2011年4月8日金曜日

道教:黄金の華の秘密 2

黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版

第二話 燃えあがる茂み

より抜粋

呂祖師は言った。  原初の精神と真の本性のみが時空を克服する。  原初の精神は両極の違いを超えている。天と地は此処ここより生ず。 原初の精神をとらえるすべを体得すれば、学人は光と闇の両極を克服し、 もはや三界にとどまることはない。 だが、人間がもって生まれた本来の顔を洞察した者のみが、これを行うことができる。

人が体内から解放されるとき、原初の精神は一寸四方のなかに住むが、 意識的精神は下方の心臓ハートのなかに住む。 この心臓は外界に左右される。 もし人が一日でも食べなければ、心臓は極度の不快感を覚える。 恐ろしいことを聞くと動悸を打ち、腹の立つことを聞くと鼓動を止める。 死に直面すれば悲しみ、美しいものを見れば目がくらむ。 だが、頭蓋(ずがい)のなかにある天上のこころハートは、 少しでも動いたことがあるだろうか?「天上のこころは動かないのか?」 と問うならば、「一寸四方のなかにある真の思考がどうして動くだろう」 と答えよう。

低次の心臓ハートは、強い力をもった将軍のように振る舞い、 天上のこころハートをその弱さゆえにさげすみ、国政の指導権を奪い取った。 だが、根源の城の防備を固め、防御することができれば、 強力で賢明な君主が王座についたようなものである。両目は、 左右の大臣がこころを尽くして君主を補佐するように光を巡らせはじめる。 中央の支配はこのようにして整い、反抗する英雄たちはみな槍を倒して列席し、 進んで命令に従う。

生命の仙薬への道は、種子の水、精神の火、思考の土--- これら三つのものを至上の秘術として知っている。 種子の水とは何か?それは真実にして一なる気(エロス)のことだ。 精神の人は光(ロゴス)、思考の土とは直観のことである。

『 ある日のこと、王は道化師を呼ぶと、宮廷にいならぶ人々の面前で
一本の杖つえを渡してこう言った。
「この杖を職杖としてもってゆくがいい、
おまえよりも愚かなやつが見つかるまであずけておこう。
見つけたら、この杖をその者に渡すのだ」

その後しばらくして、王は病にかかり、死の床についていた。
王はその誠実さを厚く信頼していた道化師に会いたがった。
道化師がやって来ると、王は彼にこう言った。
「おまえを呼んだのは、長い旅に出ることを告げるためだ」
「どこへ行かれるのです?」と道化師は尋ねた。
「はるか彼方の国---あの世へだ」
「あの世への旅支度はもうおすみですか、御主人様?」
「まだ、何もできておらん、このたわけもの」
「あちらには、どなたか出迎えてくれる友人がいらっしゃるのですか?」
「いや、ひとりもいない」と王は答えた。
すると道化師は、悲しげに首をふりながら、
例の杖を王の手に握らせてこう言った。
「この杖をお取りください、陛下。これはあなたのものです。
旅支度もせず、あの世に行こうとなされているのですからね。
この杖は誰のものでもない、他ならぬあなたのものです」

生とは、死と彼方の世界にそなえて身支度を整える機会だ。
死と彼方の世界に対する準備を怠っているとしたら、あなたは愚か者だ。
あなたは大いなる機会を取り逃がしている。

生とは機会にすぎない。
本当の<生>は、まさにこの生のどこかに隠されている。
だが、それはよびおこされねばならない、目覚めさせられねばならない。
それは深く眠りこけていて、まだみずからに気付いていない。
そしてあなたの本当の<生>がみずからに気付いていなければ、
あなたのいわゆる生はたんなる長い夢にすぎなくなる。
しかも、それは甘いものではありえない---それは悪夢になる。

本当の<生>に根を下ろさずに生きることは、
大地に根をもたない樹のように生きることだ。
美が欠けているのはそのためだ。優美さが欠けているのはそのためだ。
ブッダたちが語る人間の輝きがあなたに見えないのはそのためだ。

イエスは何度も何度も言っている、「神の王国はあなたの内側にある」と。

だが、あなたは帝王のようには見えない。イエスは弟子たちに言う。
「野の百合ゆりを見なさい。なんと美しいのだろう!
偉大なソロモン王ですら、いかに華麗に飾り立てても、
この貧しい百合の花ほどにも美しくはなかった」

なぜ百合はこうも美しく、人間はこうも醜いのだろう?
なぜ人間だけが醜いのだろう?
醜い鸚鵡おうむや醜い孔雀、醜いライオンや醜い鹿を見たことがあるだろうか?
醜さは人間特有のもののように思われる。

孔雀は孔雀であり、鹿は鹿だ。だが人間はかならずしも人間であるとはかぎらない。人間は仏陀のような人、キリストのような人、クリシュナのような人であってはじめて人間だと言える---みずからの全一な存在に気付いてはじめて人間だと言える。
そうでないとしたら、あなたは暗闇のなかを手探りしながら生きている。
あなたは無意識の暗い洞窟のなかで生きている。

あなたは意識があるように見えるだけだ。あなたの意識はひじょうにもろい。
それはひじょうに移ろいやすい。それはとても薄い表層だ---皮膚一枚の厚さもない。少しでも引っかけば、意識はどこかへ行ってしまう。
誰かがあなたを侮辱する。ほんのひと言、ささいなまなざしで、
あなたの意識はすっかり影を潜めてしまう。
あなたはかっとなり、腹を立て、凶暴に、攻撃的になる。
一瞬、あなたの人間性は影を潜め、あなたは野性にもどってしまう。
再び獣にもどってしまう。

そして人間は獣以下まで落ちてしまいかねない。なぜなら、
人間が落ちるときには、まったく歯止めが効かなくなってしまうからだ。
人間は天使よりも高く昇ることができるが、それはまれにしか起こらない。
なぜなら、天使よりも高く昇ることは、坂道を昇るように骨が折れることだからだ。
人はそのために働きかけなければならない。
それには厳しい働きかけが必要だ。
未知なるものを探求する気迫、勇気が必要だ。

何百万もの人々が生まれては死んでゆく。
だが、彼らはけっして生きてはいない。彼らの生は見かけにすぎない。
彼らは無意識のなかに根を下ろしたままだからだ。
あなたがうわべで何をやろうと、それは
あ な た に関する真実を何ひとつ含んでいないかもしれない。

実のところ、実情はまったく逆さまだ。ジークムント・フロイトが、
あなたの真の姿を見るために夢を調べなければならないのはそのためだ。
その皮肉を見るがいい。
あなたの真の姿は、あなたの日常の現実ではなく、
あなたの夢のなかに究明されねばならない。
あなたを、あなたが自分自身について述べることを信じるわけにはゆかない。
あなたの夢に尋ねなければならない。あなたがあまりにひどい偽者になり、あまりに多くの仮面をかぶっているために、あなたの本来の顔を見抜くことはほとんど不可能になっているからだ。

だが、夢や夢分析によってすら、あなたの本来の顔を知ることは
ひじょうにむずかしい。誰が分析するというのだろう?
フロイトはあなたと同じくらい無意識だ。ひとりの無意識な人物が、
もうひとりの無意識な人物の夢を解釈しようとしている。
彼の解釈はひじょうに限られたものにならざるをえない。
彼の解釈には、あなたよりもむしろ彼自身のことが映し出されるからだ。

あなたが同じ夢をフロイト派の分析家のもとにもち込むと、
ユング派の分析家やアドラー派の分析家のところへ行ったときとは
違う解釈を受けるのはそのためだ。しかし今やたくさんの流派がある。
あなたは途方に暮れるだろう。たったひとつの夢に様々な解釈が加えられる。
それらはあなたに関しては何も述べてはいない。
それらは彼ら自身に関する何かを述べている。
ユング派の人々は「私はユング派だ。私の解釈はこうだ」と言っている。

夢があなたの正体を明かすことなどありえない。意識的な行為を見ても
あなたがわからなければ、眠りの活動を見てあなたがわかるはずがない。
が、それでもフロイトは正しい道の上にいる。
人はフロイトよりももう少し深く入ってゆかねばならない。
人は夢を超えてゆき、思考、夢、欲望が存在しない
心の状態に到らなければならない。
すべての思考が止んだとき・・・夢見は思考の一種であり、
原始的な思考、絵による思考だが、それが思考であることに変わりはない。

あなたが思考を超越して、しかもなお目を見張り、覚めたままでいられたら
---あたかも人がぐっすり眠りながら、しかもなお目を見張り、
その実存の奥深く、中核ではランプが、小さな蝋燭ろうそくの光が
ともり続けているかのように---そうなったら、あなたは自分の本来の顔を見る。
そして自分の本来の顔を見ることはエデンの園に戻ることだ。
そうなったら、あなたは着物をすべて脱ぎ捨てる。

あなたの人格は、着物に次ぐ着物に次ぐ着物
---幾重にも重なる着物から成り立っている。
この風変わりだが、計り知れない価値のある『黄金の華の秘密』という書物を理解するうえで、ひじょうに重要な意味をもつ二つの言葉を覚えておきなさい。
ひとつは「本質(精髄)エッセンス」という言葉、
もうひとつは「人格パーソナリティ」という言葉だ。

「人格」は仮面を意味する「ペルソナ」という語源からきている。古代ギリシャ
の演劇の俳優たちは仮面をつけたものだ。「ペルソナ」は仮面を意味する。
「人格パーソナリティ」という言葉は「ペルソナ」からきている。
ギリシャの俳優たちは一枚の仮面をつけていた。
あなた方はたくさんの仮面をつけている。
状況が変われば、仮面を変える必要があるからだ。
社長に話しかけているときには、ある種の仮面が必要になる。
使用人に話しかけているときには、当然、別の種類の仮面が必要になる。
どうして同じ仮面を使うことができるだろう?

観察したことがあるだろうか?
社長に話しかけているときのあなたは、顔中に笑みを浮かべ、一息ごとに「わかりました」と言っている。たとえ気分を害し、腹を立てていても、
相手の足に口つ”けさえしかねない。
使用人に話しかけているときに見せる、自分の尊大な顔に気付いたことがあるだろうか?
あなたは一度も微笑んだことがない。どうして微笑みながら使用人に
話しかけることができるだろう?それは不可能だ。
あなたは彼の人間性を剥奪しなければならない。彼をひとりの人間として認め、微笑みながら話しかけることがどうしてできるだろう?
あなたは彼を「もの」として所有しなければならない。彼は奴隷だ。
あなたは社長の前で見せるのとは違う態度を取らなければならない。
社長の前では、あなたが使用人だ。社長は尊大で、横柄な態度を取り続ける。
友人に話しかけるときには、違う仮面を使っている。見知らぬ人に
話しかけるときには、もちろん、違う仮面が必要になる。

あなたはたくさんの仮面を使わなければならない。あなたはたくさんの顔をもっていて、周囲の状況が変わるにつれて、それらを次から次へと変え続けてゆく。
あなたの人格は、たくさんの偽りの顔から成っている。


では本質とは何だろう?

本質とは、仮面をつけていない、あなたの本来の顔のことだ。
本質とは、生まれたときに、あなたが世界にもち込んだものだ。
本質とは、子宮のなかで、あなたとともにあったものだ。
本質とは、神---あるいは全一性、全体、<存在>なんと呼んでもいい
---によって、あなたに授けられたものだ。
本質とは、<存在>からあなたに授けられた贈り物だ。

人格は社会、両親、学校、大学、文化、文明からの贈り物だ。
人格はあなたではない。それは偽者だ。
私たちはこの人格を磨き続け、本質を完全に忘れ去っている。
この本質を想起しないかぎり、あなたは虚しい生を送ることになる。
なぜなら、本当の生は本質的なものから成り立っているからだ。

本当の生とは本質を生きることだ。
それを「魂」あるいは「内なる神」と呼んでもいい。
どんな名前で呼んでもいい。だが、その違いを覚えておきなさい。

あなたは着物ではない、心理的な着物ですらない。
モーゼのことを思い出してほしい。モーゼが神に直面したとき、
山上で緑の茂みから燃えあがる火のような神を見たとき---
茂みは燃えてはいなかった、茂みはいつものように青々として、鮮やかだった
---モーゼは当惑した。彼は我が目を疑った。ありえない光景だった・・・
このような火が!茂みは炎のように燃えているのに、焼けてはいなかった。
と、そのときモーゼは茂みから声が響いてくるのを聞いた。
「モーゼよ、靴を脱ぎなさい。おまえは聖なる地にいるのだから」
これは最も美しいユダヤ教の寓話のひとつだ。

神は火だ。あなたの人格はまさに茂みだ。そして神は涼しい火であり、
あなたの人格を焼くことはない。人格は緑の葉を繁らせ続けることができる。
神はあなたに多くの自由を与えた。
あなたが偽者でいたいと望むなら、それは許される。神には何の支障もない。
あなたがまがいものでいたければ、それは許される。
自由とは、正しくあってもいいし、間違っていてもいい---
それはあなた次第だということだ。

あなたの本質はそこにある。その炎はそこにある。
そしてまたあなたの人格もそこにある。人格は偽者だ。だから
「内なる火はどうして人格を焼かないのだろう?」と思うのも無理はない。
その火は涼しい。その火は人格を焼くことがない。
あなたがその人格をまとうと決めたら、火はそれを許す。
あなたはその人格という緑の葉をまとい続け、
人格はその葉むらをもっともっと繁らせ続けてゆくことができる。
あなたはますます偽者になってゆき、完全な偽者になってしまうこともある。
あなたは人格という虚構のなかに我を失うことができるが、
神はそれを邪魔しようとはしない。

このことを、神はけっして邪魔をしないことを、
自由は全面的なものであることを覚えておきなさい。
それが人間の尊厳、人間の栄光であり、苦悶でもある。

自由が与えられていなければ、あなたは偽者にはならない。
他の動物は偽者ではない。動物は人格をもっていない。
ただし愛玩動物ペットは別だ。彼らは人間とともに生活することで、
破壊され、人格をもちはじめるからだ。
飼い犬たちはみずからの本質を忘れてしまう。
飼い犬は腹を立てていても尻尾を振り続ける。
これは人格だ。彼は主人が誰か知っている。
主人のエゴをどうやって満足させるか知っている。
彼は駆け引きを身につけている。彼はニューデリーに住んでいる人々
と同じくらい駆け引きがうまい。彼は尻尾を振り続ける。

ときどき犬が当惑しているのを見たことがあるだろうか?
見知らぬ人がやって来ると、犬はどう振る舞えばいいのか、
見知らぬ人にどんな顔をすればよいのかわからなくなる。
わけがわからなくなって、彼は吠え---たぶんそれが一番いいやり方なのだろう
---それでも尻尾は振り続けている。犬は家に入ってきた人が敵なのか味方なのか、主人がそれとなく示してくれるのを見守っている。敵であれば、尻尾を振るのをやめる。味方であれば、その人に吠えかかるのをやめる。
犬はしるしを、合図を、主人がどう振る舞うのかを待っている。
犬は主人の影になってしまっている、もはや本当の犬ではない。
人間とともに生活することで影響を受け、人間たちに損なわれてしまう。

人間は生活をともにする動物たちさえ破壊してしまう。
あなたは動物が生まれながらにもつ本質を許さない。
あなたは自分が文化を身につけたように、彼らに文化を教え込む。
あなたは本性が自然の道すじをとることを許さない。
あなたはタオがみずからの道すじを流れることを許さない。

本質とは、あなたがこの世にもち込んでくるものだ。
人格とは、世間がその本質の上に押しつけるものだ。
世間は本質をひどく恐れている。なぜなら、本質はつねに反逆的だからだ。
本質はつねに個的なものだからだ。

そして世間はいかなる<個>をも必要としない。
それが必要とするのは羊だ。
世間は反逆的な人々を必要としない。
世間は仏陀、クリシュナ、老子のような人々を必要としない。
いや、こういった人々は危険だ。
世間はおとなしい人々---現状に従う、既得権益に従う、組織化された教会に従う、国家や愚かな政治家たちに従う、従順な人々を欲している。

社会は服従を求める。社会は効率を求める。
あなたが機械的になればなるほど効率はあがる。
もっといきいきとしているときには、あまり効率をあげられない。
機械は人間よりも効率がよい。
社会はすべての人間を機械におとしめようと努力する。
人間を機械におとしめるにはどうすればいいか?
もっともっと無意識にさせればいい。
もっともっとロボットのようにならせればいい。
人間の意識から本質を完全に消してしまえばいい。
人間を完全なまがいものにしてしまえばいい。

夫にしたり、妻にしたり、使用人や、社長や、あれやこれやにしてしまえばいい。
が、けっして本質的な自己にならせてはいけない。それを許してはならない。
なぜなら、その本質的な自己は神以外の誰にも従順ではないからだ。

それは他のものには身をゆだねない。
それは源泉にしか身をゆだねない。
それは他の主人を知らない。

こういったタイプの存在は、
現行の社会にとってひじょうに都合の悪いものになる。
なぜなら、成長すればするほど、あなたの自立はいっそう高まるからだ。

成長が遅れれば遅れるほど、あなたの依存は長びくことになる。
そして依存している人間はうまく操ることができる。
なぜなら、依存している人はいつも恐れているからだ。
依存している人はつねに寄りかかる相手を必要としている。
かたときでさえ寄りかかる相手なしではいられない。彼は幼稚だ。
彼は両親によりかかっている。彼は聖職者によりかかっている。
彼は政治家によりかかっている。彼は自分の足で立つことができない。
社会は、ありとあらゆる着物を使って---物質的な着物だけでなく、
心理的な着物も使って、人間を覆い隠し続ける。

社会は肉体があらわになることをひじょうに恐れている。
肉体があらわになれば、心もあらわになってしまうからだ。
社会が裸の人を見ると狼狽するのは、それが口火を切るからだ。
肉体をさらけ出すなら、彼は最初の一歩を踏み出している。
さあ、彼が心理的に裸になるのを誰が止められるだろう?

燃えあがる茂みから、モーゼに呼びかけた声はこう言った。「靴を脱ぎなさい」
これはひじょうに象徴的だ。それは「着物をすべて脱ぎ捨てなさい」
と言っている。「靴を脱ぎなさい」靴はあなたの足を覆っている。
靴はあなたを覆っている。「靴をはかず、裸足で地面に立ちなさい」
靴は人格を現し、裸足は本質を表している。
「おまえは聖なる地に立っている。靴を脱ぎなさい」

みずからの本質、みずからの内側で燃える茂みに遭遇した瞬間、
あなたは靴を脱がなければならない。着物をすべて脱ぎ捨てなければならない。
あなたの本質を隠しているものをすべて脱ぎ捨てなければならない。
それが革命、メタノイアだ。それは生の転換点になる。
社会は消えて、あなたは<個>になる。
そして<個>だけが神と関わることができる。

だが、大いなる意識が必要とされる。

一九三三年に、グルジェフはニューヨークで借りていたヘンリー・ハドソン・ホテルの一室にピータースを呼び、このことを証明してみせた。ピータースはグルジェフの若い弟子だった。グルジェフはかつて世界に知られた最も偉大な導師マスターのひとりであり、それも型にはまった師ではけっしてなかった。
というのも、導師というのは型にはおさまり切らないからだ。
型を守ろうとするのは導師ではなく、聖職者の特質だ。
導師はつねに革命的だ。そしてこれはすばらしい実験だ。よく聴きなさい。

ピータースが到着すると、夕食にやってくる”あるとても重要な人々”
のために、皿を洗い、野菜を用意するようにと命じられた。
グルジェフはピータースに、辞書には載っていない肉体の部位や働きを
表す英語を片っぱしから教えてくれるように頼んだ。グルジェフが
卑猥な言葉や淫らな言い回しを習得した頃には、客人が到着しはじめた。
客人たちは、十五名ほどの身なりのいい、礼儀正しいニューヨークの住人だった。そのなかには報道関係者や、新聞記者もまじっていた。

遅れて客の機嫌をうかがいながら入ってきた主人は、席につくと、彼の仕事やアメリカ訪問の理由を尋ねる客のぶしつけな質問に答えはじめた。
そこで”英語教師”に目くばせすると、グルジェフは急に声の調子を変えて、人間の悲しむべき堕落や、虚しい卑猥な言葉によってしか描き出せないものになりはてた人の姿が、この国ではことに顕著に見られること、彼がやって来たのは、この現象を実地に観察するためであることを講釈した。
「この悲惨な状態の背後にある原因は」と彼は続けた。
「人々、特にアメリカの人々がけっして知性、あるいは礼節の命に従わず、自分たちの性器にのみ従うことにある」と。さらに彼は、顔立ちの整ったひとりの女性に目くばせして、その身なりや化粧を褒め讃えたあと、彼女が美しく着飾る真の理由は、ある特定の人物に対して抱いている抗しがたい性的衝動のゆえであると、いならぶ人々の前でぬけぬけと言ってのけた。
グルジェフは覚えたばかりの言葉を使って、一字一句それを生々しく表現した。
客人に反論するいとまも与えず、グルジェフは自分の優れた性的能力について講義をはじめ、様々な人種や国々の性的慣習を微に入り細をうがって描いて見せた。
夕食が終わるころには、”例の年代物のブランデー”をしこたま勧められた客人たちは、自制心を失い、卑猥な言葉のやりとりに加わっていたが、まもなく言葉だけではおさまらないようになってきた。
グルジェフが、屈辱的な言葉を投げつけた相手の女性を連れて席をはずすと、これから乱交パーティが始まるのだと錯覚した人々は、あられもない姿でもつれ合いながら、アパートの他の部屋にころがりこみはじめた。

乱痴気騒ぎが最高潮に達したとき、グルジェフは、ぱっと身をひるがえして平静にもどり、くり広げられる狂態を大声で制止してこう宣言した。
「授業はここまでだ。君たちの振る舞いによって、先ほど夕食の席で話した私の見解が間違いでなかったことがもう充分に明らかになった」
客人たちは自分たちの真の状況を少しでも認識できたことをグルジェフに感謝し、グルジェフは”重要な教訓”を与えた報酬として、悪びれずに彼らから小切手や現金を受け取った。---グルジェフを知っていれば、驚くほどのことではないが---その額は”数千ドル”に達した、とピータースは書きとめている。
みんなが帰ると、グルジェフは台所にやってきて、ピータースの皿洗いを手伝いながら、夕べの集いは楽しかったかねと尋ねた。

「うんざりしました」とピータースは答えた。
グルジェフは笑い、”射るようなまなざし”で彼を見つめた。
「うんざりしたとはすばらしい。だが、次には
自分自身に問いかけてみる必要がある。誰にうんざりしたのか?とね」

これが本当の状況だ。表面に現れた姿がすべてではない。
その客人たちは、人類はひどく堕落していて、うわべで行なっていることと、内側深くで本当にやりたいことが一致していないというグルジェフの見解にいらだち、腹を立てていた。あなたは釈明をし、理屈をつけようとするかもしれない。理屈はあくまでも理屈だ。奥深くでは、別の何かが無意識のなかで作用し続けている。あなたはそれに気付いてさえいない。

心理学者たちは、女性が強姦される場合、大半は強姦されたいという思い、願望が女性の側にあったと言う。彼女はそれを招き寄せていた。
彼女はある仕草をつくっていた。その歩き方、その服装、その話し方、
それらすべての振る舞いが強姦を招き寄せていた。と、やがてある日、
それが起こる・・・そうなると彼女は、いかにも驚いたように、
怒り、荒れ狂った顔をして、警察に駆け込み、法廷で争う。
だが、もし彼女が自分自身の心のなかを深くのぞき込めば、
もっと驚くことだろう。それは彼女自身が努力して、
みずからの願望を成就させたものに他ならなかったのだから。

内側にある真の動機に気付くことさえなく、
この二重生活を送り続けている人々がいる。
見守りなさい。
すると、そのように見守ることで、あなたはごくごく注意深くなってくる。
ただ見守りなさい。
あなたの真の動機は何なのか?
そんなはずはないと、自分自身を納得させようとしてはいけない。
ただ鏡になって、自分の行動を見守るのだ。ただ自分の行動を黙って見守り、なぜ自分があることをしているのか、それはどこから来ているのか、つねに注意を怠らずにいることだ。

そうすれば自分が二人いることに気付くだろう。
ひとりはあることを言う人格。
もうひとりはまったく逆のことをやり続けるあなたの本当の姿だ。
その二つはなんとか互いにやりくりしてゆかねばならない。
それゆえの葛藤であり、軋轢あつれきであり、エネルギーの浪費だ。

ひとつの願望を内に抱きながら、外側ではまったく逆の行動をしてしまう
といったことが往々にして起こる。なぜ逆の行動をとるのか?
それはあなたが逆の行動を通してその願望を抑圧しているからだ。

奥深くで劣等感を感じている人は、外側ではひじょうに優れているふりをする。
優秀でありたいと思うのは劣った人々だけだ。
本当に優れている人々は少しもかまわない。
劣等感で苦しんでいる人々はみんな政治家になる。なぜなら、
自分たちが大いに優れていることを証明する方法はそれしかないからだ。

「俺は、おまえよりも高潔だ」といった表情を浮かべている人は、
実情はまったく逆であることを奥深くでは知っている。
彼は罪の意識にさいなまれている。
彼は奥深くでは自分には価値がないと苦しんでいる。
彼は自分が高潔ではないことを知っている。
今や世間からそれを隠す唯一の方法は神聖さの仮面をつけることだ。
あなたがたのいわゆる聖者たちは、罪人たちとこれっぽっちも変わらない。
ただひとつの違いは、罪人たちは正直だが、
世のいわゆる聖人たちは不正直だということだ。

百人の聖者のなかからたったひとりでも真の聖者を見つけることができたら、それだけでもう充分だ、充分過ぎるほどだ。それ以上は期待できない。
九九人はただふりをしているだけだ。
私は、彼らは他人に対してだけふりをしていると言っているのではない。
そのふりがあまりに板についてくるので、彼らは他人をだましている
だけではなく、自分自身をもだましはじめるようになる。
実際、自分自身をだますためには、まず他人をだまさなければならない。
それでようやく、あなたもそれを信じることができるようになる。

真の聖者は、他人のことなど少しも気にしていない。
彼は自分が誰であるか知っている。
全世界がその男は聖者ではないと言ったとしても、どうということはない。
彼の理解は内なるものだ。
彼は自分自身に直じかに遭遇している。
彼の体験はあいだを置かない、実存的なものだ。
彼は自分の本質を知っている。
そしてみずからの本質を知ることは、神を知り、不死の人となり、
死を超えてゆく最初のステップになる。

ヘンリ・ベルグソンは今世紀の初頭にこう述べている。彼は言った「科学技術によって肉体に付与されたものは、それにふさわしい魂への付加物を求めている」

現代人には、他のいかなる時代にもまして魂が欠けているように見える。その
理由は科学と技術テクノロジーが肉体に多くのものをつけ加えたことにある。
肉体はより強靭になり、より長生きするようになった。
頭脳はより強力になり、より博識になった。
肉体や頭脳と比べると---頭脳は肉体の一部だ---魂はきわめて貧弱なままだ。
魂はほとんど無視され、打ち捨てられている。
誰ひとり魂の世話をする者はいない。
自分の本質について誰が考えるだろう?
教会や寺院に行くことは助けにはならない。

あなたは自分自身の内側に入ってゆかなければならない。
あなたは靴を脱がなければならない。
あなたはみずからのあらわな本質に入ってゆかなければならない。
そうしてはじめて、あなたは自分自身を宇宙と結びつけることができる。
あなたはそこからはじめて実在に橋をかけなおすことができる。
さて、経文だ---

呂祖師は言った。
原初の精神と真の本性のみが時空を克服する。

本質について私が話していたことを、呂祖は「原初の精神」と呼んでいる。
原初の精神とは、あなたの本質をなす魂のことだ。
それはあなたが母親の胎内にいるときに神から授かったものであり、
教え込まれたり、条件付けられたものではない。
あなたは母親の胎内でどのようなあり方をしていたのだろう?
あなたは何も教わらなかった。
あなたは心マインドをもっていなかった。
あなたは無心ノーマインドの状態で存在していた。
そこにその至福に満ちた状態の秘密がある。

心理学者たちは、この母親の胎内での九ヶ月の経験ゆえに、
人間は神を探し求めてきたのだと言う---この九ヶ月の経験ゆえにと。
その記憶は人間にまとわりついている。
この九ヶ月にまさる美しい日々をあなたは知らない。
おそらくあなたは意識の上では忘れているだろう。
が、あなたの肉体の細胞そのもの、あなたの身体組織そのものの奥深くでは、
それらの日々が今もなお脈打っている。
今もなおあなたの存在のなかに宿っている。
それはあなたの心には意識されていないかもしれない。
だが、それはそこにある。

夜になると、深い眠りに落ちて、自分がどこへ行き、何が起こったのか
は覚えていないけれど、朝になると、ゆったりとして、さわやかで、
楽しい気分になるように。生が再びあなたによみがえっている。
あなたが集めた塵ちりはすべて消え失せている。
あなたは再び気力がみなぎり、若返っている。

あなたの肉体はその感覚を覚えている。
あなたの肉体は穏やかで、静かであり、何かを覚えている。
その思い出は頭脳のなかにあるのではない。
何が起こったのか---自分がどこへ行っていたのかはっきりと覚えてはいない。
仏陀のような人だけが、深い眠りのなかで自分がどこへ行くのか気付いている。
なぜなら、彼は深い眠りのなかにあってさえ、油断なく醒めたままでいるからだ。
あなたは目覚めているときでさえ、日常の気付きのなかにあってさえ油断なく醒めてはいない。
いわゆる目覚めた状態にあるとき、あなたは油断なく醒めてはいない。
目は開いているが、心は千とひとつの思考を紡ぎ出しては織り続けている。

内なる会話が続いている。
内なる騒音が続いている。
見てはいるが見ていない。
聞きはするが聞いてはいない。

それは内側深くに思考の壁があるからだ---
あなたの意識の空には夢が途切れることなく漂っている。
あなたは目覚めているときですら油断なく醒めていない。
覚者ブッダは深く眠っているときですら油断なく醒めている。
覚者ブッダだけが自分がどこへ行くかを知っている。

彼はどこへ行くのだろう?
彼は本質、源泉、原初の精神へとおもむく。
夜、ほんの数瞬でも原初の泉に身を浸せば、あなたは若返る。
深い眠りに落ちることのできない人はまさに地獄にいる。
彼は疲れ、消耗し、生にうんざりしながら床につく。
ところが朝起きてみると、疲労感、倦怠感、消耗感はさらにつのっている。
彼の生は地獄になる。

深い眠りのなかで、あなたはみずからの実存の
原初の泉に引き込まれるようにしてもどってゆく。
その原初の泉はつねにそこにある。
あなたはそれを失ったのではなく、ただそれを忘れているだけだ。
そしてその原初の泉はあらゆる二元性を超えている。
あなたが知るのは生でもなく、死でもなく、超越的なものだ。
それはあらゆる種類の二元性を超えている。
それは神だ。


原初の精神と真の本性のみが時空を克服する。

原初の精神の内にあるとき、あなたは真の本性の内にある。
人格の内にあるとき、あなたは本物ではない。
あなたは作り物の現象にすぎない。よく見守ってみれば、あなたは
自分の内側にどれほど多くの作り物があるかを知って驚くだろう。
あなたはハートが微笑んでもいないのに微笑を浮かべている。
だとすればそれは作り物だ。あなたは憐れみを感じてもいないのに同情する。
だとすればそれは作り物だ。あなたは嬉しくもないのに喜んでみせる。
だとすればそれは作り物だ。あなたはハートに何も感じていないのに、
泣き叫び、涙を流すことさえできる。だとしたらその涙は作り物だ。

あなたの内側にいかに多くの作り物があるか見守りなさい。
そして作り物はどれもあなたではないことを覚えておきなさい。
神はあなたをプラスティックでつくりあげたわけではない。
神はあなたに永遠の生を与えた。だが、その永遠の生は、
あなたが靴を脱いだときにはじめて見いだすことができる。

あなたの人格を脱ぎ捨てなさい。
すべてのペルソナを、すべての仮面を落としなさい。
仮面をひとつ残らず消えてゆかせなさい。それは痛みに満ちている。
なぜなら、あなたはそういった仮面に同一化してしまっているからだ。
あなたはそれらの仮面を自分の顔だと思い込んでいる。

それは苦痛に満ちた死のプロセスに近いものになるだろう。
しかも一度だけではない---あなたは何度も死ななければならない。というのも、ひとつの顔が落ちるたびに、あなたは死が起こったと感じるからだ。
だが、そこで再び新しい生があなたの内側で解き放たれる---
より新鮮で、より深く、より活気に満ちた生が。

すべての顔が消え、本質のみが残されるとき、あなたは
いっさいの二元性、時間と空間の二元性すらも超越している。
深い瞑想に入ってゆくと、みずからの本質的存在に入ってゆくと、
そこには時間も空間もない。

あなたは自分がどこにいるのか言うことができない---
”場所”そのものが消え失せている---その空間を正確には指し示せない。
あなたはどこにもいないか、あるいは至るところにいるか、
ありうるのはこのいずれかだ。どちらも同じことを意味している。

「人は至るところにいる」と言うことを選んだ小数の者たちがいる---
ヴェーダーンタ学派は「深い瞑想のなかで人は至るところにいる---
アハム・ブラフマースミ、我は神なり」と言うことを選んだ。
「神」とは、至るところにいる者、全存在にゆきわたっている者という意味だ。
あなたは空間そのものになる。「私はつねに在った、永遠に在る」とは、
あなたが時間のなかに遍満しているという意味だ。
これがそれを表現するひとつの方法、肯定的な方法だ。

仏教は別の方法、否定的な表現を選んだ。
仏陀はこう言う---深い瞑想のなかでは、あなたはどこにも存在していない。
空間はすべて消えている。そして時間も存在せず、あなたは時間のない状態にある。時間も空間もないとしたら、あなたはどうして存在できるだろう?

人間は時間と空間が交わる地点においてのみ存在する。
時間の線と空間の線が交わると、その交点に自我エゴが立ち現れる。
この二つの線を取り去れば、自我という点は消えてしまう。
それは二本の線の交差にすぎない。
それは誤った観念だった。

だから仏陀は「誰も存在していない」と言う。
深い瞑想のなかでは、時間が消え、空間が消え、そしてあなたが消える。
いっさいのものが消え失せ、そこには<無>、シューニャ、ゼロのみがある。
これは同じことを否定的な仕方で語ったものだ。

肯定的な表現を選ぶなら、「私は神だ」と言うこともできる---
それにはそれなりの危険があり、また独自の美しさもある。
あるいは否定的な表現、アナッター、無我、<無>、にゃはんニルヴァーナを選ぶこともできる。これにも独自の美しさがあり、またそれなりの危険もある。
<無>というまさにその観念が人々の意欲をそいでしまう---危ないのはそこだ。
<無>でありたいと誰が望むだろう?四十年にわたる伝道生活において、
仏陀は何度も何度も尋ねられた。
「なぜ人は<無>であろうとしなければならないのですか?
それは死、究極の死ではないですか?」すると仏陀は言う。
「その通りだ。それは究極の死だ。だが、それは美しいものだ」質問者が尋ねる
「ですが、それは誰にとって美しいのですか?
だって誰もいないはずでしょう?」すると仏陀は言う。
ただ美しさだけが、至上の幸福だけがあって、それを体験する者はいない

人間の心マインドがこう言うのも無理はない。
「でも、自分がそこにいないのなら、何もならないじゃないか・・・。
それがとても美しいというのはすばらしいけど、自分がいなければ、
美しかろうとなかろうと何の違いもないじゃないか。
どうして自分を無くさなければならないのだろう?大して美しくはないけれど、少なくともこの私が存在している世間にいるほうがまだましだ」

<無>という終着地は人々の意欲をそいでしまう。
仏教がインドから姿を消したのはそのためだ。彼らは教訓を学んだ。
それは中国では否定的な言語を落とした、チベットでは否定的な言語を落とした。インドの仏教、原始仏教は完全に否定的だった。
仏陀の感化を受けて何千もの人々が変容を遂げたのだが、
仏陀のような人をつねに見いだすということはできない。

仏陀の影響力はあまりにも大きかったので、
人々は死んで<無>になる用意さえできていた。
それは仏陀ゆえに起こったことだ。
さもなければ<無>であることには何の魅力も、人を誘う力もない。
が、仏陀の磁力があまりにも強かったので、
仏陀のカリスマがあまりにも強かったので、
何千もの人々がみずから進んで<無>になろうとした。
「仏陀がそうおっしゃるのなら、それは正しいにちがいない」と。
仏陀の言葉にはそれほどの重みがあり、その目がすべてを実証していた。
「彼が消えてしまったのなら、私たちも消えてしまおうではないか。
仏陀がそうおっしゃるなら、信頼してもいい」

だが、ひとたび仏陀がこの世から姿を消すと、
仏教の僧侶たちは人々を説得することができなくなった。
彼らはインドから完全に姿を消さねばならなかった。彼らはそこで教訓を学んだ。インドの外で、仏教は肯定的な言語を使いはじめた。
仏陀が否定したすべてのことを使いはじめた。それは生き延びた。
だが、仏教として本当に生き延びたのではなく、ヴェーダーンタ学派として生き延びた。肯定的な言語として生き延びた。
だが、仏陀の最大の貢献は否定的な表現にあった。

否定的な表現の美しさは、人の自我エゴを少しも満足させたり、
少しも喜ばせたりしないことにある。肯定的な言語の危うさはそこにある。

アハム・ブラフマースミ--「我は神なり」、アナル・ハック--「我は真理なり」
と言うときに危険なのは、真理が二義的なものになり、
その「我」が一義的なものになってしまいかねないということだ。
真理はあなたの影になってしまうかもしれない。力点が
「私」という言葉に集まり、「私こそが神だ」となってしまうかもしれない。
神に力点が置かれ、「私」が神に対するたんなる影であり続けるならば、何も問題はない。だが、それはひじょうにむずかしい。

その「私」はじつにずる賢い。
自我エゴの手口はじつに巧妙だ。それは機会をとらえ、
その観念に飛びついて、こう言う。「その通り、私が神であり、
他の者たちはそうではない。私が真実であり、他の者たちはみな偽物だ」
だが、そうなったら肝心な点がそっくり見逃されてしまう。
いずれにせよひとつだけ確かなのは、時間と空間が消えてしまうということだ。

あなたは「私はすべてだ-すべての空間を満たし、すべての時間を満たしている
---私は至るところにいる、時を越えて存在している」と宣言するか、あるいは
「私はいない。時間というものはない。空間というものもない。
永遠から永遠にわたって、絶対的に静まりかえった<無>があるのみだ。
さざ波すら立たない静寂が」という仏教徒の表現を使うしかない。
だが、いずれの言明も同じことを指し示している。
表現は異なり、指は異なっているが、それらは
同じ月を指さしている。
その月があなたの本質だ。

呂祖師は言った。
原初の精神と真の本性のみが時空を克服する。

時間と空間を克服しないかぎり、あならは死を克服することができない。
死は時間のなかに存在し、空間のなかに存在している。時間と空間を克服しないかぎり、あなたは心マインドと肉体を克服することができない。

理解しようとしてみなさい。

肉体は空間に対応し、心は時間に対応している。
心は時間的な現象であり、肉体は空間的な現象だ。
肉体は あ る 場 所 に存在し、心は あ る 時 間 に存在している。
時間のない心を想像してみても、あなたはそれを思い浮かべることができない。
心とは過去、現在、未来のいずれかだ。
記憶、想像、現在の事実のいずれかだ。

心マインドは三つの時制のなかに存在する。
あなたがたは注意深く、意識をとぎ澄まして私に耳を傾けている。
心は現在にある。
他のことを考えながらここにいるなら---聖書で何かを読んだことがあり、それが私の言うことに当てはまったり、当てはまらなかったりする---
あなたは自分の想像や記憶のなかに入り込んでいる。
時間が消えてしまったら、心を思い浮かべることはできない。
時間と心は同じものを意味する。

人間は宇宙の縮図であり、小宇宙だ。
外界により、大きな規模で存在するものは、何から何まで人間の内部により小さな規模で存在している。人間を理解することができれば、
全宇宙を理解したことになる。「上のごとく、下もまたある」
人間はこの宇宙全体を構成する原子のような要素だ。
ひとつの原子を理解すれば、あらゆる物質を理解したことになる。
ひとりの人間を理解すれば、自分自身の神秘を読み解くことができれば、過去、現在、未来のいっさいの神秘---万物を理解したことになる。

だからこの二つのことを覚えておかねばならない---
肉体は空間であり、心は時間だということを。

瞑想すると、あなたは肉体から消えてゆく。
あなたは自分が誰なのか、男なのか女なのか、美しいのか醜いのか、
黒人なのか白人なのかわからなくなる。
あなたは自分が誰なのかまったくわからなくなる。

内側に入ってゆくと、肉体ははるか後方に残される。
肉体の位置を確かめることすらできない、肉体の存在を感じる
ことすらできない瞬間がやって来る。
あなたはもはや形にとらわれてはいない。
あなたは形なきものになっている。

そして同じことが心にも起こる。あなたは自分の
心がどこにあるのか、その心がどこへ行ってしまったのかわからない。
内側で途絶えることのないそのすべての騒音、その往来の騒音が
遠くへ遠くへと離れてゆき、消えてゆく。

突然、大いなる静寂があなたの内側ではじける。
この時間も空間もない状態のなかで、あなたはみずからの本質を知るに至る。
そして自己の本質を知ることで、タオをはじめて垣間見る。

原初の精神は両極の違いを超えている。

すべての両極の違いが消え失せる。男/女、夏/冬、暑さ/寒さ、愛/憎しみ、
肯定/否定、時間/空間、生/死。いっさいの両極が消える。

原初の精神は両極の違いを超えている。

どちらの極にも愛着をもってはいけない、と私がしきりに強調するのは
そのためだ。あなたがたはいずれかの極に愛着をもつようにと教えられてきた。
あなたがたのいわゆる宗教は、世間で暮らすか、
それとも世を捨てて僧院に入りなさいと説いてきた。
私は世間にとどまりながら、その一部にならないようにと言う。
そうでないと、あなたはひとつの極に愛着をもつようになる。
僧院に行けば、あなたは街の雑踏マーケットプレイスを恐れるようになる。
それがはたして成就と言えるだろうか?
恐怖があるなら達成はない。

私はヒマラヤに住んでいた人々を知っている。
彼らは恐れるようになる。彼らは世間に降りてきたくはない。なぜならヒマラヤで体験してきたものが、街に入るとすべて消え失せてしまうからだ。
街の雑踏でかき消されるようなものなら、それは成就ではない。

自分の静寂だと錯覚していたものは、ヒマラヤの静寂にすぎなかったのだろう。
それは借り物だった。確かに、ヒマラヤは静かだ。だからその
静寂のなかで暮らせば、徐々にその静けさがあなたに浸透しはじめる。
だが、それはあなたの音楽ではない。それは借りてきたものだ。
ヒマラヤから遠ざかれば、それは消え失せてしまう。

これは錯覚を起こしているだけだ。
これは輝かしい光の残照を楽しんでいるだけだ。
街のなかで暮らしながら、ハートのなかにヒマラヤをつくりだしなさい。
騒がしさの只なかで静かでありなさい。
世帯主でありながら、求道者サニヤシンでありなさい。
私のサニヤシンたちは世間から離れないでほしい、
と私がこれほど強調するのはそのためだ。

何ひとつ放棄しなければならないものはない。放棄の道は逃避家の道だ。
そして放棄の道を選ぶことで、あなたは一方の現象に愛着を抱くようになる。
それはあなたに自由を与えない。

自由は超越のなかにある。
そして超越は、あなたが二つの極のなかで同時に生きるときにはじめて訪れる。
だから世間にありながら、世間をあなたの内側に入れてはならない。

愛しながら、そのなかに失われてはいけない。
関わりながら、しかも独りで、完全に独りでありなさい。
あらゆる関係がゲームだということを熟知していなさい。ゲームを演じなさい。
それを可能なかぎり美しく、可能なかぎり巧みに演じなさい。
ゲームはしょせんゲームであり、だからそれは美しく演じられねばならない。
そしてゲームのすべての規則に従いなさい。
なぜなら、ゲームは規則なしでは成立しえないからだ。

だが、それがゲームにすぎないことをいつも覚えておきなさい。
それに愛着を抱いてはいけない。それに深刻になってはいけない。
いつも内側にはユーモアの感覚を息つ”かせておきなさい。
誠実ではあっても、深刻になってはいけない。
そうすれば、ゆっくりゆっくり、両極が消えてゆくのに気がつくだろう。
誰が世俗的であり、誰が宗教的なのだろう?
あなたは両方か、そのいずれでもない。

原初の精神は両極の違いを超えている。天と地は此処ココより生ず。 原初の精神をとらえるすべを体得すれば、学人は光と闇の両極を克服し、 もはや三界にとどまることはない。

天上の世界、地上の世界、地獄の世界---三界---は、
両極をいかに超越するかを知っている人にとってはすべて消え失せてしまう。

つい先ほど私は、過去、現在、未来---これらが三つの世界だと言った。
過去は地獄であり、それは死んだ、暗い影のようなものだ---幽霊が
あなたにつきまとっている。
現在は地上であり、それは現実、事実、たった今ここにあるものだ。
そして未来は天上であり、それは希望、熱望、欲望、あこがれだ。
これらが三つの世界であり、そしてあなたはこれら三つの世界を絶え間なく
動いてゆかなければならない。あなたは前へ後ろへ行きつもどりつする。
過去から未来へとジャンプし、未来から過去へとジャンプする。
そしてこれがどこまでも続いてゆく。

現在はきわめて微細なので、あなたはそれにほとんど気付かない。
それは過去と未来にはさまれている。そしてこの二つは広大だ。
ところが現在は極微であり、原子のような瞬間だ---あまりに小さいので、目にとまることすらない。あなたが気付くやいなや、それはもう過去になっている。

現在に在るためには、細心の注意深さが、このうえもない注意深さが必要になる。現在に在ることが時間を超越する扉になるのはそのためだ。
過去からは進めない。過去はあまりに広大で、際限がないからだ。
どこまで遡っていってもきりがない。

精神分析が役に立たない、と私が言うのはそのためだ。
それは過去を調べ、過去を解明し、過去を掘り下げ続ける。どこまでいっても終わらない・・・精神分析は、三年、七年と、何年にもわたって続いてゆくが、それでも分析は終わらない。人はその精神分析家に愛想をつかして、相手を変え、別の分析家のもとへ行って、一からやりなおすしかない。

ここで言っておきたいことがひとつある---遅かれ早かれ精神分析は、
過去がこの生の出発点で終わるものではないことを必ず発見するだろう。
あなたはどんどん遡っていって、ヤノフが「原初の叫び」と
呼んでいるものに行き着くことができる。
原初の叫びは精神分析の最終地点だ。子供が呼吸をはじめたときの最初の産声
---その叫びを通して子供は呼吸をはじめた。その最初の絶叫。
だが、ひとたびそこに行き着けば、あなたは驚くだろう。
それもまた始まりではない。次は子宮のなかへもどってゆかねばならない。

東洋ではそれが試みられてきた。東洋には、深く深くもぐってゆく
「プラティ・プラサヴ」---回帰、帰還---と呼ばれる技法がある。
マハーヴィーラはそれを用いた、仏陀はそれを用いた---
彼らは子宮を通り抜けた。そこであなたは再び死を通り抜けねばならなくなる。
なぜなら子宮に宿る前に、あなたは死んでいるからだ。
続いて何層にも何層にもわたるすべての生涯がよみがえってくる・・・
東洋が幾多の過去生という現象に気付いたのは、深い精神分析を通してだ。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教はそれに気付いていない。
彼らはそこまで懸命に試みたことがない。彼らは精神分析を試みたことがない。

フロイトはそれを試みた最初のユダヤ人だ。言うまでもなく、キリスト教徒や
ユダヤ教徒やいわゆる宗教的な人々はこぞって彼に反対していた。
そこには精神分析がもっと深く進めば、遅かれ早かれ、ヒンドゥー教徒の
転生の観念が正しいことが証明されてしまうという恐れが潜んでいる。
それが怖いのだ。どんどん掘り下げてゆくと、次から次へと層が現れてくる。

どこで終止符を打てばいいのだろう?
あなたは数知れない生を人間として生きてきた。
私たちはそれらすべてを見逃そうとするが、それもまたきりがない。
ある日突然、あなたは自分が過去生では人間ではなかったことに、象や虎や犬だったことに気付く。そうしてあなたは動物の生に入ってゆきはじめる。
さらに何百万もの生を通り抜けた後、ある日突然、自分が茂みや樹、
さらには岩であったことを発見する。

インドでは、人は何百万もの生を通り抜けてきたと言う。
それがどこに行き着くというのだろう?過去を分析してもはじまらない。
それはあなたを狂気に駆り立てるだけで、どこにも到らない。

そして同じことが未来の場合にも当てはまる。
どこで止まればいいのだろう?どこまでゆけばいいのだろう?
「この先は見なくてもいい」と言ってどこで打ち切るのだろう?
東洋ではそれもまた試みられてきた。私たちは時間という
概念にとほうもなく働きかけてきたからだ。

だが、いずれにしてもきりがない。
記憶は尽きることがない。想像は尽きることがない。
その二つのはざまにこの瞬間がある。
ごく小さく、あまりに微細なので、
細心の注意を払っていなければそれに気付くことはできない。
それはじつにすばやく動く。
それは飛ぶように過ぎてゆく。

だが、現在に気付くことができたら、扉が開かれる。永遠へと到る扉が。
心マインドはまさにそこから無心ノーマインドのなかへと入ってゆく。
人格はまさにそこから人格を超え、本質に入ってゆく。

イエスが磔ハリツケにされたことはよく知られている。イエスとともに磔に
された盗賊が二人いた。ひとりはイエスの左側に、もうひとりはイエスの右側にかけられていた。あなたがたはそれをとほうもない含みをもった象徴としてとらえたことはないかもしれないが、イエスは現在の瞬間を表している。
盗賊のひとりは過去であり、もうひとりの盗賊は未来だ。
そしてイエスは、神に最も近い現在の瞬間を表している。

盗賊のひとりはイエスをあざ笑った---過去はつねにあなたをあざ笑っている。
彼はイエスを非難した---過去はつねにあなたを非難している。
もうひとりの盗賊は、イエスに未来のことを尋ねた。
「死ぬとどうなるのですか?天国であなたにお会いできるでしょうか?」と。
ひとりは過去であり、もうひとりは未来であり、そしてイエスは
この二人の盗賊の真ん中にはさまれている。

彼らを「盗賊」と呼ぶのはなぜだろう?
過去は盗賊だ。未来は盗賊だ。
それはその二つがあなたの現在を盗み続けるからだ。それらはまさに盗賊だ。
私にとってこれは寓話だ。キリスト教徒が私に同意するかどうかはわからない。
だが、それは私にとってはどうでもいいことだ。
私は他人が私に同意しようとしまいと気にしない。

イエスは、現在、今ここにいて、本質に最も近く、
いつでも死んで肉体と心から消え去る用意ができている。
彼はわずかにためらっている---人は誰でもためらう。
現在にまみえるとき、人は自分を正面から見つめる永遠に出会う。
過去でもなく、未来でもない、永遠---まったく異なる次元に。

過去、現在、未来は水平であり、永遠は垂直だ。
私にとって、十字架は交差する二本の線の象徴でもある。
十字架は二本の線でつくられている。ひとつは水平であり、もうひとつは垂直だ。これは時間と永遠の表現だ。

永遠、どこにもないもの、<無>、あるいはすべてのものに直面すると、人はみなためらう。それは耐えがたい。人は水滴のようにそのなかへ消えてゆくことになる。大海はあまりに巨大で、人は完全に消息を絶ってしまう。
草の葉から大海に落ちてゆく露ですらためらう。

イエスはためらった。私がこの男を愛するのは、彼がためらったからだ。
ためらうイエスを見れば、彼が人間であることがわかる。ためらう彼を見れば、イエスが私たちの一員であることがわかる---彼は人の子だ。

彼は神に向かって泣き叫んだ。「私をお見捨てになったのですか?
私をどうなさるのですか?私を見放されたのですか?もう私のそばには
いらっしゃらないのですか?私は消えようとしています。
なのに私を守ってくださるあなたの御手が見えません」
露が大海に落ちようとしている。
「あなたはどこにいらっしゃるのですか?私は深い<無>のなかに落ちようとしています。死がやってきました。あなたは死のなかにあっても、そこで待ちうけ、私を抱きしめ、包み込んでくださる、暖かい、愛にあふれた方だと思っていました。なのにあなたはどこにいらっしゃるのです?私をお見捨てになったのですか?私を見放してしまわれたのですか?どこにもあなたの姿が見えません」

実際、目に見える神は存在しない。神は人物ではない。
神とはこの完全な<無>を表す肯定的な名前だ。
だが、イエスは神を人物とみなすユダヤ的観念を抱いて生きていた。
このような混乱が、このような恐怖が彼の心に起こるのはそのためだ。
彼には愛する者、天なる父に会いたいと待ち望んでいた自分が見えていない。
彼は天なる父を「アバ」と呼んでいた。彼は天なる父に会いたいと
待ち望んでいた。だが誰もいないように思われる。この世の幕が降りようとしているのに、彼方には大きな口を開いた<無>、底無しの深淵しかない。

それはきわめて人間的だ。イエスの生涯はきわめて人間的だ。そして
それがその美しさだ。彼の生涯が多くの人々の心をとらえたのはそのためだ
---まさにその人間性が人々の心に触れる。

だが、やがてイエスは要点を見抜いた。
彼は永遠<無>を深くのぞき込んだにちがいない。
彼は大切なことを見抜いたにちがいない。
「神が人間の顔をしているはずがない。これこそが神の顔だ。
神が人間の手をもっているはずがない。この<無>が私を抱きしめようとしている。そのふところ深くに私を受け入れようとしている」と。

続いてイエスは神に言う。
「御国は到来しました。御業はなされました。
ですから、そのままに、御心のままに。
あなたは<無>なのです。覚悟はできています。
私はあなたを信頼します。あなたが<無>であることさえ信頼します」

キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥ教徒、ユダヤ教徒たちはみな---
神の人格という観念を抱いて生きてきた者たちはみな、このことに直面
しなければならない。この不安な時、この苦悶を通り抜けなければならない。
神は<無>であり、<無>の別名だという仏教徒の観念や道家タオイストの観念が美しいのはそこだ。まさにその始めから、その<無>という観念とともに生きてきた者はたじろぐことがない。彼はただそのなかに消えてゆく。

原初の精神は両極の違いを超えている。天と地は此処ココより生ず。 原初の精神をとらえるすべを体得すれば、学人は光と闇の両極を克服し、 もはや三界にとどまることはない。だが、人間がもって生まれた 本来の顔を洞察した者のみが、これを行なうことができる。

みずからの内なる<無>が見えてこなければ、それを行なうことはできない。
まず瞑想をして、みずからの内なる<無>へと入ってゆきなさい。
そうすれば、存在そのものの<無>に入ってゆくことができる。

人が胎内から解放されるとき、原初の精神は一寸四方のなかに住むが・・・

これは道家の地図だ。当惑しないこと。人間の意識の地図は色々ある。
地図が変われば、用いられる象徴も変わる。これは道家の地図だ。
道家の人々は言う---子供が子宮から生まれ落ちると、
原初の精神は第三の目のなかに住みはじめる、と。両目のあいだ、
眉間の中央、まさにその中間に第三の目がある。ヨーガの地図ではそれを
「アジュナ・チャクラ」---第三の目のセンター---と呼んでいる。
道家の人々が「原初の精神の住処スミカ」と呼んでいるものはそれだ。

人が胎内から解放されるとき、原初の精神は一寸四方のなかに住むが、 意識的精神は下方の心臓ハートのなかに住む。この心臓は外界に左右される。 もし人が一日でも食べなければ、心臓は極度の不快感を覚える。 恐ろしいことを聞くと動悸を打ち、腹の立つことを聞くと鼓動を止める。 死に直面すれば悲しみ、美しいものを見れば目がくらむ。だが、 頭蓋---すなわち第三の目のセンター---のなかにある天上のこころハートは、少しでも動いたことがあるだろうか?「天上のこころは動かないものか?」と問う ならば、「一寸四方のなかにある真の思考がどうして動くだろう」と答えよう。

この肉体の心臓ハートは絶えず外界に左右されている。それは外界の影響を受ける。それは身体のなかにある外界の一部だ。これは真のハートではない。
道家の人々は、真のハートは第三の目のなかにあると言う。
それは動くことがない。それは不動のものだ。それはつねに変わらない。
肉体の心臓はいつも混沌としている。

そして第三の目のなかにある霊的なハートはつねに秩序がとれている。
それは秩序そのものだ。ヒンドゥー教徒がそれを「アジュナ・チャクラ」---
秩序が生まれ、規律が生まれるセンター---と呼ぶのはそのためだ。
第三の目から来たものは、ただちに実行に移される。
肉体全体がそれに従う。実存全体がそれに従う。
それは命令が発せられるセンターだ。
だが、それは深く眠り込んでいる。あなたは肉体の心臓ハートから生きている。
あなたは自分の霊的なハートをまだ知らない。

低次の心臓ハートは、強い力をもった将軍のように振る舞い、天上のこころハートをその弱さゆえにさげすみ・・・

だが、肉体の心臓ハートは、霊的なハートが動かない
ので、それを弱いものと見なす。
それが動いていないので、あなたがたは霊的なハートに気付かないでいる。
あなたがたはものごとが動いてはじめてそれに気付く。
もし何かがまったく動かずにいたら、あなたがたはそれを気にとめなくなる。
そして低次の心臓はみずからを強者と見なし、天上のハート、
霊的なハートが動かないので、それを弱者、死人に等しいものと見なす。

国政の主導権を奪い取った。

このために、低次の心臓があなたの主人になってしまった。

だが根源の城の防備を固め、防御することができれば、強力で賢明な君主が王座についたようなものである。

だが、もっともっと注意深くなり、さらにいっそう意識しはじめると、
第三の目のなかにある城の防備を固めたことに気付くだろう。
醒めてゆくたびに、あなたは第三の目から機能しはじめることを知って
驚くだろう。少しでも醒めれば、第三の目にある小さな緊張に気付くだろう。
あなたが注意深くなるたびに、第三の目の緊張はつのってゆく。
何かが第三の目のなかで脈打ちはじめる。
何かが第三の目のなかで鼓動しはじめる。

ひとたび覚醒アウェアネスが第三の目を機能させたら、
ひとたび覚醒が第三の目のなかに入り込み、第三の目が機能しはじめたら、
それが息つ”くようになったら・・・
ヒンドゥー教徒がそれを「チャクラ」と呼ぶのはそのためだ。
チャクラとは車輪を意味する。その車輪はエネルギーを必要としている。
ひとたびエネルギーが入ってくると、その車輪はまわりはじめる。
”まわる”とは、それが機能しはじめるということだ。
そうなったら、あなたの実存に偉大な革命が起こる。
低次の心臓ハートはただちに高次のハートにひざまつ”く。
高次のものが訪れると、低次のものはつねにひざまつ”く。
低次のものが支配するのは、高次のものが不在のときだけだ。

それが真の宗教と偽の宗教の違いだ。偽の宗教はあなたがたに言う。
「自分自身を統御しようと努力しなさい。これをやりなさい。

それをしてはいけない。自分の感覚を統御しなさい。自分の肉体を鍛錬しなさい」と。

真の宗教は言う。
「ただ第三の目のなかに入ってゆきなさい。
そして霊的なハートを働かせるのだ。
そうすればすべては統御される。
そうすれば規律はすべて整う。
主人を到着させなさい。
そうすれば、即座にすべてが落ちつくだろう」

両目は、左右の大臣がこころを尽くして君主を補佐するように光を巡らせはじめる。中央の支配はこのようにして整い、反抗する英雄たちはみな槍を倒して列席し、進んで命令に従う。

主人を招き入れるだけでいい。
そうすれば、自分の生に秩序をつくりだそうと努める必要はない。
品性を培う必要はない。品性のことは心配しなくてもいい、
と私が言うのはそのためだ。
もてるすべてのエネルギーをもっと意識することに注ぎ込むだけでいい。
影があなたにつき従うように、品性は意識の後からついてくる。
品性を培おうと努力すれば、あなたの品性は偽物に、まがいものになり、
あなたは偽善者になってしまう。それは<究極なるもの>に到る道ではない。

生命の仙薬への道は・・・を至上の秘術として知っている。

これは至上の秘術だ。これを「秘術」と呼ぶのはなぜか?
ひとたび高次のハートが働きはじめたら、魔法のような奇跡が起こるからだ。
あなたの感覚にはまったく秩序がなかった。
あなたの心マインドはつねに混乱していた。
あなたはつねに
「これをするべきか、それともあれをするべきか?
生きるべきか、それとも死ぬべきか?」とためらっていた。
あなたは絶えず「どこへ行くべきか?何を選ぶべきか?」と緊張していた。

すると、突然、誰かが奇蹟を行なったかのように、
いっさいの混乱が消え、明晰さが生まれ、生は透明になる。
あなたは為すべきことをただやる。実際、
ひとたび天上のハートが機能しはじめたら、あなたがすることはすべてよい。
あなたはあやまちを犯せない---それは不可能だ。

生命の仙薬への道は・・・を至上の秘術として知っている。

そして、この至上の秘術には三つの構成要素がある。

種子の水、精神の火、思考の土---これらは道教の象徴だ---これら三つのものを 至上の秘術として知っている。種子の水とは何か?それは真実にして一なる気(エロス)のことだ。精神の火とは光(ロゴス)、思考の土とは直観のことである。

あなたはこれら三つのものを理解しなければならない。
種子の水とはエロス、今あなたが性エネルギー、性愛のエネルギー
として知っているエネルギーのことだ。
今現在、それはあなたにもめごとしか引き起こさない。
今現在、それはあなたの友人のふりをしているが、
いずれ敵であることがわかってくる。
その後を追えば追うほど、あなたはますます惨めになってゆく。
愛は盲目だと言われるのはそのためだ。

ムラ・ナスルディンがよく私に言っていたものだ。
「愛は盲目だけど、結婚すれば目が開くものさ」
愛が盲目なのは、あなたがまだ目をもっていないからであり、そのために大いなる祝福となりえた巨大なエネルギーがたんなる惨めさになってしまう。
エロスがあなたのエネルギーだ。だからフロイトがあなたのエロス、あなたの性エネルギーのなかにすべてを追求し探求するのは正しい。
だが、性エネルギーの通常のありようは、自然な状態ではなく倒錯した状態であることを知らない点で、フロイトは間違っている。

自然な状態の性エネルギーは、高みへ高みへと昇ってゆく。
それは人を下方ではなく上方へと連れてゆく。
自然な状態の性エネルギーは、あなたの内側で黄金の華となる。

いわゆる通常の倒錯した状態の性エネルギーは、
あなたを新しい監獄に連れ込むだけだ。
なぜなら、それは外へ、下へと向かうからだ。
それはあなたを消耗させる。それは死をどんどん近くへ引き寄せるだけだ。
その同じエネルギーが上に向かいはじめたら、
それは新しい生を、豊かな生をもたらす。それは「生命の仙薬」になる。

まさに泥が蓮華と化しうるように---泥のなかには蓮華が、蓮華の種子が含まれているように---人の性エネルギーのなかには、黄金の華の種子が含まれている。
だが、そ の エ ネ ル ギ ー が上昇すべきであって、
あ な た がそれを上にあげることはできない。
それを上昇させようと努力する人々がいるが、彼らは性倒錯者になる他はない。

直接上昇させることはできないが、間接的に行なうことはできる。
ひとたびあなたの第三の目、あなたの霊的なハートが働き出したら、
エネルギーはひとりでに動きはじめる。
あなたが第三の目をつくりだすと、
エネルギーはまるで磁石に引きつけられるようにそれに向かってゆく。

今現在、あなたのエネルギーは外に向かっている。なぜなら、あなたが
内側にもっている磁石よりはるかに大きな磁石が外にあるからだ。
美しい女性を目にすると、エネルギーは外へ動きはじめる。
その女性は磁石のように作用する。

第三の目が機能しているときには、誰も外に引き寄せる
ことができないほど強力な磁石があなたにそなわっている。
要は外側にある磁石よりも強力な磁石を内側にもっているかどうかだ。
そうなったらエネルギーは上へ、内へと向かうようになる。

外へ向かえば、あなたは二元性の世界に入ってゆく。
内へ向かえば、不二の世界に入ってゆき、あなたは無極になる。

これこそまさに私が「超越の心理学メタ・サイコロジー」あるいは
「ブッダの心理学」と呼んでいるものの土台をなすものだ。
これが純粋な宗教だ---儀式の宗教ではなく、純粋な宗教だ。
これはキリスト教やヒンドゥー教とは無縁であり、
あなたのエネルギーの源泉に関わるものだ。

二番目は精神の火だ。それは光、ロゴス、すなわち顕在意識だ。
上昇する気、エロスは、人を顕在意識と無意識の彼方へと連れてゆく。
ロゴスとは顕在意識だ。それは心理学であり、科学だ。

思考の土とは闇、無意識、直観のことだ。
これは超心理学パラサイコロジーであり芸術アートだ。思考の土は直観、闇だ。

女性は思考の闇、直感的な洞察力のなかで生きている。
女性は無意識、非論理的な存在として生きている。
男性は精神の火、ロゴス、論理、顕在意識のなかで生きている。
芸術家は女性的であり、科学者は男性的だ。

そして種子の水、エロス、一なる気は不二だ。
それはあなたを芸術の彼方、科学の彼方へと連れてゆく。
それはあなたを意識と無意識の彼方へと連れてゆく。
それはあなたを男を超えた世界、女を超えた世界へと連れてゆく。
それはあなたを不二なるもの、超越的なものへと連れてゆく。
だが、その秘術の奥義は、あなたの両目のあいだにある
天上のハートを働かせることにある。
それが働くように助ける具体的な方法については後で触れよう。』

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