スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版
第七話 光の循環と呼吸
より抜粋
呂祖師は言った。
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。初心者がまず陥りやすい誤りは主に二つある。それは昏沈(こんちん)と散乱だ。それに対処するには、呼吸にあまり深く気をとられてはならない。呼吸はこころハートから生じる。こころから呼吸が生じるのである。こころが動くと、ただちに気(呼吸エネルギー)が生まれる。気とは元来、こころの活動が変容したものである。我々の思念は実にすばやく動いて、またたく間に空想に走るが、ひとつの空想には必ずひとつの息がともなっている。内なる呼吸と外なる呼吸は、声とこだまのように一体になっているからだ。我々は毎日数知れぬほど息をし、それと等しい数の空想を抱いている。こうして精神の明晰さは、樹が枯れ、灰が冷たくなるように衰えてゆく。
では頭のなかで空想してはならないのだろうか?人は空想せずにはいられない。呼吸をしてはならないのだろうか?人は呼吸せずにはいられない。最良の方法は、病から薬をつくりだすことだ。こころハートと呼吸が互いに依存し合っているなら、光の循環を呼吸のリズムと結び合わせなければならない。このためには、とりわけ耳の光が必要である。目の光があるように、耳の光がある。目の光は外界にある太陽と月が合体したものである。耳の光とは内なる太陽と月が合体して生まれる種子である。したがって理解(耳)と明晰さ(目)はひとつのものであり、同じ霊妙な光に他ならない。
坐るときには、瞼まぶたを下げて、下げ振りをつるすように視線を定め、光を下方に向ける。しかし、下にうまく注意を向けられないときには、呼吸に耳を傾けるようにこころハートを導く。出入りする息の音が聞こえるようではいけない。聞こえるのは乱れた息である。息が乱れると、たちまち呼吸は荒く、うわついたものになり、伸びやかに広がってゆかない。こころをひじょうに軽やかで微細な状態にしなければならない。枷(かせ)を解かれれば解かれるほど、こころの働きは微かすかになり、微かになればなるほど、こころは静かになってゆく。不意にこころは限りなく静かになって、動きを止める。そうなったら真の呼吸が出現し、こころの真の姿が意識されるに到ったのである。こころハートが軽やかであれば、息も軽やかになる。それはこころのあらゆる動きが気(呼吸エネルギー)に影響を与えるからだ。息が軽やかであれば、こころも軽やかになる。それは気のあらゆる動きがこころに影響を与えるからだ。こころを安定させるには気を養うことからはじめなければならない。こころに直接働きかけることはできないからだ。それゆえに手がかりとして調息法を用いる。これが「気の力を集中して保持する方法」と呼ばれているものだ。
弟子たちよ、おまえたちは"動き"の本性を理解していないようだ。動きは外界の事物によっても引き起こされる。それは支配されるということに他ならない。走るだけでこころが揺れ動くなら、身動きしないことによってそれを鎮めることはできないだろうか?こころと気が相互に影響し合うことを知った偉大な聖者たちは、後世の人々に役立つよう、より簡易な方法を考案したのである。
「鶏が卵をかえすことができるのは、そのこころハートがつねに耳を澄ませているからだ」これは不思議な力をもつ重要な言葉である。鶏は熱の力によってその卵をかえす。だが熱の力は殻を暖めるだけであり、中まで浸透することができない。そこで鶏はこころを用いてこのエネルギーを内部に導き入れる。鶏は耳を澄ますことによってこれを行う。そのようにしてこころを一心に集中させる。こころが浸透すれば、気も浸透し、ひなは熱の力を受けて、生命を得る。それゆえに鶏は、卵から離れるときでさえ、つねに耳をそばだてて聴く態勢を取っている。このようにして精神の集中は途切れることがない。精神の集中が途切れないために、熱の力は昼夜絶えることなく、精神はいきいきと目覚める。精神の目覚めは、こころハートが死ぬことによってはじめて達成される。こころを死なせることができれば、原初の精神はいきいきと目覚める。こころを死に到らしめるというのは、それを枯渇させ、しぼませてしまうことではなく、こころが分断されずにひとつにまとまるという意味である。
物語をひとつ……
いにしえの禅師、道悟(どうご)には崇信(そうしん)という弟子がいた。
道悟に帰依したばかりの崇信は、教師が生徒を教えるように、
師が禅の手ほどきをしてくれるものと思い込んでいた。
だが、道悟はこれといって何も特別なことは言わなかった。
どうやら師には何も変わったことを弟子に伝えるつもりが
ないようだった。とうとう我慢できなくなった崇信は、
少しも禅を教えてくださらないと言って師を責めた。
「おまえがここに来てから、禅を教えなかった日はない」
と道悟は言った。「なんですって?」と崇信は言った。
「いつ教えてくださったというのです?」
「朝、おまえがお茶を運んでくれば」と道悟は言った。
「私はそれを飲む。食事を運んでくれば、私はそれを
食べる。おまえがおじぎをすれば、私もおじぎをする。
禅を学ぶのに、おまえは他に何を期待しているのかね」
タオは分かち合うことはできるが、
分割することはできない。
タオは示すことはできるが、
言葉で表現することはできない。
師はタオのなかに生きている。
弟子はその精神スピリットを
くみ取らなければならない。
それは教えではないし、教えにはなりえない
―教えというのはすべて皮相的なものだ。
それは教えよりも深いものでなければならない。
それはエネルギーの伝達でなければならない。
それはこころハートからこころハートへ、
魂から魂へ、肉体から肉体へと伝わって
ゆくものでなければならない。
それを言葉にすることはできない。
そして弟子は、師の姿をとって顕れている
エネルギーを見、観察し、感じ、愛さなければならない。
やがて徐々に徐々に、師のそばに坐っているだけで、
弟子はけっして説かれることのない多くの
奥義を学んでゆく。
最も深い奥義のひとつは、
師のそばに坐っていると、
弟子の呼吸が師の呼吸と合い
はじめるということだ。
距離を越えた響き合い
シンクロニシティが起こる。
そうして距離を越えて響き合う
ことで、二人は出会う。
それは恋人どうしのあいだでも起こる。
深い恋に落ち、愛する人と一緒に肩を並べて
坐っているとき、そこで観察するなら、
あなたは驚くだろう。
突然、まったく何の理由もなく、
合わせようとしたわけでもないのに
二人の呼吸が合ってくる。
恋人が息を吐くと、あなたも吐く。
恋人が息を吸うと、あなたも吸う。
突然、二人はつながり、輪になっている。
呼吸はこのうえもなく重要だ。
母親はそのようにして子供とつながっている。
ときに子供と母親が何千マイルも遠く離れているのに、
子供に危険が迫ると、母親の心臓は即座に影響を受ける
ということがある。彼らの呼吸は深くつながっている
―彼らは同じような呼吸をしている。
そしてそうなるには明らかな理由がある。
母親の胎内にいる子供は九ヶ月のあいだ母親を通して呼吸していた。
子供は自力で呼吸していたのではない。それは母親の呼吸だった。
子供は母親の呼吸に従っていただけだ。母親は子供のために、
彼に代わって呼吸をしていた。
九ヶ月のあいだ、二人は深いシンクロニシティ
のなかで生きていた。子供が生まれた後でさえ、
それはつつ゛いてゆく。
本当の愛があるなら、それは
生涯にわたってつつ゛いてゆく。
今や科学でさえもそれを証明している。アメリカや、ロシアや、他の国々
でも、最近、鳥や動物を使った実験がひんぱんに行なわれている。子供を遠くへ連れ去って殺し、同時に最先端の装置につないだ母親を観察する。
子供が殺されると―たとえ何千マイル離れていても―ただち
に母親の呼吸が変化する。まさにその瞬間、間髪を入れず、
母親の呼吸は乱れ、身体に震えが走る。
理由などないのに、はっきりした理由などないのに、
母親はパニックに襲われ、苦痛を感じる。
母親と子供のあいだには何の媒体も介在しない。
何か直感的なつながりがある―彼らを結びつけているもの
を目でとらえることはできないが、どこかに見えない糸がある。
弟子は師が何を説いているかではなく、
師 の 実 存 の あ り よ う を学ばなければならない。
道悟が言おうとしているのはそのことだ。
「おまえがここに来てから、禅を教えなかった日はない。
朝、おまえがお茶を運んでくれば、私はそれを受け取る。
私がどのような仕草で受け取るか、観察したことはないかね?
私が茶を受け取るとき、私と深い調和を感じたことはなかっただろうか?
おまえが食事を運んでくれば、私はそれを食べる。
おまえがおじぎをすれば、私もそれに答える。
禅を学ぶのに、他に何を期待しているのかね?」
師は言っている。私の仕草を見守りなさい―
私がどのように歩き、どのように坐り、どのように息をして
いるかを、どのようにあなたとともにただ坐っているかを、
どのようにあなたを見ているかを、どのように千とひとつ
の小さな仕草で私がものごとに 感応 しているかを。
教義を待ってはいけない。師の臨在より他に教義などない。
真の教えはまったく教えなどではない。
それは伝達だ―言葉を超え、経典を超えた伝達だ。
そして伝達は呼吸の調和を通して起こる。
私もまた言いたい。
私もまた教え、哲学、宗教として
あなたに与えるものなど持っていない、と。
教えることなど何もない。
分かち合うものはたくさんあるが、
教えることは何ひとつない―あるいは、
ただ<無>を教えている!
だが、私が伝えたいその<無>を感じるためには、
私とリズムを合わせなければならない。
些細なことが、ごく些細なことが妨げになる。
あなたは何が妨げになるのか
少しつ゛つ気つ゛いてゆかねばならない。
夜のダルシャンの席で、ときどき私は数人のサニヤシン
を呼んで、エネルギーを伝達するのを手伝ってもらっている。
私は何度もプラディーパを呼んだが、彼女を呼ぶと後で必ず気分
が悪くなる。私は首をかしげた。何が起こっているのだろう?
彼女は本当にすばらしい女性であり、私をとても愛してくれている。
彼女を呼んで手伝ってもらっているのはそのためだ。だが、彼女
を呼ぶと必ずそれが起こる。前回、気分があまりに悪かったので、
私はことの全体を調べてみなければならなかった。そして私には
理由がわかった。彼女は野菜以外のものを―肉や卵やその他のもの
を食べているにちがいない。それが彼女の呼吸を醜くしている。
それが彼女の内なる調和ハーモニーをそっくりかき乱している。
彼女が私に波長を合わせることができないのはそのためだ。
そして、波長を合わせることができなければ、障害がつくりだされる。
彼女は私を愛しているが、その愛はいまだに無意識のものだ。
もう少し意識的になれば、彼女はそれに気つ゛くだろう。私ととも
にあるためには、内側にあるたくさんのものを変えなければ
ならないことに気つ゛くだろう。
私とともにあるためには、私とともにもっと深く進んでゆくため
には、こころハートとこころハートの触れ合いをもつためには、
あなたはもち歩いている不要な荷物を落としてしまわなければ
ならない。つまり肉を食べる必要はないということだ―肉食は
瞑想者にはふさわしくない。
肉を食べると、不要な障害をつくりだすことになる。
それは優しさをかき乱し、あなたのなかに一種の残忍さを
生じさせる。あなたはそれに気つ゛いていないかもしれない。
なぜなら、あなたはまったく醒めていないからだ。だが、
私のもとへ来れば、私はまさに鏡のように映し出す。
さあ、プラディーパはみずからの実存のなかに大へんな
吐き気をつくりだしているにちがいない。おそらく彼女自身は
慣れてしまっているので、それに気つ゛かないのだろう。だが、
私は何度も何度も吐き気を感じた。というのも、あなたが
エネルギーで私と関わるとき、それは一方通行ではないからだ。
私のエネルギーがあなたのなかに入ってゆき、あなたの
エネルギーが私のなかに入ってくる。それは一方通行では
ありえない。輪がつくりだされる。循環が起こりはじめる。
これはひとつの例にすぎない。そしてこれはプラディーパ
だけの問題ではなく、みんなの問題だ。
もっともっと深く私と波長を合わせたいなら、
私に起こったタオを分かち合いたいなら、あなたは
もっと意識し、自分が何をしているか、何を食べているか、
何を読んでいるか、何を聴いているか、どこへ行こうとし、
誰とつき合っているかを油断なく見守っていなければならない。
小さなことでも寄せ集まると、
大きな影響を及ぼすことになるからだ。
誰かに腹を立てたり、誰かと喧嘩したりしたあとで
私のもとへ来れば、当然、あなたは私から遠く離れている。
イエスがこう言うのはそのためだ。
「寺院へ祈りを捧げに行って、誰かを傷つけたこと、誰か
を侮辱したこと、誰かに腹を立てたことを思い出したら、
あるいは誰かに腹を立てていることに気がついたら、まず
行って許しを請いなさい。それをすましてから祈りを捧げに
くるがいい。そうでなければ、神と関わることはできない。
まず行って許しを請いなさい。まずものごとを清算しなさい」
ミケランジェロがシスティナ礼拝堂で仕事をしていたときのことだ
……彼はイエスの絵を描いていた。絵はほとんど完成していて、
あとは仕上げの筆を待つばかりだった。だが、なかなか最後の一筆
を加えることができなかった。イエスがイエスらしく描けていなか
ったのだ。イエスの顔に何かが足りなかった―その柔和さ、その
女性的な資質がそこには欠けていた。そこにはあの愛の質が欠けていた。
連日、懸命に努力しているうちに、ミケランジェロは、ある
友人と口論をしたことを思い出した。彼はまだそれを内側に
抱えていたのだ。さらに彼は「祈りに行ったとき、友や兄弟
に良い感情を抱いていないことに気つ゛いたら、まず行って
許しを請いなさい」というイエスの言葉を思い出した。
彼は礼拝堂から駆け出ると、その友人のところへ行って
許しを請い、ことの顛末てんまつをすべて話した。
「何日も仕事をしていたんだが、イエスの顔がどうしてもうまく
描けなかったんだ。何か怒りのようなものがそこには残っていた」
―それは彼の内部にある怒りだった。怒りや悪感情を
抱いたまま絵を描こうとすれば、それはあなたの両手
で描かれるのだから、その絵にはあなたの内面が表れて
くる。その絵には基本的にあなたが映し出されてくる―
許しを請い、それが受け容れられたとき、
ミケランジェロは気分を一新することができた。
わずか数分の仕事で、絵は完成した。それは最も
美しいイエスの絵のひとつだ。わずかに筆を加える
だけで、絵はいきいきとし、イエスが浮かびあがってきた。
今やミケランジェロのこころは調和のなかにあったからだ。
(p237)
タオを分かち合うことはできる。だが、あなたは
それを分かち合う方法を学ばなければならない。そして
多くのことがらにひじょうに注意深くならなければいけない。
それはある意味では単純だが、ひじょうに複雑でもある。
単純なのは、あなたが本当に開き、調和していたら、
それはほんの一瞬のうちにも起こりうるからだ。
複雑なのは、あなた自身もまったく気つ゛いていない
ようなごく小さな習癖を変えなければならないからだ。
あなたは生全体を変えねばならなくなる。
あなたがたに教えとして差し出すものなど何もない、
と私が言うのはそのためだ。私はあなたがたを挑発
するエネルギーを分け与えることならできる。
私は哲学や神学の体系を与えているのではない。
私は私そのものを与えている。それは挑戦だ。
私はここであなたがたを目覚めさせようと努力している。
あなたがたは開き、リズムを感じ、そして生の小さな
ものごとを観察しなければならない。呼吸は最も重要
なものだ。あなたはサットサングのなかにあるときの
息つ゛かいを、師のそばにあるときの息つ゛かいを、
愛のなかにあるときの息つ゛かいを学ばなければならない。
呼吸は感情とともに絶えず変化している。
腹を立てているときには、あなたの呼吸はリズムを失い、
不規則になっている。情欲に駆られているときには、
あなたの呼吸はほとんど気違いじみたものになっている。
穏やかで、静かで、喜びに満ちているときには、あなた
の呼吸は音楽的な質をおびていて、ほとんど歌のようだ。
<存在>にくつろいでいると、欲望を抱かず、満足感を
味わっていると、突然、呼吸は止まったように静かになる。
畏敬の念に打たれたり、驚異に息を呑んでいるときも、
呼吸はしばらくのあいだ止まる。それは生の最もすばらしい
瞬間だ。ほとんど呼吸が止まりそうになる、そういった瞬間
にのみ、あなたは<存在>と完全に同調しているからだ。
あなたは神のなかにあり、神はあなたのなかにある。
あなたは呼吸をもっと深く体験し、詳しく調べ
、観察し、見守り、分析しなければならない。
呼吸が感情とともにどう変化するかを見てみなさい。
例えば、恐怖に駆られているとき、呼吸に起こる変化を
観察するがいい。そして、いつか恐怖に駆られたときと
同じパターンに呼吸を変えてみるがいい。あなたは驚く
だろう―呼吸を恐怖に駆られたときとまったく同じパターン
に変えると恐怖が湧いてくる。それも即座にだ。
誰かと深く愛し合っているときに、自分の呼吸を観察するがいい。
恋人の手を取り、抱きしめながら、自分の呼吸を観察しなさい。
そして、いつか樹の下に静かに坐り、自分が
再び同じような呼吸をしているのを見守りなさい。
パターンをつくりだし、同じ光景ゲシュタルト
を呼びもどすのだ。まるで恋人を抱擁している
かのように、同じ仕方で呼吸をするがいい。
すると、驚くようなことが起こる。
全存在があなたの恋人になる。
再び大いなる愛があなたのなかに湧いてくる。
それらは連動している。
それゆえにヨーガ、タントラ、タオ―人間意識とその拡大
に関するこの三つの深遠な方法論システムと科学に
おいて、呼吸は鍵となる現象のひとつになっている。
この三つはそろって呼吸に働きかけてきた。
(p239)仏陀の瞑想法のすべては、ある一定の
呼吸の質にかかっている。彼は言う―
「ただ自分の呼吸を見守りなさい。呼吸を変えなくて
もいい。少しも変えることなく、ただ見守るのだ」と。
だが、不思議なことに、見守るやいなや、ただちに
呼吸は変わる、ひとりでに変わらざるをえない。仏陀は
「呼吸を変えてはいけない。ただ見守りなさい」と言う。
だが、見守るやいなや、ただちに呼吸は変わってしまう。
注意深さには独自のリズムがあるからだ。仏陀が
「呼吸を変えなくてもいい。ただ見守りなさい」
と言うのはそのためだ。注意深さそのものが独自
の呼吸を生み出す―変化はひとりでに起こる。
そして、次第に不思議
なことが起こってゆく―
注意深くなればなるほど、
さらに呼吸は減ってゆく。呼吸
はより長く、より深くなってゆく。
例えば、一分間に十六回呼吸をしていたなら、
呼吸の数は六回、四回、三回と減ってゆく。
あなたが注意深くなるにつれ、呼吸はより深く、
より長くなってゆき、呼吸の回数がどんどん減ってゆく。
また逆に、呼吸の側から働きかけることもできる。
ゆったりと静かに深く長い呼吸をしてゆくと、突然、
あなたのなかに注意深さが生まれてくる。あたかも
ひとつひとつの感情が呼吸システムのなかに
もう一方の極をもっているかのようだ。
感情は呼吸によって誘発することができる。
だが、一番いいのは、恋をしていたり、友人
のそばに坐っているときに観察することだ。
自分の呼吸を見守りなさい。なぜなら、その
愛に満ちた呼吸のリズムが最も重要だからだ。
それはあなたの実存全体を変容させる。
愛のなかでは、分離した存在として身構えることの
馬鹿らしさ、虚偽を最も痛切に感じ取ることができる。
だが、まさにこの分離、この不条理さによって、
人は他の方法では表現しえないことを表現すること
ができる。他者であるというまさにそのことによって
、人は互いがひとつであることを祝えるようになる。
そこに愛の逆説パラドックスがある。
あなたがたは二人でありながら、
一体感を感じている。ひとつでありながらも、
二人であることを知っている。二人でありながら
ひとつになった状態―そこに愛の逆説がある。
そしてそれは祈りの、瞑想の逆説でもなければならない。
究極的には、あるまれな価値ある瞬間において、人は
恋人、友人、母親、子供に感じるような一体感
を<存在>に対して感じなければならない。
他者として分かたれているからこそ、人は
互いがひとつであることを祝うことができる。
『ヴェーダ』は言う―タットヴァマシ、我はそれなり。
そこには分かたれているという明晰な自覚がありながら、
しかも深い合一感がある。彼は大洋から分かたれて
いながら、しかも大洋から分かたれていない。
自分が愛にあふれている瞬間
をもっともっと見守りなさい。
注意深く醒めていなさい。
呼吸がどのように変化するかを見るがいい。
身体がどのように打ち震えるかを見るがいい。
恋人を抱きしめて、実験してみるといい。
すると不思議なことが起こる。
いつか抱擁し、互いに溶け合いながら、
少なくとも一時間は一緒に坐ってみるといい。
すると驚くようなことが起こる―
それは最もめくるめく体験のひとつになるだろう。
一時間、何もせずに、ただ抱き合い、互いの
なかに落ちてゆき、互いのなかに溶けてゆくと
、やがて徐々に、呼吸がひとつになってゆく。
身体は二つだが、こころハートはひとつ
であるかのように、息が合ってくる。
二人は一緒に呼吸している。
一緒に呼吸しているとき、
努力して合わせるのではなく
、愛の感覚に圧倒されて
自然に息が合っているとき―それ
は最も貴重な、最もすばらしい瞬間
であり、この世のものではなく、はるか
彼方からやって来たものだ。
そういった瞬間、あなたははじめて
瞑想的なエネルギーを一瞥いちべつする。
そういった瞬間、文法は意味を失い、
言葉は途絶える。
それを口にしようとしても、言葉にならず、そのまさに
言葉を失うことで、言語を絶したものが示される。
そしてそれが、より深い次元レベルにおいて、
師との関係にならなければいけない。
そのときはじめてタオは師から弟子
へ炎のように飛び移ることができる。
あなたは呼吸のわざアートを学ばなければならない。
(p241)
さて経文だ―
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。
とてつもなく深い意味を秘めた言明だ。この言葉が鍵となる―
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
まず第一に、人は決然とした態度
を取るようになってはじめて生まれる。
決意とともに、人間が誕生する。
優柔不断な生き方をしている者たちは、本当は人間ではない。
そして何百万もの人々が優柔不断な生き方をしている。
彼らは何についても決めることができない。
彼らは他人によりかかってばかりいる。
誰かが彼らの代わりに決めてやらなければならない。
権威者のまわりに人々が群がるのはそのためだ。
権威主義がこの世から消えない唯一の理由は、
無数の人々が自分で決められないでいるからだ。
彼らは命令が下されるのを今か今かと待っている。
ひとたび命令が下されれば、彼らはそれに従う。
だが、これは隷属であり、彼らはそのように
してみずからの魂が誕生するのを阻んできた。
決意があなたの実存のなかに生まれてこなければならない。
決然とした態度とともに、まとまりが生まれてくるからだ。
いいかね、いくつか決断をするがいい。
決断することで、あなたは個になってゆく。
優柔不断さとは何か?
それはあなたが臆病であるということだ。あなたのなかには矛盾し合う声がたくさんあり、
どちらへ行ったらいいのかさえも決められない。
人々は小さなことにも優柔不断だ―どの映画を見にゆくか
といったことさえ決められない。優柔不断さがほとんど彼ら
の生活様式になってしまっている。これを買おうか、あれを買おうか
?買物をしている人々を見てみるがいい。なんと優柔不断なことか。
どこかの店に坐って人々が、客が出入りするのを見てみるがいい。
あなたは驚くだろう―人々はどうやって決めればよいのかわからない。
そして、どうやって決めればよいのかわからない人たちは、
いつもぼんやりと、もうろうとしていて、混乱している。
決意とともに、明晰さが生まれてくる。
そして決然とした態度がすみずみにまで及び、あなた
の基盤と関わるようになったなら、必ず人間が誕生する。
ところで、私のもとにもたくさんの人々がやって来てこう言う。
「サニヤスに跳びこもうかどうか迷っているのです」彼らは
私に「跳びなさい」と言ってほしい。だが、そうなったら、
彼らは要点をそっくり見逃してしまう。
「思い切ってサニヤシンになりなさい」と
私 が言ってしまったら、あなたは決断する
という機会を、大いなる機会を逃してしまう。
またしてもあなたは他人によりかかってしまう
が、そんなやり方では魂は成長しない。
そしてこれは深遠な決断であり、
計り知れないほど大きな意義がある。
なぜなら、それはあなたの生活様式を根こそぎ
変え、新しい世界観を与えることになるからだ。
あなたは新しい方向に向かって進んでゆく。
あなたはすっかり変わってしまう。
これほど甚大な影響を与える決断は
他人の手を借りず、みずからの力で行なうべきだ。
人はみずからを賭けるべきだ。
賭けることで、勇気を奮い起こすことで、
はじめて人間が生まれる。
そして決断をするなら―いいかね、
決断するなら、必ずそれを実行すること。
それができなければ、決断などしない方がいい。
なぜなら、そのほうがもっと危険だからだ―
優柔不断であるよりももっと危険だ。
決断しながら実行しなければ、あなたは
まったく無気力な人間になってゆく。それなら
決断などしない方がましだったことになる。
決意しながら、いつまでたってもそれを実行しない者たちがいる。
彼らはみずからの実存に対する信頼や自信を徐々に失ってゆく。
何を決意しても実行などできないのだということがだんだん
わかってくる。彼らは分裂してしまう。
彼らは自分を当てにできなくなる。
決断しているその時ですら、自分はそれを実行しないだろう
ということがわかっている。なぜなら、自分が過去に何をやってきた
か知っているからだ。彼らは決断するたびにそれを裏切ってきた。
そうなったら、ごく小さな決断でさえ、
ひじょうに破壊的なものになりかねない。
「今日からタバコを止めるぞ」といったごく小さな決断、
ごくありふれた決断、何でもないような決断でさえ……
タバコを吸う、吸わないは大したことではない。
それで世界が変わるわけではない。
二十年もすれば結核を患うかもしれないが、それは
治すことができる。あるいは二、三年早く死んでしまう
かもしれないが、それがどうしたというのだね?
どちらにしても本当に生きたことなどなかったのに。
先日、私は漫画を見ていた。
男が女に、「君は死後の生を信じるかい?」と尋ねる。
すると女が言う。「何言ってるの、これがその『死後の生』よ!」
信じなくてもいい。これがその死後の生だ。あなた
はまるで活気のない死人のような生き方をしている。
死んだとしてもこれ以上悪くなることはない。何ひとつ
変わりはしないだろう。まさにこれが「死後の生」だ!
だが、小さな決断、タバコを吸わないといった取るに足りない
決断でも、実行しなければ危険なことになる。あなたは自信を
なくしてしまう。みずからの実存に対する信頼を失ってしまう。
自分が当てにならなくなる。そんな決断はしない方がいい。
タバコを吸いつつ゛けなさい。
決断をするなら、
肚を決めることだ。
そうなったら何が起ころうと、
それをやり遂げるがいい。
そして、それをやり遂げることができるなら、
明晰さが内側に湧き起こり、雲が消え、何かが
自分のなかで根つ゛き、中心を定めてゆくのがわかる。
決然とした態度を取ることは、とほうもなく
重要なことであり、意味がある。
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
呂祖が言おうとしているのはそのことだ。
いったん決意したなら、全身全霊を込めて
それを実行しなければならない。
後もどりしないことを
はっきりさせておかなければならない。
サニヤシンたちに「橋を壊しなさい」とくり返して言うとき、
私が言おうとしているのはそのことだ。後もどりしない
のだから、橋を残しておく必要などないではないか?
梯子を捨ててしまいなさい。
船を沈めてしまいなさい。
昔の岸辺に二度ともどることはないのだから。
船を安全な岸辺につないでおくことは、あなた
がまだ揺れ動いているということを、まだ
「いつかはもどらなければならないかもしれない」
と考えていることを示している。
数ヶ月前、アヌプが合衆国へ発った。
私は行こうとしている彼に言った。
「今度は、橋を完全に壊してくるがいい」
彼は「はい、和尚」と言った。彼は今もどって
きて、私が「どうだった?橋はどうなったかね?」
と尋ねると「壊せませんでした」と言った。
それは何を意味しているのだろう?
彼はここに半身でいることしかできないということだ。
彼はもどるための扉を開けたままにしてきた。
彼は身の安全や保障をすべて確保してきている。
が、問題はこういうことだ―全一にここにいる
のでないかぎり、彼は成長しないだろう。そしてこれは
悪循環だ―成長しなければ、数ヶ月もすればこう考えるだろう。
「橋を壊してこなくてよかった。和尚の言うことを聞いて
橋を壊していたら、たいへんなことになっていたぞ。
ここでは何も起こっていない!向こうにすべてを残して
おいてよかった。いつだって家に飛んで帰れるからな」
彼は一番賢く、良識的な行動を取ったと思うだろう。
だが、彼ははなから逃げもどるための橋を確保し、扉を
開けたままにしておいた。中途半端で生ぬるく、優柔不断で
はっきりしない、逃げ腰の姿勢でここにいたにすぎない。
逃げ腰の姿勢でいては、私とともにいることにはならない。
純一なこころハートで決断しないかぎり、
私とともにいることはできない。
そ の と き 成長が起こりうる。
そ の と き はじめて成長が起こりうる。
だから要点を見るがいい。あなたが私と
ともにここで全一にいれば、成長は起こりうる。
そうなったら後もどりする必要はないし、橋もいらなくなる。
だが、私とともにここで全一でいなかったら、そのときには橋が必要になる。
そして「和尚に耳を貸さなくてよかった―自分はなんで賢いのだろう」
と感じるだろう。「見ろよ、ここでは何も起こっていない。だからもどる
しかない。橋をすべて壊していたら、どうなっていたことやら」
論理的な精神マインドはそのように働く。
それは自滅的な状況をつくりだす。
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。
もっとも重要なのは、成果を求めている者はすでに分裂している
ということだ。そうなったら、あなたのこころハートは働いて
いない、すでに成果に目を奪われている。
分裂していたら、成果をあげることはできない。
成果をあげられるのは、ことの成り行きや結果を気にせず、
旅そのものをこのうえもなく楽しみ、目的地のことなど
かまわずにいられる分裂していないこころだけだ。
ゴールのことなどまったく気にかけない者だけがたどり着く
―彼らの精神マインドは少しも分裂しておらず、旅の
一瞬一瞬が、旅の一歩一歩がゴールになるからだ。
どこいいようと、自分がいるところがゴールになる。
成果のことなどまったく気にかけない霊的スピリチュアル
な道の上にいる人々が成果をあげる。
成果を気にかけていたら、成果をあげることはできない。
思考が未来のどこかにあって、あなたは現在で働いていない
からだ。そして、仕事が現在において全一に為されてはじめて、
成果をあげることができる。
この瞬間が次の瞬間を生んでゆく。
この瞬間が全一に生きられたなら、
次の瞬間は必ずより深い全一性を、
より高い全一性の質をおびるようになる。
だが人々は分裂したままだ。
この問題は考察するに値する。
なぜなら、これはすべての人の問題だからだ。
先日、アショカが手紙を書いてきた。彼はここにいるが、
まだ部屋にサティヤ・サイババの写真を飾っているそうだ
―部屋に誰の写真を飾ってもかまわないが、それは
たんなる部屋の問題ではない。さあ彼は悩んでいる。
私は彼に言った。「サティヤ・サイババのところへ行きなさい。
そして、どうか向こうでは私の写真を部屋に飾らないでほしい。
そうしないと、あなたはまたもや取り逃がしてしまうからだ。
ここにいてもいいし、あちらにいてもいいが、大切なのは
純一なこころハート、まとまりをもったこころだ。
半身でいるくらいなら、私とともにいるよりも
サティヤ・サイババのもとにいるほうがいい」
だが、私には彼の問題がわかる。
彼は向こうでも私の写真を離さないだろう。
だから、彼がしくじるのは目に見えている。
人は選ばなければならない。
人は決断しなければならない。
人生の旅路を一歩進むごとに、人は岐路に立たされ、
選ばなければならなくなる。すべての道をわがものとする
ことはできないし、すべての道を歩くことはできないからだ。
私はものごとの善し悪しを云々しているのではない。
何であれ、あなたが全身全霊で選んだものが正しい
、と私は言っているのだ。
ときには全面的な明け渡しがあったがゆえ
に、光明を得ていない師のもとですら
弟子が光明を得たことがある。
そして申し分のない師のもとにいながら
何ごとも起こらないということも往々にしてある。
師が完全であるか否かよりも、
弟子の全一性のほうが問われる。
間違った人物のもとにいても、あなたは変容を遂げうる。
その間違った人物でもあなたを変容させられるというのではない
が、あなたに全一な決断があれば、そのあますところのない
決断があなたを変容させる。そのことのほうがはるかに重要だ。
それがなかったら、仏陀のような人とともにいることができても、
あなたが半身にとどまり、分裂しているなら、何ごとも起こらない。
いかなる分裂も―未来と現在、目的地と旅、この道と
あの道、この師とあの師―分裂はどれもみな危険だ。
そうなったらあなたのエネルギーは無駄に費やされ、
あなたは責任を他人に転嫁するようになる。
たとえば、ここでアショカに何も起こらなかったら―
こんなやり方では何ひとつ起こるまい―当然、彼は
間違った場所にきてしまったと結論つ゛けるだろう。
彼は自分が分裂しているというポイントを見ようと
しないだろう。彼には、間違った場所にきてしまった、
「この場所は私には向いていない」ということだけしか
見えない。だが、自分が分裂しているかぎり、どこにいても、
同じことが何度も何度もくり返し起こるだろう。
勇気を奮い起こしなさい。私は頭マインド
がずる賢く振る舞いたがるのを知っている。頭は言う。
「両方とっておけばいいじゃないか。何が起こるかわからないぞ。
どちらも選べるようにしておくんだ。こっちがうまくゆかなくても、
あっちがうまくゆくかもしれない」
だが、生はそのようには動かない。
ケーキを食べながら取っておくことはできない。
それは不可能だ。
呂祖は言う―
成果は求めずとも
……なぜなら、それすらも分裂になるからだ。
分裂せずに、完全に今ここにあるがいい……
成果はおのずからやって来る。
そして、成果がおのずからやって来るとき、
そこにはとほうもない美がかもしだされる。
成果をたぐりよせなくても、それは花のように開く。
花を無理やり咲かせなくてもいい。
無理やり咲かせたなら、花は死んでしまう。
そういったやり方はよくない。それに早く咲かせすぎたら、
その花には香りがなくなってしまう。香りを集め、香りを
つくりだすために、花は正しい瞬間を待たなければならない
からだ。香りの準備が整ったときはじめて花はひとりでに開く。
今や<存在>と分かち合うものをそなえているからだ。
人は瞬間を楽しまなければならない。瞬間に全一に
入り込んで、他のすべてを忘れなければならない。
そうすれば、いつの日か、突然、成果が現れる。
いつの日か、見る見るうちに黄金の華が開き、
あなたは別世界へと運ばれている。
(p248)初心者がまず陥りやすい誤りは主に二つある。それは昏沈(こんちん)と散乱だ。
この二つの誤りを理解しなければならない。
ひとつは女性的な精神マインドが犯す誤りであり、
もうひとつは男性的な精神マインドが犯す誤りだ。
女性的な精神は、受動的であるために
昏沈、怠惰な状態をつくりだすことがある。
そして男性的な精神は、能動的になりすぎて
散乱をつくりだすことがある。
これもあれもと手を出して、ところかまわずあらゆる
方角へ突進したがる。女性的な精神は受動的だ。それは
待ちたがる。ものごとを起こるがままにしたい。だが、
もしそれが無気力な状態、怠惰な状態、一種の死のようなもの
になってしまうなら、やはりそれも危険なものになりかねない。
いいかね、能動性にもよいものとよくないものがある
ように、受動性にも好ましいものと好ましくないものがる。
好ましい受動性とは、注意深く、意識をとぎ澄ましながら
待つということだ。好ましくない受動性とは、眠りこけ、
いびきをかきながら、待っているつもりになることだ。
恋人がやってこようとしている……彼がいつドアを
ノックするかもわからない。さあ、あなたは二つの
やり方で待つことができる。ドアを開け、目を門に
くぎつ゛けにし、耳を澄ますというのが積極的な待ち方だ。
少しでも音がしたら―足音がしたり、ドアをノックする音が
聞こえたら、あるいは枯れ葉が風にひらひら舞うだけでも、
あなたは戸口に駆け寄る。誰かが道を通りすぎただけでも、
あなたは戸口に駆け寄る―彼が来たのかもしれない。
これが積極的な待ち方だ。それは美しいものだ。
だが、ドアに鍵をかけ、明かりを消して、
「彼がやって来て、ノックをしたら、迎えに出ればいいわ」
と言っていびきをかきはじめるようなら、それは好ましく
ない方の受動性だ。これは昏沈だ。神を待つことそのもの
はいいけれど、あなたの受動性はいきいきとした
生気にあふれるものでなければならない。
さて、二番目は散乱だ。それは男性的な精神マインドの質だ。
男性の精神は絶えず周囲に気を散らしている。女性的な精神
はひとりの夫で満足するのに、男性的な精神のほうはたくさん
の妻を抱え込むのはそのためだ。彼は絶えず気を散らし、
通りすがりのどんな女性にも目を奪われる。
彼は自分が結婚していることをすっかり忘れてしまう。「君は僕の命
だ。僕は君のためだけに生きるよ。君は僕の喜びだ。僕の愛は永遠だ」
とささやいた当の女性のことをすっかり忘れてしまう。一瞬のうちに、
彼はそういったすべてのたわごとを忘れてしまう。
彼の注意力はいともたやすく四散してしまう。
男性的な精神は活動的すぎる。だが、好ましい活動はよいものだ。
好ましい活動とは集中した活動、一心不乱な活動を指している
―井戸を掘るため、ひたすら一カ所を掘り進めることをいう。
好ましくない活動とは、井戸を掘るため、次から次へと新しい
場所を掘り返し、水脈を発見できずに土地を荒しまわることをいう。
男性的な精神にはそれが起こる。彼はこの女、あの女と恋人を
次々に変えてゆくが、真実の愛に触れることはけっしてない。
それはたんに表面的な現象にとどまっている。
それはけっして親密なものにはならず、深みをおびることもない。
けっして心から身をゆだね合うことがなく、表面的なつき合い、
せいぜい肉体と肉体の性的な触れ合いにとどまっている。それは
けっしてまごころハートに触れず、もちろん魂にも触れることがない。
なぜなら、まごころに触れ、魂に触れる
ためには、時間がかかるからだ。人は待ち、
そして深く掘り下げなければならない。
これがよく犯しがちな二つの誤りだ。それに
用心するがいい。活動的になりすぎては
いけないし、怠惰になりすぎてもいけない。
中間にとどまりなさい。穏やかに活動し、
いきいきとくつろぎなさい。
中間にとどまるがいい。
あなたの行為には待つという質が
そなわらなければならないし、
あなたの待機には活動の質が
そなわらなければならない。
そうなれば、必ず成果があがる。
成果のことは考えなくてもいい―
それはひとりでにやって来る。
そして、これらの誤りは正すことができる。
(p250)
それに対処するには、呼吸にあまり深く気をとられてはならない。
呂祖師は、あなたがたにもっとも
重要な奥義のひとつを授けている。
それに対処するには、呼吸にあまり深く気をとられてはならない。
少しもあわてて呼吸せず、
呼吸に無関心になり、超然として、
遠くに離れているかのように、
とても静かに呼吸をする
ことを学ばなければならない。
呼吸に対して距離を保ち、
超然としていることができたら、
あなたは中道を達成することができる。
その瞬間、あなたは
男性的でもないし女性的でもない。
あなたはその両方であり、かついずれでもない。
あなたは超越している。そうなったら、
この二つの誤りは消え失せている。
呼吸はこころハートから生じる。こころから呼吸が生じるのである。こころが動くと、ただちに気(呼吸エネルギー)が生まれる。気とは元来、こころの活動が変容したものである。
気が散っているときには、見守りなさい。
呼吸も乱れているはずだ。
気が散らず、何にも意識をそらされることなく
静かに坐っているときには、呼吸は穏やかで、
静かで、リズムをともなっている。
そこには微妙な音楽の質がある。
その質こそまさに中道だ。
というのも、あなたは何もしてはいない
が、眠りこけているわけでもないからだ。
あなたは活動的ではないし、不活発でもない。
あなたはバランスがとれている。
そういったバランスがとれた瞬間に、
あなたは実在リアリティに、神に、天国に近つ゛いている。
我々の思念は実にすばやく動いて、またたく間に空想に走るが、ひとつの空想には必ずひとつの息がともなっている。内なる呼吸と外なる呼吸は、声とこだまのように一体になっているからだ。我々は毎日数知れぬほど息をし、それと等しい数の空想を抱いている。こうして精神の明晰さは、樹が枯れ、灰が冷たくなるように衰えてゆく。
いいかね、どの呼吸もただの呼吸ではない。
それは思考でもあり、感情でもあり、空想
でもある。だが、それは数日のあいだ呼吸
を観察してはじめてわかることだ。
愛を交わしているとき、呼吸を見守りなさい。
きっと驚くだろう―呼吸は混沌としている。
性的なエネルギーというのはひじょうに荒々しく、
粗野なエネルギーだからだ。性的な空想は荒々しく、
粗野で、動物的だ。性欲にはこれといって特別なものはない
―動物にはみな性欲がある。性欲に突き動かされると、人は
どんな動物にも負けないような振る舞いをする。
私は動物であることは悪い
ことだと言っているのではない。
ただ事実を指摘しているだけだ。
私は事実を述べているにすぎない。
だから性愛を感じるたびに、呼吸を見守りなさい。
それは完全にバランスを失っているはずだ。
だから、タントラでは、セックスの途中に
呼吸を穏やかでリズミカルに保つことを
学んではじめて愛を交わすことが許される。
そうなったら、まったく異なる質がセックスに現れる。
それは祈りに満ちたものになり、神聖なものになる。
部外者が見れば何の違いもない。
あなたが相手の男性や女性と愛を交わして
いる姿は、部外者の目には同じに映る。
だが、タントラに精通している者たち、
それを知っている者たちには大きな違いがある。
これらの秘法が開発され、実験され、観察された
古代のタントラの道場において、それは一連の
実験の中心課題のひとつになっていた。
呼吸をまったく乱さずに愛を交わす
ことができたなら、それはもはやセックス
ではなく神聖な行為になる。
そうなったら、あなたはみずからの
実存の大いなる深みへと運ばれ、そして
生の神秘への扉が開かれる。
呼吸はたんに呼吸であるにとどまらない。
呼吸は生命いのちだからだ。
呼吸のなかには生命に内在する
すべてのものが含まれている。
では頭のなかで空想してはならないのだろうか?人は空想せずにはいられない。呼吸をしてはならないのだろうか?人は呼吸せずにはいられない。最良の方法は、病から薬をつくりだすことだ。
これはタントラの方法論であるとともに、
タオの方法論でもある―病から薬をつくりだす……。
タオとタントラが並外れているのはここだ。
ヨーガは「セックスを避けなさい。セックス
を迂回するのだ―それは危険なものだ」と言う。
だが、タオとタントラはいずれも「セックスを
避けてはいけない。そのエネルギーを変容させるのだ。
そうすれば、病そのものが薬に変わりうる」と言う。
科学者に尋ねてみるがいい。彼らはそれとまったく同じ
ことをやっている、とりわけ逆症療法(アロパシー)において。
病気そのものから抽出された成分が注射されて、それが薬になる。
逆症療法が近年になって発見したことは、タントラやタオ
によってはるか昔に発見されていた。
神から与えられたものにはすべて
とほうもない目的が隠されているにちがいない。
それを避けてはいけない。それを避けたら、
貧しいままでいなければならない。
それから逃げ出してはいけない。逃げ出したら、
あなたのなかには生きなかった部分が残ってしまう。
いわゆるヨーガ行者が絶えず性的妄想に苦しめられて
いるのはそのためだ。彼はぐっすり眠れない―それは
不可能だ―昼間に彼が拒絶してきたことが、夜になると
いっせいに逆襲して来るからだ。
無意識のなかに抑圧してきたすべてのことが、
眠りに就き、コントロールが弱まると、再び浮上して
きて夢になる。ヨーガ行者、いわゆるヨーガ行者は、
絶えず恐れている。彼は女を見るのが怖い、女に触れるのが
怖い。彼はおどおどしている。いったいこれが「自由」と呼べる
だろうか?こんな恐れを抱いていては自由になれるはずがない。
タオとタントラはまったく異なる姿勢で迫ろう
とする。彼らは言う―神から授かったものは
ことごとく変容させるがいい、と。それは生
の素材だ。そのなかにはすばらしい
宝が隠されているにちがいない。
呼吸の仕組みシステムを変えることが
できれば、性エネルギーを変容させることができる。
呼吸の仕組みを変えることができれば、怒りを変容
させることができる。腹を立てたとき、どんな
呼吸をしているか観察してみるがいい。
そして次に怒りを覚えたときには、
これまで腹を立てるたびにしてきたような
呼吸をしないようにする。すると不思議なことに、
あなたはもう怒れなくなってしまう。
あるやり方で呼吸しなければ、
怒りは続かず、消えてしまう。
怒りの代わりに、憐れみが湧いてくる。
同じように、セックスも消え、
セックスの代りに、愛が湧いてくる。
愛はじつに人間的なものだ。
セックスは人間だけのもの
ではなく、動物のものでもある。
だが、愛を知っている動物はいない。
セックスは動物的なものであり、
愛は人間的なものであり、
祈りは神的なものだ。
セックスは愛に変容されねばならないし、
愛は祈りに変容されねばならない。
セックスのなかでは呼吸は混沌としたものになる。
だからこそ私は、ある目的をもって混沌とした瞑想
を選んだ―それは感情を発散浄化させるためだ。
混沌とした瞑想、混沌とした呼吸は抑圧された
怒り、セックス、欲望、嫉妬、憎しみといった
ものをことごとく打ち、表面に浮かびあがらせる。
それは大いなる浄化のプロセスだ。
セックスのなかでは、呼吸は混沌としたもの
になる。愛のなかでは、呼吸は音楽的になる。
祈りのなかでは、呼吸は止まってしまったように静かになる。
こころハートと呼吸が互いに依存し合っているなら、光の循環を呼吸のリズムと結び合わせなければならない。
息を吐くときには、両目から光が出てゆくようにする。
息を吸うときには、光が内側にもどってくるようにする。
呼吸と光の循環を結び合わせなさい。
このようにして呼吸に仕事を与えることで、
呼吸は他の余計な空想から解き放たれる。
これもまた空想のひとつだ―あなたはあるもの
を与えている。呂祖が「人は空想せずにはいられない」
と言うのはそのためだ―少なくともはじめのうちはそうだ。
最高の頂に到ってはじめて空想を落とすことができる。
だが、私たちはそれを使うことができる、
それを踏み石にすることができる。
息が出てゆくときには、光も出てゆくように想像する
がいい。息を吸うときには、光も入ってくる、と。
それを単純な方法でやってみるといい。
息を吐くときには、内側にあった光がすべて放出
されてゆくと感じなさい。そして息を吸うときには、
<存在>のすべての光が入ってくると感じなさい。
じきに想像は呼吸と結びついて、それと一体になる。
こうすれば空想を使ったことになる。こうしてゆっくり
と呼吸をもっと穏やかで静かなものにさせてゆけばよい。
ヨーガの呼吸法、プラーナーヤーマでやるような
特定のリズムを実修する必要はない。人はそれぞれ
自分に合った方法を見いださねばならないからだ。
肉体が違い、心理構造マインドが違うのだから、
あなたがたの呼吸も同じものではありえない。
あなたは徐々に自分に合った方法
を見つけてゆかなければならない。
ひとつ忘れてはならないことがある。
呼吸は穏やかで、静かで、音楽的なものに
なってゆかなければいけない。
(p255)
このためには、とりわけ耳の光が必要である。
ここで呂祖はまた別の手ほどきをする。彼は言う―
光は目から入って、そこを出入りするように、
耳からも入って、そこを出入りする、と。光が
耳から出たり入ったりするのを見ることは
できないから、これは不思議な言明だ。
だが、現代の物理学者に尋ねてみるといい。彼らは、
音とは電気、電気の作用に他ならないと言う。音は電気だ。
呂祖が古代の言語で「光」と呼んでいるのはまさにそれだ。
音は耳から入り、耳から出てゆく。
目が肉体の男性的な部分であるように、耳は肉体の
女性的な部分だ。目が外向的であるように、耳は
内向的だ。それゆえに、世界には二種類の瞑想がある。
目のエネルギーに関わる瞑想と、耳のエネルギーに関わる瞑想だ。
耳のエネルギーに関わる瞑想は女性的な瞑想であり、
受動的だ―あなたは何もせずに、ただ耳を傾ける。
鳥の声、松林を通り抜ける風の音、あるいは音楽や、
往来の騒音に耳を傾ける。何もせずに、ただ耳を傾ける。
すると深い静けさが訪れて、
大きな安らぎが降り注ぎ、
あなたを包みはじめる。
それは目よりも、耳を通してやるほうがやさしい。耳を通して
やるほうがやさしいのは、耳が受動的で、攻撃的ではないからだ。
耳は<存在>に対して何もすることができない。ものごとを
起こるにまかせるだけだ。耳は扉であり、ただ受け容れる。
目の光があるように、耳の光がある。目の光は外界にある太陽と月が合体したものである。
それは外向的だ。
耳の光とは内なる太陽と月が合体して生まれる種子である。
それは内向的だ。
ゆえに種子とは光が結晶化したものである。いずれも同じ起源をもち、名前が異なっているだけだ。
光と音は名前が違うだけだ。
インドには物語がある―実話かもしれない。いずれ科学がその
正しさを証明するときがくるだろう。インドの物語によれば、
ある種の旋律メロディには火を生みだす力があるという。
音楽家の前に火のともっていない蝋燭ろうそくを置き、音楽家
がある旋律、あるラーガを演奏すると、突然、蝋燭に火がつく。
さあ、そんなことはありえないようだし、ただの物語にすぎない
ように思える。おそらく神話か、譬たとえ話にすぎないだろう。
だが、音が電気だとしたら、ある種のパターンを形成した波動は火を
つくりだすことができる。今や実験が行なわれている。私が思うに、
遅かれ早かれ、科学的にそれを再現することが可能になるだろう。
これはよく知られている事実だが、軍隊が橋を通過するとき、兵隊
たちは必ずリズムを崩すように命じられる。彼らはふつうは左、右、
左、右、左、右といった具合に、一定のリズムを取りながら歩いている。
軍隊があるリズムをとって通過してゆくと橋が壊れてしまうということがよく
起こった。だから、橋を渡るとき、軍隊は右、左のリズムを崩さなければならない。
今ではこれが周知の事実となっている。ある種の波動が橋にとっては危険なのだ。
カナダでは、植物と音楽との関わりを調べる実験が行なわれた。ささやかな実験だが、計り知れないほどの意義がある。同じ季節の花が、同じ時期に、同じ肥料で、二か所に植えられ、同じ庭師がそれらの面倒を見た―それぞれの区画は何から何までまったく同じだった。が、一方の区画には、ラヴィ・シャンカールのシタールのレコードが用意され、絶えずその音楽が流されていた。そしてもう一方の区画には、ポップ・ミュージックが流された。
それはひじょうに示唆に富んだ現象だった。ポップ・ミュージックが
流された区画の植物は、いっせいに音響装置をよけるようになりはじめた。まるで逃げだしたがっているかのように、聞くのがいやで、うんざり
しているかのように、植物たちはみな音響装置から身を遠ざけるように
なりはじめた。そして、その区画の花は小さく、成長するのに時間が
かかった―他の区画の植物のほぼ二倍の時間がかかった。
ラヴィ・シャンカールのシタールが流されている他の区画では、
植物たちは音響装置に身を寄せはじめた。植物は音響装置を抱き
かかえるように、それを覆いつくした。しかも二倍の速さで成長
し、花も大きく、予想されていたよりも早く花を咲かせた。
植物でさえ、音響の違いを感じとる。
上空を飛んでゆく飛行機は人間を狂気に駆り立てる。
騒音は日毎にますますひどくなってゆく。人間が
生き延びられるとしたら、それは奇蹟と言っていい。
いずれも同じ起源をもち、名前が異なっているだけだ。
実のところ、あらゆるものは同じだ。それらはみな
「光」「火」「電気」と呼ばれる素材からできている。
どんな名前で呼んでもいい。違うのは形だけだ。
したがって理解(耳)と明晰さ(目)はひとつのものであり、同じ霊妙な光に他ならない。
理解は耳を通して生まれる。明晰さは目を通して生まれる。
明晰さは男性的であり、理解は女性的だ。女性のほうが
弟子になりやすい、と私がいつも言うのはそのためだ。
女性のほうが男性よりも簡単に明け渡し、簡単に理解する。
男は論理的な明晰さ、論理的な説得力を求める。女は他の
ものを、心地よいリズムに富んだ説得力を求める。女性は
直感的に耳を傾ける。女性はそれを言っている人の波動を感じる。
女性の関心は何が語られているかではなく、
誰が語っているか、どのように語っているか、
それがどこから生まれてきたかのほうにあるようだ。
女性のほうが深くまで進み、そのまさに精神をつかむ。
男はいつまでも文字に気をとられる。そして書物の形で誰もが
新聞や経典を入手できるようになったために、大きな変化が起こった。
もともと教えというものは師の口から直接聴くより他にすべがなかった。
それらは口語で伝えられたので、それを受け止める中枢は耳にあった。
今では書物が手に入る。クリシュナがアルジュナに語り、アルジュナが
それを聴いていたとき、彼は耳を働かせていた。大いなる理解が起こり
、彼は変容を遂げた。だが、アルジュナは女性のように耳を使っていた。
今では、あなたは「ギータ」を読む。読むというのは目を使う
ということだ。そして目は理解のことなど気にかけない。目は
論理的な明晰さを求める。目はまったく違う姿勢でことに当たる。
何世紀にもわたって、世界中のあらゆる宗教が
「教えを文字に書き記してはならない」と主張してきた。
それには理由があった。ひとたび書き記されると、質が
そっくり変わってしまうからだ。ひとたび書き記される
と、目が重要になり、耳は軽視されるようになる。
私に耳を傾けるのと、私の言葉を読むのとではまったく違う。
本を読むときには、あなたは男性的な精神マインドを働かせている。
耳を傾けるときには、あなたは女性的な精神を働かせている。
坐るときには、瞼まぶたを下げて、下げ振りをつるすように視線を定め、光を下方に向ける。しかし、下にうまく注意を向けられないときには、呼吸に耳を傾けるようにこころハートを導く。出入りする息の音が聞こえるようではいけない。聞こえるのは乱れた息である。息が乱れると、たちまち呼吸は荒く、うわついたものになり、伸びやかに広がってゆかない。こころをひじょうに軽やかで微細な状態にしなければならない。枷かせを解かれれば解かれるほど、こころの働きは微かすかになり、微かになればなるほど、こころは静かになってゆく。
だから呼吸に耳を澄ませなさい。
音が聞こえるのは、息が荒いということだ。
乱れているのは、息が荒いということだ。
感じるだけで音がしなければ、呼吸は
穏やかで静かになっている。
それが<存在>と調和し、自分自身と調和し、実在と
調和する正しい方法だ。呼吸が静かになればなるほど
、あなたはさらに深みへと入ってゆく。
ときどき呼吸が止まると……呼吸は実際に止まることがある!
それはここで多くのサニヤシンに起こっている。彼らは私に
知らせにやって来る。なぜなら、彼らはひどくおびえて
しまっているからだ。呼吸が止まると、自分は死んで
しまうという考えが脳裏をよぎる。
先日、サグナが質問をした。彼は死んでゆくような気分になった
という。彼はおびえてしまった。おびえてはいけない。呼吸が止まった
ら、そのままにして、それを楽しみなさい。あなたは死んだりはしない。
そのまさに呼吸が止まることで、あなたは実在の真の姿を知るだろう。
永遠の生を知るだろう、死を知らないものを知るだろう。
不意にこころは限りなく静かになって、動きを止める。そうなったら真の呼吸が出現し、こころの真の姿が意識されるに到ったのである。
そのままにしておくことができれば……。
だから私はサグナに言った。「サグナ、馬鹿だね。君は取り
逃がしてしまった!今度それが起こったら、取り逃がさないように」
呼吸が止まれば、真の呼吸が出現し、真の生命が現れる。
呼吸に依存しない生命、永遠の生命、肉体の一部ではなく、
肉体が崩れ、塵ちりとなって消えた後にも残る生命が。
そしてその瞬間に、意識が達成される。
人はブッダになる。ブッダとは完全に
意識的になった、目覚めた人のことだ。
こころハートが軽やかであれば、息も軽やかになる。それはこころのあらゆる働きが気(呼吸エネルギー)に影響を与えるからだ。息が軽やかであれば、こころも軽やかになる。それは気のあらゆる動きがこころに影響を与えるからだ。こころを安定させるには気を養うことからはじめなければならない。こころに直接働きかけることはできないからだ。それゆえに手がかりとして調息法を用いる。これが「気の力を集中して保持する方法」と呼ばれているものだ。
弟子たちよ、おまえたちは"動き"の本性を理解していないようだ。動きは外界の事物によっても引き起こされる。それは支配されるということに他ならない。坐るだけでこころが揺れ動くなら、身動きしないことによってそれを鎮めることはできないだろうか?こころと気が相互に影響し合うことを知った偉大な聖者たちは、後世の人々に役立つよう、より簡易な方法を考案したのである。
あなたはそれを知っている。走れば、息は激しく乱れ、どんどん
速くなってゆく。ヨーガの各種の体位はそのためにある―例えば
完全な蓮華座。背筋をまっすぐ伸ばして坐り、完全に沈黙して、
大理石の彫像になってしまったかのように、不動の姿勢を保つ。
それはランニングとはまったく逆の姿勢だ。
これは呼吸を静めるための外的な手段にすぎない。
走ることで呼吸を速めることができるなら、仏像とそっくりな
姿勢で坐ることで、それを鎮静させることもできるはずだ。
身動きせず、仏像のように坐っていれば、確かに呼吸はだんだん
ゆるやかになってゆき……やがて止まる。最初はほんの一瞬に
すぎない。心臓発作ハートアタックか何かに襲われたのでは
ないかと恐れる必要はない。それは神の到来ゴッド・アタックだ。
「鶏が卵をかえすことができるのは、そのこころハートがつねに耳を澄ませているからだ」これは不思議な力をもつ重要な言葉である。鶏は熱の力によってその卵をかえす。だが熱の力は殻を暖めるだけであり、中まで浸透することができない。そこで鶏はこころを用いてこのエネルギーを内部に導き入れる。鶏は耳を澄ますことによってこれを行なう。そのようにしてこころを一心に集中させる。こころが浸透すれば、気も浸透し、ひなは熱の力を受けて、生命を得る。それゆえに鶏は、卵から離れるときでさえ、つねに耳をそばだてて聴く態勢を取っている。このようにして精神の集中は途切れることがない。
これは鶏だけでなく、すべての女性、すべての母親、人間の母親
にすら当てはまることだ。雷をともなう激しい嵐がやってきても、
彼女には聞こえず、彼女が眠りから覚めることはない。だが、子供
が泣きだしたり、身動きをはじめたりするとそれだけで、耳が絶えず
子供に焦点を合わせていたかのように、彼女は即座に目を覚ます。
汽車が通りすぎても彼女は目を覚まさない。
飛行機が通りすぎても彼女は目を覚まさない。
だが、子供が少しでもそわそわしだすと、
彼女はただちに耳をそばだてる。
彼女は全身耳となって子供に耳を傾けている。
彼女は耳を通して子供とこころハートとこころハート
で結ばれている。まるで子供の心臓ハートの鼓動そのもの
を聞くことができるかのように、彼女は絶えず耳を澄ましている。
これはすべての瞑想者がみずからの鼓動を
聞くことができるほど深く耳と結びつく方法だ。
最初のうちは、呼吸を聞くことができるのは
息がひどく乱れているからだ。
だが、あなたが聴いて、
聴いて、聴きつつ゛けるならば、
その聴こうとする努力そのものが
呼吸をさらに静かにさせてゆく。
そしてその傾聴が深まり、聴くこつがわかり、
いかに醒めているかがわかると、すべての
音色、すべての音が消え、呼吸が止まる瞬間がくる。
それは歓喜、洞察、悟り、サマーディの大いなる瞬間だ。
精神の集中が途切れないために、熱の力は昼夜絶えることなく、精神はいきいきと目覚める。精神の目覚めは、こころハートが死ぬことによってはじめて達成される。
瞑想中に突然、心臓が止まりそうに感じても、心臓発作
だと勘違いしてはいけないと私が言ったのはそのためだ。
呼吸が止まると、心臓が止まりそうな感じがする。
それは死ではない。あなたの真のこころハートが
誕生しようとしているのだ。
こころを死なせることができれば、原初の精神はいきいきと目覚める。こころを死に到らしめるというのは、それを枯渇させ、しぼませてしまうことではなく、こころが分断されずにひとつにまとまるという意味である。
※「こころを死なせる」:瞑想中に心臓が止まりそうになる状態
これが黄金の華の秘密だ。
こころが死ぬことができれば、花が開く。
今あるあなたとして死になさい。
そうすれば再誕生することができる。イエスは言う。
「再び生まれないかぎり、人が神の王国に入ることはない」
(p263)
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