2011年4月15日金曜日

理趣経的密教房中術・プロローグ

理趣経的密教房中術・プロローグ

理趣経的密教房中術・プロローグ








不動明王坐像 法橋清玄/作


理趣経的房中術を読むにあたって

 ここでは『理趣経』そのものを挙げているのではない。あくまでも“理趣経的”なのだ。“理趣経的房中術”である。
『理趣経』の「愛は清らかなもの」という法説に基づき、これを真言立川流の教義に基づいて、「房中術」を紹介してみたまでである。

したがって、真言立川流がいう、男を不動明王
(ふどう‐みょうおう)として、女を愛染明王(あいぜん‐みょうおう)に配し、男女の二根交会(にこん‐こうえ)・赤白二(せきびゃく‐にてい)和合をもって「大仏事を成す」などいうような教えは『理趣経』の中にはない。こうした思想は立川流独自のものであって、『理趣経』とは無関係である。

また、『理趣経』には男女二根交会を、「大地大海思想」で説かれていないこともご注意願いたい。大地大海思想は、立川流の教義である。髑髏
(どくろ)礼拝も同じである。こうした猟奇性を帯びたものは『理趣経』にはない。『理趣経』が、立川流に対して責めを負うべきところは何のいわれもない。

更に、男女の性液を陰陽に配当し、人間の骨肉の成り立つ仕組みや、男女の産み分け方などの教義も『理趣経』にはなく、また『理趣経』は何処までも清らか な愛の実践を説くだけであって、況して、赤白についての説明においても、赤とは“女の経血”であり、白とは“男の精液”などという法説も『理趣経』には論 じられていない。
したがって、ここで論じているのは飽くまでも《理趣経的》であって、『理趣経』そのものでないことをご注意して頂きたい。
論じる主旨は《理趣経的房中術》であることを念頭に止めておいて頂きたい。



●性命双修の概念

 人生の愉(たの)しみとは何であろうか。
「享楽」だと答える人が居る。また、人生を「恋愛」だと云って憚
(はばか)らない人もいる。恋して過ごす一生ほど、有意義なことはないと云う人もいる。
19世紀のイギリスの唯美主義者オスカー・ワイルド
(Oscar Wilde)は、有名な戯曲『ウィンダミア夫人の扇』や『サロメ』の著者であるが、晩年に人格的破滅に落ちて行った。そして、『懺悔録(ざんげ‐ろく)』を書いて、宗教へ転身している。

人生を恋愛と看做した唯美主義者達は、道を説く「道学」を嘲笑
(あざ‐わら)い、次のような歌まで詠んだ。
柔らかき乙女の肌に触れもせで 淋しからずや 道を説く君
 上記は道学を嘲笑した著名な一女流歌人の歌である。道学が、“道”だの、“人”だのを問題にしてい る、いたずらな空虚で、形式主義に過ぎない冷固さを嘲笑ったのである。そして、これ以降、道は世人から見向きもされなくなり、人生の幸福は「美」と「享 楽」にあるとする追求が始まったのである。官能的かつ現実的幸福感は、享楽を享受することである、と言い切ったのである。
これは「いのち短かし恋せよ乙女……」とか、「青春君が眉に幾時ぞ……」とか、「酔と恋と歌とは、若い魂の三部曲……云々」の享楽主義に、人生の意義を求めるのである。

あるいは一方、健康に気を付けて「長生き」することだと云う人が居る。更には、人生は総
(すべ)て金であり、「金を儲ける」ことだと云う人が居る。

(いず)れを考えて見ても、その意識の下に根付くものは“欲望”である。煩悩(ぼんのう)から起る切なる希(のぞ)みである。
これは心の充
(あ)て、あるいは愉(たの)しみである。そして要約すれば、どんなに不幸であり、苦労の最中にあっても、それに抂(め)げず、崩れず、自分を振るい立たせ、激励し、あるいは鼓舞する「何か」を、心の拠(よ)り所として求めて居る事である。

しかし、その根本には、何といっても飲食する事と、性欲を満足させる事が、人生の中心課題に置かれていることは、何人
(なんびと)も否定できまい。
そして何人
(なんびと)も、人生で、頭を悩ますのは、長生きはしたいが、享楽を損なわない長生きであり、また苦痛を伴わない長生きである。したがって、生命維持装置の力を借り、植物的に生かされるような長生きなど、真っ平(まっ‐ぴら)御免と考えるのである。いつまでも健康で長生きをして、健全に働ける晩年を夢見て、人は長生きをしようと考えるのである。

こうした願望から、「性」と「命」を収める修法が、房中術の思想体系を作ったのである。これが房中術で云う「性命双修
(せいめい‐そうしゅう)」である。
一方この考え方が、仙道に於ては、不老長寿の悟りへの境地になった。つまりこの境地には、「性」と「命」を修め、これを行法として「性」を悟り、「命」を修養する事としたのである。

伝説によれば、仙道は、老子
(ろうし)がその始祖であると伝えられている。その時代は中国の春秋時代のことである。
老子は誰に学んだか分からないが、老子は仙道を会得した後、尹文始
(いん‐ぶんし)と王少陽(おう‐しょうよう)の二人の弟子に仙道を伝えたとある。これにより仙道は、二つの主流をもつようになるが、もともと尹文始や王少陽なる人物の存在も定かでなく、謎の部分が多い。

さて、仙道房中術の説くところは、仙道特有の生理観にある。それは人間の躰
(からだ)の中には「精(せい)」「気(き)」「神(しん)」の三要素があり、これが躰を形作り、これを「三宝(さんぽう)」としていることである。
精・気・神(しん)の表。人間は期の形態を顕わすのに、精気、元気、神気の三つがある。
 房中術で云う「精(せい)」 は、肉体を象徴する“精液”の事であり、男は生殖器から分泌された多数の精子を含む「精水」のことであり、女性は絶頂感の時に放出された精水を「精」と称 するのでる。一般には“愛液”の名で知られている。つまり、男の“精液”と、女に陰水である“愛液”が混ざり合うことにより、生命エネルギーが放出される と信じられているのである。

人間は生きていく為には、それに伴う運動がなければならない。物を移動したり、歩いたり、走ったり、泳いだり、それらを競ったり、意見の喰い違いに争っ たり、欲望の成就の為に、様々なアクションを起す。これが運動であり、行動であり、その根元は「精力」が司っている。

これは人間だけの及ばず、天地大自然も同じ働きをしている。その運動エネルギーの根元になるのは、則
(すなわ)ち「精力」である。
精力が天体の運行までもを司っているのである。その宇宙にある「精」を、人間は天地から吸収して、“水冷式哺乳動物”の形態をとって生きている。

生きている人間は、「精」を自分の精力にし、それが生殖に回されると、「精液」という有形化した物体へと形を変える。有形化とは、物質化することであ り、眼に見えないものを、眼に見える形にすることである。「無」から「有」が出現するのも、「精」が有形化した為である。

次に「気」とは、「陽気」であり、また「元気」である。この気は、主に精神力を司る気であり、元気がある時は精神力が充実し、“元気”を失えば、その “気”は病むことになる。したがって、人間が天地から、「精」を吸収している間は、元気を維持していることになる。
一方、元気を失えば、天地から「精」を吸収することが出来ず、精力を失う一方、肉体を司る「精」は減少し、やがては“生命の火”を燃やす力がなくなって、死に至る分けである。

これらの元気を有感化
(うかんか)したのが、「陽気」である。
陽気には万物が動き、または生じようとする気を派生させる。この「気」は、本来は無感覚のものであるが、これが意識の中で感じられると有感化することになる。

元気は元々、無感覚の「気」であり、自分が元気かどうか、健康な時にはこれを殆ど意識していない。しかし、疲れたり、病気になると、元気が失われていることに、忽
(たちま)ち気付かされるのである。

仙道の行法や、房中術によって、陽気を蓄える修法を行えば、丹田から発した陽気は、男の場合、会陰
(えいん)に下り、背後の尾閭(びろう)を経由して、命門(めいもん)に至り、これが脊柱(せきちゅう)の昇り始めて、玉枕(ぎょくちん)に至る事を「有感化」という。
また、女性の場合は、丹田に陽気が発生し、男とは逆のコースを辿り、躰
(からだ)の前面を陽気が昇り始める。更に頭頂に至り、玉枕に向かって下り、脊柱を下って命門に至り、尾閭や会陰を経由して、再び丹田に帰着すると言う一順を繰り返す。

天地の存在は「気」によって造られ、これが宇宙を構成している。この天地間を満たすものが「気」である。
人間はこの「気」を吸収して、自分の「気」としている。普段の場合、「気」に対しては何の感覚もなく、ごく自然な形で、それが元気であるとも、陽気であ るとも知らないで、自然のうちに、それを吸収しているのである。そして、これ等の「気」を有感化したものが「陽気」である。

しかし、普段は気付かぬ筈
(はず)の陽気も、例えば運動のやり過ぎや、セックスのやり過ぎにおいて、足腰が立たぬようになり、気が失われたことに自覚症状が顕われる。「やり過ぎ」は、精力不足を齎(もたら)すからだ。

こうした状態に陥った時、精力が不足すると、天地から吸収不足になっている分だけの、気が「陽気」に変わり、陽気が精力に変わって、その不足分を補おう とするのである。過度の運動やセックスは、精力を直接消耗するものである。精液の浪費は精液不足に陥り、精力が精液を補う為に有形化し、浪費し過ぎた人自 身は、その不足から有感化が起るのである。
「へこたれた」「足腰が立たぬ」とは、こうした有感化の不足現象である。

更に「神
(しん)」を挙げれば、神は「意念」と「霊能」のことである。
一般に「霊」などと称すと、神霊学や霊能者の用いる霊媒
(れいばい)を連想するようであるが、ここでいう「霊」とは、動植物に備わる精神的実体である。この霊は、肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる意念であり、これは人間の場合、生まれた時に天地から授(さず)かるものである。そして人間には、霊がある為、天地から「神(しん)」を吸収することが出来るのである。

霊による一切の能力を「霊能」という。この霊能は、インチキ霊媒師だけの専売特許ではない。霊能は、人間である以上、誰にも備わっている。その霊能が有情化
(うじょうか)したものが、「意念」である。
「有情
(うじょう)」というのは、本来は仏教用語であり、情(心の働きや感情)を持つものの意味で、生きとし生けるものの総称である。あるいは「衆生(しゆじよう)」を指す。更には意識の具現で、「愛憎の心の有る」ことを云う。つまり、「意識する」ことであり、「意識して行う」ことである。

人間は普段、霊能のあることを意識しない。しかし、「意識したり」「考えたり」「思い詰めたり」すると、意念が入り、これが有情化するのである。
こうした有情化する起因の一つに、「元気が足りない時」などに、自身で「今日は何となく元気がない」などと思う事がある。これが霊能の有情化である。
これが起ると、無理に不足する元気を、意念によって補おうとする。これを「意識の力」というのである。つまり、意念が働いたことを云うのである。

意念で元気を補おうとすると、意念の分だけ不足が起る。不足した意念を補う為に、霊能の有情化が起るのである。
これを房中術の図式に当て嵌
(は)めと、精液を蓄えることによって精力が漲(みなぎ)り、精力を陽気に変え、陽気を蓄えることによって元気が漲ってくる。陽気が漲ると、霊能が強化され、これが不老長寿に繋(つな)がるとするものである。
つまり、房中術で云う意念は、生命の「火」を司り、呼吸は生命の「風
(ふう)」を司るのである。

「火」と「風」は、男女二根の交会
(こうえ)によって、不老長寿の妙薬を躰(からだ)の裡側(うちがわ)から作り出す。男女はお互いの持つ特有の「気」で、磁石の如く引き合い、同調し合い、呼吸し合う。そして交会することで、お互いに不足する栄養を交換し合い、染み込ませ、吸い合うのである。
その時に、完全な快感が訪れ、二根を通じて、妙薬を授かるというものなのである。この「妙薬」こそ、不老長寿の源薬
(げんやく)なのである。

人間は、人生を生きて行く上において、必要なものは総
(すべ)て自分の裡側(うちがわ)に備わっている。外部から物理的な力を借りなくても、内部には生まれた時から、「人生を生き抜く要素」が内蔵され、これを乳幼児期・幼児期・少年期・青年期・壮年期・老年期とそれぞれに使い分けていくのである。

したがって、性欲は生まれたその日から起り、それが死ぬ直前まで続くのである。生命の「火」と「風」が止
(や)まぬ間は……いつまでも。
つまり、人間が性的要素を訓練すれば、自然と共に、自らも発達し、人生を深みのある、豊かなものにしていくのである。本来は、ここにこそ人間の本当の営みがあったのである。



●男根噴水・女陰発熱

 人間の歴史は、有史以来、欲望を満足させる為に、その努力が払われたが、その欲望の根元には、「世界中のもの」を吾(わが)がものにしたいと言う願望が働いていた。
元々、セックスは、良い女を抱きたい、あるいは良い男から抱かれたいという願望が、性欲と重なりあった為に、人類の発展する起因を作った。これが子孫を残す原動力となった。

要は、良い女を抱きたい、世界中の女を吾
(わ)がものにしたいという男の夢と願望が、世界を拓(ひら)き、これに応じる女性本能が、人間の歴史を作り上げたと言える。「性」は人間の、生命の原点であったわけだ。

ところが、「良い女を抱きたい、世界中の女を吾がものにしたい」という男の“夢”と“願望”は、ある時代から別の形で動き始める。
最終的には「性の願望」を満たす目的をもっているのだが、その手段として、「支配する側」と「支配される側」の階級構成が、歴史と共に明かになっていく。人間の階級的なヒエラルキーが出来上がるのである。

人間の歴史は、十七世紀後半において、プロレタリア階級の都会への集中が始まり、男根
(なんこん)噴水、女根(にょこん)発熱の結果、肉体の宿る「生命の火」の作用によって、徐々に人口が殖(ふえ)え始め、近代資本主義の基盤を固めて行った。
近代資本主義は、一種の人口増加を齎
(もたら)したと言える。この時代の人間の性器は、単なる動物的な、人口増加を齎す生殖器だった。非常に未熟なものへと退化したのである。これが「性の氾濫(はんらん)」であった。

その結果、性が乱れるだけでなく、“性の錯覚”が起った。
世間には、性欲の対象として利用される女達が、セックスすることで「自分は愛されている」と錯覚していることである。
この“思い込み”によって、性的な満足というのは、真底愛されていると云うことに比べれば、何の変哲もない事なのである。ちっとも素晴らしくも、素敵でもないのである。
ところが“性の錯覚”によって、肉体さえ繋がっておれば、それが愛だと思い込んでしまったのである。これが現代の世の、“性の錯覚”なのである。

そして“性の錯覚”は、精の浪費と、物品の消費を促す社会を作り上げた。
この時代を機転に、時代は物質化の方向に大きく傾き、正守護神
せい‐しゅご‐しん/霊的神性を司る神で、中心帰一の中心力を持つ。左旋)に変わり、副守護神ふく‐しゅご‐しん/物質的欲望を司る神で、中心から大きく懸け離れ、拡散・膨張の遠心力を持つ。右旋)が猛威を振るう事になる。唯神論から唯物論に変化した時代であると言える。肉体の物理化や科学化が、一方で物質主義を蔓延こらせ、人体の霊体・幽体・肉体のうち、“肉体”だけの「官能」と「快感」に眼が奪われると言う現象が起ったのである。
その時代は、奇しくも、金融経済が主導権を握り、西欧に植民地主義や帝国主義が猛威を振るい始めた頃からであった。そして、これが引き金となり、その後の人口爆発が起り始めるのである。

人口が増加するメカニズムを説明するのに、「蓮
(はす)の池」の話が、よく人口学者により、説明されることがある。
おそらくこれは、密教の故事などから得た喩
(たと)え話であろうが、これには次のように説明されている。
「池の中に一株の蓮
(はす)が生えた。これが年々二倍になり、百年後には池一杯になって、総(すべ)ての蓮は窒息し、総てが死に絶えた」

これは、一つの暗示である。
人口学者の説明は、これだけに留
(つど)まらない。次ぎのような問題を提示し、これに解答を求めるのである。
問として、「では、この蓮が池の半分を占めたのは、蓮が生えて何年目のことか?」と。
答は「99年目であり、全滅する一年前の事である」と。

そして人口学者は、地球を、この話の「池」に喩
(たと)え、人間を「蓮」に喩える。年々増加する蓮が、九十八年も掛かって、やっと池の四分の一を占めた。98年も掛かって、まだ四分の一だ。四分の三という、大半は空きではないかと。
そして後、四分の三の面積が余っているのだから、池一杯になる心配はない。第一、池の四分の一を占めるのに、98年も掛かったではないか。池が満杯になって、蓮に危機が訪れる等、何を心配する必要があろうと。


蓮の花の池


ルンキラモ
 蓮 は、古くは大陸から渡来したといわれる仏教とのかかわりが深い植物である。寺院の池、また池沼・水田などで栽培され、蓮を植えてある池を蓮池という。ま た、蓮には、「蓮の糸」なるものがあり、この糸は、蓮の繊維を集めてつくった糸の事を言うが、この糸自体に極楽往生の縁を結ぶとの俗説がある。

ところが、水面下の茎下の蓮芋
(はす‐いも)の部分は、小さく硬くて食用にならない。その上に、一年後とに二倍の勢いで増えて行き、最後は池全体を占領すると言う繁殖力を持っている。したがって池の所有者は、10年に一回か、15年に一回、蓮を蓮芋(はすいも)ごと“間引く”のである。この「間引き」をしないと、蓮は池一杯になり、やがては全滅するのである。
蓮を見ると、その花は確かに美しい。しかしその美しさの下に、「全滅」と因子を抱え込んでいるのである。

そしてこの「因子」は、どこか人間に共通したものを持っているではないか。
時代の変化は、その節目ごとに異変が起り、あるいは戦争が起る。特に戦争を考えた場合、軍産複合体の武器消化周期は10年から15年であると言われてい る。太平洋戦争終結から朝鮮戦争、朝鮮戦争からベトナム戦争、ベトナム戦争から湾岸戦争、湾岸戦争からイラク戦争と、過去の歴史を振り返れば、10年から 15年で繰り返されているではないか。
これは、地球の人類が殖え過ぎない為の抑止力か。何故か、そう思えてならないのである。そして人類は、滅亡の方向に向かって驀進
(ばくしん)しているのかも知れない。
池の半分を占めた99年目の半分になった時点でも、まだ半分は残っていると高を括(くく)った。その一年前の98年目も、四分の三は空いているではないかと安心しきっていた。
だが、その98年目から数えて、二年後には蓮の総
(すべ)てが全滅するのである。しかし全滅する翌年の99年目にも、「まだ半分は残っている」と高を括るのである。そして100年目に全滅する日を迎えるのである。

これは一種の密教的な挿話であろうが、地球の人口も、この話に密接な関係を持っている。つまり、この挿話の裏には、人口増加率は同じでも、爆発的な人口増加率により、接待数は、倍々ゲームで増えていくのである。

例えば、地球の土地や資源はまだあると思いながら、半分の状態になった時は、その翌年の運命の日が訪れ、総てが死滅してしまうのである。今日の地球は、 その限界を迎える日が、目前に迫っているのかも知れない。事実、人類はカオス理論で云う、「特異点」に向かって、まるでウシ科の哺乳類・ヌーの群れのよう に突き進で出いるのである。

今日の地球規模で、人口増加率を観
(み)て行くと、その爆発的な人口増加は、実に凄(すさ)まじい。
1970年代から1980年代の十年間で、世界の人口は7億9,000万人も増加した。これは1750年の全世界の人口に匹敵する。そして、1990年代には8億8,000万人の人口が増加し、十七世紀後半から十八世紀にかけて、産業革命
industrial revolution/1760年代のイギリスに始まり、1830年代以降、欧州諸国に波及した産業の技術的基礎が一変した産業技術革命。この産業革命を経て、初めて近代資本主義経済が確立し、小さな手工業的な作業場に代って、機械設備による大工場が成立する)が始まった約二百年間で、爆発的な勢いで、加速度を付け増え始めているのである。

世界的な人口増加の兆候が見え始めたのは、十九世紀初頭だった。英国の経済学者マルサス
Thomas Robert Malthus/「人口論」を発表して社会に大きな衝撃を与えた。1766~1834)は、人口増加が深刻な食糧不足を齎(もたら)すと予告した。
しかし十九世紀後半からは、南北アメリカでの土地開発や化学飼料の出現で農作物や家畜が思った以上に繁殖し、食料生産が急速に進んだ為、その懸念
(けねん)は薄れた。この結果、近代文明社会では、その科学力をもって、限り無く食糧を人類に提供出来ると言う傲慢(ごうまん)な考えが生まれた。

かつて紀元前2000年前頃の世界の人口は、3,000万人程度であったと推測されている。それが当時の農業革命で、農業基礎が本格化されると、徐々に殖
(ふ)え始め、灌漑治水(かんがい‐ちすい)によって、紀元前1200年頃になると、世界の人口は1億人に達したと言う。その後、気温の寒冷化もあって、一時期、人口の伸び率は停滞したが、紀元前400年頃になると、再び急増が始まった。

紀元前後には4億人に達し、この四百年の間に、西洋ではローマ帝国の成長期にあり、中国では春秋戦国時代の真っ只中で、その直後、秦
(しん)ならびに漢王朝が栄えた。インドでは、マウリア王朝の大帝国が出現し、世界は古代物質文明に突入したのである。しかし、それから百年後の二世紀に入ると、地中海沿岸や中東ならびに中国黄河流域などにおいては、古代文明の先進地域で人口の減少が起り始めた。
一方、今日のフランス、ドイツ、ウクライナ方面の北ヨーロッパ、ならびに中国の南部や西域、漠北部では人口の増加が起り、先進地域との逆転現象が起り始めた。

四世紀に入ると、世界的に激減傾向が起り、400年から600年にかけては、世界の総人口は3億人を切るようになる。西ローマ帝国の滅亡や、中国南北朝 に当たる中世初期には激減傾向を見るのである。こうした人口の激変が回復するのは、それから800年後の十三世紀になってからであった。

また十五世紀になると、ヨーロッパでペストが大流行し、更には気温の寒冷化により、約50年間で25%の人口が激減したと言う。世界の人口変動は複雑化を見せ、奇怪な波動を見せ始めたのである。
ところが1600年代に入ると、世界の人口増加の傾向は、まさに「池の蓮」の様相を見せ始めたのである。この時代に到って、世界の人口が5億人を突破した。
1800年には10億人、1930年頃には20億人、1960年頃には30億人、1975年頃には40億人、1987年頃には50億人となった。そして1999年には60億人
(1999年10月12日にはついに60億人を突破)、更には2050年頃には89億人を突破すると予測されている。

地球上の人口は、確実に殖
(ふ)え続けている。歴史の変化を目紛(めまぐる)しくさせながらも、確実に殖え、「支配する側」と「支配される側」は明確になり、階級的ヒエラルキーが出現することになった。今や、スーパーリッチとワーキング・プアーの差は、一目瞭然(いちもく‐りょうぜん)になり始めている。「持てる者」と「持たざる者」が明確になり始めた。
そして、これをユダヤの黄金率で分割すると、
28:72という明確な分離比が出て来るのである。

人類の有史以来の歴史を振り返れば、民族、王朝、国家、企業などは、総て「欲望の原理」で動かされて来た。しかし、これは手段に過ぎなかった。その背後 にあるものは、飲食を満たし、性欲を満足させるものが、最終目的であった。この最終目的を満たす為に、様々な手段が用いられた。

歴史を変化させる原動力も、一つは、人間の最終目的を成就させる為の手段であり、それが富の形成だったに過ぎなかった。
民族や国家間の闘争も、その動機が欲望を満足させる為の単なる手段であり、その背後には最終目的である
「享楽」が隠されていた。ホンネは享楽を享受したいが為に、欲望を燃やし、努力を惜しまず、完成の暁(あかつき)には、贅(ぜい)を凝らした享楽に浸る事であった。

歴史には、享楽に至る為の手段として、表側だけしか記されていないが、潜在的な欲望は、良い女を抱きたい、世界中の女を吾
(わ)がものにしたいという男の夢と願望が、世界を拓(ひら)き、これに応じる女性本能が、人間の歴史をつくり出したことは、その欲望が「性」に求められたことが、何よりも歴史は雄弁に物語っている。そして、そこに人間の「性」が絡んで居た事は、全く否定できないことである。

しかし、「享楽主義」の行き着いた先は、人類の破滅を暗示している。物質主義の謳歌
(おうか)は、「若さ」を享楽的な青春に置き換え、これを若者に「人生」イコール「享楽」という図式を植え付けた。そして一生かかって享楽を手に入れることに奔走(ほんそう)させる人生観を、現代と言う世に出現させた。享楽に趣(おもむ)くのは、人間の自然の性向だと煽(あお)った。

これにより、性交遊戯に戯
(たわむ)れる世の中が出現した。また、戲れから、義人(ぎじん)が減り、邪人(じゃじん)が増える世の中に変貌した。世の中には、邪人だらけである。
しかし、この現実を凝視すると、青春は享楽によって輝くのではなく、かえって享楽により、廃
(すた)れる現実をつくり出したのである。
(すなわ)ち、享楽によって、若さは栄えるのではなく、享楽により崩れ、腐蝕する世の中をつくり出したのである。享楽主義の誤りから、人口増加の皺寄(しわよ)せが、此処にも顕われることになる。

密教房中術は、人生の意義は享楽にあるのではないと説く。男女の愛は清らかであるが、肉欲を滾
(たぎ)らせて、それに浪費させることではないと説く。肉体的な浪費ではなく、生命力の燃焼こそ、人生を大いに豊かにすると教えているのである。人生の目的は、多くの物財に囲まれたり、美男美女に囲まれたりの物質的な幸せにあるのではない。
男女二根交会を通じ、「性」の本質を知り、如何に自己を偉大な悟りに近付けたかを、人類に向けて問い続けているのである。



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