黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版
第三話 アニムスとアニマ
より抜粋
肉体のなかには魄アニマが存在する。魄アニマは女性(陰)であり、意識の基体である。
けれども、これとともに魂アニムスが存在し、そのなかに精神が潜んでいる。魂アニムスは両目のなかにあり、ものを見、夢を見る。だが、暗く沈み込み、みずからの肉体の形に幽閉されている者はみな、魄アニマに束縛されている。それゆえに、光を巡らせることで魂アニムスの集中が起こり、そのようにして精神が保持され、魄アニマは克服される。この世を超脱するために古人が用いた技法は、純粋に創造的なものに還るために暗黒の滓カスをすべて溶かし尽くす。これは魄アニマの力を削ぎ落とし、魂アニムスの力を完全にすることに他ならない。光を巡らせることは、暗黒を縮小させ、魄アニマを制する力を獲得する秘術である。この技法に従うなら、種子の水はおのずから豊かになり、精神の火は燃えあがり、思考の土は固まり結晶化するだろう。このようにして聖なる果実は熟す。
一なる本性が創造力の宮殿に降りると、それは分かれて魂アニムスと魄アニマになる。魂アニムスは天上のこころハートに住む。それは光の性質を有している。それは軽く、清らかなものの力である。それは我々が大いなる虚空から得てきたものであり、原初の始まりと同じ形をしている。 魄アニマは暗黒の本性を有している。それは重く、濁ったものの力である。それは物質的な肉体の心臓ハートに縛りつけられている。魂アニムスは生を愛し、魄アニマは死を探し求める。すべての感覚的欲望と怒りの衝動は魄アニマの作用である。だが、学人が暗い魄アニマを完全に蒸留してしまえば、それは純粋な光に変容する。
『 あるとき女帝、即天武后ソクテンブコウが導師の法蔵ホウゾウに尋ねた---
法界縁起ホッカイエンギの理(宇宙的な相互依存の法則)、すなわち一と多、
神と被造物、被造物どうしの関係の原理を、具体的に、
単純明快に証明して見せることができるかどうかと。
法蔵は仕事にとりかかり、宮殿の一室を使って、
八つの方位に大きな鏡を八枚立てた。
さらに彼は二枚の鏡を、ひとつは天上に、もうひとつは床に取りつけた。
部屋の中央には天上から一本の蝋燭ロウソクがつるされた。
女帝が入室すると、法蔵は蝋燭に火をともした。女帝は叫び声をあげた。
「なんとすばらしい!なんと美しいことでしょう!」
法蔵は十枚の鏡のひとつひとつに映る炎を指さして言った。「ご覧ください、
皇后陛下。これで一と多、神とその被造物との関係は証明されます」
女帝は言った。「まさにその通りです、師よ。
では個々の被造物と被造物の関係はいかがですか?」
法蔵は答えた。「よくご覧ください、陛下。
一枚一枚の鏡が中央の炎を映し出すだけでなく、
それぞれの鏡が他のすべての鏡に反射する炎を映し出し、
それらすべてが無数の炎をたたえています。
これらの影はすべて相互に等しいものです。
つまり、ある意味では置き換えうるとも言えますし、
ある意味ではそれぞれが個別に存在しているとも言えます。
これは個々の事物とそれに隣接するものとの、
他の万物との真の関係を示しています。
もちろん、私はこう指摘しなければなりませんが、陛下」
と法蔵は続けた。
「これは宇宙の真の状態の粗雑で、大まかで、静的な比喩にすぎません。
なぜなら、宇宙は無限であり、そのなかではいっさいのものが永久に
多様な運動をくり返しているからです」
そう言うと、導師は反射する無数の炎のひとつを覆って、
一見ささいなことに思われる個々の干渉が
我々の世界の有機的統一にいかに影響を与えるかを示して見せた。
華厳ケゴンの教えはこの関係を次のような公式で表現する。
一即一切(ひとつのなかにすべてのもの)
一切即一(すべてのなかにひとつのもの)
一即一(ひとつのなかにひとつのもの)
一切即一切(すべてのなかにすべてのもの)
続いて法蔵は、天覧劇の幕を閉じるために小さな水晶玉を取り出して言った。
「さあ、ご覧ください、陛下。これらすべての大きな鏡と、
その鏡が反射する無数の形がこの小さな玉に映る様を。
究極の実在においては、何の障害もなく無限に小さなものが
無限に大きなものを内に蔵し、無限に大きなものが無限に小さなものを
内に蔵している様をご覧ください!
ああ、時間と永遠が、過去、現在、未来が、互いに妨げられずに
浸透し合うことを証明することさえできれば。
しかし悲しいことに、これは異なった水準で把握されねばならない。
生きて躍動するプロセスなのです・・・」
人間は孤島ではない。何ひとつ孤島ではない。
あらゆるものが相互に関連し合っている。
あらゆるものが相互に依存し合っている。
独立とは、まさにその言葉からして虚偽だ。
依存もまたそうだ。相互依存が実相だ。
万物は他の万物とあまりに深く結びついているので、
何ひとつばらばらでは存在しえない。
小さな薔薇の花を余すところなく全一に
理解できたら、宇宙全体を理解したことになる。
なぜなら、全宇宙がその小さな薔薇の花に内包されているからだ。
もっとも小さな草の葉にさえいっさいが含まれている。
だが、覚えておきなさい---法蔵が女帝に言ったように、すべての例証、
すべての描写は静的だが、<存在>は躍動する流れだ。それは川のようなものだ。
ひとつひとつの事物が他のあらゆる事物のなかに浸透し続けている。
どこでひとつのものが終わり、どこで別のものがはじまるのか、
その線を引くことはできない。境界線はない--そんなものはありえない。
したがって、区別はすべてたんに実用的な目的のためにあるだけであって、
それらに実存的な価値はない。
これがまず最初に理解すべきことだ。
これは道家タオイストの煉丹術のまさに基礎となるものだ。
ひとたびこれを理解すれば、道家の煉丹術の全容を把握できるようになる。
そうなったら、低次のものを高次のものに変容させることができる。
なぜなら、低次のものにはすでに高次のものが含まれているからだ。
卑金属を黄金に変容させることができるのは、何ひとつ分かたれている
ものはなく、低次のものにもすでに黄金が含まれているからだ。
上のごとく下もあり、下のごとく上もまたある。
あらゆるものが相互に関連し合っているというとらえ方
そのものが変容を可能にする。
事物が相互に関連し合っていなかったら、いかなる変容の可能性もない。
もし世界がライプニッツの言うモナド---窓がなく、ばらばらに分離し、
窓がないため相互の結びつきをいっさいもたない原子のような単子---
から成っていたら、そのときにはいかなる変容の可能性もない。
あなたが私であり、私があなただから、
つまり私たちが互いに浸透し合っているからこそ、
変容を思い描くことができる。
ほんの一瞬でも自分自身を分離した存在として考えることができるだろうか?
分離した存在としての自分など思い浮かべることもできない。
花を樹から切り離すことはできない。
切り離したとたんに、花は死んでしまう。
樹は大地から切り離せない。
地球は太陽から切り離せない。
太陽は他の星から切り離せない。
それが果てしなく続いてゆく。
葉を切り離せば、その葉は死んでしまう。
花を切り離したら、その花は死んでしまう。
樹を大地から切り離したら、その樹はしんでしまう。
地球を太陽から切り離したら、地球は死んでしまう。
死とは分離しているということだ。
生とは分離していないということだ。
それゆえに自我エゴは死なざるをえない。
なぜなら、それは自分は分離しているという観念だからだ。
みずからの自己を自我の立場からとらえることはひとえに死を呼び寄せる。
なぜなら、自我にはもはや血が通っていないからだ。
息の止まった馬に鞭を当て続ける
こともできるが、いつまでそうしていられるだろう?その馬はやがて死んでゆく。すでに息が止まってしまっているので、やがては死んでゆく。
あなたの内側で息つ”いているものは死ぬことがない。生命は永遠だ。
だが、生命はあなたのものではない。あなたはそれを所有できない。
生命は全体に属している。生命は広大なものであり、無限なるものだ。
死はちっぽけなものであり、個的なものだが、生命は宇宙的なものだ。
だから生きているときには、あなたは宇宙の一部であり、
死を迎えるときには、自分は分離していると思うからこそ死んでゆく。
全体の一部であると感じれば感じるほど、あなたはいっそう多くの生を得る。
イエスは言う。「私のもとへ来なさい。私はあなたがたに豊かな生を与えよう」
豊かな生の秘密とは何か?その秘密はこれだ---
自我エゴとして死に、分離した実体としては消えなさい。そうすれば
全宇宙と宇宙のなかに含まれるいっさいのものがあなたのものになる。
所有すれば、あなたはちっぽけなもの、有限なものになり、
やがては死ななければならないことになる。
もっといきいきとする秘訣は、ひとえに
分離という観念を落とすことから成っている。
そしてそれが起こるたびに、あなたは
内側で生が炎のように燃えあがるのを感じる。
たとえそれが小さな規模で起こっても・・・
誰かに恋をしても、あなたの内側では生が燃えあがる。
大したことが起こっているわけではない。
たかだか二人の人間が一体感を味わっているだけだ。
愛から教訓を学ぶがいい。
二人の人間が一体感を味わうだけでも、
大きな喜び、大きなエクスタシーが生まれてくる!
考えてもみるがいい。全体と恋に落ちたら、どんなに大きなエクスタシー、
どんなに大きな喜びが起こることだろう?それが豊かな生、限りなき生だ。
自分自身を分離させると・・・ときおり自己中心的に生きるあまり、
愛することができない人たちがいる。彼らはこの世でもっとも惨めな人々だ。
私は地獄をこう定義する---
分離した状態で生きることが地獄だ。分離のない状態で生きることが天国だ。
全体のなかへ完全に跡形もなく消え去ることが
解脱モクシャ、にゃはんニルヴァーナだ。それは究極の自由だ。
理解すべき第二のことがらは、生には極性があるということだ。
これもまた道家の人々の姿勢アプローチの基盤そのものをなしている。
だが、この極性は対立するものではない。
極性とは対立物が互いに補い合っているということだ。
それらは互いに支えあっている。
生は死なくしては存在しえない。だから死は敵ではない。
生が死なくして存在しえないとしたら、どうして死が敵でありえよう?
死は友であるはずだ。
死は生の下地を用意する。
死は生を助け、生を喚起し、生に挑みかけてくる。
考えてみるがいい。肉体が永遠に生きることになれば、
人はまったく生きようとせず、あらゆることを無限に先に延ばしてしまう。
「明日があるなら、なぜ今日愛さなければならないのか?
明日が無限にあるなら、なぜ気にかけるのか?
なぜ今日踊るのか?明日にしようじゃないか」
思い浮かべてみるがいい。
肉体の生命が永遠なものになるなら、人はいつまでも先に延ばしてゆくだろう。
先に延ばすことができないのは、
明日が来るかどうか確信をもつことができないからだ。
次の息が入ってくるかどうか誰にもわからない。
だから先に延ばすのは愚かな者たちだけだ。
賢者は生きる、賢者は今ここを生きる。
彼には先に延ばしてゆくひまがない。なぜなら、彼は
「この瞬間だけが私のものだ。
まさにこの瞬間だけが私のものだ。
次の瞬間は来るかもしれないし、来ないかもしれない。
どうして先に延ばせるだろう?どうして 明 日 などと言えるだろう?」
と知っているからだ。
愚か者は明日まで延ばす。
賢者は今を生きる。
賢者は今より他の時間、ここより他の場所を知らないが、
愚か者は永遠に先に延ばすことができたものに入り込み、
たった今それを生きる。腹が立つと、その怒りをたった今生きる。
やさしい気持ちになると、彼は「明日にしようじゃないか」と言う。
愚かなことばかりをやり続け、輝かしいことはすべて先に延ばし続けてゆく。
賢者もまた先に延ばすが、彼は愚かなことだけを先に延ばす。
グルジェフはよく弟子たちにこう言っていた。
「祖父が死んだとき、私はわずか九才だった。
彼は死の床に私を呼び寄せると、耳元でこうささやいた」
老人はこの少年をこのうえもなく愛していた。
彼はこの少年に潜む力を見抜いていたにちがいない。
彼は少年の耳元でささやいた。
「おまえにあげるものは何もないが、ほんの一言だけ忠告しておこう。
今のおまえにそれが理解できるかどうかわからない。だが、覚えておきなさい!
いつかおまえも大きくなったら理解できるようになるかもしれない。
とにかく覚えておきなさい。単純な忠告だ。
何かよくないことをしたくなったら、それを二四時間先に延ばしなさい。そして
何かよいことをしたくなったら、たとえ一瞬といえども先に延ばしてはいけない
。腹を立て、暴力的になり、攻撃的になりたくなったら、二四時間待ちなさい。
やさしい気持ちになり、分かち合いたくなったら、
一瞬といえども先に延ばしてはいけない。
ただちにその場で、それを生きなさい!」
グルジェフはよく弟子たちに、
「あの簡単な助言が私の人生をすっかり変えてしまった」と言っていた。
腹を立てるのを二四時間先に延ばせるのだったら、
どうして腹を立てたりできるだろう?腹の立てようがない。
それを二四時間先に延ばすことができるほど穏やかで平静にしていられるなら、
もうそれだけで腹が立たないことはあきらかだ。
二四時間先に延ばすことができるなら、どうして腹など立てられよう。
二四時間も黙想すれば、その馬鹿らしさ全体がはっきり見えてくる。
ことの全体がくだらなく見えてくる。
グルジェフはこの単純な忠告のおかげですっかり変容した。
ときとして、ごく単純なメッセージが人を変容させることがある。
だが、あなたはそれを生きなければならない。
生は死があるがゆえに存在する。
死は生に強烈さを与える。
死は生に挑みかけてくる。
生きるように、それも最大限に、最善を尽くして生きるように
人を奮い立たせる。
というのも、誰にもわからないからだ---明日などないかもしれない。
死はつねに人を奮い立たせている。
生きるように、全身全霊で生きるように駆り立てている。
だとすれば、死は生の敵ではなく友だ。
対極をなすものはすべてそうだ。
否定と肯定、愛と憎しみ、美と醜さ、昼と夜、夏と冬。
男と女の場合にもそれは当てはまる。
男は女なしでは存在しえない。
女は男なしでは存在しえない。
それらは弁証法的なプロセスの一部だ。
これら二つの極のあいだには、魅惑と反発の両方がある。
魅惑と反発は切り離すことができないからだ。
人が女性、あるいは男性に惹かれながらも
同時に反発を感じるのはそのためだ。
あなたの一部はその女性と一緒にいたがり、
あなたの一部は独りでいたがる。
あなたはいつもためらっている。
女性、あるいは男性とともにいると、
独りでいる自由にあこがれはじめる。
突然、むしょうに独りに、自由になりたくなる。
だが、この自由でいたいという欲求がどこから来るのかわからない。
相手の男性、あるいは女性がそれを喚び起こしている。
相手から離れたとたん、この欲求、このあこがれ、
独りでいたいというこの大きな渇望は消え失せてしまう。
そうなったら、あなたは驚く、本当に驚く。
独りでいると寂しいだけだ。
あなたは予想していた喜びを感じない。
自由はどこにも見当たらない。
自分を取り巻く寂しさに気付くだけだ。
あなたの全存在が冷たくなり、凍りつき、暗くなる。
再び誰かと一緒にいたいという欲求が生まれる。
あなたは今度は愛を、ともにあることを渇望する。
これが男と女のあいだにある問題だ。
彼らは惹かれながらも反発する。
一緒になりたいのだが、一方では相手に頼らず、離れて、独りでいたい。
男と女のあいだに絶え間ない葛藤があるのはそのためだ。
結婚とは愛と憎しみの関係、魅惑と反発の関係だ。
結婚が長く続くとしたら、それは
小さな離婚が毎日起こっていてはじめて可能になる。
そうであってはじめて長続きする。
男と女が争わないでいようと決めてしまっているとしたら、
そんな結婚はまがいものだ。
彼らは一緒にいる、なんとか一緒にいるかもしれないが、
本当にはけっして一緒にいない。
けっして一体となる瞬間を知ることはない。
彼らはふりをしているだけだ。
上品に振る舞ってはいるが、真実ではなく、本物ではない。
結婚とは一種の親密な敵対関係だ。
それは親密な敵意であり、友好的な闘いであり、戦争だ。
もちろん二つの戦争のはざまには平和な瞬間もある。
それらの瞬間は二つの戦争ゆえに美しい。
恋人たちは争い続ける---そのようにして愛の炎を燃やし続ける。
ひとたび争うと、恋人たちは互いに離れてゆく。
心理的に、互いに遠く離れてしまうと、相手を強く求めはじめ、
相手が恋しくなってくる。
そうなると彼らは相手を求め、手探りをしはじめる。
やがて二人は近つ”いてきて、寄り添う。
なぜなら、彼らはちょっとした孤独を味わったからだ。
今度は近くに寄り添っていたい。
が、親密さを味わってしまうと、彼らは再び離れたくなる。
だから心配しなくてもいい。それは基本的な現象だ。
あなたはそれから逃れられない。
逃れる唯一の方法は真実の結婚ではなく、みせかけの結婚をすることだ。
「互いに礼節をわきまえよう」と。それは一種の契約だ。
「私にはあなたが必要であり、あなたには私が必要だ」という。
つまり「あなたの背中をかいてあげるから、私の背中をかいて」
というそれだけのことだ。「私にはあなたが必要であり、
あなたには私が必要なのだから、あなたは私の身柄を引き受け、
私はあなたの身柄を引き受ける」という。
それは法律上の契約ではあっても、結婚ではない。
これが経文に入ってゆく前に理解しておかねばならない
二番目に重要なことがらだ。
そして第三の最も重要なことがら---三番目に重要なのは、
男は単に男ではないし、女は単に女ではないということだ。
男は両方であり、女も両方だ。男女ともにその両方だ。
男性の内側には女性がいるし、女性の場合もそうだ。
女性の内側にも男性がいる。だから外見が男であるか女であるか
だけが問題なのではない。それは内なる現象でもある。
なぜなら、外界と内界は対応するからだ。
先に私が「下のごとく、上もまたある」と言ったように、
「外のごとく、内もまたある」と言うことができる。
あなたの内なる現実もまた、あなたの外なる現実と同じだ。
それらは対応している。それらは均衡を保っている。
さあ、そうなるとますます複雑になってくる。
どの男性も内側に女性を抱えていて、
その女性と折り合いをつけねばならないからだ。
それはたんに外界に愛する女性がいるといった問題ではない。
そうだとしたら、ものごとはもっと単純だっただろう。
二人が愛し合っているとき、実際には、そこに四人の人間がいる---
どのベッドのなかにも四人の人間がいる。この複雑さがわかるだろう。
二人が愛を交わすとき、そこでは必ず四人の人が愛を交わしている。
つねにグループセックスだ。なぜなら、男性の内側には女性がいて、
女性の内側には男性がいるからだ。
人はみな男と女の結婚から生まれてくるのだから、何の不思議もない。
父親の何かがあなたのなかにある---それは五十パーセントだ。
母親の何かがあなたのなかにある---それは五十パーセントだ。
ひとりひとりに父親が寄与し、母親が寄与している。
あなたは生物学的には男性かもしれない。だが、それはたんに
あなたの肉体が男性の機能をそなえていることを示しているだけだ。
精神の奥深くでは、あなたは男でもなく女でもない、あなたはその両方だ。
だから私は言う。もし、ひとつの言葉で男と女の両方を言い表さなければ
ならないとしたら・・・今まで私たちは man を使ってきた。
つまりその言葉には両方が含まれているということだ。それはたんに
過去においては男性が大きな支配力をふるっていたからにすぎない。
だが将来は、振り子はもうひとつの極に振れるかもしれない。
そしてそのほうがはるかに真実だ。なぜなら man という言葉には
女性が含まれていないが、woman という言葉には男性が含まれている
からだ。両方を表す用語としては woman を使うほうがいい。
そして同じことが he と she の場合にもあてはまる。
she には he が含まれているが、he には she が含まれていない。
両方を表すためには she そして、woman を使うほうがいい。
神を表すためには he よりも she を使うほうがいい。
だが、男女ともに内側に異性を抱えている。このために、内部
にあるこの根源的な二元性ゆえに、同性愛が起こりうる。
あなたは外見は男であっても、内界に住む内なる女性に同調して
ゆくようになるかもしれない。そうなったとしても問題はない。
あなたの精神は自由なままだ。それは内界で内なる男性に同一化
することもできるし、内なる女性に同一化することもできる。
肉体は男性であっても、内なる女性に同一化する
なら、その結果として同性愛が起こってくる。
それは様々な形で起こりうるし、様々な理由によって起こりうる。
つまり同性愛はこの内なる二元性ゆえに起こりうるということだ。
今や科学はあなたの性を転換させることさえできる。それもまた可能だ。
なぜなら、道家の人々が見い出したものは科学的にも正しいことが判明
しているからだ。今やホルモンや化学物質をわずかに変えるだけで
、男は女になり、女は男になることができる---肉体ですらもだ。
これはまさに人間が男女両性であることを示している。
肉体の違いでさえ、たんにどちらの性が強いかということにすぎない。
ときには性の転換がひとりでに起こることもある。
女性が男性になったり、男性が女性になったりすることがある。
性差というのは大きなものではないにちがいない---
ごくごくわずかなものなのだろう。五十一パーセントが男であり、
四十九パーセントが女であるというように。
比率がわずかに男性の側に片よっているにすぎない。
一生のうちに性が変わることはありうることだ---新しいホルモン、
新しい食べ物、新しい風土、新しい環境、病気か何かがバランスを変え、
男が女になったり、女が男になったりすることはありうる。
今では、科学は性転換が簡単に行なえることを知っている。
未来の人々は頻繁に性転換を行なうようになる確率が高い。
一生の内に両極を生きることができるなら、やってみるのも悪くない。
男女両方の見方を楽しめるなら、やってみても悪くない。
人間はもっと多くの自由を得るだろう。
三十五年間、男として生きてきたのだからもう充分だ。
女性の側からは、どのようにものが見えるのかを見てみたい。
向こうからものがどのように見えているかを知るには、
相手の側になってみるのが一番だ。
私が何千人もの人々を観察してきたところでは、現世で男であれば、
その人は来世では女として生まれる。そしてその逆もいえる。
その理由は単純だ。人は男であることに、あるいは女であることに
飽きて、深いところでもうひとつの極にあこがれはじめる。そして当然、
性を変えたいというこの大きな欲望ゆえに、来世では別の性に生まれる。
三つの基本原理がある。
ひとつめは、あらゆるものが相互に依存し合っているということ。
二つ目は、生は両極に分かれていて、この両極は
反発するのではなく互いに補い合うということ。
三つ目は、それぞれの内に両極が含まれており、
単極で存在するものはないということ。
インドにはアルダナーリシュヴァルという概念がある。
これは道家の方法論アプローチに相当するものだ。
シヴァ神は男の半身と女の半身の両方をもつ者として像に刻まれたり、
絵に描かれたりしている。彼の半身は男性であり、半身は女性だ。
これらの像が西洋人の目にはじめて触れたとき、彼らは笑った---
それはとても馬鹿馬鹿しいものに見えた。この像は何を意味している
のだろう?今では西洋人たちもその意味を理解している。
それは生の最も基本的なことがらのひとつだ。
あなたがたもそうだ。シヴァ神と同じように、半分と半分だ。
これらの経文は、この内なる極性に関わっている。
そしてこの内なる極性を越えてゆかないかぎり、
あなたは一なるものに達することなく、二つに分かれたままだ。
二十四時間のあいだに、あなたはひとつの極から別の極へと何度も移り変わる。
見守ってみるがいい。あなたは男かもしれないが、ひじょうに女性的になり、
すぐに傷ついてしまうときがある。あなたは女かもしれないが、日中に
ひじょうに男っぽくなるときがある。
女性が男性的になるときには、彼女はこのうえもなく攻撃的になる---
男がとても太刀打ちできないほど攻撃的になる。それは女性の攻撃性が、
人が手をつけていない原野のように、ごく新鮮で、使い古されていないからだ。
そして、それは男の場合にも当てはまる。男がやさしくなるときには、
彼は本当にやさしくなる、女よりもやさしくなる。なぜなら、
それは原野であり、彼の実存のその部分は使い古されていないからだ。
それは新鮮で、ひじょうにいきいきとしている。だから、あなたが
もう少し注意深くなれば、この奇妙な現象を何度も何度も目にするだろう。
女性は概して愛情に満ちているが、男性は概して冷淡だ。
女性はまれにしか言い争うことはないが、そうするときには徹底している。
男が愛情深くなることはめったにないが、そうなるときには徹底している。
それは彼らの実存の使い古されていない部分だ。
それらが使われるときには、みずみずしさがある。
この内なる極性ゆえに、人は一種の苦悶、葛藤のなかに
置かれているが、人はそれなくしては存在しえない。
<一なるもの>は不可視のままだ---神が目に見えないのはそのためだ。
目に見えるものとなるため、<一なるもの>は二つにならなければならない。
黒板に白いチョークで書かなければならない。
そうしてはじめてこれらの言葉は目に見えるようになる。
存在するために、人はコントラストを必要とする。昼間は星が見えず、
夜間に見えるのはそのためだ---夜の暗闇が背景となっている。
昼間でも夜と同じ数だけ星はある---星はどこかへ行ってしまう
わけではない、どこにもゆくはずがない。星は同じ位置にある。
夜になるとやってきて、昼になるとどこかへ姿を隠すというわけではない。
星は同じ位置にあるのだが、昼間はコントラストが欠けている。
だから星を見ることができない、それは目ではとらえられない。
神は不可視だ。神は二つに、男と女にならなければいけない。
物質と精神にならなければいけない。肉体と魂にならなければいけない。
これとあれにならなければいけない。二つのものだけが目に見えるからだ。
世界は”二つのもの”から成り立っている。世界は二元的だ。
この二元性を<一なるもの>のなかに消し去らせることができる
なら、そのとたんに、あなたは目に見えなくなる。
この言葉には深い含みがあるが、それはあくまでも隠喩だ。
老子の姿が見えなくなるとか、私の姿が見えなくなるという意味ではない。
あなたがたはずっと私を見ているが、それでも こ の 私 を見てはいない。
その部分は不可視のものになっている。
内側では両極が消え失せ、二元性はもはやそこにはない。
二元的なものだけが見ることができる。
非二元的なものは目に見えなくなる。
神は二つにならなければならない。
そうしてはじめてゲームが、遊戯が可能になる。
古代インドの聖典には「彼は深い孤独を感じた」と書かれている。
「彼」とは神のことだ。彼は深い孤独を感じた。
彼は他者に恋い焦がれ、そのために二つになった。
彼は男と女になり、雌牛と雄牛になり、そしてその分裂が延々と続いてゆく。
森羅万象のすべてが性的だ。「性的」という言葉で私は二元性を意味している。
森羅万象のすべてが性的だ。いずれ科学は、男の惑星があり、女の惑星がある
ことを発見するだろう。そうであって当然だ。古代の占星術はそう言っている
し、私はそれにまったく異論がない。あらゆるものが二元的だ。
太陽が男性の象徴とされ、月が女性の象徴とされるのはそのためだ。
それは詩ではない。それは事実だ。
科学はまだそれを発見していないかもしれないが、そうであるにちがいない。
あらゆるものが二元的だとすれば、例外などひとつもありえない。
女性あるいは男性に惹かれることで、人は人としての姿を取り続けている。
さあ、これでなぜ、いつの時代にも偉大な神秘家たちが性超越の方法を説いて
きたかが理解できるだろう---性を超越しないかぎり、神への参入は起こらない。
性を超越しないかぎり、けっして”二”の超越は起こらない。
人は二元的な世界につながれたままだ。
”世界”とは姿を顕した神のことであり、
”神”とは再び姿を潜めた世界のことだ。
それもまた二元に---姿を顕した状態と姿を潜めた状態に分かれている。
キリスト教神学の見解はあまり深くはない。それはきわめて表面的だ。
キリスト教神学には創造しかない。破壊はどうなるのだろう?
破壊なくしてどうして創造がありえるだろう?東洋の神学にはその両方
がある。スルシュティは創造を意味し、プララヤは破壊を意味する。
神が姿を顕す瞬間があり、神が再び姿を潜める瞬間がある---最初に語った
ように、人間と同様、あらゆるものが<無>のなかに消えてゆき、ゼロになる。
恋人とともにいると、人はうんざりして、瞑想をしたくなり、ヒマラヤへ
行きたくなる。神もまた世界にうんざりしてしまう。それは自然のなりゆきだ。
神は休息を取りたくなる。そこで神は<一なるもの>のなかへ消えてゆく。
続いて溶解が起こり、あらゆるものが消え失せてゆく。
だが人はいつまでヒマラヤの洞窟に座っていられるだろう?神ですら
うんざりしてしまう。神は再び相手を探し求めだし、創造に着手する。
それとまったく同じことがひとりひとりの魂のなかでも起こる。
あなたは生を生き、疲れて、生を離脱したくなる。
あなたは肉体を使って生きてきたが、疲れてしまっている。
あなたは今度は肉体を超越したくなる。そうなったら、あなたは
なぜ私が「世間を恐れてはいけない。世間から逃避してはいけない」
としきりに言うのか理解できるだろう。
なぜなら、世間こそ真の放棄が起こる場所に他ならないからだ。
それは一方の極だ。私が「女性あるいは男性から逃げ出せ」
と言わないのはそのためだ。逃げ出したら、思いは消えずに残る。
逃げてはいけない。それをとことん生き抜くのだ。
世間にどっぷり身を浸していると、
「もう充分だ、消え去って完全な孤独のなかに入ってゆきたい」
という感覚が起こりはじめる。人は本当に疲れ果てて
はじめて完全な孤独のなかに入ってゆくことができる。
人々はきっと私を誤解することだろう。
インドで私ほど誤解されている者はいない。彼らは私が人々に
耽溺することを教えていると思っている。私は放棄を教えている。
彼らは私が世俗的なサニヤスを教えていると思っている。
彼らは理解していない。
私が教えているのは 真 の サニヤスだ。
真のサニヤスは世俗的な経験を経てはじめて生まれてくるものだからだ。
真のサニヤスはヒマラヤの洞窟のなかでは起こりえない。
それは本物ではなく、押しつけられたものだ。
人は深いところでは世俗的なままであり、
世間にあこがれ、世間を夢見続けている。
世間を生きなさい。とことん生きなさい。そうすれば、
うんざりし、疲れ果て、あなたは世間にけりをつける---とことん生きれば、
ある日突然、世間はいっさいの意味を失い、放棄が起こっている。
私にとって、真の放棄は俗世の只中マーケットプレイスで起こる、
俗世の只中においてはじめて起こる。
さて経文だ---
肉体のなかには魄アニマが存在する。魄アニマは女性(陰)であり、意識の基体である。
生けるものすべてのなかにアニマが存在している。
アニマとは女性原理、受動的な原理、不活性の原理、女性、陰
・・・それは意識の基体である。
それは意識そのものではなく基体だ。それなくして意識は存在しえない。
それは物質そのものであり、意識の住処スミカだ。
それなくして意識は宿ることができない。
女性・・・いいかね、私は「女性」という言葉でたんに女性
たちを指しているのではない。私は女性原理のことを言っている。
このことを絶えず覚えておくように。そうしないと、
道家の人々が女性に反対しているように感じはじめるかもしれない。
そうではない。彼らは指示するとも反対するとも言ってはいない。
ただ描き出しているだけだ。
また彼らは男を支持するとも女を指示するとも言ってはいない。
彼らは女性性の原理と男性性の原理について語っている。
肉体のなかには魄アニマが存在する。魄アニマは女性(陰)であり、意識の基体である。
それゆえに、この女性原理ゆえに、女性は自分の身体に過度の愛着を
もち続ける。男は自分の身体にあまり執着しない。
男は自分の身体にはまるで無頓着だと言ってもいい。
もしまわりに女性がいなければ、男はほこりにまみれて、薄汚くなるだろう。
部屋が汚くなっても、まるで気付かないかのようだ。
部屋に入れば、男がひとりで暮らしているか、それとも家に女性がいるか
一目でわかる。すぐにわかる。部屋を見るだけで、男が独身生活を送って
いるかどうかすぐにわかる。本には何ヶ月ものほこりが積もっている。
男は身体に、物質的な部分には気を配らない。だが、女性は細やかに気を配る。
すみずみまで気を配る。女性が鏡の前にじっとたたずんでいるのはそのためだ。
ある日のこと、ムラ・ナスルディンは蝿を捕まえていた。数匹捕まえた
ところで、彼は妻に言った。「二匹はメスで、二匹はオスだ」妻は言った。
「驚いたわ。どうしてオスとメスの区別がついたの?」彼は言った。
「二匹は鏡に止まっていたし、二匹は新聞を読んでいたからさ」
すぐにわかる。女性は身体に、実体があるものに、家に強くつなぎとめられて
いる。男がひとりのままで放っておかれたら、せいぜいテントくらいで、
家などなかったことだろう。そもそも文明というものをつくりあげたのは女性だ。
家がなければ文明などなかったはずだからだ。いいかね、家がなければ都市
などなかっただろう。文明は都市のなかで発展するものだ。
「文明 civilization」という言葉自体が「市民、都市に住む人々 citizens」
から来ている。女性が文明のすべてをつくりだした。
男は放浪者、さすらい人、旅人、狩人のままだっただろう。
あの場所からこの場所へと駈けずりまわっていたことだろう。
それは様々な形で見ることができる。それは様々な形で顕れている。
西洋はより男性指向だ。西洋人の観光客がたくさん世界中を駆け
まわっている。東洋人の観光客はそれほど多くない。東洋はとても女性的だ。
女性は財産---家、車、土地、装飾品、衣服に執着し続ける。
これは内なる原理によるものだ。彼女は意識の基体だ。
そして、女性なくして精神は高く舞い上がれないことを覚えておきなさい。
すばらしい詩は男性を通して生まれるが、それを引き出すのはつねに女性だ。
優れた女流詩人にはお目にかからない。私は女性が書いた詩にざっと目を
通してみた。彼女たちは懸命に努力しているが、大した作品は生まれていない。
マドゥーリはすばらしい詩を書くが、それは「詩」と呼べるしろものではない。
女性は詩を書くことができない。女性は詩に霊感を与えることができる
というのは本当だ。どこか背景に女性がいなければ、
この世にすばらしい詩は生まれてこないだろう。
女性は霊感を吹き込む---彼女の存在感、彼女の愛、彼女の慈しみが
詩の源になる。女性は詩を書く必要がない。男が書いてくれるからだ。
だが、女性こそが霊感の源、原因、ごく微妙な原因となる。
偉大な画家になる女性はいない。女性が絵を描かないというわけではない---
とりわけ現代の女性たちは男が前からやってきたことは何でもやっている・・・
激しい競争がある。彼女たちは男がしてきたことはすべてしなければならない
と考えている。男性が重視されるようになったのは、そういったものごと
のせいだと考えている。その論理には誤りがある。彼女たちは男の物真似で
終わるだけだ。みずからの魂を失い、いつも二番煎じに甘んじることになる。
男の土俵で、男と競い合っても、二番煎じに甘んじるだけだ。
けっして一番になることはない。
そんなやり方で競争しても仕方がない。男のようになっても、
あなたはけっして男と同じ力を発揮することはないだろう。
できるはずがない。男の背後には男性原理が潜んでいる。
あなたは醜くなり、荒々しくなり、やさしさをすっかり失ってしまう。
女性解放運動が女性たちに起こった最も悲惨な出来事だったのはそのためだ。
それはそのイデオロギーが間違っているからではなく、
その方法が間違っているからだ。
女は男と平等だが、男と何から何まで同じではないし、同じであってはならない
。女性みずからの本性に従うべきだし、みずからの魂に耳を傾けるべきだ。
女性は異なる波動をかもしだしている。
女性にはこの世で果たすべき別の働きがあり、別の天命がある。
男に追従し、男の真似をしていたら、女性は自分を見失ってしまう。
自分を見失えば見失うほど、みずからの実存から根こそぎにされてゆく。
まがいもの、造りもの、人工的なものになればなるほど、彼女はますます
死に物狂いになってゆく。
女性解放運動に携わる女性たちが激怒し、絶えず憤慨しているのは
そのためだ。憤慨するのは彼女たちが欲求不満を感じているからだ。
彼女たちはなりたいものになっていないし、またなることはできない
---それは本性に反しているし、またなる必要もない。
肉体のなかには魄アニマが存在する。魄アニマは女性(陰)であり、意識の基体である。
「意識の基体」という言葉に瞑想するがいい---意識の土台そのもの。
それは意識そのものではなく、意識の住処スミカだ。
けれども、これとともに魂アニムスが存在し、そのなかに精神が潜んでいる。
アニムスは男性原理、<陽>だ。
魂アニムスは両目のなかにあり、ものを見、夢を見る。
女性原理は肉体のなかに住んでいる。それはきわめて物質的だ。
女性がつねに物質主義的なのはそのためだ。彼女たちが
尊重するのはきわめて実用的なものであり、彼女たちはきわめて現実的だ。
いつかムラ・ナスルディンが私に言っていた。彼はけっして妻と口論しない
そうだ。私は彼に尋ねた。「どうしてそんなことができるのかね?それは
不可能に近い。まず無理だと言っていい」彼は言った。
「私たちはもうずっとうまく折り合いをつけていますよ。最初の夜にひとつの
原則を決めたんですよ。私たちはそれを守っています。その原則というのは、
細かなことは妻が決め、大きなことは私が決めるというものです」
私は尋ねた。「細かなこと、大きなことというのはどういう意味かね?」
彼は言った。「たとえば、どんな車を買うか、どんな家に住むか、
どんな学校に子供たちを入れるか、どんな食事をするか、どんな服を買うか
---こういった細かなことは妻が決めるんです」
私は言った。「で、君は何を決めるんだい?」彼は言った。
「神は存在するかどうか、天国や地獄はあるかどうか---こういった大きな問題
は私が決めるんです。とにかくこの原則は申し分のない効き目を表していますよ
。彼女は大きなものごとにけっして口をはさまないし、私も細かなことには
けっして口をはさまない。私は私の世界の主人だし、彼女は彼女の世界の主人
です。互いの世界を侵すことはありません」
女性原理は物質に根をおろしている。肉体に根をおろしている。
だが、男は夢を見る。男は夢想家だ。男性原理というのは夢見の原理だ。
男がどうしてあれほど月へ行くことに興味をもつのか女性にはわからない。
それはあまりに馬鹿げて見える。何のために?そこで何が手に入る
というのだろう?買物でもするつもりだろうか?月へ行くぐらいなら
MGロード(和尚コミューンの近くの繁華街)に行ったほうがましだ。
あんなところで何をするつもりだろう。何のために?生命をかけてまで?
あまりにも馬鹿げて見える。女たちはみな心の奥底では、
男なんて子供みたいなものだということを知っている。
「遊ばせておけばいいのよ。行かせて、好きなことをやらせておけば」
男たちは愚かなことにかまけているのだということを女性はよく承知している。
フットボール、クリケットの試合---すべてナンセンスだ。何の意味もない。
あなたがボールを向こうに投げると、相手はボールをあなたの方に投げてくる。
そしてそれが延々と続けられる。何の意味があるというのだろう?
女性は現実的で、地に足をつけている。女性は現世的だ。
男性原理は大空のようであり、女性原理は大地のようだ。
男は未知なるものを夢見、計画を練り、望み、それにあこがれる。男は冒険家
であり、自分をとらえている夢にいつでも生命を賭ける用意ができている。
男は目のなかに住み、女は耳のなかに住んでいる。女たちがうわさ話を
したがるのはそのためだ。うわさ話が楽しくてしかたがない・・・二人
の女がうわさ話をしているのを見れば・・・彼女たちはたいへんな
歓びに包まれているかのようだ。こんな話を聞いたことがある。
あるとき中国で競技大会があった。中国一の嘘つきを決める大会だ。
たくさんの人々がやってきて、たくさんの嘘をついたが、優勝した
のは「公園のベンチに二人の女が三十分も黙って座っているのを見た」
と言った男だった。彼が優勝した。まさにありえないことだったからだ!
女性ゆえに、堕落が、原罪が生まれた。蛇はまずアダムを試したにちがいない。
だがアダムは耳ではなく目だ。彼は狡猾な蛇を見抜き、こう言ったにちがいない
。「あっちへ行け。俺の邪魔をしないでくれ。俺には俺の夢があるんだ」
だが蛇はイヴをそそのかした。蛇は彼女に耳打ちをしたにちがいない。
「何をしてるんだい?ここに知識の樹があるんだ。神は君たちをだましている
んだよ。この樹の果実を食べたら、君たちは神と同じように不死になるんだ。
この樹の果実を食べたら、神が知るすべてがわかるようになるんだ。
君は全知全能であまねく存在するようになるんだよ」
女性は当然好奇心に駆られた---「すごく耳よりの話じゃないの」と。
蛇は彼女を説き伏せた。蛇は最初のセールスマンだった。セールスマン
は男のところへは行かない。セールスマンは、男が会社に出かけてゆく
のを見計らってドアをノックする。女性を説得しなければならない。
聞く耳をもっているのは女性だけだ。
耳はあなたの存在の受動的な部分、受容的な部分だ。
耳からは何かが入ってくることができる。
目は攻撃的な部分だ。いいかね、耳を使って攻撃的になる
ことはできない。だが、目を使えば攻撃的になることができる。
刺すような目で相手を睨みつけることができる。
目で相手を傷つけることもできれば、目で相手を慈しむこともできる。
目で相手のこころをつかむこともできれば、よせつけないようにする
こともできる。誰かが取りつく島もないほどうつろなまなざし
であなたの目を見つめることもある。
あるいは、誰かが深い欲望、情欲、熱望、関心をもって、
あなたの身体をなでまわすかのように見はじめることもある。
目は攻撃的な部分だ。目は投影し、相手に影響を与えることができる。
インドでは、淫らな目で女性を見つめる者は「ルチチャ」と呼ばれる。
驚いたことに、「ルチチャ」という言葉は「ロチャン」から来ている。
「ロチャン」はまさに目を意味する。彼は目で女性を犯している。
彼の目はほとんど性器のようになることができる。目は危険だ。
耳はとても純真無垢だ。耳はひたすら取り入れる。耳は女性的だ。(p106)
魂アニムスは両目のなかにあり、ものを見、夢を見る。
だが、いつであれ気分が沈み込み、動作が鈍いときには、
人は肉体に縛り付けられ、アニマに拘束されている。
あなたが男であっても女であっても関係ない。
女性が目を使い、聴こうとするのではなく
見ようとしているなら、彼女はアニムスになる。
男性が聴こうとしているなら、彼はアニマになる。
弟子はアニマになる、ならざるをえない。
というのも、弟子はその全身が耳にならなくてはいけないからだ。
師マスターとは目以外の何ものでもなく、
弟子とは耳以外の何ものでもない。
師は見なければならない。
あなたの最も深いところを見なければならない。
師はあなたのまさに中核を貫かなければならない。
そして弟子は耳をそばだて、意識を配り、
いつでも応じられる姿勢でいて、みずからの内奥
の中核に師が触れるのを許さなければならない。
弟子は女性的になる。女性がこの世で一番の弟子になるのは
そのためだ。男は弟子になることが少々むずかしい。
弟子になるとしても、ためらいながらなる。彼は抵抗し、闘い、
疑う。男はなんとか逃れようとして様々な手練手管を弄する。
逃れられないとなると、仕方なく力を緩める---が、仕方なくだ。
女性は喜びに満ちてジャンプする。
最もすぐれた弟子というのはいつも女性だった。
その比率はいつも同じで変わらない。弟子が五人いれば、
ひとりは男で、四人は女だ。比率はいつもそうだった。
マハーヴィーラの場合もそうだったし、仏陀の場合もそうだった
し、私の場合もそうだ。その比率はいつも同じだ。
男は、女性というのは目をうるませて、すぐに催眠術にかかり、暗示
に落ちやすいものだと思っている。それは男たちの側からの非難だ。
男は、自分は催眠術になどかかるはずがないと思っている。
女というのは喜んで催眠術にかかるものだと思っている。
それはある意味では正しいが、ある意味では間違っている。
女は蛇に出会うと、蛇にそそのかされてしまう。
女は仏陀のような人に出会うと、改心させられてしまう。
確かに女性は暗示に弱い。すべては彼女が誰と出会うかにかかっている。
男は蛇の言葉に耳を傾けても、それで心変わりをしたりはしない。
蛇の手に落ちることはない。だが、一方で男は仏陀を聴きに来ても、
やはり心を入れ替えることはない。そうして男は救いを逃してしまう。
それゆえに、光を巡らせることで魂アニムスの集中が起こり、そのようにして精神が保持され、魄アニマは克服される。
光が目のなかで循環しなければならない。
目はあなたの存在のなかで最も光に満ちた部分だ。
道家の人々は、人の目は太陽に似ていると言う。
目がなければ光を見ることはできない。
そして、似たものだけが似たものを見ることができる。
人の目は凝縮された光だ。
目を通して光を見ることができるのはそのためだ。
人の耳は凝縮された音だ。
耳を通して聞くことができるのはそのためだ。
男であれ女であれ、すべての人のなかにあるアニマ
を克服しなければならない。なぜか?それはアニマ
が形であり、肉体であり、物質だからだ。
精神が主人にならなければいけない。
精神が肉体の上に君臨しなければいけない。
精神が肉体を従わさせなければいけないのであって、その逆ではだめだ。
だから、男であろうと女であろうと関係ない。
内なるアニマをアニムスに従属させなければならない。
なぜなら、アニムスのみが探求し、探索することができるからだ。
そして女性が後からついてくるなら、アニムスは実在の奥底まで
分け入ってゆくことができる。
詩人が、背後に女性がついていて、自分を支えてくれている
ことを知っているなら、彼の詩は高く高く舞い上がることができる。
女性がいつもそばにいてくれることがわかると、男はじつに逞しくなる。
彼はどんな冒険にもおもむくことができる。
女性がそばにいてくれないと感じるやいなや、彼は気力を失ってしまう。
今や彼には夢しかない。が、その夢は無力だ。
その夢にはもはやエネルギーがなく、実現されえない。
ものを実現させる力は女性にある。夢見る力は男にある。
神、あるいは真理の探究においては、
男が先頭に立ち、女が従わなければならない。
あなたの内側では、アニムスが師になり、
アニマが弟子にならなければいけない。
そして、もう一度くり返すが、あなたが男であるか女であるかは関係ない。
この世を超越するために古人が用いた技法は、純粋に創造的なものに還るために暗黒の滓カスをすべて溶かし尽くす。
女性はおとなしく、男性は活発だ。女性がしっかりと落ち着いている
ように見え、男性がひじょうに落ち着きなく見えるのはそのためだ。
子供であっても、ほんの小さな子供、赤ん坊であっても、その違いがある。
男の赤ちゃんはひじょうに落ち着きがない。これをつかもうあれをつかもう、
手を伸ばして何かに触れようとしている、手のかかるやんちゃ坊主だ。
女の赤ん坊はけっして手がかからない。彼女は黙って座り、人形を抱いている
。彼女もまた人形だ。このうえもなく落ち着いている・・・
落ち着きという原理は女性的であり、落ち着きのなさという原理は男性的だ。
女性がまろやかで美しく、男性が絶えず熱を帯びているのはそのためだ。
だが、成長するためには落ち着きのなさという原理が必要になる。
なぜなら、成長とは変化を意味するからだ。
女性は基本的に古い型を守ろうとし、男性は基本的に古い型を破ろうとする
。女性はつねに現状を支持するが、男性はたとえ愚かな革命であっても
はじめようと待ち構えている。変化してゆくものなら、何でも男は支持
する。状況が良くなろうが、悪くなろうが、それは大したことではない。
変 わ る こ と が 善 なのだ。女性はいつも古いもの、確立されたもの
を指示する。それが良いか悪いかは問題ではない。
「いつもそうだったのだから、そうあるべきよ」というわけだ。
成長するためには、あなたの内にあるよどみの原理が溶け去る必要がある。
あなたの内なる女性は凍りついている。
あなたが川になれるよう、その女性を溶かさなければならない。
だが、川はまた両岸の力も借りなければならない---
岸辺は動かないことを覚えておきなさい。
もし両岸がなかったら、川はけっして大海にたどり着けない。
そして水が凍っていたら、川はけっして大海にたどり着けない。
だから川は溶けて水にならなければならないが、
それでも動かない岸辺の力を借りなければならない。
完全な人間というのは、みずからの活動的な側面を川として
使い、みずからの静的な側面を岸辺として使う者をいう。
それが完全なバランスだ。そうなったら、あなたは成長するために
アニムスを使い、その成長をつかのまの現象ではなく、
確たるものにするためにアニマを使ったことになる。
これは魄アニマの力を削ぎ落とし、魂アニムスの力を完全にすることに他ならない。
だがふつうは、男であれ女であれ、誰もが動きを止めている。
男たちですらきわめて保守的だ。キリスト教徒、ヒンドゥー教徒
、イスラム教徒、ジャイナ教徒---男たちですらきわめて保守的になる。
彼らはみずからのアニマの犠牲になっている。彼らのアニムス
は征服されてしまっている。それは解き放たれねばならない。
私のここでの努力はそれに尽きる---あなたのアニムスをアニマ
の支配から解き放つこと。ひとたびアニムスがアニマの支配から
解き放たれたなら、私たちはアニマをも使うことができる。だが、
まずは解き放たれることが先だ。私がしきりに動的な瞑想の技法
を勧めるのはそのためだ。ごくまれに坐禅やヴィパッサナをする
よう勧めることがあるが、それはその人のアニムスが流れている
のがわかるときだけだ。今や彼らはアニマを使うことができる。
ヴィパッサナや坐禅はアニマの技法、女性的な技法だ。
スーフィ・ダンス、ダイナミック瞑想、ナタラジはアニムスの技法だ。
まず最初は川にならなければいけない。
そうしてはじめて岸辺を支えとして使うことができる。
光を巡らせることは、暗黒を収縮させ、魄アニマを制する力を獲得する秘術である。この技法に従うなら、種子の水はおのずから豊かになり、精神の火は燃えあがり、思考の土は固まり結晶化するだろう。このようにして聖なる果実は熟す。
聖なる果実は男性でもなく女性でもない。
聖なる果実は<全体なるもの>としてのみ熟す。
アニマとアニムスが鳥の二つの翼のように互いを支え合うとき、エロス
が解き放たれ、ロゴスが解き放たれ、直観が解き放たれる。そうなったら、
あなたは大空へと飛翔するようになり、同時に大地に根を下ろしてもいる。
樹は空高くそびえるために、大地に深く根を張らなければならない。
大地はアニマで、空はアニムスだ。空に向かって高く伸びれば伸びる
ほど、それと同じだけ深く大地に根を張ってゆかなければならない。
魂アニムスは天上のこころハート---第三の目のなか---に住む。それは光の性質を有している。それは軽く、清らかなものの力である。それは我々が大いなる虚空---大いなる空ソラ---から得てきたものであり、原初の始まりと同じ形をしている。魄アニマは暗黒の本性を有している。
女性が神秘的なのはそのためだ。その神秘のベールを剥はぐ
ことができた男性はいない。その両方の性を超えたとき、ひとり
の覚者ブッダになったとき、はじめて人は男女両性の神秘を知る
ことができる。そうならずして女性の深みを推し量りえた男はいない。
女性は神秘的で、暗く、闇夜のままであり続けている。
はっきりとは見えない、せいぜい手探りすることしかできない。
女性を明晰な論理でとらえることはけっしてできない。
彼女はけっして論理には従わない。彼女の道は曲がりくねっている。
彼女はプロセスをまったく経ずに、ただちに結論へと飛び移る。
男性は一歩一歩プロセスを踏みしめてゆく。彼は着実に手順を踏んでゆく。
女性は直観的だという意味では詩人だ。彼女は詩など
つくらないかもしれない---彼女は一編の詩もつくらない詩人だ。
彼女にとっては生そのものが詩だ。そしてその生は詩と同じように暗い。
神秘的で、漠然としていて、曖昧だ。何ひとつ明晰ではない。
何ひとつ明晰ではありえない。女性の神秘を剥ぎとることはできない。
彼女はいつも疑問符のままだ。
男は光のように明晰だ。男が浅薄に見え、女が深遠に見える
のはそのためだ。男がまったく表面的に見えるのはそのためだ。
男のことなら何でも知ることができる。
どんな男かわかれば、彼の未来を予測することができる。
だが、女性の未来はけっして予測できない。彼女はどこまでいっても
予測しえず、それゆえに暗闇のように見える。これらはみな隠喩だ。
それは重く、濁ったものの力である。
そして女、女性的な原理は、あなたを
大地につなぎとめておく。それは重力だ。
それは物質的な肉体の心臓ハートに縛りつけられている。魂アニムスは生を愛し、魄アニマは死を探し求める。
女性は生よりも死に似ている。気分を害さないように。これはただの
形容にすぎない。もし「アニマ」や「アニムス」、「男」や「女」
という言葉に引っかかるなら、それを「X」と「Y」に置き換えればいい。
だが、『黄金の華の秘密』がやっているのはまさにそれだ。
これらは譬たとえにすぎない。それらを人間の姿に
なぞらえることで理解を助けているにちがいない。
男は生に関心を寄せ、女は安定に関心を寄せる。
男は愛に関心を寄せ、女は身の安全に関心を寄せる。
男は冒険に関心を寄せ、女は快適さ、便利さに関心を寄せる。
女性は死だ。「死」という言葉には何の非難もこめられていない。
死の特質は安定していることにあるというだけの話だ。
人は死んでようやく安定する。消えてようやく人は安定する。
そうなったら、あなたの身には二度と何も起こらなくなる。
だが男は探し求め、探求し、危険を冒したい。だからこそ
夫は別の女性を探し続け、妻は夫を見張り続けることになる。
どうして夫がいまだに別の女性に興味をもち続けるのか
妻にはわからない---「私がここにいるのよ!」。だが、
男性原理はいつも新しいもの、刺激を与えてくれるもの、
胸をときめかす新しい快感に興味をそそられてゆく。
ときには美人の妻をもちながら、さえない女性と遊びはじめる
男もいる。誰が見ても腑に落ちない---どうなっているのだろう?
「あんなにすてきな女性がいるのに、君は何をしているんだい?」
だが、あなたは男性原理というものを理解していない。
男性原理は基本的に一夫多妻制であり、女性原理は一夫一婦制だ。
彼女は愛よりも結婚に興味がある。
彼女はただ結婚するために恋に興味をもつ。
そして男はただ恋に興味をもつがゆえに結婚する。
「男がみんな結婚せず、女がみんな結婚していたら、世界は
このうえもなく喜びに満ちていただろう」という古い諺ことわざがある
。だが、それをどうやって実現するのだろう?そんなことは不可能だ。
魂アニムスは生を愛し、魄アニマは死を探し求める。すべての感覚的欲望と怒りの衝動は魄アニマの作用である。だが、学人が暗い魄アニマを完全に蒸留してしまえば、それは純粋な光に変容する。
煉丹術は、男女それぞれの内にあるこの二つの原理を理解し、
内側の暗い側面であるアニマを明るいものへと変容させることにある。
暗い部分が動くのを助け、それが明るい部分に手を貸し、
それと闘わないようにさせることにある。
アニマがアニムスに手を貸すことができるなら、それが真の結婚
、内なる結婚だ。そうなったら、あなたはまとまりはじめる。
あなたの光はもはや浅薄ではなく、暗闇の深さをそなえるようになる。
あなたの暗闇はもはや暗くなく、軽やかな光をおびるようになる。
アニマとアニムスは互いに溶け合う。
そしてそれらが完全に溶けると、世界は消え失せ、
あなたは再びひとつになっている。
ひとつになることが神を知ることだ。
二つのままでいることは世間にとどまることだ。そして、
その秘法、その実験はあなたの内側で起こらなければならない。
それは外の世界とはいっさい関係がない。
あなたの内側では、この二つの原理が絶えず争っている。
それらを「生/死」「明/暗」「男/女」「X/Y」―何と呼んでも
いいが、この二つの原理がそこにあって、絶えず争っている。
それがあなたの苦悶であり、あなたの惨めさであり、あなたの地獄だ。
この二つの原理を和解させなさい。あなたのエネルギーをそれらのなか
で巡らせて、互いに反発させるのではなく、互いに近付けさせなさい。
男と女のあいだに内なるオルガスムを、内なる交合を起こさせなさい。
それこそがタントラで「ユガナッダ」―内なる男と女の出会い
―と呼ばれているものだ。それが真のタントラだ。
外側での男と女の出会いは序曲にすぎない。
スッダがタントラ・グループをリードしている。
それは序曲にすぎない。真のタントラはまだはじまっていない。
彼女はまさにあなたがたの下地を整えている。私が今やあなたがた
は内側に入って、そこで内なる男女と出会う用意が整っていると
見なしたら、まもなく真のタントラ・グループが始まる。
外界への関心がもはやあなたを外につなぎとめておくほど強くなく、
もはやあなたをそれほど縛りつけていず、鎖が切れていると
見なしたら、そのときには真のタントラ・グループがはじまる。
私は新しいコミューンが誕生するのを待っている。なぜなら、
新しいタントラ・グループにはまったく異なる風土、まったく
異なる環境が必要になるからだ。これは人間が体験しうる
最大の実験だ。そしてこの実験は、あなたの内に宇宙的な
エクスタシー、完全なオルガズムを解き放つだろう。
』(p116)
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