黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版
第八話 昏沈(こんちん)と散乱の克服
より抜粋
呂祖師は言った。
昏沈こんちんと散乱という二つの誤りは、静かな行を中断せずに毎日続けることによって克服しなければならない。そうすれば確実に成果が現れるであろう。静座して瞑想しなければ、しばしば散乱していてもそれに気つ゛かない。散乱に意識を向けることにより、おのずと散乱を取り除くことができる。昏沈に意識を向けるのと、昏沈に無意識であるのとでは実に大きな違いがある。昏沈に無意識であることが真の昏沈である。意識されている昏沈は完全な昏沈ではない。そこにはなおいくばくかの明晰さがあるからだ。散乱は想念マインドをさまようままに放置することから起こり、昏沈は想念がまだ清らかでないことから起こる。散乱は昏沈よりもずっと容易に直すことができる。病気に例えてみれば、痛みやかゆみを感じている場合にはそれを治療する薬があるが、昏沈は感覚を失ってしまう病気に似ている。散乱は鎮めることができるし、混乱は整えることができる。だが昏沈や無気力な状態は重くて暗い。散乱や混乱にはまだ一定の場所があるが、昏沈や無気力な状態ではただ魄アニマのみが活動している。散乱の場合にはまだ魂アニムスが存在しているが、昏沈の場合にはまったき闇が支配している。瞑想中に眠気をもよおすならば、昏沈の影響を受けている。昏沈の克服に役立つのは呼吸だけである。鼻から出入りする息は真の呼吸ではないが、真の呼吸の出入りはこれと結びついて起こる。それゆえに、坐るときにはつねにこころハートを静かに保ち、気エネルギーを集中させなければならない。こころを静めるにはどうすればよいか?呼吸によってである。息の出入りをこころが意識していればいいのであり、耳に聞こえてはならない。耳に聞こえなければ、息は軽く、軽ければ、純粋である。耳に聞こえるようなら、気息は荒く、荒ければ、濁っている。濁っていれば、昏沈と無気力な状態が生じ、眠気に誘われる。これは自明の理である。
呼吸するとき、こころハートをいかに正しく使うかを理解しなければならない。それはこころをを用いない用い方である。聴くことに微かすかに光を当てるだけでいい。この句には秘められた意味がある。光を当てるとはどういうことか?それは目の光がもつ自然に照らしだす働きのことだ。目は内側を見るだけで、外界を見るわけではない。外を見ることなく明るさを感じていることが内側を見るということであり、内側を実際に見るということではない。聴くとはどういうことか?それは耳の光がもつ自然に聴く働きのことだ。耳は内側を聴くだけで、外界の音を聴くわけではない。外界の音を聴くことなく明るさを感じていることが内側を聴くということであり、内側の音を実際に聴くということではない。したがってこの場合、聴くというのは無音の状態を聴くだけであり、見るというのはそこに何の形もないのを見るだけである。目が外界を見ず、耳が外界の音を聞かなければ、それらはおのずと閉じて内界に沈んでゆきがちである。内側を見、内側に耳を傾けるときにのみ、感覚器官は外に向かうこともなく、内に沈み込むこともない。このようにして昏沈と無気力な状態を取り除くことができる。これが、太陽と月がその精と光を結合させることである。
昏沈に襲われて眠気をもよおしたなら、立ちあがって歩きまわるがいい。頭がすっきりしてきたら、坐りなおす。やがて修行の成果が現れてきて、昏沈や眠りに陥ることはなくなるだろう。
ある暑い昼下がりのことだ。一匹のフクロウが樹にとまっていると、
白鳥が飛んできて一緒にとまった。「ふうっ、暑いねえ、フクロウさん」
と白鳥は言った。「太陽が照っているので、暑くて汗びっしょりだ」
「何だって?」とフクロウが言った。
「君は何を言っているんだい?太陽だって?暑いだって?
闇が深まれば暑くなるのさ。君の言う太陽とやらはいったい何のことだ?
君は頭が変にでもなってしまったのかい?君は私に何を言いたいんだ?
太陽なんてものはありゃしない。あったためしがない。その熱を発する
光とやらはいったい何のことだ?そんなものなど聞いたことがない。
闇が深まれば暑くなるに決まってるじゃないか。私を馬鹿にしよう
としているのかい?私ひとりが言ってるんじゃないよ。
私たちのどの経典にもそう書いてあるんだ」
白鳥は唖然として、「この盲目の老いたフクロウに
どうやって説明すればいいのだろう?」と考え込んだ。
「いいかい、兄弟。俺はこの目で見ることができるんだ。
今は真昼で、太陽が照りつけているから、とても暑いんだ。
なのに君は暗いと言う。どうすれば説明できるんだろう?」
フクロウは言った。「じゃあ、あの大木のとこへ行こうじゃないか。
あそこにはフクロウがたくさんいるし、偉い学者さんもいる。彼ら
に聞こうじゃないか―彼らは経典に精通しているし、ものをよく
知っている連中もいる。さあ、行こう!君が私を馬鹿にしている
のかどうか今にわかるさ」
彼らは飛んでいった。そこは盲目のフクロウでにぎわっていた。
「この白鳥がやって来て」とフクロウは言った。「今は真昼で、
太陽が照りつけていて、至るところに光があるから暑いんだと
言うんだ。みんなはどう思う?」
「何を言っているんだ」とフクロウたちは言った。「俺たちの村では
、親父もその親父もそのまた親父も、誰ひとり太陽なんて見た者
などいないし、記録にも残っていない。だから、太陽なんてものは
ないんだ。そんなものあるはずがない。あいつはおまえをかついで
いるだけだ。あいつに耳を貸してはいけない。あいつは狂っているか
、大ぼら吹きか、そのどちらかだ。あいつは俺たちの宗教をつぶそう
としているんだ。俺たちはいつも暗闇のなかに住み、いつも暗闇を
崇拝してきた。闇は俺たちの生き方の土台そのものだ。あいつは
俺たちの生き方を壊してしまう。あいつはそういうやつなんだ。
お望みなら、多数決で決めてもいい」
あるフクロウが顔をあげて言った。「どちらが真実なのだろう?
存在するのは闇だろうか?それとも光だろうか?」
「闇だ、闇だけが存在する」とフクロウたちはいっせいに叫んだ。
「では、どうしてこんなに暑いのだろう?」「闇が深いからだ」と
フクロウたちは叫んだ。「熱は闇の作用なのだ」
「やつをここに置いておくわけにはゆかない」とフクロウたちは
再び叫んだ。「やつは我々の宗教、伝統、我々が大切にしてきた
過去そのものをだいなしにしてしまう。ただちにやつを追放しろ!
あいつは目がつぶれているか、完全にいかれている」
この小さな寓話には、たいへん価値のあるいくつかの真理が含まれている。
まず、真理は伝達することができない―真理を伝える方法はない
。私の真理は私の真理だ。それを語ることはできるが、語ること
で真理が伝わるわけではない。それに耳を傾けることは理解する
ことではない。あなたは自分自身の目を開かなければならない。
真の師マスターの役割は、「神は存在する」と語ることでは
ない。それはあなたが目を開き、魂の窓を開くのを助け、目
が見えるようになり、「神」という言葉が意味するものを
みずからの血と骨と髄に体現できるようにさせることにある。
あなたの代わりにこの目で見ることはできない。
あなたの代わりにこの足で歩くことはできない。
あなたの代わりにこの翼で飛ぶことはできない。
あなたはみずからの生を生き、
みずからの死を死ななければならない。
これはつねに覚えておくべき
最も基本的なことがらのひとつだ。
さもなければ、人は借り物の知識
という重荷を背負うはめになる。
それは知識とはまったく無縁な贋にせのコイン
にすぎないが、知識に似ているので、あなたがたは
だまされてしまう。人類に起こっていることはそれだ。
人類は借り物の知識の呪いのもとで生きている。
人々は『聖書』『コーラン』『ギータ』を鸚鵡おうむのように唱えている
―盲目の老いぼれフクロウが『コーラン』『ギータ』『聖書』を唱えている。
だが、それは彼ら自身が体験したものではない。
彼ら自身が体験しているのはまったく逆のことだ。
彼ら自身の体験は『ギータ』『聖書』『ヴェーダ』『法華経ダンマパダ』
の真理をひたすら否定するものでしかない。
彼らの本音はこうだ―「仏陀は狂っている」、「イエスは人をだましている」
、「ソクラテスはひじょうに賢いかもしれないが、用心しなければならない。
彼に耳を傾けてはならない。彼は我々の宗教をつぶしてしまう」
人間は盲目のまま宗教をつくりあげてきた。
しかもひとつではなく無数の宗教を。
盲目の目には<一なるもの>が見えないからだ。
盲目の目は多くのものを信じることしかできない。
それゆえにこれほど多くの宗教がある―この小さな地球に三百前後の宗教がある―
そしてそれぞれの宗教がこう主張している。「私の真理が唯一の真理だ」、「私の
神が唯一の神だ」、「他の神はすべて偽物だ」、「他の真理はすべてでっちあげだ」
、「他の道はすべて荒野に行き着くだけだ―私の道だけが天国に通じている」
この三百の宗教は絶えず闘い合っている。どの宗教も現実に気つ゛いて
いない。どの宗教も現実を真正面からのぞいていない。彼らは信じている。
これらの宗教は宗教ではなく形骸化した伝統だ。彼らは耳で聞き―いつの時代
にも耳で聞き―そして信じてきた。信じることは安易であり、探索することには
危険がともなうからだ。鸚鵡おうむのようにくり返すことは何の苦もない。
冒険に満ちた発見の旅にでかけるためには生命を賭けなければ
ならない。それは危険だ。探索することは危険だ。信じることは、
手軽で、慰めになる。あなたはどこにも赴かなくてすむ。それは
既製品としてあなたに与えられる。だが、それには手垢がついている。
そして手垢にまみれた神とともに生きる人間は悲惨だ。
神は新しいものでしかありえないからだ。
体験はどこまでもあなた自身のものでなければならない。
他人の体験は真実の生の基盤となりえない。
仏陀は見たかもしれないが、仏教徒になることは助け
にならない。仏陀は仏教徒ではなかった―それは確かだ。
イエスは見て、直面し、了解したかもしれないが、キリスト
教徒になることはまったく愚かしい。キリストにならないかぎり
、けっして神を知ることはない。
真に宗教的な人は形骸化した伝統を避ける。
真に宗教的な人は手垢にまみれた神を避ける。
信仰を避け、自分を開いたままにして、
いつ真理が立ち現れても応じる姿勢でいる。
もちろん彼は働きかける―働きかけるのは宗教的な人だけだ
―信者たちはけっして自分に働きかけたりしない。
信者たちは自分に働きかける必要がない。
真理を探索し、探求し、探し求める者は自分自身に懸命に働きかける。
なぜなら、落とさなければならないものがたくさんあるからだ。
落とさなければならない不純なものがたくさんあるし、
溶かさねばならない障害物や障壁がたくさんあるからだ。
目を開けて、耳をふさいでいるものをはずし、
ハートの感受性を取りもどさなければならない。
人は存在とリズムを合わせなければならない。
<存在>と完全にリズムが合っていれば、
目が開いて、そこではじめて見る
ことができるようになる。
その見ることが変容になる。
その見ることがあなたを根こそぎ変える。
その見ることが新しい洞察力、新しい生命、
新しいもののとらえ方になる。
あなたは
もはや肉体に閉じ込められてはいない。
もはや想念に閉じ込められてはいない。
もはや何にも閉じ込められてはいない。
あなたは解き放たれていて、無限であり、永遠だ。
そしてあなたのなかを流れるこの永遠を感じる
ことが、神を知ることだ。
永遠の過去と永遠の未来へと延び広がっている
この無限を見ることが神を見ることだ。
あなたの実存のなかに宿る神性を感じる
ことが、神を知ることだ。
これは手垢にまみれることがない。
キリスト教徒やヒンドゥー教徒やジャイナ教徒やイスラム教徒を見る
と、そこには手垢にまみれた人々がいる。あなたは街で履きふるされた
靴など買いたくない。街で他人が使った古着など買いたくない。
だったらなぜ魂のために手垢のついた信仰を、使い古され、
ぼろぼろになっている、汚く醜い中古の靴や着物を買うのだろう。
そして自分の人生を美しく飾ったつもりになるなんて。
あなたは自分の魂を侮辱している。
あなたは自分自身の人間性をおとしめている。
キリスト教徒になったり、仏教徒になることは、
自分自身の人間性をおとしめることだ。
探求は独りで行なうべきものだ。
探求はどこまでも個的なものでなければならない。
多数決によって真理を決めるわけにはゆかない。
真理はどこまでも個的であり、かつ私的なものだからだ。
それは客観的な現象ではない。
あなたは私の肉体を見ることができる。それは客観的な現象だ。
私の肉体が存在するかどうかを他人は簡単に判別することができる。
だが、私が光明を得ているか
どうかを他人が判別することはできない
―ましてや多数決で決めることなどできない。
覚者ブッダが覚者ブッダなのは、彼が覚者
であることを人々が多数決で決めたからではない。
彼が覚者なのは、誰のものでもない彼みずからの宣言によるものだ。
彼の他には誰も証人はいない。それはまったく私的なことだ。
あまりに内面的なことなので、誰もそこまで立ち入ることができない。
真理は多数決では決められない。
だが、人々はそのようにして決めている。宗教が信者を増やすことに熱中する
のはそのためだ。信者の数が多ければ多いほど、真理を多く手にしていること
になるからだ。キリスト教徒のほうがジャイナ教徒よりも多くの真理を手に
していると主張できるのは、彼らの背後に大群衆がひかえているからだ。
投票をすれば、キリスト教徒が勝って、ジャイナ教徒が負けるだろう。
だが、それは投票で決まる問題ではない。千匹のフクロウが投票で
「世界には闇しかない。太陽は存在せず、光も存在したことがない」
と決めたとしても、嘘が嘘であることに変わりはない。
1羽の白鳥が「昼だ」と宣言すればそれで充分だ。
真理は民主的なやり方で決められるものではない。それは群集とは何の関係もない
。カトリックは産児制限に反対しているし、イスラム教徒も産児制限に反対している
が、そこには単純な理由、政治的な理由がある。その理由というのは、もし産児制限
が認められたら、信者の数が減りはじめるからだ。そして彼らの力はひとえにそこに
かかっている。彼らはいつか世界にこう証明できるよう、信者の数を増やしたいのだ
。「見ろ、こんなにたくさんの人々が我々についているのだから、
真理は我々のもとにあるにちがいない」
ジョージ・バーナード・ショウの有名な言葉を覚えているだろうか。
彼と論争していたある男が言った。「でも、こんなにたくさんの人が私の言葉を
信じてるんですよ。これだけ大勢の人たちが間違うはずがないじゃないですか」
するとバーナード・ショウはこう言い返した。
「こんなに大勢の人たちが信じているのだったら、間違っているに
ちがいない。これだけたくさんの人たちが正しいなんてことがありえるかね?」
これだけたくさんの人たちが正しいなんてことがありえるかね?
(p274)
群集は盲目だ。
群集は光明を得ていない。
真理はつねに少数派の手にある。
仏陀が現れるとき、彼は独りだ。
イエスがエルサレムを歩くとき、彼は独りだ。
ソクラテスが闘うとき、彼は独りだ。
確かに、少数の探求者たちがソクラテスのまわりに
集まってきて、ある学派が生まれるが、その学派は少数派だ。
そしてソクラテスと行動をともにするには勇気がいる。ガッツがいる。
なぜなら、彼はあなたを慰めるためにいるわけではないからだ。
彼は慰めになるものを一掃してしまう。あなたの
幻想をこなごなに打ち砕いてしまう。なぜなら、それが
あなたに真理をもたらす唯一の方法だからだ。
彼はあなたの目を無理やり開かせる。
彼はあなたを眠りにつかせるための子守唄など歌わない。
彼はあなたを目覚めさせるために屋根の上から大声で叫ぶ。
彼はあなたにショックを与え、あなたを叩く。
先日、プラディーパが私に会いにやって来た。彼女は泣いていた
―私が深い衝撃を与えたのだから無理もない。彼女は、ある日、
不意にハンマーで頭を殴られるなどとは夢にも思っていなかった。
そして自分が私の吐き気の原因であったことにもこころハートを
痛めていた。彼女は私にこころを寄せて、みんなと同じように私を
愛しているからだ。こういったすべての理由で彼女は泣いていた。
だが、私はあなたがたに、とりわけプラディーパに言わなければ
ならない。私が強く打つときには感謝するべきだ、と。なぜなら、
打つに値すると見ないかぎり、あなたを強く打つことはないからだ。
私は相手かまわず打ちはしない。私が打つのは、誰かが
本当に成長していると見なしたときだけだ。あなたが成長
すればするほど、より多くのことが求められるようになる。
私はみんなに肉食を落とせと言ったわけではない。だが、私は
プラディーパが深い衝撃を受けて肉食を落とすような言い方を
した。彼女の意識が成長しているので、今や肉食は障害になっている。
高く舞いあがっていない者たち―
彼らは好きなだけ重荷を担いでもいい。
だが、高く舞いあがりはじめた者たち―
彼らは不用な荷物をすべて落とさなければならない。
あなたのエネルギーの純度が高まれば高まるほど、
もっとそのことに注意深くならなければいけない。
なぜなら、貴重なものが失われてしまうかもしれないからだ。
その貴重なエネルギーをつくりだすのは実にたいへん
だが、なくしてしまうのはごく簡単だ。
失うものが何もない者たち―彼らは悩まなくてもいい。
彼らはあらゆる種類の愚行をやりつつ゛けてゆけばいい。
彼らの全存在はそうした愚行とぴったり波長が合っている。
このことはひとりひとりが覚えておかなければならない。
あなたがたが成長してゆくにつれて、私はもっともっと
多くのことをあなたがたに求めるようになるだろう。
美しい物語がある……
インドには偉大な画家、最も偉大な画家のひとりである
ナンダラル・ボースという天才がいた。彼はもうひとりの天才、
アヴィニンドラナート・タゴールの弟子だった。
アヴィニンドラナート・タゴールは、ラヴィンドラナート・タゴール
の叔父だった。ある日の早朝、アヴィニンドラナートとラヴィンドラナート
は一緒に坐り、お茶を飲みながら、あれこれのことを語り合っていた。
そこへナンダラルがクリシュナの絵をもって来た。
ラヴィンドラナートは追想録のなかでこう書いている。
「これほど美しいクリシュナの絵は見たことがなかった―今にも
絵のなかから飛び出してきそうなほどいきいきとしていた―今にも
フルートから笛の音がこぼれてきそうだった。私は茫然とした」
その絵を見たアヴィニンドラナートは、それを家の外に放り出し、
ナンダラルに言った。「こんなクリシュナの描き方があるものか。
ベンガルの下手な画家だってもっとうまく描く」
ラヴィンドラナートはひどいショックを受けた。ラヴィンドラナートは
叔父の絵も知っていた。叔父もまた生涯にわたりクリシュナを描いていた。
ラヴィンドラナートは、ナンダラルの絵と比べれば叔父の絵など足もと
にも及ばないと確信していた。ナンダラルの絵のほうがはるかに優れていた。
だが、彼は黙っていた。師と弟子の
あいだに口をはさむのはよくないことだった。
ナンダラルはアヴィニンドラナートの足に触れて
、出ていったまま、三年間、姿を現さなかった。
ラヴィンドラナートは何度もアヴィニンドラナートに尋ねた。
「かわいそうに、あの男に何をしたんです? -彼の絵のほうが優れていたのに!」
するとアヴィニンドラナートは泣きながら言った。
「おまえの言う通りだ。彼の絵のほうが優れている。私は
あんなにすばらしい作品を一度もつくりだすことができなかった」
ナンダラルがいなくなると、アヴィニンドラナートはその絵
を取りに行き、それをいつも部屋に飾っていた。
「だったら、なぜ」とラヴィンドラナートは尋ねた。
「あなたはあんな無慈悲な振る舞いをしたのですか?」
アヴィニンドラナートは言った。「私はまだあれ以上のものを
彼に期待しているからだ。彼が美しい絵を描くかどうかが問題
ではない。これは始まりにすぎない。彼はもっと大きな力を
秘めている。私はもっとたくさんのことを彼に求めるつもりだ」
そしてナンダラルは三年間ベンガルの村々をさまよった。師に
「村の画家だってもっとましなクリシュナの絵を描くぞ」と言われた
からだ。彼は村の画家、ふつうの貧しい画家について習った。三年間、
彼はベンガルをさまよい、あらゆる地方を訪ねた。そして、
ある日のこと、彼は姿を現し、師の足に触れて言った。
「あなたのおっしゃった通りでした。
私はたくさんのことを学びました。
よく私の絵を投げ捨ててくださいました」
アヴィニンドラナートは彼を抱きしめて言った。
「待っていたよ。歳を取るにつれ、おまえは帰ってくるだろうか
と不安になっていた。私は幸せだ。おまえの絵はみごとだったが、
おまえにはもっと大きな力が秘められている」
あなたのなかにもっと大きな力が秘められて
いるのを見たら、私はすかさずあなたを打ちすえる。
あなたがたが私とともにここにいる、私があなたがたと
ともにここにいる理由はただそこにある。
あなたのなかで眠っているものがすべて上昇し
はじめられるように、高く舞いあがれるように、
私はあなたがたを根底からかき立てなければならない。
あなたは自分の潜在力に気つ゛いていないが、私は知って
いる。だから、私が要求をしたらいつも、感謝するがいい。
あなたはこれを聞いたら驚くだろう―禅院では、
師が誰かの頭を棒で叩くたびに、叩かれた僧は
七度おじぎをして、師の足に触れ、感謝を表す。
そして弟子はその叩かれる瞬間を待っている。
師がわざわざ棒で頭を打ってくれるその
至福に満ちた瞬間が来ることを願う。
いいかね、ここは錬金術の学院アカデミーだ。
あなたがたはただもてなしを受けるためでは
なく、変容を遂げるためにここにいる。
そして変容は苦痛に満ちている。
なぜなら、古いものをたくさん落とさなければならないからだ。
その古いものは簡単に脱げる着物のようなものではない―
それは皮膚と化している。皮膚をはがされたら痛い。
だが、あなたを正気に連れもどすにはそうするより他にない。
あなたの緩衝器を破壊するにはそうするより他にない。
あなたを覆い、拘束している鎧よろいを打ち壊すには
そうするより他にない。
徐々に徐々に、あなた自身のエネルギーが起こりはじめ、
あなたの目が開き、あなたの耳が聞こえるようになる。
そうなったら神は直接の体験になる。
つねに覚えておきなさい。
神の直接体験のみが真の体験となる。
それは多数派が決めるものではない。
それは伝統が決めるものではない。
それを決めるのは神と遭遇したみずからのエネルギーだけだ。
白鳥は狂っているとフクロウが考えても少しもおかしくない。
人々はいつもそのように考えてきた―仏陀も狂い、マホメット
も狂い、ツァラツストラも狂っている、と。自分たちに見えない
ものを、どうして信じることができるだろう?
フクロウが白鳥を追い出し、追放しても少しもおかしくない。
彼らは怖くなり、動揺してしまった。この白鳥がこの樹の上で
暮らすことを認めたら、フクロウの伝統はつぶされてしまう。
白鳥はフクロウの生き方を壊してしまう。
フクロウたちはいつも暗闇のなかで生きてきたので、いつも暗闇を信じている。
暗闇が彼らの神だ。彼らの儀式はすべて暗闇から生まれたものだ。フクロウの
聖職者たちは暗闇を讃え、学のあるフクロウたちは暗闇に関する大論文を書く。
彼らの哲学には太陽や光や昼の出る幕がない。そこにこの狂った白鳥が現れて
、異様な考えをフクロウの世界に密かにもち込み、吹き込もうとする。
フクロウ社会の構造全体が崩れてしまう。
イエスが十字架にかけられたのはそのためだ。
人々が私にひどく反発しているのはそのためだ。
私はあなたがたに新しい光景ゲシュタルト、新しいパターン、
新しい生き方、実在への新しい参入の仕方を授けようとしている。
当然、古い生活様式に大量のもとでをかけてきた者たちは腹を立てる。
狂ったように腹を立てるだろう。彼らは自分たちの世界から私を追放したい
―彼らはまさにそれをやろうとしている。それはまったく自然で、単純なことだ。
ひとたびそれを理解したら、あなたは笑いはじめるだろう。
人はどのようにして、またなぜ神の存在を信じつつ゛けているのだろう?
人はどのようにして、またなぜ魂の存在を信じつつ゛けることができるのだろう?
フクロウたちと同じ理由からだ……「俺たちの村では、親父もその親父
もそのまた親父も、だれひとり太陽を見たことがない。だから太陽なんて
ものはないんだ。あいつはおまえをかついでいるだけだ。あいつに耳を
貸してはいけない。あいつは俺たちの宗教をつぶそうとしているんだ」
あなたは父親から「神は存在する。神はキリスト教を伝えた」
とか「神はヒンドゥー教を伝えた」と聞かされたことがあるだろう。
父親もまたその父親から聞かされ、それが延々とつつ゛いてきた。
うわさ話、ゴシップだ。父親も知らなければ、あなたも知らない。
勇気を奮い起こし、借り物の知識はすべて落としてしまいなさい。
サニヤシンに最初から求められるのはこれだ―そしてこれは
真理を科学的に探索してゆくに当たり、最初に求められることでもある。
先入観をすべて落とすこと。
先験的アプリオリな概念をすべて落とすこと。
あたかもそれ以前には伝統などなかったかのように、
経典などなかったかのように、まるでアダムやイヴのように、
最初から、最初の第一歩から、ABCからはじめること。
D・H・ローレンスはこう言っている―私は彼にまったく同意する―
「世界中の経典がすべてなくなってしまったら、人間は宗教的になるかもしれない」
あらゆる伝統が完全に消え去れば、そのときはじめて希望が生まれる。
そうでないかぎり、誰が探索したいと思うだろう?苦労せずとも
伝統があてがってくれるし、何の代価も払う必要がないのだから、
気にすることはない。他の人々が知っているのだから、ただ信じればいい。
だが、知ることと信じることは正反対のことだ。
信じることは暗闇のなかで生きつつ゛けることであり、
知ることは変容すること、変身すること、永遠に輝く
もうひとつのヴィジョンへと移行することだ。
これらの経文を信じる必要はない。
それらは実地に試してみなければならない。
これらの経文はたんに手掛かりであり、あなた
の実存のなかで実証してゆくべきものだ。
やってみないかぎり、あなたは要点を見逃しつつ゛けるだろう。
あなたはみずからの肉体を深遠な霊性の
研究室と見なすようにならなければいけない。
そしてみずからの生を、実在を究明する
大いなる冒険として見なければならない。
そしてあなたは意識をとぎ澄まし、注意を払い、
内と外で何が起こっているか見なければならない。
これらの経文は鍵だ。
みずからの実存に本当に働きかけようとしたなら、驚くだろう。
あなたはみずからの実存にすばらしい宝、無尽蔵の宝を秘めて
いる帝王でありながら、乞食のように振る舞っている。
昏沈こんちんと散乱という二つの誤りは、静かな行を中断せずに毎日続けることによって克服しなければならない。そうすれば確実に成果が現れるであろう。
成果は副産物だ。成果のことは考えなくてもいい。
それについて考えると、それを得られなくなる―それが条件だ。
成果のことを考えてはならない。成果のことを考えはじめたら、
あなたは分裂してしまうからだ。
そうなったら修行は中途半端なものになり、実質のある精神
マインドは未来に飛んでゆく―「どうやって成果をあげよう」と。
あなたはすでに成功した自分の姿を、ブッダになった自分の
姿を夢見はじめている―どれほどの美が、どれほどの恵みが、
どれほどの祝福があなたのものになるかを。
精神が貪欲どんよくさの、野心の、
自我エゴのゲームを演じはじめている。
けっして成果のことを考えてはならない。
成果はおのずと生まれる副産物だ。
本当に誠実に自分自身に働きかけていたら、影が
あなたにつきそうように、成果はおのずとついてくる。
成果をあげることを目的にしてはならない。呂祖が
「成否のことは思い煩わず、静かに黙々と働きかけなさい」
と言うのはそのためだ。
そして、いいかね、成果のことばかり考えている
ということは、失敗の恐れも念頭から離れないということだ。
それらはともに連れそっている。それらはひとつの包みに
入っている。成功と失敗は切り離すことができない。
成果のことが頭にあるかぎり、どこか奥深いところに恐怖もある。
あなたがそれをなし遂げられるかどうか誰にもわからない。
あなたは失敗するかもしれない。
成果を思い浮かべると未来に連れ去られ、
貪欲さというゲーム、自我の投影、野望が湧き起こる。
そして恐怖もまたあなたに動揺を与え、身震いさせる
―あなたは失敗するかもしれない。しくじる恐れ
があるために、あなたはたじろぐ。
このたじろぎ、この欲望、この野心を抱えながら、静かに
働きかけることなどできない。その実践は混乱したものになる。
ここで働きかけていながら、目は向こうを見ている。
この道を歩きながら、目はどこか空の彼方を見つめている。
星の研究をしていたギリシャの占星術師のことを聞いたことがある。
ある満天の星空の夜に、彼は井戸に落ちた。星を見ながら歩きまわって
いたからだ―星に夢中になるあまり、彼は自分がどこにいるのか忘れて
しまい、どんどん井戸に近つ゛いていって、とうとう落ちてしまった。
近所に住んでいた老女が物音を聞いて駆けつけた。彼女は井戸をのぞき
込み、縄をもってくると、偉大な占星術師を引きあげた。占星術師は
大いに感謝した。彼は老女に言った。「ご存じではないでしょうが、私
は国王から特別に任命された王宮の占星術師です。料金は安くありません
―大金もちだけが未来を占うだけの料金を払えるのです。でも、あなたは
私の命の恩人です。明日どうぞ私のもとにおいでください。あなたの手相
を読み、出世図を調べ、星占いをしてあげましょう。そうすれば、あなた
の未来が何から何まではっきりとわかりますよ」
老女は笑いだして、こう言った。
「そんなことはすべて忘れちまいな。おまえさんは
目の前にある井戸さえ見えないくせに、私の未来を
占おうって言うのかい?まっぴらごめんだね!」
あまり先を見過ぎてはいけない。
さもないと、目前の一歩を踏みそこなうことになる。
呂祖は、成果はおのずからやって来ると言う。
成果のことは放っておきなさい。
この<存在>は実に気前がよい。
報われないものなど何ひとつない。
これがインドのカルマの哲学のすべてだ―
何事にも善い報いか悪い報いが必ずついてくる。
間違ったことをすれば、悪い報いが影のようについてくる。
正しいことをすれば、必ず善い報いがやって来る。
報いの善し悪しを気にかける必要はない。
少しも考える必要はない。あなたの意識の一片すら
それにかかずらう必要はない。それらはやって来る
―ひとりでにやって来る。
あなたは道を歩きながら、影がついてきているか
どうかを確かめるために何度も何度も振り返るだろうか?
何度も何度も振り返り、影がついてきているかどうか確かめて
いる人がいたら、あなたは彼は狂っていると思うだろう。
影はついてくる。必ずついてくる。だから、あなたの
働きかけが正しい方向を向き、全身全霊で、正しい努力を
もって行なわれていれば、成果はひとりでにやって来る。
さて、どのように働きかけるのか?まず第一に……
昏沈こんちんと散乱という二つの誤りは、静かな行を中断せずに毎日続けることによって克服しなければならない。
昏沈とは怠惰、無気力な状態を言う。それはあなたの女性的な部分
ゆえに引き起こされる。女性的な部分が怠惰で、不活発なのは、それ
が受動的だからだ。そして、もうひとつは散乱だ。それはあなたの
男性的な部分ゆえに引き起こされる。男性的な部分はいつも落ち着き
がなく、活動的だ。それは千とひとつのことを同時にやりたがる。
カミュの小説に出てくる人物は言う。「俺は世界中の女をすべて手に入れ
たい。ひとりでも、数人でも、大勢でも満足できない。俺は世界中の女が
みな欲しいんだ。」これは極端な男性的態度だ。女性はひとりの相手で
満足する。男は大勢でも満足しない。女性にとっては満足する
ことは自然だが、男性にとっては満足しないことが自然だ。
いずれの部分にも好ましい面と好ましくない面の両極がある。
女性がみずからの受動性に好ましくない形を取るのを黙認したら、
無気力な状態が引き起こされる。女性がこの世に多くのものを
創造してこなかったのは、ごくわずかのものしか創造してこなかった
のはそのためだ―優れた女流の画家や詩人や科学者はいない。
それは必ずしも男性が許してこなかったせいばかりではない。たとえ
自由が与えられ―自由は現に与えられている―女性が解放されたとして
も、この不活発な状態は女性の実存の一部だ。彼女は行為にはほとんど
関心がない。彼女は行為よりも在ることに関心を寄せている。
そして、この関心は大いなる祝福にもなりうるし、災いともなりうる。
それは状況しだいだ。もしこの落ち着きが瞑想的なものになれば、もし
この落ち着きが本当に<存在>に対する満足、<存在>との調和になったら、
それは祝福になる。だが、通常は九分九厘、無気力な状態になってしまう。
私たちはみずからの祝福をどう使えばいいのかわからない。
すると祝福は苦くなり、災いに変わってしまう。
そして男性的な精神マインドは落ち着きがない。ここにも祝福の可能性がある
。男性はきわめて創造的になりうる。だが、実情はそうではなかった。創造的
であるどころか、破壊的になってしまった。祝福が呪いに変わってしまった。
その落ち着きのなさゆえに、男性は大きな不安に襲われ、不安で一杯になり、
緊張しきっている。彼の精神はすみずみまで絶えず煮えたぎっている。彼は
いつも狂気の淵に立っている。なんとか自分自身をつなぎとめているが、彼の
奥底には爆発寸前の群衆がいる。ちょっとした口実があれば、男は発狂しかねない。
この落ち着きのなさゆえに、男は美しさを、優美さをなくして
しまった。女性は優雅で美しい。女性を観察するといい。彼女
の歩き方、坐り方には気品がある。彼女の実存には微妙な静寂、
落ち着きがある。彼女の波動のなかにそれを感じることができる。
女性が住んでいない家はどこもかしこもめちゃくちゃだ。
その家に住んでいるのが独り者なのかどうかはすぐわかる。
何もかもがひっくり返り、めちゃくちゃになっている。
その家に女性の気配があるかどうかすぐわかる。すべてが調和して
いて、しかるべき場所に納まっているからだ。その家には、ある優雅さ
、ある種の繊細な気配、とても微妙な愛や文化の気配、音楽的な趣がある
。男が独りで暮らしている家には神経症の匂いが漂っている。
正しく使われているなら、そのどちらも美しいものになる。そうなったら
、女性的な部分は優雅さをもたらし、男性的な部分は創造性をもたらす
。そして優雅さと創造性が出会うとき、人は全体になっている。
だが、それはめったに起こらない―仏陀や、ミーラや、テレサや、
イエスや、マグダレーナのような人のなかでしか、ごくまれにしか
起こらない。ふつうはそれと正反対のことが起こる。つまり悪い面が
出会うのだ。男の落ち着きのなさや神経症と女の無気力な状態―この
二つが出会う。そうなったら最も醜い現象を目にすることになる。
さて、ここでもう一度思い出してほしい。男と女について
話しているとき、私は生物学の用語を使っているのではない。
どの男の内側にも男性だけでなく内なる女性がいる。
その女の内側にも女性だけでなく内なる男性がいる。
男はたんなる男ではなく、女はたんなる女ではない。
彼らは両方だ。男女ともに両性だ。彼らは両方の性をそなえている。
ある人が男なのは、おそらく一方が優勢だからだろう。
男性の部分が優位に立って―つまりアニムスが意識に昇り、
アニマが無意識の奥深くに潜んでいると、あなたは男になる。
あるいは、あなたが女であるというのは、アニマが意識に昇り、
女性的な部分が優位に立って、男性的な部分、アニムスが無意識の
なかに潜んでいるということだ。だが、両性がつねにともにある。
陰陽の極なくして電気が存在しえないように、両極なくして生物は
存在しえない。「男と女」「陰と陽」「明と暗」「シヴァとシャクティ」
―あなたは好きな名前で呼べばいい。
この二つの誤りを克服しなければならない。
静かな行を中断せずに毎日続けること
が必要になる。
そうすれば確実に成果が現れるであろう
。
この静かな行とは何か?これが静かな行だ―
(p285)
静坐して瞑想しなければ、しばしば散乱していてもそれに気つ゛かない。
あなたはそれを観察したことがあるにちがいない。たくさんの人々が
私に報告している。私のまわりでは何千人もの人々が瞑想しているからだ。
これは瞑想者が等しく認める体験だが、瞑想をはじめると、人は突然奇妙な
現象に気つ゛くようになる。瞑想をすると、これまで一度もなかったほど
心マインドが落ち着かなくなってくる。最初のうちはこれがひどく奇妙に
思える。瞑想すれば心が静かになるものと期待しているからだ。
ところが、起こっているのはまったく逆のことだ。心はますます落ち着き
を失ってゆく。日常の生活をしているときよりも多くの思考がやってくる。
店屋会社や工場で働いているときには、さほど思考は邪魔にならない。ところが
、お寺やモスクや教会に坐って数分でも瞑想すると、突然、思考が群れをなしてやって
来て、まわりを取り囲み、あちこちに引きずりまわしはじめる。頭がおかしくなりそう
になり、わけがわからなくなる。瞑想者は穏やかで静かになるものと思っていたからだ。
ところがまったく逆のことが起こっている。どうしてこんなことになるのだろう?
その理由はこうだ。あなたがたはいつもこれらの思考と行動をともにしてきた。
店や工場や会社で働いているときでさえ、これらの思考はつねにそこにあったのだ。
だが、仕事に夢中になるあまり、気つ゛かなかっただけのことだ。目新しいのは
思考の群れではない―思考はあなたがどこに坐っていようが気にかけない。
教会なのか、寺院なのか、瞑想ホールなのか、思考は気にかけない。
ようするに、坐って瞑想しているときには外界の事物に気を取られていない
ので、心がいつも内側で騒ぎ立てているすべてのものにはっきりと気つ゛く
ようになるというだけのことだ。瞑想のせいでいつもより多くの思考がやって
来るわけではない。瞑想によってあなたはそこにあるものに、いつもそこにあった
ものに気つ゛くようになる。あなたが前よりももっと気つ゛くようになるだけだ。
静坐して瞑想しなければ、しばしば散乱していてもそれに気つ゛かない。散乱に意識を向けることにより、おのずと散乱を取り除くことができる。
外界の雑務から身を引き、完全に身を引き、全力をあげて内界を観察
するために、少なくとも毎日一、二時間、坐って瞑想することが強調
されるのはそのためだ。最初のうちはパンドラの箱を開けたように
見えるだろう。最初のうちは精神病院に踏み込んだように見える
だろう。あなたは逃げだして、再び雑務に没頭したくなる。
この誘惑を避けなさい。この誘惑はなんとしても避けなければ
ならない。さもなければ、けっして瞑想をすることはできない。
この内なる混乱から目をそらすために数々のトリックが見いだされてきた。
超越瞑想は瞑想のテクニックではなく、内なる現実に直面するのを避ける
ためのテクニックだ。マントラが与えられ、それをくり返すように告げられる。
それは役に立つ―瞑想の助けになるのではなく、気を紛らわしておく助けになる。
あなたは「ラム、ラム、ラム……」あるいは「コカ・コーラ、コカ・
コーラ、コカ・コーラ……」とくり返しつつ゛けてゆく―どんな言葉
でもいい。自分の名前でもいい。どんなに馬鹿げた音でもいい。あなた
はくり返しつつ゛けてゆく。それをくり返すことで、あなたの心は一杯
になる。そうして忙しくすることで、あなたは内なる混乱を回避している。
これでは何の違いもない。あなたは会社でわき目もふらず働いていた。
あなたは夢中になって映画を見ていた。あなたは夢中になってラジオ
を聴いていた。あなたは夢中になって新聞を読んでいた。今やあなた
はマントラに夢中になっている。これは瞑想でもなければ超越でもない。
真の瞑想とはこれだ―内なる精神病院から
目をそらさないようにして、そのなかに入り、
顔をそむけずに遭遇し、注意深く観察してゆくこと。
なぜなら、注意深い観察によってはじめて
それを克服することができるからだ。
それがどんどん大きくなってしまったのは、それから目をそむけて
きたからだ。あなたは避けられるだけ避けてきた!もうマントラの助け
を借りる必要はない。助けはいっさいいらない。ただ静かに坐りなさい。
禅は最も純粋な瞑想だ。
何もせず、ただ静かに坐る。
何もせず、ただ静かに坐ることほどむずかしい瞑想はない。人々は私に尋ねる
。「何か依るべになるものをください。何かマントラをくだされば助かるのですが
。何もせず、ただ静かに坐っているのはたいへんです。こんなにむずかしいこと
はありません」あなたにはありとあらゆることが起こってくる。
身体はあなたを狂気に駆り立てはじめる。頭がかゆくなったり、突然、
蟻が身体を這っているような感じがする。が、いくら見ても蟻などいない。
身体がトリックを仕掛けているだけだ。身体が助け舟を出して、あなたを
忙しくさせようとしている。身体は姿勢を変えたがるし、足はしびれてくる。
身体はいろいろなものをもちだしてきて、あなたの心を一杯にしようとする。
心を一杯にさせることはすべて避けなさい。
しばらくのあいだ心をふさぐのをやめて、
内側で起こっていることをもらさずに見るがいい。
するとあなたは驚くだろう、本当に驚くだろう。やがて、
ただひたすら見つつ゛けているだけで、思考が消えてゆく。
「何もせず静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生える」
これが瞑想の純粋な姿だ。これこそが「超越瞑想」だ。
だが、マハリシ・マヘーシュ・ヨギが商標にしてしまったために、誰もそれを
「超越瞑想」と呼ぶことはできない。TMは今や登録商標トレードマークになっている!
こんなやりかたで商売をした者などひとりもいない。自分の瞑想を超越瞑想と名つ゛け
たら、法廷に訴えられる恐れがある。それは商標登録がしてある。その馬鹿さかげん
をそっくり見るがいい。瞑想は街で売られる日用品のようになってしまった。
こういうことが何度もくり返されてきた。
アメリカに行ったいわゆるインドのグルたち―彼らは誰ひとり変えること
ができなかったが、アメリカはみごとにグルたちを変えた―グルたちはみな
ビジネスマンになった。彼らはみなアメリカ流のやり方を身につけはじめた。
彼らの手ではけっして誰も変わらない。変わるはずがない。
人を変えることができたなら、彼らはどこにも行かなかっただろう―
変わりたいと思う者たちがグルたちのもとへやって来ただろう。
グルたちはどこにも出かける必要がなかっただろう。
喉が渇いていれば、人は水を探しはじめる。
井戸が渇いた人のもとへ出かける必要はない―
井戸はどこにも出かけない―渇いた者が井戸にやって来る。
給水車を見かけたら、用心するがいい!
(p288)
散乱に意識を向けることにより、おのずと散乱を取り除くことができる。。
とほうもなく深い意味を秘めた言明だ。散乱を取り除く唯一の方法
は、それに気つ゛き、それを見守り、それに静かに意識を向け、
心マインドがあなたにしていることを―絶えずあなたの気を
そらしていることを見ることだ。ただそれを見守りなさい。
あなたは何度も忘れるだろう。なぜなら、心は狡猾で、
ひじょうにずる賢く、かけひきがうまいからだ。心は政治家
の策略をすべて知りつくしている。心は本質的に政治家だ。
心はあなたにあらゆる魔法をかけようとするだろう。
あなたが抑圧してきたすべてのものを心マインドはもち出してくる
。あなたがセックスを抑圧していたら、瞑想をはじめたとたん、
アブサラたちが天国から舞い降りてくるのが見える。心は言う。
「見ろ!おまえは何をやってるんだ、時間の無駄じゃないか。
インドラ神から美しい女が送られてきたのに、何をやってるんだ」
セックスを抑圧していたら、心はあなたをとらえる餌としてセックスを
使う。野心を抑圧していたら、心は大統領や首相になったあなたの姿を
空想しはじめ、あなたはその罠に落ちはじめてゆく。今まで食事を拒み、
断食をしてきていたら、心はいかにも美味しそうな贅沢な料理をつくり
だす。その食べ物の香り、匂い……あなたの心は一杯になってしまう。
私がサニヤシンたちに「抑圧してはいけない。そんなことをすれば、
けっして瞑想することはできない」としきりに言うのはそのためだ。
抑圧すれば、瞑想中に自分が抑圧してきたものと遭遇しなければ
ならなくなる。そして、何であれ抑圧したものは強力に、すさまじく
強力になる。それはあなたの無意識に根をおろしている。
インドの昔話に登場する見者たちのことだが―彼らは年老いていた。森に住んで断食を
していたので、彼らは老いぼれ、すっかり生気を失い、やせ衰えて骨と皮ばかりになっ
ていた。そこへある日突然、インドラ神に仕える最も美しい踊り子ウルワシが現れ、彼
らのまわりで踊った。この骸骨のような連中はウルワシの目にどう映ったのだろう?
彼女はどうしてこんな骸骨のような連中に興味をもつのだろう?何のために?
物語では、彼らを誘惑するためにインドラ神がウルワシを送ったことになっている。ま
ったく馬鹿馬鹿しい話だ。インドラ神など存在しないし、誘惑者の役割を演じる者もい
ない。悪魔も魔王もいない。悪魔とはあなたの抑圧された心に他ならない。こういった
連中は性欲を抑圧しつつ゛けてきた。抑圧があまりに大きいので、瞑想中にリラックス
すると、抑圧されていたものがすべて浮上しはじめる。それは美しい姿をしている。
だから私は「抑圧してはいけない」と言う。このアシュラムで行なわれて
いる精神療法セラピーはどれも、社会があなたに強いた抑圧を吐き出すのを
助けるためにある。ひとたびこの抑圧されたものが吐き出され、あなたの
身体組織から投げ出されたら、ひとたびこれらの毒素があなたの身体組織
から取り出されたら、瞑想はひじょうに簡単でやさしいものになる。
ちょうど羽がゆっくりと地面に落ちてゆくように、枯れ葉が樹から
ゆっくりゆっくりと落ちてゆくように……瞑想はごく単純な現象になる。
そうであって当然だ。それは内側から自然に湧き起こってくるものだからだ。
あなたはみずからの本性に向かって進んでゆく。
本性に向かう動きは易しいものであり、本性から
遠ざかる動きは困難なものになるが、それは当然のことだ。
瞑想はむずかしくない。だが、あなたの心マインドと実存
のあいだには、散乱を引き起こす千とひとつの抑圧がある。
呂祖は正しい。
これらの散乱をただ見守りなさい。
油断なく目を見張るのだ。
精神が散漫になり、瞑想を忘れてしまっても、心配することはない。
散漫になっていたことに気がつけば、ただちにもどって、精神を
静め、精神を穏やかにし、再び静かに呼吸をじはじめればいい。
気が散漫になってしまったと悔やむ必要はない。
それもまた散乱のひとつに他ならないからだ。
私が「心マインドは狡猾だ」と言うのはそのためだ。
心はまず散乱を引き起こしておいて、あなたがそれに気つ゛くやいなやこうささやく
。何をやってるんだ?おまえは瞑想をしながらヴリンダーヴァン(和尚コミューンの
レストランの名前)へ行き、食事をしたりして……何をやってるんだ?のろまなやつ
だ―。そうなると、あなたは罪悪感を覚えはじめる。それはよくない。
罪悪感を覚えることも散乱のひとつだ。今度は罪悪感があなたを苦しめる―
あなたは別の形の散乱に苦しむ。散乱が次の散乱を引き起こす。罪悪感を
覚えてはいけない。怒りを覚えてはいけない。心が散漫になっているその
現場を押さえたなら、ただちに不平を言わずもどればいい。
それは自然だ。あなたは何百万もの生にわたって抑圧
してきたのだから。心が散漫になるのも無理はない。
それを当然のことと受け止めて、引き返し、再び中心に
もどってくるがいい。何度も何度ももどってくるがいい。
そうすれば、徐々に徐々に、中心に
とどまっている時間が長くなってゆき
、散乱が起こる回数が減ってゆく。
そしてある日、ふと気つ゛くと
、あなたは中心にいて、
散乱は影を潜めている。
これが成果だ。なぜこれを「成果」と呼ぶのだろう?そこで人は
自分が神であることを、神以外のものではなかったことを、
眠りに落ちて乞食になった夢を見ていたことを知るからだ。
昏沈に意識を向けるのと、昏沈に無意識であるのとでは実に大きな違いがある。昏沈に無意識であることが真の昏沈である。意識されている昏沈は完全な昏沈ではない。そこにはなおいくばくかの明晰さがあるからだ。
怠けるなら、意識的に怠けなさい。自分が怠け者である
ことに気つ゛いていなさい。自分の怠惰さを見守るのだ。
散乱を見守ったように、自分の怠惰さを見守りなさい。
少なくとも見守ることは怠惰ではない。見守ることは
無気力ではない。だから怠惰でない何かがそこにはある。
注意力のなさに注意を向けるときには、あなたの内にある 何 も の か
が依然注意を注いでいるので、完全に注意力を失っているわけではない。
その気が抜けたり、散乱していない
小さな一点にすべての望みがかかっている。
その小さな一点は種子に似ている。それは小さく見えるが、
時間をかけて辛抱強く待てば、豊かに葉を繁らせる大樹になる。
そして、いつか黄金の華が開くだろう。
散乱は想念マインドをさまようままに放置することから起こり、昏沈は想念がまだ清らかでないことから起こる。散乱は昏沈よりもずっと容易に直すことができる。病気に例えてみれば、痛みやかゆみを感じている場合にはそれを治療する薬があるが、昏沈は感覚を失ってしまう病気に似ている。
散乱のほうが取り組みやすい。なぜなら、散乱は外に向かうもの
だからだ。昏沈のほうが内に向かうので取り組むことがむずかしい。
散乱は男性的であり、昏沈は女性的だ。散乱は活動的であることによって
絶えがたいほどの緊張を生じさせるので、容易に自覚することができる。
だが、昏沈はなかなか自覚できない。まず人は散乱に気つ゛かなければ
ならない。散乱がすべて消えてしまうと、人は昏沈に気つ゛くようになる。
そうなったら、内側を見るためにすべてのエネルギーを使うことができる。
すると岩のようにあなたを押さえつけている、不活発で、非創造的な
昏沈がそこにあるのが見えてくる。そうなったらそれを見守ればいい。
そしていいかね。見守ることが唯一の鍵だ。
観察することが瞑想だ―瞑想とはそれにつきる。
それは醒めていることを表す別の言葉だ。
そして不思議なことに、あなたが何かに
気つ゛くと、完全に気つ゛くと、それは消えてゆく。
それはあなたが無自覚なときにしか存在できない。
無自覚さが散乱と昏沈の餌になる。あなたが気つ゛いて
いれば、もはや餌がもらえなくなり、それらは飢えはじめる。
やがてそれらはひとりでに消えてしまう。
散乱は鎮めることができるし、混乱は整えることができる。だが昏沈や無気力な状態は重くて暗い。散乱や混乱にはまだ一定の場所があるが、昏沈や無気力な状態ではただ魄アニマのみが活動している。散乱の場合にはまだ魂アニムスが存在しているが、昏沈の場合にはまったき闇が支配している。瞑想中に眠気をもよおすならば、昏沈の影響を受けている。昏沈の克服に役立つのは呼吸だけである。鼻から出入りする息は真の呼吸ではないが、真の呼吸の出入りはこれと結びついて起こる。
瞑想中に強い睡魔に襲われたら、呼吸を見守りはじめなさい。
そうすれば眠気は消える。ヴィパッサナをやっている多くの
仏教徒が不眠症に悩まされるようになるのはそのためだ。私は
ヴィパッサナをやっているために、不眠症になっている人たち
に大勢出会った。しかも彼らはそれに気つ゛いていない。
呼吸を見守っていると、眠りが妨げられるのだ。
だから、私はサニヤシンたちにこう言っている―けっして
一日に二、三時間以上ヴィパッサナをやってはいけない、と。
しかもその数時間は日の出から日没までのあいだにかぎられる。
日が暮れたらけっしてやってはいけない。夜中に
ヴィパッサナをすると、眠りがかき乱される。そして
眠りがかき乱されると、身体中のメカニズムがかき乱される。
あるセイロンの僧侶が私のもとに連れてこられた。三年間、彼は
眠れない状態が続いていた。真面目な僧侶だった……それが彼の問題だった。
ヴィパッサナのすばらしさを信じるあまり、彼は朝から晩まで一日中それを
やっていた。寝床に入って、なかなか寝つけないときにも、ヴィパッサナを
やっていた。寝床でヴィパッサナをやれば、眠れなくなってしまう。
呼吸に繊細な注意を払っている人に眠りは訪れてこない。
試してみるといい―不眠症になりたければ、試してみるといい。
睡魔を払うには呼吸を見守るのが一番だ。なぜなら、
呼吸は生であり、眠りは死だからだ。
それらは互いに対立し合っている。
子供はまず呼吸をすることによって生きることをはじめる。
人生で最初に行なわれる行為は呼吸であり、最後に行なわれる
行為は息を吐き出して、二度と呼吸をしないことだ。
最初の行為は息を吸うことであり、最後の行為は息を吐くことだ。
息をしていなければ、死んでいるとみなされる。
これを覚えておきなさい。眠るためには呼吸の
ことをすっかり忘れてしまわなければならない。
眠りは小さな死、ささやかな死であり、美しい死だ。
眠りは休息とくつろぎを与え、人は翌朝になると溌剌として
若返り、元気になって死体置場からもどってくる。
瞑想中に睡魔に襲われたら、呼吸を見守りなさい。
そして、夜はけっして呼吸を見守る瞑想をしてはならない。
(p294)
経文に述べられている次に重要なことがらは、
私たちがくり返している呼吸は本当の呼吸ではない
ということだ。それは本当の呼吸の乗り物にすぎない。
本当の呼吸とは何か?インドではそれを「プラーナ」と呼んでいる。
いわゆる呼吸は馬にすぎず、騎手は目に見えない。呼吸はたんなる馬
であり、プラーナ、精気、あるいはヘンリ・ベルグソンが「生命力」
と呼んでいたものがその乗り手だ。それは目には見えない。
息を吸うとき、あなたは空気を吸っているだけではない。
あなたは生命を吸っている。
空気がなければ、生命は消えてしまう。
生命は空気を通して存在している―
それは空気の目に見えない部分だ。
呼吸は花のようであり、生命は花を包む香りに似ている。
息をするときには、二重のプロセスが進行している。
ヨーガがプラーナーヤーマに大きな関心を寄せるのは
そのためだ。プラーナーヤーマとは呼吸の拡張を意味する。
呼吸が深くなればなるほど、あなたはもっと深くから生きるようになる。
呼吸が正しいものになればなるほど、あなたは長生きすることができる。
ヨーガはその秘密に大きな関心を寄せるようになった。
不老長寿の霊薬エリクサは呼吸の仕組みのなかにある。
人は長寿を保つことができる。ヨーガ行者は最も長生きをする。
私は不老長寿をめざせと言っているのではない。
長くても愚かな人生を送る人もあるからだ。
寿命の長さが問題なのではない。
大切なのは強烈さ、深さだ。
私は長生きすることには関心がない。
それでどうなるというのかね?
愚かであるなら、早死にするほうがましだ。
あるときチンギス・ハーンが偉大な賢者に尋ねた。「あなたの
ご意見をお聞きしたいのだが、人は長生きすべきだろうか?長生き
するために何かをすべきだろうか?寿命は天が決めるものなのだろうか?」
賢者は言った。「閣下、それは人によりけりです。例えば、あ な た
が長生きされるのでしたら、大いに困ったことになりますが、
あなたが早死にされるのなら、それは大いなる祝福です。
あなたが二十四時間眠りつつ゛けられるのなら、それは
実にすばらしいことです。世界のもめごとが減るからです」
それは人によりけりだ。
だが、ヨーガは不老長寿に大きな関心を寄せるようになった。まるでそれ自体
が目標であるかのように。ヨーガはそこで道を踏みはずしてしまった。
ヨーガはどんどん生理学的なものになっていった―
ヨーガの関心は重要ではないものごとに注がれるようになった。
だが、秘密はそこにある―それは呼吸のなかにある。
呼吸は二つのエネルギーの乗り物だ。ひとつは目に見える空気、
酸素を含んだ触知できる空気だ。そして酸素にまつわるようにして、
あなたをもっともっと深く躍動させ、生命とともに燃えあがらせる
生命力エラン・ヴィタール、プラーナがある。
だから、睡魔に襲われるたびに、ただ呼吸を見守るだけで、
眠気は消えてゆく。そして呼吸とともにより多くの生命が
あなたのなかに流れ込むことで、昏沈も消えてゆく。
それゆえに、坐るときにはつねにこころハートを静かに保ち、気エネルギーを集中させなければならない。こころを静めるにはどうすればよいか?呼吸によってである。
ここでも 呼 吸 に よ っ て だ。
呼吸は最もすぐれたテクニックのひとつとして用いられてきた。
息の出入りをこころが意識していればいいのであり……
息が入っては出てゆくのを見守っていればいい。
そうして注意深く見守ることで、あなたの眠りは消えてゆく。
昏沈は消えてゆく。そしてあなたは中心感覚を得る。
呼吸は二か所で観察することができる。
空気が身体に最初に入ってくるときに触れる鼻先か、
あるいは息が入ってきて腹を上下に動かす最後のセンター、
臍へそのセンターだ。これが見守ることができる二つのセンターだ。
つい先日、こう尋ねた者がいる。「和尚、鼻の先を見守るのはいい
のですが、ユダヤ人のようなかぎ鼻の場合はどうなのでしょう?」
実のところ、鼻があるのはユダヤ人だけだ。
他の者たちは鼻があると思い込んでいるだけだ。
かぎ鼻ならば、空気が入ってくる鼻先を見守りなさい。
かぎ鼻はこの手の瞑想にはすばらしい助けとなる。
かぎ鼻であることを喜びなさい。
ここにいる人々の少なくとも半分はかぎ鼻だ。
ここにいる人々の半数はユダヤ人だからだ。
質問を読んでいて、私は本当に驚いた。というのも、
呂祖師や彼がこの技法を授けた中国の人々のことがとても心配に
なってきたからだ。彼らにはまったく鼻というものがない!
彼らにとって鼻先を見守ることはさぞかし困難だったことだろう。
先端などあるのだろうか?
息の出入りをこころが意識していればいいのであり、耳に聞こえてはならない。耳に聞こえなければ、息は軽く、軽ければ、純粋である。耳に聞こえるようなら、気息は荒く、荒ければ、濁っている。濁っていれば、昏沈と無気力な状態が生じ、眠気に誘われる。これは自明の理である。呼吸するとき、こころハートをいかに正しく使うかを理解しなければならない。それはこころを用いない用い方である。
努力なき努力。修行なき修行。道なき道、門なき門
―タオや禅はこのような表現をする。
あなたは力まず、緊張をせずに
ものごとを為さねばならない。
そこで師は言う―
それはこころを用いない用い方である。聴くことに微かすかに光を当てるだけでいい。
あなたは手放し状態にならなければいけない。
これがヨーガとタオの違いだ。
ヨーガは意志の道であり、タオは明け渡しの道だ。
ヨーガは言う。「息をこうして吸いなさい。息をこれくらい
深く吸ってしばらく止め、それから深く吐き出してしばらく止める
―意志の力である一定のパターンをつくりだしなさい」
タオは「呼吸はそのままにせよ」と言う。
聴くことに微かに光を当てるだけでいい
―ちょうどあなたがたが私に耳を澄ましているように。
私の言葉はあなたの耳に向かっている。
言葉に飛びつく必要はない。
言葉を引っぱりこむ必要はない―
そんなことはしなくていい。
あなたはただ注意深くして、
静かに耳をそばだて、開いていればいい。
この句には秘められた意味がある。光を当てるとはどういうことか?それは目の光がもつ自然に照らしだす働きのことだ。目は内側を見るだけで、外界を見るわけではない。外を見ることなく明るさを感じていることが内側を見るということであり……
一種の手放し状態にあるときにはいつも、
あなたの内側には大いなる光が感じられる。
手放し状態にあれば、それはひとりでに起こる。
<存在>に明け渡しているなら、内側にまばゆい光が感じられる―
大いなる光ライトが内側にあり、大いなる喜びデライトが外側にある。
それは自然に起こる。そして内側にその明るさを
感じていることが内側を見るということだ。
外を見ることなく明るさを感じていることが内側を見るということであり、内側を実際に見るということではない。聴くとはどういうことか?それは耳の光がもつ自然に聴く働きのことだ。耳は内側を聴くだけで、外界の音を聴くわけではない。外界の音を聴くことなく明るさを感じていることが内側を聴くということであり……
目の裏に、耳の内側に、あなた自身の内奥の源に光を
感じはじめたら、あなたは安定し、中心が決まり、
こころハートは静かになっている。
そうなったら、あなたは世間に
いながら世間を超えている。
これが超越だ。
内側の音を実際に聴くということではない。したがってこの場合、聴くというのは無音の状態を聴くだけであり、見るというのはそこに何の形もないのを見るだけである。
内側には何の形も見えず、何の音も聞こえない。
見えるのは穏やかな光―音なき音、形なき光だけだ。
それゆえに神は"音なき音""形なき形"と定義される。
目が外界を見ず、耳が外界の音を聞かなければ、それらはおのずと閉じて内界に沈んでゆきがちである。内側を見、内側に耳を傾けるときにのみ、感覚器官は外に向かうこともなく、内に沈み込むこともない。このようにして昏沈と無気力な状態を取り除くことができる。これが、太陽と月がその精と光を結合させることである。
内側に耳を傾け、内側に目を向けているなら―それは
内側に形のない光、音のない音、沈黙の音楽を感じている
ということだが―そこで内なる男性と内なる女性が出会っている。
これが結合、完全なオーガズム、神秘の合一ユニオ・ミスティカだ。
昏沈に襲われて眠気をもよおしたら、立ちあがって歩きまわるがいい。頭がすっきりしてきたら、坐りなおす。やがて修行の成果が現れてきて、昏沈や眠りに陥ることはなくなるだろう。
この経文は実地に行なってみなければならない。
労することなく、これらの経文の奥義に入りこむ
努力をしなければならない。力むことなく、明け渡し、
手放し状態になることを学びなさい。
(p300)
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