、祈りもいらない。

物質を見るのはひじょうに粗雑なことだ。
霊的なものを見るのはひじょうに精妙なことだ。

ひとたび霊的なものを見ることができれば、
あなたは物質が消え失せるのを目にすることができる。
その二つを同時に見ることはできない。

もう一度くり返そう。ヒンドゥー教の神秘家たちが
この世界を「まぼろし」と読んだのはそのためだ。つまり
彼らは物質が存在していないことを見抜く地点にまで到達したのだ。

存在しているものはすべて神に他ならない。

ただ意識だけが存在している。

物質というのは錯覚にすぎない。

あなたが正しく見たことがないために、物質が立ち現れてくる。

それは 意 識 に他ならない。

例えば、私があなたを見るとき、私は
あなたを物質ではなく意識として見ている。

あなたに触れるとき、私は
あなたの身体に触れているのではなく、
あなたの内奥の中核に触れている。
あなたのエネルギーに触れている。

あなたの目をのぞき込むとき、私は
あなたの肉眼をのぞき込んでいるのではなく、
あなたの霊眼に触れようとしている。

それはそこにある。
あなたにとって、それはまだ存在していないけれど、
私にとってはそれはすでに存在している。

あなたが私に耳を傾け、
分かち合われているものを理解しようとするなら、
じきにそれはあなたにとっても現実になるだろう。

神があるか、世界があるか、そのいずれかだ。

両者がともに見つかることはけっしてない。

世界を見ている者たちはけっして神を見ることがない。

そして神を見た者たち、彼らにとって世界は消え失せている。

"世界"というのはたんなる誤解にすぎなかった。

それは数を数えたり、算数をしていて計算間違いをするようなものだ。
二足す二を五にしてしまうと、ものごと全体がおかしくなってしまう。
もとにもどって誤りを見つけだし、それを正せば、
二足す二は再び四となり、ものごと全体が変わる。

それとまったく同じように、物質というのは目の錯覚だ。

それはヒンドゥー教の神秘家たちが言っていることとそっくりだ。
暗闇のなかで縄を見ると、あなたはそれを蛇だと思い込んでしまう。
蛇だと思い込んだため、あなたは駆けだしてしまう。

心臓はドキドキし、息は切れ、震えている。
涼しい夜だというのに、あなたは汗をかいている。
あなたは心臓発作さえ起こしかねない。
まったく何の理由もないのに!

朝になれば、それが縄にすぎなかったことがわかる。
これはひじょうに馬鹿げたことだ。

私はあるとき友人とともにある家に泊まったことがある。その家にはハツカネズミ
やドブネズミがぞろぞろいた。その夜のこと、私たちが寝ているあいだにネズミが
友人のベッドに入り込んだにちがいない。ネズミが彼を、その足を噛もうとした
ところで、彼は目を覚ました。彼はベッドから飛び出して、大きな悲鳴をあげた。

ネズミはきっと逃げたのだろう。何の害もなかった――噛まれる寸前ではあったけれど
。だが、彼はとても心配した。彼はそれが蛇だったのではないかと不安になった。私は
「馬鹿だな!蛇なんかいないよ。いるはずがないじゃないか」と言って、二人であたり
を見まわした。「君の家にもネズミはたくさんいるだろう。きっとネズミだよ」
――それで彼も納得した。私たちは眠りについた。すべては丸くおさまった。

私たちは川に行き、そこで泳いだ後、帰宅した。昼食をすませた頃、家のなかで蛇が
見つかった。すると友人はたちまち気絶してしまった――蛇がいると思っただけで!
私は色々やってみたが、すでに気を失ってしまっているので、どうしようもなかった。

一時間半ほど彼は気を失い、ある種の昏睡状態に陥っていた。
医者たちが呼ばれて、彼らが診察した。「毒なんてこれっぽっちもありませんよ。
ネズミでさえ何の悪さもしていないのに、蛇が何かをするわけがないでしょう」
だが、それでも彼を正気にもどすために注射が打たれた。

ちょっとした思い込み……が、思い込みが現実をつくりだすことがある。

縄を見て、駆けだすとする――
そのとき駆けているのは現実であり、
心臓がドキドキしているのも現実だ。
あなたは心臓発作を起こして、
死んでしまうことさえある――それは現実だ!

だが、蛇はそこにいなかった。
それはただの思い込みにすぎなかった。

神秘家たちは、「世界はただの思い込みにすぎない」
と言う。

あなたは怖がらなくてもいいのに怖がり、
逃げなくてもいいのに逃げだし、
心配しなくてもいいのに心配している。

それはただの思い込み、勘違いにすぎない。

世界は存在せず、ただ神のみがある。

すべてのものはただ意識のみで成り立っている。

目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。これはひじょうによいしるしである。

これらのことを理解しておかなければいけない。こういった
ことは、あなたがたにもいずれ起こることになるからだ。
理解しておくことは助けになる。

そうしておかないと、ある日、目を開けて、自分の身体が
見つからなかったら、あなたは狂ってしまうかもしれない。
あなたはきっと何かまずいことが起こったと思うだろう――
死んでしまったか、狂ってしまったかのどちらかだ。
身体はどうなってしまったんだろう?

だが、この経文を理解しておけば、
正しい瞬間が来たときに思い出すだろう。
私がこれほど多くの経典について語っているのはそのためだ。
ことが起こった時にあなたがふいをつかれないよう、
ありとあらゆる可能性に気つ゛かせるためだ。

あなたには知識があり、理解する力があり、すでに地図をもっている。
あなたは自分がどこにいるかを確かめることができ、
その理解のなかに安らぐことができる。

あるいは、坐って瞑想していると、肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる。坐ったままでいるのがむずかしくなり、上に引きあげられるような感じがする。これは「精神が天に帰り、その頂点に触れる」と呼ばれる体験である。やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。

第三のしるしだ――「精神が天に帰り、その頂点に触れる」

これはすぐに起こる。
これはごく初歩的な段階で起こりはじめる。
静かに坐っていると、突然、地面から少し、
十五センチほど浮いているような感じになる。

びっくりして目を開けると、
あなたはちゃんと地面の上に坐っている。
そこであなたは夢を見ていたにちがいないと考える。

いいや、夢を見ていたわけではない。
あなたの肉体は地面の上にとどまっていた。
だが、あなたには別の身体、肉体の内に隠されている
光の身体――アストラル体、微細体、ヴァイタル体、あるいは
なんとでも好きなように呼べばいい――がある。

その身体が浮かびあがりはじめる。
内側から感じられるのはその身体に他ならない。
なぜなら、それはあなたの内界だからだ。

目を開けると、肉体は地面の上に、
前と同じ姿でちゃんと坐っている。
幻覚を見ていたのだと決めつけてはいけない。
それは現に起こったことだ。

あなたは少し浮かびあがったのだ――
ただし、第一身体ではなく第二身体が。

肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる。

それと同時に、いつであれ地面から浮上したと感じるときには
――まるで重力がもはやあなたに影響を与えなくなり、
別の法則が働きはじめたかのようだ……私は
その法則を「恩寵の法則」と呼んでいる。

法則のひとつは重力の法則であり、それはあなたを下に引きおろす。
私はもうひとつの法則を「恩寵の法則」と呼んでいるが、
それはあなたを上に引きあげる。

そして、遅かれ早かれ、科学はそれを必ず発見するにちがいない。
なぜなら、法則はすべて必ず正反対の法則によって補足されるものだからだ。
単独で存在しうる法則はない。重力にはそれを補うものがあるはずだ。

昼には夜があり、夏には冬があり、男には女があり、愛には憎しみがあり、
生には死があり、<陰>には<陽>があるように。だから、
それとまったく同じように、もう一方の極を補い、
補完する法則があるにちがいない。

その法則を私は「恩寵の法則」と呼んでいる。
それはあなたを上に引きあげる。

肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる

、という体験が起こると、それと同時に……

坐ったままでいるのがむずかしくなり、上に引きあげられるような感じがする。これは「精神が天に帰り、その頂点に触れる」と呼ばれる体験である。

今や上昇の旅がはじまろうとしている。そして、いいかね。
上昇と内向は同じものを指し、外向と下降は同じものを指している。

内側に入れば入るほど、あなたはさらに高く上昇してゆく。
高みに達すれば達するほど、あなたはさらなる深みに入ってゆく。
それらは同一の次元であり、同じ次元の二つの局面だ。

やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。

それもまた起こる。この内なる身体がとても高く上昇しはじめ、
とほうもない力を放ちはじめると、肉体すらも一緒に浮かびはじめるかもしれない。
それは起こりうるが、わざわざそれを起こす必要はない。それは愚かなことだ。
いつの日かそれが自然に起こったら、それを楽しんで、気楽に受けとめるがいい。

こういった確かな手応えとなる
しるしは理解すべきものであって、
得意気に自慢するようなものではない。

こういった体験は誰にも話してはいけない。

そうしないと自我エゴがもどってきて、
そういった体験を食いものにしはじめる。
そしてひとたび自我が入り込めば、体験は消えてしまう。

けっして言いふらしてはならない。

もしそういった体験が起こったなら、ただ
それを理解し、留意して、それにまつわることは
みな忘れてしまいなさい。

さて、これらの三つの体験はすべてこの世で得ることができる。だが、これですべてを説明しつくせたわけではない。

この三つの体験は実際に起こりうる。
だが、それを体験したとしても、それを
言葉にすることはできないだろう。

それに、ここで言われていることはみな象徴にすぎない。
ほんとうの体験は語ることができない。
言ったことはみな嘘になってしまう。

それを口にすれば、
真実を曲げてしまうことになる。
真実は語ることができない。

だが、それでも私たちは何かを言わなければならない。
「神々が谷間にいる」「からっぽの部屋が明るく輝く」
「精神が高みに帰る」または「精神が天に帰り、その頂点に触れる」
――こういった隠喩メタファーが編み出されてきたのはそのためだ。

これらはあるものを指し示す象徴、隠喩にすぎない。
が、体験は広大無辺だ!

各人の気質や性癖に応じて異なった現象が現れるからだ。

これもまた覚えておかねばならない。こういったこと
すべてがあなたに起こるわけではないかもしれない。
あるいは違った順序で起こるかもしれないし、
違った形で起こるかもしれない。

人はみな本当にひとりひとり違っているから、
起こりうることがらも数限りない。
これらの体験は、ある人にはここに
描かれているような形では起こらないかもしれない。

例えば、ある人には上昇してゆくような感じは起こらずに、
どんどんどんどん身体が大きくなって、部屋中に広がってゆく
ような感じが起こるかもしれない。身体はさらに広がりつつ゛け、
家はその人のなかにすっぽりおさまってしまう。

それはひじょうに戸惑う体験でもある。
人は目を開けて、何が起こっているのか見たいと思う。
「私は狂ってゆくのだろうか?」――

そしてまた
「全存在は私の内側にある。私はよそ者ではない。
<存在>は私の外にあるのではなく、私の内にある。
星は私の内側をまわっている」と理解する瞬間
が訪れてくることもある。

あるいはどんどん小さくなって分子
になり、ほとんど目に見えなくなり、
ついには原子になって消えてしまう
といった体験が起こる人もある。
それもまたありうる。

パタンジャリは起こりうる体験をすべて網羅している。
気質、才能、潜在能力は人によってそれぞれ違う。
だから体験はすべて人によって違う起こり方をする。
それはこれに似たことが起こるかもしれない
ことを示唆しているにすぎない。

だから、狂うのではないかとか、
何か異様なことが起こりつつある
などと考えてはいけない。

こういった現象は、人が水を飲んで、その冷暖をおのずから知るような性質のものである。

それは体験することだ。
水を飲んで、その水が冷たいか暖かいかわかるのはあなただけだ。
喉が渇いているなら、それで渇きがおさまるか、ますますつのるか、
それがわかるのはあなただけだ。

坐ってあなたを外から観察している者には、
あなたの内側で何が起こっているのかわからない
――渇きがおさまるか、ますますつのるか、水は冷たいか暖かいか
――誰も外側からうかがい知ることはできない。

水を飲むあなたの姿を見ることはできても、
あなたが味わっている体験を味わうことはできない。

人々はあなたが瞑想しているのを見ることができるが、
内側で起こっていることを見ることはできない。

ここにやって来て、
人々が瞑想しているのを観察してもいいでしょうか
と尋ねる人が大勢いる。私は言う――
「どうやって観察するつもりかね?」
観察することができた者はひとりもいない。

みんなが坐ったり、踊ったり、歌ったりしているのを
見ることはできるが、それは本当に起こっていることではない。
瞑想は彼らの内側で起こっている。
それは彼らにしか見ることができない。

だから、ほんとうに見たいのなら、
あなたも参加しなければならない。
あなたは瞑想者にならなければいけない。
それが唯一の道だ。

それは借りるわけにはゆかない。
誰もあなたに知らせることはできない。
だから見物人としてここにやってくる
者たちは時間を無駄にしているだけだ。
こういったことは参加してはじめて知ることができる。



それと同じように、人はこれらの体験を自分で確かめてみなければならない。そのときはじめてそれは本物の体験になる。

呂祖が言っているからといって、
それを鵜呑みにしてしまってはいけない。

ただ彼を理解しようとするがいい。
それはあなたの記憶にしまっておきなさい。
こういったことを信じる必要はないし、また疑う必要もない。
ただそれらを記憶のすみにとどめておきなさい。

そうすれば機が熟して何かが起こり
はじめたら、いつでも理解することができる。
これはあなたが道に迷わないように
地図を与えているだけのことだ。

なぜなら、内なる旅の道程にも
道からはずれる地点がたくさんあるからだ。

人は思い違いをしかねない。
恐怖に駆られ、怯えてしまいかねない。
人は内なる世界から外界へと逃げてしまいかねない。

こういった体験は断じて人を
怯えさせるようなものではないが、
あなたの解釈がそれを恐ろしいもの
にしてしまうかもしれない。

考えてもみるがいい。
ある日、目を開けると自分の身体が見えない。
あなたの解釈は恐怖を煽ってしまいかねない。
「これは紛れもない狂気のしるしだ」と。

あなたは瞑想をしなくなり、
瞑想を恐れるようになってしまうかもしれない。

なぜなら、こうなるともう次に何が起こるか、
どこへ進んでゆくのか、どこへ向かってゆくのか、
誰にもわからないからだ。

あなたは体験全体に疑いの目を向けるようになる。
あなたは自分が神経症になりつつあると思い込む。

毎日のように人々は私のもとにさまざまな体験を抱えてやって来る。
自分たちの体験を口にするとき、彼らの顔や目に恐怖を
見てとることができる――彼らは恐れている。

私がそれはよいしるしだと言うと、ただちに空気が変わる。
彼らは笑いはじめる。彼らは嬉しくなる。
「これはすばらしい」「あなたはよくやっている」
「あなたはうまく成長している」といった私の言葉
を聞くやいなや、その場でただちに大きな変化が起こる。
悲しげな顔つきは消え、飛びあがって大喜びをする。

何も変わってはいない。

彼らの体験は同じだ。

ただ私が違う解釈を与えただけだ。

彼らは知らなかったので怯えていただけだ。

こういったことがらは信じる必要もないし、無視する必要もない。
ただいつかその時がきたら正しく解釈できるように、
記憶の片隅にとどめておけばいい――

そして正しい解釈には こ の う え も な い 意義がある。

それなくしては内なる旅はきわめてむずかしいものになる。
きびすを返し、世間にもどって、まともな人間になりたい
と思う地点がたくさんある。

人は何か異常なことが起こっていると思いはじめるが、
「異常」という言葉には非難が込められている。
瞑想を一度もしたことがない人々に話したら、彼らは言うだろう。

「精神分析医か精神科医のところへ行ったらどうだい。診てもらったほうがいいよ。
君はまったくおかしなことを言っている――身体が大きくなるだって!理性を
すっかりなくしちまったのかい?身体が浮かびあがり、重力が消えてしまうだって?
あるいは、どんどん小さくなってゆき、消えてしまうだって?君は幻覚を見ている
んだよ、まぼろしの餌食になっちまったんだ。精神科医のところへ行きたまえ、
君をちゃんともと通りにしてくれる、君を治してくれるよ」

そして、精神分析家や精神科医のもとへ行ったら、 確 か に
彼らは治してくれるだろう。彼らは自分たちのいわゆる知識でもってあなた
の頭をぶっ叩くだろう。彼らは瞑想に関しては何も知らず、瞑想はまだ彼ら
の意識のなかには入っていない。彼らは道の途上で起こる体験に関しては
何も知らないが、狂った人々のことならたくさんのことを知っている。

そして、ここでひとつこころにとめておくべきことがある。
それは、瞑想者にも起こるが狂人にも起こる類似した体験がたくさん
あって、それらがひじょうに紛らわしいので、精神科医はまず間違いなく
「この人は狂っているから、治さなければならない」と見たてるだろうということだ。

彼はあなたを狂人として治療する――彼はあなたに薬を飲ませ、
注射を打ち、電気ショックを与え、正常な精神状態に連れもどす。
彼はあなたの瞑想への可能性をすべて台なしにしてしまうだろう。

今や西洋ではこうした大きな危険がある。瞑想を学んでいる人々が西洋にもどり、
自分たちの解釈を超えた何かが起こったので、それを聖職者に話したとする――
キリスト教の聖職者は瞑想のことはまったく何も知らない――聖職者は彼らを
精神科医のもとへ送り込む。精神科医に話しても、彼が知っているのは
狂人に関することだけであり、覚者ブッダに関してはまったくの無知だ。

しかも彼らの体験のいくつかは似かよっている。医者はきっとこう解釈するだろう
――あなたは正常な状態から転落したのであり、引きもどしてやらねばならない。
そして彼がやることはどれも破壊的であり、あなたの身体、あなたの精神に打撃を
与える。その害があまりに大きいので、あなたは二度と再び瞑想に入れなくなって
しまう――医者はそういうひどい障害をつくりだしかねない。

だから、ときに何かが起こったら、必ず
瞑想している人々のところへ行きなさい。

世界中にセンターを開きなさい、
と私がしきりに言っているのはそのためだ。
そうすればそこでサニヤシンは瞑想することができるし、
何かが起これば他のサニヤシンに会うことができるし、
体験を分かち合いに行くことができる。

少なくともそこには共感を示してくれる人が誰かいるだろう。
少なくともあなたを非難しない人がいるだろう。

その人は
あなたの体験を尊重し、
あなたの体験を受け入れ、
あなたに希望と霊感を与え、
「それでいい、先へ進みなさい。もっと多くのことが起こるだろう」
と言ってくれる。

まさにこのために師が必要とされる――
あなたが信頼を寄せることのできる誰か、ただ
「それでいい、もっと先へ進みなさい」
と言ってくれる誰かが。

そこでようやくあなたは前進することができる。
その旅は危険に満ちているからだ。
(p405)



呂祖師は言った。
光を巡らせる訓練は徐々に成果が現れてゆく。その際、日常の務めを放棄してはならない。

私もまたそれを強調している――
サニヤシンは世間を放棄してはいけない。
あなたの瞑想は世間の只なかで成長してゆかねばならない。
それは日常生活の一部にならなければいけない。
あなたは逃避主義者になってはいけない。
なぜか?

古人は「仕事がやって来れば、それを引き受けなければならない。ものごとがやって来れば、それを根底から理解しなければならない」と言っている。正しい思考によって事を適切に処理してゆくなら、光は外界の事物によって散らされることなく、みずからの法則に従って巡る。穏やかな目に見えない光の循環でさえこのようにして起こりはじめる。すでにはっきりとした形をとった真の光の循環の場合は言うまでもない。

まず第一に、あなたがどのような状況のもとにいようとも、
それは神が授けた状況なのだから、拒絶してはいけない。

それはひとつの機会であり、成長するための好機だ。
もしその機会から逃げだしたら、あなたは成長しない。

ヒマラヤの洞窟に行き、そこで暮らしはじめ、その洞窟に深い
愛着を抱くようになった人々は大人になれずにいる。彼らは幼稚なままだ。
彼らは鍛えられていない。世間に連れてこられたら、彼らはこなごなに
打ち砕かれてしまう。彼らはそれに絶えることができない。

数日前のこと、ヒマラヤで三ヶ月暮らしたサニヤシンがやってきた。
彼女は「もうここにいるのはこりごりです。私はもどりたいのです」
と言った。さあ、これでは成熟を遂げたとは言えない。

彼女は今やヒマラヤに取り憑かれている。彼女が自分の瞑想
、静けさだと考えているものはすべて彼女のものではない。
それはたんなるヒマラヤの静寂の副産物にすぎない。

私は彼女に言った。「ここに三週間ほどいて、それからあなたの静けさや
瞑想がどうなったか話しにきなさい。もしそれが消えてしまうようなら、
それはあなたのものではなかったということだ。そうだとしたら、
ヒマラヤになど行かないほうがいい。ここで瞑想を深めなさい!

この人混みのなかで瞑想的になってからヒマラヤに行くのであれば、
あなたの瞑想は何千倍も深められるだろう。息抜きに行くのはいいが、
そこに執着してはいけない。必ず世間にもどってきなさい」

そう、ときおり山に入るのはいい、それはすばらしいが、
それに中毒してしまい、世間を捨てることを考えはじめるのは
完全に間違っている。なぜなら、世間の嵐にもまれてこそ人は円熟
してゆくからだ。世間の挑戦を受けてこそあなたは結晶化する。

呂祖は「自分が置かれた状況を受け容れなさい。
それはあなたにふさわしい状況にちがいない。
だからあなたはそのなかにいるのだ」と言っている。

<存在>があなたの面倒を見てくれている。

それは何らかの理由があってあなたに与えられている。

それは偶然ではない。偶然に起こることなど 何 も ない。

何であれあなたに必要なものがすべて与えられる。

ヒマラヤにいることが必要で
あったなら、あなたはヒマラヤにいたことだろう。
必要に応じて、あなたがヒマラヤに出かけてゆくか、さもなければ
ヒマラヤがあなたのもとへやって来るかそのどちらかだ。

だから弟子に用意ができたときには……師が現れる。

あなたの内なる静けさが整ったときには、神がやって来る。

そして何であれ道の途上で必要なものはいつでもすべて与えられる。

<存在>は面倒を見てくれる。
母親のように世話をしてくれる。

だから心配することはない。
それよりもその機会を使いなさい。
この挑戦に満ちた世間、この外界の
絶えざる混乱を使わなければいけない。

あなたはその目撃者でいなければいけない。
それを見守りなさい。

どうすればそれに影響されない
でいられるか、それを学びなさい。

水中の蓮の葉のように、その影響を受けず、
触れられないままでいる
こつを学びなさい。

そうなったら感謝の気持ちが湧いてくるだろう。

なぜなら、混乱のすべてに注意を向けることではじめて、
ある日、突然「神々が谷間にいる」という体験が現れるからだ。

あなたは人混みが遠くに消えてゆき、
こだまのように響いているのに気つ゛く。

これがまやかしでない真の成長だ。

日常生活のふつうの仕事のなかで
瞑想的であることができたなら、
あなたに起こりえないものは何もない。

光が巡りはじめ、あなたは
ただ注意深く見守っている。

朝、瞑想をして、中心の近くにとどまりつつ゛けなさい。

世間に出て行っても、中心の近くに
とどまって、自分自身を想起しつつ゛けなさい。
自分がしていることを意識しつつ゛けなさい。
(p408)



日常生活のなかで、自他の思いをいっさい混入することなく、ものごとに対してつねに打てば響くように対処する力をもつなら、それは環境から生じる光の循環である。これが第一の奥義である。

そして、様々なものごとが立ち現れたら、
行為しながら、しかもその行為に同一化してはいけない。

傍観者にとどまりなさい。

何であれ必要なことは打てば響くようにやりなさい。

必要なことはすべてやりつつ、
しかもやり手になってはいけない。
それに巻き込まれてはいけない。

それをやり、それを終わらせてしまいなさい――打てば響くように。

朝早く、世間のしがらみをいっさい断って、一、二時間瞑想することができれば、さらに、あらゆる外界の活動と事物に主観をいっさい交えず、打てば響くように対処することができれば、そしてそれを途切れることなくつつ゛けることができれば、二、三ヵ月後には天上から真人たちがやって来て、その行為を認めてくれるであろう。

主観を交えずに行動しなさい。

状況に留意して、何であれ必要なことをやるがいい。
だが、その行為に執着してしまってはいけない。
そのことを心配してはいけない。
結果を考えてはいけない。

必要なことをただやり、
油断なく目を見張り、
泰然自若として、
遠く離れた中心にとどまり、
そこに根をおろすがいい。



だが、その中心を一日中想起しつつ゛けられるように、
毎日、早朝に、内なる中心に自分を方向つ゛けなさい。

最良の時間は二度ある。
最初のよい時間は早朝だ。
自分自身を中心に方向つ゛ければ、
周辺で暮らしながらも中心を十全に想起したままでいられる。

そして第二の時間はベッドに入る前だ。
再び自分自身を中心に方向つ゛ければ、
深く眠っていても――夢を見たり、無意識になっているあいだですら
――できるかぎり中心の近くにとどまりつつ゛けることができる。

この二つが最良の時間だ。

この二度の時間に瞑想することができれば、どこにも行かなくていい。
僧院や洞窟に入る必要はないし、世間を捨てる必要もない。

そうすればいつの日か、ふと気つ゛くと
花が頭上に降り注ぎ、神々が耳元で囁いている。

ひとつの魂がわが家に帰り着く瞬間、
全存在がそれを喜び祝う。

スブーティに起こったことはあなたにも起こりうる。

それを熱望しなさい。

それはあなたが生まれながらにもっている権利だ。
その権利をどうどうと主張するがいい。
(p409)

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