2011年4月8日金曜日

道教:黄金の華の秘密 6

黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳 めるくまーる出版

第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える
より抜粋


呂祖師は言った。
観想なくしては何事も成しとげられない。覚知することにより人は目標に到る。

内観によって反転させなければならないのは自意識をもったこころである。万物を形つ゛くる精神が顕現してくる前の状態へとそれを導かなければならない。昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、ひたすら己の自我を見つめ、それを内観と呼んでいる。そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?

人は鼻の頭を見るべきである。だがこれは、みずからの思念を鼻の頭に固定させるという意味ではない。またこれは、目で鼻の頭を見つめながら思念を「中心の黄色」に集中させるという意味でもない。視線が向かうところに、こころも向かうものである。どうしてそれを同時に上方と下方に向けることができるだろう?こういったことはみな、月を指す指を月そのものと取り違えるようなものである。

では、これは実際には何を意味するのか?「鼻の頭」という表現はよく考えて選ばれたものだ。鼻は視線の目安とならなければならない。鼻に視線を向けていない場合には、目を大きく開けて遠くを見ているため鼻が見えないか、あるいは目を閉じ過ぎていて鼻が見えない。目を大きく開け過ぎると、視線を外に向けるという誤りを犯し、気が散りやすくなる。目を閉じすぎると、視線を内に向けるという誤りを犯し、夢を見るような空想の状態に沈みこんでしまう。 ただ瞼まぶたを適度に半分ほど閉じると、ちょうどよい具合に鼻の頭が見えるようになる。そのために鼻を目安にするのである。大切なのは、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとするのではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。鼻の頭を見ることは、ひとえに内なる集中をはじめる際に役立つのであり、そうすることで視線が正しい方向に向かい目安が定まれば、後はそのまま放置すればよい。これは大工が下げ振りをつるすにあたり、いったんそれをつるし終えると、絶えずその糸を見ることにこだわらないようなものである。

両目で鼻の頭を見ながら、背筋を伸ばして楽な姿勢で坐り、こころを諸条件の只なかにある中心にたもつ。それは必ずしも頭の中心を指しているわけではない。大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。そうすればすべては整う。光ははなはだ動きやすい。両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。注意をことさら中心の宮殿に向ける必要はない。大切なことはこの数語に要約されている。
  「諸条件の只なかにある中心」というのは、ひじょうに微妙な表現である。中心は至るところにあり、いっさいのものがそのなかに含まれている。それはあらゆる創造のプロセスが解き放たれる点と結びついている。

一点を見つめ観想することが不可欠である。この技法はすみやかに光明を得ることを保障する。世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけない。その想念はどこにあるのか、どこではじまり、どこへ消えてゆくのかを調べなければならない。内省をどこまで押し進めても何も得られない。この想念がどこから生まれてきたかを見ることでよしとし、その先を究めようとしてはならない。こころを探し求めても、とらえることはできない(意識によって意識の背後に達することはできない)からだ。人はみなこころを落ち着かせようとする。これが正しい観想である。これと矛盾するのは誤った観想であり、何も得るところがない。 雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止まり、観想をはじめなければならない。 観想したら、再び見つめる。これがすみやかに光明を得るための二重の技法、つまり光を巡らせることである。巡らせるとは見つめることであり、光とは観想のことである。観想せずに見つめるのは光のない循環であり、見つめずに観想するのは循環のない光である。これに注意しなければならない!

盲人が友達の家を訪ねた。彼が帰宅する頃には暗くなっていた
ので、友人たちは提灯ちょうちんを手渡した。「ありがとう。でも、
いらないよ。明るくても暗くても、私にとっては変わりないからね」
「まあ、とにかくもっていけよ。そうすれば人がぶつかってこないだろう」
彼が家を出ると、すぐに誰かがぶつかってきて、怒鳴った。
「どうして前をちゃんと見ていないんだ」
「君こそ、この提灯が見えないのか?」「あいにくだがね」
と相手は言った。「蝋燭ろうそくが消えてしまってるぜ」

瞑想というものを知らない人々が手にする聖典は、盲人が
手にする提灯のようなものであり、まったく役に立たない。
そして盲人には提灯の明かりがついているか消えているか
どうかもわからない。彼はたんにいらぬ重荷を持ち歩いて
いるだけだ。実のところ、何の役にも立たないどころか、
むしろ邪魔になりかねない。提灯をもたずに歩いていたら、
盲人はもっと注意深く用心していただろう。
提灯をもったばかりに、目があるつもりになって歩き、
注意力がすっかり散漫になっていたにちがいない。

人類全体に起こっていることはまさにそれだ。
人々は『聖書』『コーラン』『ギータ』をもち歩いている。
それらの聖典はこのうえもなく美しい光を放つランプだ。
が、あなたの目は見えない。

『ギータ』は五千年も前のものであり、光はとうの昔に消え
ている。クリシュナの死とともに、光は消えた。『聖書』や
『コーラン』、その他の世界中のあらゆる聖典の場合も同じ
だ。師マスターが死ぬと、光も消える。

だが人々は聖典を手放そうとはしない ― 聖典を信じ込み、
偉大な師のメッセージを伝えているのだから、自分たちの生は
いつまでも光に満たされてゆくと期待している。そのメッセージ
はただの言葉にすぎない。それは不用な重荷だ。

世にある聖典がすべて消えてしまったら、人間はもっと
用心深くなり、もっと気を引き締めて、自力で光の源を
探しはじめるかもしれない。頼れるものが何もないので、
自分の足で立つことを学ばなければならない。

あるとき龍潭(りゅうたん)のもとを徳山がとくざんが訪ね、
夜ふけまで教えを請いつつ゛けた。とうとう龍潭は言った。
「夜もふけてきた。そろそろもどりなさい」徳山はいとまを
告げると、襖ふすまを開けて出ていった。外があまりに暗かった
ので、徳山は引き返してきて言った。「外は真っ暗です」

そこで龍潭は提灯ちょうちんに火をともし、
それを徳山に差し出した。
徳山がそれを受け取ろうとしたまさに
そのとき、龍潭は不意にそれを吹き消した。
この瞬間、徳山は忽然と目覚め、礼拝した。

龍潭は言った。「どのような真理を得たのか?」
徳山は言った。
「今日より後、祖師たちの言葉をけっして疑うことはありません」
翌日、龍潭は弟子たちの前に姿を現して言った。
「この会衆のなかに、剣でできた樹のような牙をもち、口を
血だらけにして、棒で殴られても振り向こうとしない男がいる。
やがてこの男は人里離れた山の上に、私の道を打ち立てるだろう」

徳山は、僧堂の前で経典の注釈書を取り出し、
火をかざしながら言った。
「際限なくものごとを分析しつつ゛けてゆくことは、
虚空に一本の髪の毛を置くようなものであり、俗世の
力は広大な谷間に一滴の水を投げ入れるようなものだ」

目がなければ、光ですら役に立たない。
あなたが手にしている提灯は無用の長物であり、
まったく何の役にも立たない。
だが、目があれば、蝋燭ろうそくを吹き消す
ことですら悟りの体験になりうる。
問題なのは目だ。

龍潭のもとを徳山が訪ねた。龍潭は師であり、徳山は弟子だ。
外が真っ暗なのを見て、弟子は師に言った「真っ暗です」
師は蝋燭に火をともすと、それを弟子に差し出した。
弟子が受け取ろうとしたそのとき、師は火を吹き消した。
突然、闇がもどってきた。闇は一段と深さを増した。

不意に蝋燭を吹き消されたことが、
予期せぬ一撃になったにちがいない。
しばらくのあいだ、弟子は二つの思考
のはざまに落ちていったにちがいない。
しばらくのあいだ、思考が消え失せ、観想が起こった。
しばらくのあいだ、完全な沈黙があった。
その沈黙のなかで彼は大切なことをつかむことができた。

翌日、彼はもっていた経典をすべて燃やしてしまった。
もはやそれらは必要ではなかった。
彼はみずからの体験を通して真理を知ったからだ。

ごくわずかの体験でも、
山のような知識よりも価値がある。
太陽や月やすべての星々よりも、
たった二つの小さな目のほうが価値がある。
大切なのは、宗教とは体験であるということだ。
それは推測ではない。絶え間ない分析ではない。
それは洞察だ。
(p196)

さて、経文だ。
これらの経文にはここのうえもない価値がある。
なぜなら、それは最も簡潔な表現で手法を授けて
いるからだ。あなたが複雑なものにしようと
しないかぎり、この手法は実に単純だ。

こころマインドはいつも単純なものごとを複雑
なものに変えてしまう。それに気をつけなさい。
なぜなら、心は単純なものとは共存できないからだ。
それは必要とされない。もしものごとがごく単純で
あれば、心の出る幕はない。ものごとが複雑であって
はじめて心が必要になってくる。

そうなったら、あなたは心に頼らざるをえなく
なる。心が謎を解く道を見いだしてくれるからだ。
だが、謎がなければ、心はまったく無用だ。
あなたは心を捨てることができる。
だから、心はものごとを複雑にしてしまう。

これらの経文は実に単純であることを覚えておきなさい。
真理はつねに単純だ、まったく単純だ。

呂祖師は言った。観想なくしては何事も成しとげられない。

観想とは何か?無思考の瞬間だ。
「観想contemplation」という言葉には、
ディヤーナの正しい意味が含まれていない。
英語には「ディヤーナ」という言葉に当たる適切な訳語がない。

使えそうな言葉が三つある。ひとつは「集中concentration」
だが、この言葉はひどくかけ離れている。集中とは努力、
緊張を意味している。それは強いられた状態であって、
無碍(むげ)自在に流れている状態ではない。
ところが、ディヤーナとは無碍自在に流れている
状態だ。そこには緊張がない。
だから「集中」という言葉は訳語としてはふさわしくない。

次は「観想contemplation」という言葉だが、
観想には思考の含みがある。誰かが観想している
と言えば、何かについて考えているということになる。

三番目の言葉は「瞑想meditation」だが、これもやはり
考えること、何かについて瞑想することを意味する。
この三つの言葉にはどれもディヤーナの意味が含まれていない。

ディヤーナとは無思考の状態、沈黙の状態、
意識的でありながら中身がない状態を意味する。
鏡がそこにあるが、何も映し出していない、まったく
何も映し出していない。ちょうどその鏡のように、
意識がそこにあるが、何もそれをふさいでいない。
その何も占められていない醒めた意識がディヤーナだ。

道家の人々は「ディヤーナ」の訳語として「観想」
を使っている。いずれにせよ何らかの言葉を使わざる
をえないからだ。だから、その意味を覚えておきなさい
― それは辞書に記された意味ではない。辞書を調べると、
まったく違った観想の概念 ― 『黄金の華の秘密』が
「誤った観想」と呼んでいるものが載っている。

「誤った観想」とは、何かについて考えることだ。それは神
かもしれない ― キリスト教徒が「観想(黙想)」という言葉
で言おうとしているのはそれだ ― 神について考えること、
聖なるもの、超越的なものについて考えること。

だが も の は も の であり、神聖なもの
であろうが、世俗的なものであろうが違いはない。
思考は思考であり、セックスについて考えようと、
サマーディについて考えようと違いはない。

無思考の状態、間合い……
それはいつも起こっているのだが、
あなたは注意深く醒めていない。
醒めていたら何も問題はない。

ひとつの思考がやって来る。

続いて別の思考がやって来る。

この二つの思考のはざま
にはいつも小さなギャップすきまがある。
そのすきまが聖なるものへの扉だ。
そのすきまが観想だ。
そのすきまを深くのぞき込めば、
それはどんどん大きくなってゆく。

心マインドは交通の激しい道路のようだ。
車が次から次へと通り過ぎてゆく。車に目
を奪われるあまり、二台の車のあいだ
に必ずあるすきまが見えない。

すきまがなければ車は衝突してしまう。
衝突しないのは、車と車のあいだにすきまがあるからだ。

あなたの思考は衝突しない。互いにぶつかったり、
相手を轢きつぶしたりはしない。互いに重なり合う
ことすらない。どの思考にも境目がある。どの思考
も区切ることができる。だが、思考の進行があまりに
すばやく速いので、本当にそれを待ち受け、見つけよう
としないかぎり、あなたはすきまを見ることができない。

観想とは見ている風景の
焦点をそっくり変えることだ。

ふだん私たちは思考を見ている。
思考が次から次へと現れる。

風景の焦点を変えると、
すきまが次から次へと現れる。

あなたはもはや思考ではなく
すきまを重視している。

例えば、あなたがたはここに坐っている。
私があなたがたを見る方法は二つある。

ひとりひとりを順番に見てゆくやり方と
― 人に目をやれば、私は人数を数えることができる
― 人のことは忘れ、人と人のあいだにあるすきま
を勘定し、すきまがいくつあるかを数えるやり方だ。

そうすればものの見え方がひっくり返る。
すきまを数えたら驚くようなことが起こる。
すきまを見つめ、すきまを数えているために、
人の輪郭がぼやけ、はっきり見えなくなってゆく。

いつか道端に立って、通り過ぎてゆく
すきまを数えてみるといい。あなたは驚くだろう
― 車の色は目に入らない、車の型は目に入らない、
車の運転手や乗客は目に入らない。
目に飛び込んでくるのはすきまだ
― ひとつのすきまが過ぎ去ると、
次のすきまがやって来る。
あなたはすきまを数えつつ゛ける。
風景の焦点は変化している。

観想とは見ている風景の焦点を変えることだ。

ひとつの思考から別の思考へと飛び移るのではなく、
ひとつのすきまから次のすきまへと飛び移ってゆく。

徐々に徐々に、すきまへの気つ゛きが増してゆく。

それは生の最大の秘密のひとつだ。

なぜなら、そのすきまを通して、あなたは
みずからの実存へ、みずからの中心へ
と落ちてゆくからだ。

観想なくしては何事も成しとげられない。覚知することにより人は目標に到る。

覚知すること、ただ覚知すること……
それはインドでは「ダルシャン」と呼ばれている。
見ることにより、人はどこにも出かけることなく
目標に到る。どこにも出かける必要はない。

ただ見ればいい。

ひとたび間隙(かんげき)を、すきまをのぞきはじめたら、
あなたは自分が誰であるのかを見ることができるようになる。

そしてあなたは目的地だ。
あなたは出発点であり目的地、
始まりであり終わり、アルファでありオメガだ。

渇望していたすべてのものがすでにあなたのなかにある。
欲しがっていたすべてのものがすでにあなたのなかにある。
欲しがっていたすべてのものをあなたはもっている。

乞食でいる必要はない。
すきまを見ることを選べば帝王になり、
思考を見つつ゛けていたら乞食のままでいるしかない。

覚知することにより人は目標に到る。

自分自身から一歩たりとも踏み出してはならない。
神はすでにあなたのなかにいるからだ。
神は既成の事実だからだ。
それはあなたの内奥にある中核だ。
神は天上に、空のどこかにいるわけではない。
神はあなたの内側に、もはや思考によって
かき乱されないところにいる。

沈黙がみなぎり、何ひとつ映し出して
いない、中身のない意識があるところに。

そのとき、あなたは自分自身の味をはじめて体験し、
みずからの実存のかぐわしい香りに包まれる。
黄金の華が開く。
(p200)


内観によって反転させなければならないのは自意識をもったこころである。万物を形つ゛くる精神が顕現してくる前の状態へとそれを導かなければならない。

思考は顕れたものであり、無思考は顕れていないものだ。
自分が見ている風景が思考だけで成り立っていると
したら、エゴ自我以上のものは何もわからないだろう。
自我は「自意識をもったこころ」と呼ばれている。

あなたは思考のかたまり以外の何ものでもない。
その思考のかたまりのせいで、あなたは
「私はある」という自意識をもつようになる。

近代西洋哲学の父であるデカルトは「我思うゆえに我在り」
と言う。彼は瞑想者ではないから、まったく別のことを言おう
としているのだが、その言明そのものは美しい ―
まったく異なる文脈のなかに置くなら美しい。

私はそれに別の意味を与える。
そう、私は私が考えるときにのみ存在する。
思考が消えれば、私も消え失せる。

「我思うゆえに我在り」 ― この私の感覚、この
「自意識をもったこころ」とは連続する思考に他ならない。
それは本当は実体がなく、偽物であり、幻覚だ。

手に松明たいまつをもってぐるぐるまわしてゆくと、
現実にはない火の輪が見える。だが、松明の動きが
すばやいために、まぼろしの火の輪が生み出されて
いる。それは火の輪の幻覚を生じさせる。
それはそこにはない。

思考の動きがあまりに速いので、
私という観念がつくりだされる。

呂祖は言う ― 人は
「自意識をもったこころ」から
"自意識をもたないこころ"へと移らなければならない
、と。

人は自我から無我の状態へと移らなければならない。
人は自己から無自己へと移らなければならない。
自己は顕現している部分であり、ちっぽけで、
ひじょうに小さく、粗雑だ。

無我は顕現していない部分であり、
果てしがなく、永遠だ。

自己はつかのまの現象であり、
いつか生まれて、いつか死ななければならない。

無我 ― 仏陀は「アナッター」、無自己
と呼んでいる ― は永遠の一部であり、
生まれることもなく、死ぬこともない。
それはいつまでもとどまる。

六尺の身体の内に、天地が未だ現れる前にあった形を求め、努力しなければならない。


そしてあなたの六尺の身体のなかでは、
その本質が、天地がつくられる前からあった
その本質が、今もなお息つ゛き、鼓動している。

禅の人々はそれを「本来の面目」と呼んでいる ―
天も地も、何ひとつ生まれず、いっさいのものが姿
を現さず、沈黙だけがそこにあり、物音ひとつ立たなかった
とき……形がなく、すべて無相であり、あらゆるものが
種子の状態であったときにそこにあったもの。

その本来の静寂があなたの内側にある。

ヒンドゥー教徒はそれを「アナハトナッド」と呼ぶ。
仏教徒たちは「隻手(せきしゅ)の音声おんじょう」
という特有の表現をする。

それはあなたの内側にある。
それはあなたの真の姿だ。
それを味わえば、あなたは不死になる。
それを味わえば、あなたは黄金になる。
そうなったら塵(ちり)は変容して神々しいものになる。

錬金術はみな、卑金属を黄金に変容させることを目指している。

昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、ひたすら己の自我を見つめ、それを内観と呼んでいる。そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?

坐って瞑想しながら、自分の自我エゴを
見つめてばかりいるといったことにもなりかねない。
人々が「観想」と呼んでいるものはそれだ。
彼らは自分たちの思考を見つめているが、
見ている風景の焦点を変えてはいない。

彼らにそれしか起こらないのは、ふだんは実にたくさんのこと
に心を奪われているので、思考を見つめることができないからだ。
瞑想のために特別に坐ると、しばしのあいだ世間を忘れ、思考
がふだんよりも鮮明になり、思考に対してより敏感になる。
これは哲学者の心境だ。哲学者はそのようにして考え、
推測し、哲学を組み立ててきた。これは真の観想ではない。

そしてこのようなやり方では、
自我を超え、死を超え、時間を超え
てゆくことなどできるはずがない。
だが、人間の目的はまさに超越にある。

くり返そう。瞑想をしたければ、
見ている風景の焦点を変えなければならない。
目を閉じて自我を見つめているだけでは役に立たない。

イギリスの偉大な哲学者、デービッド・ヒュームは書いている。
「偉大な教師マスターたちがそろって口にする
『汝自身を知れ、瞑想をせよ』という金言や助言を
何度も何度も聞いたり読んだりしたので、私も瞑想
をやってみた。だが、内側には思考、記憶、空想、夢
しかなかった。他には何も見つからなかった」

彼がそう言うのももっともだ。彼は瞑想が何であるかを知らない
からだ。彼は哲学者、世界でもっとも才能ある哲学者のひとりだ。
その論理は実に鋭く、首尾一貫している。が、彼は瞑想者ではなく
、たんなる哲学者にすぎない。その言葉通り、彼はやってみたに
ちがいない。彼は内側をさまよっているたくさんの思考に出くわした
にちがいない。そこで彼は言う。「自己もなく、静寂もなく、神も
存在していない。こんなことをしても虚しいだけだ」

彼は取り逃がした。まず見ている風景の焦点
を変えねばならないということに気つ゛いて
いなかったからだ。思考を見つめる必要はない。

すきまを求め、すきまをのぞき込まなければならない。
すきまを探し、そのすきまのなかに飛び込まなければならない。
すきまに飛び込んでいたなら、彼は思考が消え、
夢が消え、記憶が消えてゆくのを見ただろう。

あらゆるものが置き去りにされ、しだいに
それは遥か遠くに聞こえる物音になってゆく。
そしてある瞬間がやって来る……それが
すっかり消え失せると、あなたは超越している。
あなたは向こう岸に到達している。


人は鼻の頭を見るべきである。

さあ、ここは経文のなかでも実践に役立つ箇所だ
― とても単純だが、正しく理解するように。なぜなら、
心マインドは単純なものごとですら曲解したがる
からだ。心とは曲解しようとするからくりだ。

人は鼻の頭を見るべきである。

なぜか、それが助けになるからだ。そうすればあなた
の意識は第三の目の延長線上にくるからだ。両目が
鼻の頭に向けられていると、たくさんのことが起こる。
基本的なことは、第三の目は鼻先と一直線上に ― 五、六
センチ上だが同じ直線上に ― 位置しているということだ。

ひとたび第三の目の延長線上にのれば、その第三の目の
魅力、その第三の目の吸引力、磁力があまりに大きいので、
あなたは知らないうちに引きつけられてしまう。その線の上
にのりさえすれば、第三の目の魅力、引力が作用しはじめる。

ひとたびその線の真上に来れば、努力をする必要は
いっさいなくなる。ふと気つ゛くと、世界の見え方
が変わっている。両目は二元的な世界や思考をつくりだし
、両目のあいだにあるひとつの目はすきまをつくりだす
からだ。これは見ている風景の焦点を変える単純な技法だ。

人は鼻の頭を見るべきである。だがこれは、みずからの思念を鼻の頭に固定させるという意味ではない。

心マインドはそのように曲解しかねない。心は「よし、
じゃあ鼻の頭を見つめればいいんだ。鼻先のことを考えて
、それに集中すればいいんだ」と言いだしかねない。
鼻の頭に集中し過ぎたら、肝心な点を取り逃がしてしまう。

鼻の頭に視線を下ろしつつも、第三の目によって
引き寄せられるように、ゆったりくつろいでいなけれ
ばならないからだ。鼻の頭に集中し過ぎて、そこに根
をはやし、焦点を合わせ、固定してしまったら、
第三の目はあなたを引き寄せることができない。

第三の目はこれまで一度も働いたことがないからだ。
その吸引力は、最初はそれほど大きなものでは
ありえない。それは徐々に徐々に大きくなってゆく。

ひとたび第三の目が機能しはじめ、それによって
周囲につもったほこりが消え、仕組みが順調に
働いてゆくようになれば、鼻先に意識を向ける
だけで、あなたは引き寄せられるようになる。

だが、はじめはそうはゆかない。あなたは肩がこらず、
圧迫もなく緊張もない、軽々とした状態でいなければならない。
あなたはただ一種の手放し状態のなかでそこにいなければならない。

またこれは、目で鼻の頭を見つめながら思念を「中心の黄色」に集中させるという意味でもない。

だから、鼻の頭に意識を集中させないこと ― さもないと
心マインドは第二の策略トリックを弄しかねない……
師は心が引き起こしうるあらゆる事態、あらゆるゲーム
に注意を向けさせようとしているだけだ。

心はまず言う。「よし、では師は『鼻の頭に集中せよ』と言ってるんだ」
師は「鼻の頭に集中せよ」などとは言っていない。師は
「見なさい。軽やかに、力まずに見なさい」と言っているだけだ。

あるいは心はこう言うかもしれない。「そうか、鼻の頭をとりあえず
見て、意識を第三の目に集中させればいいんだな」

心はつねに集中する側にまわる。心は集中を餌とし、集中
を食べて生きているからだ。学校や大学で、瞑想ではなく
集中が教えられるのはそのためだ。学校はすべて心を
つくりだす工場だからだ。それは心を製造している。

視線が向かうところに、こころも向かうものである。どうしてそれを同時に上方と下方に向けることができるだろう?

そうなったら、心マインドはこう言うだろう。「いいかい、
そんなことはできっこない。不合理な要求さ。どうして二つの
方向を、鼻の頭と第三の目を同時に見るなんてことができるだろう?
そんなことは不可能だ、やれるはずがない。馬鹿を言っちゃいけない」

さあ、何かをつじつまが合わないと言って非難するのが、
心の第三のゲームだ ― 心はまずまやかしの観念をつくりだして
おいてから、それを壊そうとする。そして壊すことに大きな
喜びを覚える ― ひじょうに自虐的、加虐的な喜びだ。
心は言う。「いいかい、師はこんなことを言っているんだぜ。
馬鹿げているよ!まず鼻の頭を見て、
それからさらに第三の目を見ろだって
― どうして上と下を同時に見るなんてことができるだろう?
そんなことはできっこない」

こういったことはみな、月を指す指を月そのものと取り違えるようなものである。では、これは実際には何を意味するのか?
「鼻の頭」という表現はよく考えて選ばれたものだ。
鼻は視線の目安とならなければならない。

それだけのことだ ― それは目安にすぎない。
それを目安にすることで、あなたは第三の目の磁場、
エネルギー場に入り、第三の目の磁力のすぐそばにいる
ことになる。第三の目はそのような形でしか機能しえない。

あなたはその磁力に身をさらし、磁場のなかにたたずんで
いるだけでいい。そうすればその力があなたを引き込んで
くれる。入ってゆく必要はないし、入ってゆこうと努力を
する必要もない。それはひとりでに起こるからだ。

鼻に視線を向けていない場合には、目を大きく開けて遠くを見ているため鼻が見えないか、あるいは目を閉じ過ぎていて鼻が見えない。目を大きく開けすぎると、視線を外に向けるという誤りを犯し、気が散りやすくなる。

鼻の頭を軽く見ることで別の効果が現れる ―
そうすれば目を大きく開いたままではいられない。
目を大きく見開くと、世界のすみずみが視野に入ってくる。
そして気を散らさせるものが無数にある。

美しい女性が通りかかると、あなたはそれについてゆく
― 少なくとも心のなかで。あるいは誰かが喧嘩をしていると、
関係などないのに、「どうしたのだろう?」と考えはじめる。
あるいは誰かが泣いていると、好奇心に駆られる。千とひとつの
ものごとが絶えずあなたのまわりで起こりつつ゛けている。
目を大きく開いたら、あなたは男性エネルギー、<陽>になる。

目を完全に閉じてしまうと、あなたは物思いにふけり、
夢を見はじめる。あなたは女性的エネルギー、<陰>
になる。両方を避けるために、何気なく鼻の頭を見る
― 単純な方策だが、その成果には目を見張るものがある。

これは道家の人々だけでなく、仏教徒たちも知っている、
ヒンドゥー教徒たちも知っている。いつの時代にも
瞑想者たちは、目を半眼にすることで二つの罠を巧妙
に避けることができるという事実にゆきあたった。
外界にかき乱されるか、内なる夢の世界に
かき乱されるか、二つの落とし穴がある。

内界と外界の境界の真上にとどまって
いればいい。まさにその場所だ。内界と外界の
境界の上にあるというのは、その瞬間、あなた
は男性的でも女性的でもないということだ。
あなたの視界は二元性から解放されている。
あなたの視点は内なる分割を超えている。
内なる分割を超えてはじめて、あなたは
第三の目が放つ磁力の圏内に入る。

目を閉じ過ぎると、視線を内に向けるという誤りを犯し、夢を見るような空想の状態に沈みこんでしまう。ただ瞼まぶたを適度に半分ほど閉じると、ちょうどよい具合に鼻の頭が見えるようになる。そのために鼻を目安とするのである。大切なのは、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとするのではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。

これを覚えておくことはとても重要だ。光は引き入れる
ものではない、力ずくで引き込むものではない。

窓が開いていれば、光はひとりでに入ってくる。
扉が開いていれば、光はあふれるように差し込んでくる。
光はもち込まなくてもいい。
光は押しいれなくてもいい。
光は引き込まなくてもいい。

光をどうして引き込むことができるだろう? 
光をどうして押し入れることができるだろう?
心を開き、光に対して感じやすくなっているだけでいい。

鼻の頭を見ているときに起こって
いるのはまさにそれだ。集中せずに、
ただ見ていると……重くならず、力まず、
ただ見ていると、突然、第三の目の窓が開き、
光が流れ込んでくる。いつも外に流れ出していた
光が流れ込みはじめ、輪が完結する。

そしてこの輪は人間を完成させる。
この輪は人間を完全に落ち着かせ、くつろがせる。
この輪は人間を円満で神聖なものにする。
人間はもはや分かたれていない。

そうでないかぎり、人はみな多かれ
少なかれ精神分裂症にかかっている。
光の輪をつくりだせた人間だけが ―
光の循環は精神分裂症を超えている ― 本当に
健やかであり、神経症を少しも患っていない。

さもなければ人はみな似たりよったりだ。神経症を病
んでいる者とそうでない者の違いは程度の差にすぎない。
実際、患者と精神分析医は別の人種ではなく、同類だ。
ひとりの神経症患者がもうひとりの神経症患者を助け
ようとしている。そして、ときには手を貸している方が
相手よりも思い神経症にかかっているといったことがある。

世にある職業のなかで精神分析医が神経を病む率が最も高い。
世にある職業のなかで精神分析医の自殺率が最も高い。
なぜだろう?ある意味で、それは当然のことであり、
つじつまがあう。神経症やありとあらゆる狂気を扱って
ばかりいるのだから、自分自身も癒えていない彼らが
影響を受けてしまうのは当然だ。

彼らはこれらの神経症を体内で養っている。
患者が語るすべてのたわごとに耳を傾けていると、
精神分析医は無意識のうちにそれを取り込んでしまう。
患者はありとあらゆるたわごとを精神分析医にぶちまけて
ゆく。実際、そのために患者は金を払っている。
徐々に徐々に、精神分析医のなかに大量の神経症がため込まれ、
やがてそれが爆発することになる。そうなっても無理はない。

 もし精神分析医を任命する権限が私に与えられたなら、
光を巡らせるこのプロセスを精神分析医に求められる
基本的な条件、根本条件とするだろう。
みずからの光を巡らせることができる
まで、他人を治療する資格はない。

内側で光を巡らせることができるなら、その人は
いかなる神経症にもけっして影響されることがない。
彼は乱されることなく、耳を傾け、手を貸すことができる。
光を巡らせることで、彼はみずからを清め、
浄化している。彼は聖なる人になる。

導師グルと精神分析医の違いはそこにある。
導師だけが真の精神分析医になることができる。
導師だけが真のセラピストになることができる。
みずからの全体性に到った者だけが
道の上で苦闘し、暗闇でつまつ゛いて
いる者たちに本当に手を貸すことができる。
さもなければ、盲人が別の盲人の手引きをしているだけだ
― ふたりはそろってどこかの井戸に落ちることになる。

この『黄金の華の秘密』という書物は、
将来、精神分析医になりたい者たちにとって、
最も根本的な実践の手引きとなるにちがいない。

あなたは驚くだろう ― この書物をはじめて西洋の言語に翻訳した
のはヴィルヘルムだが、彼自身もまた優れた心理学者だった。
彼がこの書物に興味をもつようになったのはそのためだ。
だが、翻訳を終えた後、彼は狂ってしまった。
彼はひどくかき乱されてしまった。

彼が受けた精神分析の訓練とこの書物の内容が
彼のなかで大きな矛盾を引き起こし、解きがたい
謎を引き起こし、彼は今まで以上に分裂してしまった。
この書物を翻訳することで、彼は一種の狂気へと追い立て
られていった。それまで受けてきた訓練、知識がことごとくかき
乱されてしまったために、彼は方向感覚をすっかり失ってしまった。

それを覚えておきなさい。
秘法はそれほどむずかしくない。それが
むずかしいのはそこだ ― あまりに単純なので、
ただ心マインドが複雑にしてしまわないよう、
勝手にひねりを加えてしまわないよう、
見張りつつ゛けることだけが求められる。

そのために鼻を目安とするのである。大切なのは、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとするのではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。

意識を集中させて光を取り入れる必要はない。
光は自然に入ってくる。そして自然に
入ってくるなら、その光は美しい。

光を内側にとり入れようとしはじめたら
失敗するだろう。努力すれば必ず失敗する。
そして失敗すればするほど、あなたはさらに
懸命に努力する。やればやるほど、あなたの
失敗はいっそう確実なものになってゆく。

光をとり入れようとしないこと。
光が自然に入ってくる正しい状況
に身を置けばいいだけだ。

例えば、夜、月が出ているときに、
窓辺に近つ゛き、窓のそばに立てば、
月は自然に甘露を降り注ぎはじめるだろう。
あなたは何もしなくていい。月の光が降り注いでいる
場所に立てばいいだけのことだ。

みずからを正しい<場>
に置くだけで、ものごとは起こりはじめる ―
このうえもなく価値のあることが。

鼻の頭を見ることは、ひとえに内なる集中をはじめる際に役立つのであり、そうすることで視線が正しい方向に向かい目安が定まれば、後はそのまま放置すればよい。これは大工が下げ振りをつるすにあたり、いったんそれをつるし終えると、絶えずその糸を見ることにこだわらないようなものである。両目で鼻の頭を見ながら……

いいかね、両目が鼻の先端でその二元性を失うように
、あなたは両方の目で鼻の先端を見なければならない。
そうすればその鼻先で、両目から流れ出している光が
ひとつになる。光は一点に集まる。二つの目が出会う
ところ……まさにそこに窓が開く。

そうなったらすべてがうまくゆく。
そうなったらそのまま放置すればいい。
そうなったらただ楽しめばいい。
ただ祝い、ただ喜び、楽しめばいい。
そうなったらすることは何もない。
(p211)


両目で鼻の頭を見ながら、背筋を伸ばして楽な姿勢で座り……

背筋を伸ばして坐ることは役に立つ。
背筋を伸ばしていると、性の中枢センターから来る
エネルギーをも第三の目で使うことができるようになる。
単純な方策であり、そこには何も複雑なものはない
……両目が鼻の頭で出会うと、あなたは第三の目に
はいってゆくことができる。性エネルギーも
また第三の目に入ってゆかせるがいい。

そうすれば効果は二倍になる。効果は絶大になる。
なぜなら、性の中枢にはあなたが携えている
すべてのエネルギーがあるからだ。

背骨をまっすぐに立てると、性の中枢を
も第三の目で使うことができるようになる。
第三の目は二つの次元から攻めるほうがいい。
第三の目は二つの角度から貫こうとするほうがいい。

背筋を伸ばして楽な姿勢で座り……

師はことを単純明快にしている。
背筋を伸ばすのはいいが、それを
心地の悪いものにしてはいけない。
そうでなければ、再びその心地の悪さに気をとられてしまう。

ヨーガの体位の意味はそこにある。サンスクリット語
の「アーサナ」とは心地のよい姿勢を意味している。

心地のよいことが何よりも肝心だ。
心地よくなければ、心は不快さに気をとられてしまう。
それは心地よいものでなければならない。

東洋人がよくするように床の上に坐ることができなけれ
ば ― 彼らは何世紀にもわたり坐りつつ゛けてきた ― 西洋
の探求者が床の上に坐ることができなければ、坐ること
に無理があり、心地が悪く、痛みに満ちたものになる
なら、椅子に坐って背筋を伸ばす方がよい。

だが、椅子の背は直角でなければならない。
古代エジプトの王や王妃の絵や彫像を見たことが
きっとあるだろう。彼らの椅子の背は直角になって
いる。そのようにして坐るといい。それもヨーガの姿勢
のひとつだ。古代のエジプト人たちはその秘密を知っていた。

とにかく二つのポイントがある。
背骨をまっすぐに伸ばすことと、楽な姿勢を取ること
だ。どちらかが無理な場合には……ときにはそういう
こともある。どちらかができない場合がある。
背骨をまっすぐ伸ばすと、心地が悪くなり、
楽な姿勢を取ると、背骨が曲がってしまう。

そんな場合には楽な方を選びなさい。最善では
ないにせよ、心地よさを選ぶ方がいい。そして背骨
や背筋を伸ばすことなど忘れてしまいなさい。という
のも、心が散漫になってしまうと、何も起こらないからだ。
両方をかなえることができるなら、それに越したことはない。
(p213)

楽な姿勢で座り……背筋を伸ばし楽な姿勢で坐り…… こころを諸条件の只なかにある中心に保つ。

そして世間から逃げださないこと。
世間のなかで、その諸条件の只なかで生きなさい。
車の騒音が聞こえてくる。飛行機が飛び去ってゆく。
汽車が行ったり来たりしている。ありとあらゆる
ものごとがそこにある……世間が。だが、世間の
只 な か で静かに座りなさい。

なぜなら、ヒマラヤの洞窟へ逃げだす
ことにはつねに危険がつきまとうからだ。
危ないのはヒマラヤの静寂がしみ込みやすいため、
自分は沈黙を達成したと勘違いしかねないからだ。
大気の涼しさがしみ込みやすいため、平常心
を達成したと勘違いしかねないからだ。

それは借り物だ。
人でにぎわう街にもどってくれば、
それはみなたちどころに消えてしまう。
そしてヒマラヤでのあの年月は無駄だった
ことが、完全に無駄だったことがわかる。
あなたは自分をだましていただけだ。

世間の只なかで、中心感覚を獲得するほうがいい。
なぜなら、それはあなたから取り去ることができない
からだ。だからどこにいようと、あなたはこれらの
諸条件の只なかで中心にとどまらなければならない。

それは必ずしも頭の中心を指しているわけではない。

中心感覚とは、頭の中心にとどまるということではない。

大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。

そして、いいかね、意識の集中ではなく、
ただ油断なく目を見張りつつ゛けていること、
軽やかに注意を払うということだ。

鼻の頭を見ながら、第三の目に軽く注意
を払いなさい。実のところ、鼻の頭を見た
とたん、あなたは第三の目に敏感になる。
なぜなら、それは鼻のもう一方の極だからだ。

ひとつの極、外側の極は鼻の頭であり、
それは末端だ。もうひとつの末端は第三の目
とつながっている。鼻の頭に意識を向けるやいなや、
もう一方の端もただちに意識に昇ってくる。
だが、ただ気つ゛いていること、
努力せずに気つ゛いていること。

大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。そうすればすべては整う。

すばらしい言明だ ― そうすればすべては整う。
あなたはわが家にたどり着きはじめている。
あなたは変革の入り口に立っている。

光は、はなはだ動きやすい。

光はつねに動いている。光とは速度に他ならない。
この世で光ほど速く動くものはない。光の速さは一秒間に
十八万六千マイルだ。光より速いスピードで動くものはない。
光は純粋な速さだ。それは速さの別の名前だ。
光はけっして眠り込まない。光はつねに躍動し、つねに動き、
つねに流れている。

光は、はなはだ動きやすい。両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。

心配しなくてもいい。
窓を開けて、ただ待てばいい。
光は動いてやまない現象だから、
窓が開いていれば、流れ込んでくる。
実のところ、光は何生にもわたって窓を叩き
つつ゛けてきたのだが、窓は閉ざされたまま
だった。そして光は窓をこじ開けることができない。

それは朝がきて太陽が昇っているのに、深く眠り
こけているのに似ている。光線は窓に達し、窓を
叩いている。だが、そのノックの音は聞こえない。
光は音を立てないからだ。光はそこで待っている。
目を覚まして、窓を開けたとたんに、光が流れ込ん
でくる。そして光とともに生命が入ってくる。
光とともに喜びが入ってくる。

両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。

「自然に」という言葉に心をとめなさい。
あなたは行為の主体ではない。あなたは一種の
手放し状態にある。あなたは光に明け渡している。

注意をことさら中心の宮殿に向ける必要はない。大切なことはこの数語に要約されている。

あなたの実存をすっかり変容させてしまう秘法、
神の王国の秘法、にゃはんニルヴァーナの秘法……。

「諸条件の只なかにある中心」というのは、ひじょうに微妙な表現である。中心は至るところにあり、いっさいのものがそのなかに含まれている。それはあらゆる創造のプロセスが解き放たれる点と結びついている。

あなたが第三の目の地点に到り、そこに中心を
据えると、光があふれるように押し寄せてくる。
そのときあなたは、あらゆる創造がそこから湧き
起こる地点に到達している。あなたは形なきもの
、顕れていないものに到達している。

それを「神」と呼んでもいい。
これこそ万物が湧き起こる地点、その空間だ。
これこそ森羅万象の種子そのものだ。
それはあらゆる力をもち、至るところ
に遍満している永遠なるものだ。

もはや死を知ることはない。
もはやあなたはいかなる肉体との同一化、老若・美醜も知ることはない。
もはやあなたはいかなる種類の病も知ることはない
― 肉体が病まないというのではないが、病は
もはやあなたには起こらない。なぜなら、
あなたはもう同一化してはいないからだ。

ラマナ・マハリシは癌で死んだ。肉体は
ひどく苦しんでいたが、彼は微笑んでいた。
医者たちは当惑し、目を疑った。それは信じがたい
ことだった。肉体がこれほどひどい苦痛にさいなまれ
ているのに、彼はすばらしい歓喜に浸っている。

どうしてそんなことがありえるのだろう?
彼らが何度も「どうしてこんなことがありえるのでしょう?」
と尋ねるたびに、彼はこうくり返した。

「不思議なことは何もない。私は肉体ではないからだ。
だから肉体に何が起こっていようと、君たちが私の肉体
を見ているのと変わりない。私も自分の肉体を見ている。
君たちは少しも痛みを感じないだろう?私もそうだ。
君たちは目撃者であり、私も目撃者だ。

肉体は対象、私たちのあいだにある対象物にすぎない。
君たちは肉体が苦しんでいるのを外側から見ている。
私は肉体が苦しんでいるのを内側から見ている。
君たちが動揺せずに見ていられるなら、
どうして私にできないことがあるだろう?」

実のところ、医者たちは動揺していた。
彼らは深い同情を感じていた。
彼らは悲しかった。
彼らは無力感を感じていた。
彼らはこの人を救いたいと思っていた ―
かつてこの世に生きた最も美しい人々のひとりを。
だが、それはできなかった。彼らは泣いていた。
だが、ラマナはまったく動揺していなかった。

人間のなかには超越の地点がある。
姿を顕しているいっさいのものから突如
断絶し、姿を顕していないものと結びつく地点が。
姿を顕していないものと結びつくことが
自由になること、あらゆる惨めさから自由になること、
あらゆる限界、あらゆる束縛から自由になることだ。

一点を見つめ観想することが不可欠である。

これは避けることのできないものだ ―
これは欠かせない。至福の状態に到達したけれ
ば、この一点を見つめること、観想、瞑想、あるいは
ディヤーナのこのプロセスを通り抜けなければならない。
(p217)

この技法はすみやかに光明を得ることを保障する。世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけない。

さて、ひじょうに重要な、師の第二の助言だ。


世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけない。その想念はどこにあるのか、どこではじまり、どこへ消えてゆくのかを調べなければならない。

最初からそれがうまくゆくことはないだろう。
鼻の頭を見ていると、思考がやって来る。
思考は何生にもわたってやって来ているのだから、
そうやすやすとあなたを独りにしてはくれない。
思考はあなたの一部となり、ほとんど組み込まれてしまって
いる。あなたはプログラムされたに等しい生を送っている。

自分が何をやりつつ゛けているか
観察してみたことがあるだろうか?
なかったら、明日の朝、あることをやってみるといい。
朝、目を覚ましたら、すぐに自分がしていることを観察
してみるといい ― どのようにベッドから起きるか、どの
ように身体を動かすか、どんな思念が頭をよぎるか
……ただ、見守ってみるといい。

一週間も観察すれば、きっと驚くことだろう。
あなたは毎朝まったく同じことをくり返している。
同じ仕草、同じ表情、ほとんど同じ思考。
何から何まですっかりプログラムされてしまっている。
そしてあなたはこれを一生のあいだやってきた ―
もしかすると何生ものあいだやってきたのかもしれない。

腹が立ったら、観察してみるといい ―
それはいつも同じプロセスを踏んでいる。
あなたは同じ空間を通り抜けてゆく。
幸せなとき、観察してみるといい。
恋に落ちるとき、観察してみるといい。
失恋するとき、観察してみるといい。
それはほとんど同じプロセスだ。

あなたは同じ愚行を何度も何度もくり返し、
同じたわごとを何度も何度も口走っている。

あなたは意識的な生を生きていない。
あなたの九十九パーセントはプログラムされている
― 他人にプログラムされているにせよ、
社会にプログラムされているにせよ、
あなた自身の手でプログラムしているにせよ、
プログラムされていることに変わりはない。

だから、はじめて坐って鼻の頭を見つめているときに、
思考がこのように言うほど、ことは容易ではない。
「こいつのそばには近寄らないほうがいい。
このかわいそうなやつを見てみろ ―
瞑想なんかにすっかりはまり込んでいる!
鼻の頭を見つめていやがる……今こいつ
のところへゆくのはやめておこう」

思考はあなたのことなどおかまいなしに、
どんどん走りまわるだろう。
鼻の頭を見たぐらいで止まりはしない。
むしろ逆に、この男が思考の支配から逃れよう
としているのを見物しようと、それまで
以上にもっとしつこくやって来るだろう。

静かに坐って瞑想をしていると、ふだん
よりも、いつもよりももっと多くの思考が
やってきて、ほとんど爆発しそうな勢いになる。
何百万もの思考が押し寄せてくる。

思考はあなたにかなりの投資をしてきたのに、
あなたはその支配から抜け出そうとしているからだ。
かれらはあなたをこっぴどい目に合わせようとする。
だから、思考が必ずやって来る。

これらの思考をどうしたらいいだろう?
ただそこにぽつんと坐っているわけにはゆかない。
あなたは何かをしなければならない。闘っても役には
立たない。闘いはじめたら、鼻の頭を見たり、第三の目
を意識したり、光を巡らせることを忘れてしまうからだ。

あなたはすべてを忘れ、思考の
ジャングルに迷い込んでしまう。
思考を追いかけはじめたら、道に迷ってしまう。
思考の後を追えば、道に迷ってしまい、
思考と闘っても、道に迷ってしまう。
では、どうすればいいのだろう?

これがその秘法だ。
仏陀も同じ秘法を使っていた。
実際、秘法というのはほとんど同じものだ。
人間が ― 鍵穴が同じだからだ。だとすれば
鍵も同じにならざるをえない。
これがその秘法だ。

仏陀はそれを「サマサティ

― 正しい想起 ― と呼んでいた。

ただ想起すること ―

思考がやって来ても、敵意を抱かず、
正当化をせず、非難をせずに、
そのありのままの姿を観る。

科学者が客観的になるように、
ただ客観的になる。

それがどこにあるか、
どこからやって来たか、
どこへ去ってゆくかを観る。

それがやって来るのを観、
とどまるのを観、
去ってゆくのを観る。

思考はひじょうに動きやすく、
長くとどまってはいない。あなたは
思考が湧き起こり、
思考がそこにとどまり、
思考が去ってゆくのを
ただ観守っていればいい。

闘ったりしないこと。
ただ静かに観察していればいい。
するとあなたは驚くだろう ―

観察がしっかりしたものになれば
なるほど、やって来る思考は減ってゆく。

観察が完璧になると、思考は消え失せてしまう。
後にはすきまが、間合いだけが残る。

だが、もうひとつのポイントを覚えておきなさい。
こころが再び策を弄しかねないからだ。
(p220)




内省をどこまで押し進めても何も得られない。

だが、内省をどこまでも押し進めようとしないこと。

フロイト派の精神分析はまさにそれを行なっている。
思考を自由に連想させてゆく。ひとつの思考がやって
来たら、次の思考が湧いてくるのを待つ。それがどんどん
鎖のようにつつ゛いてゆく……精神分析の諸派がやっている
のはまさにそれだ―あなたは過去にもどってゆき始める。

ひとつの思考が別の思考を呼び覚まし、それが延々
と果てしなくつつ゛いてゆく。それにはきりがない。
それに入り込んでしまったら、あなたはまったく何
の益にもならない永遠の旅に出ることになる。心は
それをやりかねないから、気をつけなければならない。


内省をどこまで押し進めても何も得られない。この想念がどこから生まれてきたかを見ることでよしとし、その先を究めようとしてはならない。こころを探し求めても、とらえることはできない(意識によって意識の背後に達することあできない)からだ。

意識によって意識を超えることはできない。
だから、いたずらに無益なことは試みないこと。
そうしないと次から次へと現れる思考に振りまわされ
て、自分がそこで何をしようとしていたのかすっかり
忘れてしまう。鼻の頭は消え、第三の目は忘れられ、
光の循環は遥か彼方に遠ざかってしまう。

だから思考をつなげないよう、
ひとつの思考だけにする。
連想をはじめてはいけない。

ひとつの思考が現れてくる―
それがどこにあり、どこから現れて、
いつ消えてゆくのかを見守りなさい。
見守っていると、それは消えてしまう。
これを心にとめておきなさい。

仏教徒は思考が現れると、「思考、思考」
と言って油断なく目を見張る。それは
ちょうど家に泥棒が入ったら、「泥棒だ!泥棒だ!」
と叫んで、みんなの注意を呼び覚ますようなものだ。

ただ「思考、思考」と言うだけで、
あなたは油断なく目を見張り、注意深くなる。
泥棒が入った。さあ、泥棒が何をしているか見守るがいい。

あなたが気つ゛くと、思考はただちに止まる。

思考はあなたを見て、そして少し驚く。あなたは
これまで一度もそんなことをしたことがなかった
からだ。思考はあまり歓迎されていないのを感じる。
「こいつはどうしてしまったんだろう?いつも
よくもてなしてくれたのに、『泥棒!泥棒!思考だ、思考だ』
などと言っている。こいつはどうしちまったんだろう?」
思考は当惑し、何が起こっているのか理解することができない。
「こいつはおかしくなりはじめているのだろうか。
鼻の頭を見ながら『思考、思考』とくり返しているぞ」

気つ゛きそのものが思考の動きを一瞬止める。
思考はその場に釘つ゛けになる。

そして見守りつつ゛けなさい。
非難してはいけない。
放り出そうとしてはいけない。
闘ってはいけない。
非難しても正当化しても、思考
と同一化することになるからだ。

ただそこにあって、油断なく
目を見張り、思考を見つめなさい。
そうすれば思考は消えはじめる。
現れたときと同じように消えてゆく。
それは空想から生まれ、空想のなかに消えてゆく。

思考が消えれば、観想にもどればいい。
思考には根などないのだから、その元を
たどる必要はない。さもなければ大宇宙の
源そのものまでたどらなければならなくなる。

精神分析にきりがないのはそのためだ。それは
けっして終わらない。精神分析を完全に終えた者など
この世にひとりもいない。精神分析を完全に終えること
などありえない。一年、二年、三年、四年、五年、六年
、七年と―精神分析に七年間通っている人もいる。

あなたはどう思うかね?彼らが止めるのは精神分析が終了
したからだと思うかね?いいや、彼らは精神分析にうんざり
し、精神分析医は彼らにうんざりしてしまったからだ。
ものごとはいつか決着をつけなければならない。終止符を
打たなければならない。いつまでつつ゛けられるだろう?

だが、精神分析が完了したことは一度もない―それはありえない。
それはむいてもむいてもなくならない玉葱たまねぎのようなものだ。
その皮をえんえんと剥むきつつ゛けることはできるが、
どこまでいってもきりがない。

だがそれは助けになる。それは自分自身に、そして社会にもっと
適応するのを助けてくれる。それはあなたを変容させるのでは
なく、正常な異常者にするだけだ。それはあなたが住んでいる
神経症的な社会にあなたが適応するのを助けてくれる。

それはあなたを、変容を遂げた輝かしい存在にするのでは
なく、生がもたらすものは善悪を問わずことごとく受け入れ、
誰もがしているように身をひきずりながら歩いてゆく
ふつうの人間にしてくれる。それは嘆きながら生を受け入れる
ことを教えてくれる。それは本当の受容ではない。

真の受容はつねに祝祭をもたらすからだ。

ジークムント・フロイトは言った―人間は幸福にはなれない。
せいぜい楽になることができるだけだ。生をもっと
心地よいものにすることはできるが、ただそれだけ
のことであり、幸福にはなれない。

それは不可能ではない―精神分析によっては不可能だが―
なぜなら、幸福な人々というのは存在してきたからだ。
私たちは彼らを知っている。仏陀や老子やクリシュナのよう
な人たち、私たちはこういった舞い踊る人々を知っている。

フロイトは幸福ではない。それは本当だ。彼は幸福になる
ことはできない。精神分析を落とし、瞑想的なプロセスに
入ってゆかないかぎり、彼は幸福にはならない。彼が瞑想
を学ぶにはさらにいくつかの生が必要になるだろう。

実のところ、彼は瞑想をひどく恐れていた。ジークムント
・フロイトだけでなく、カール・グスタフ・ユングのような
人でさえ、恐れていた。カール・グスタフ・ユングは、この
『黄金の華の秘密』という書物の解説を書いている。だが
それは知的なものにすぎず、実存的な価値はない。

彼には瞑想の体験がまったくなかった―どうしてそれが
実存的な価値をもちうるだろう?そして、彼はきわめて
エゴの強い人間だった。エゴの強い人間は瞑想に入って
ゆくのがひじょうにむずかしい。なぜなら、そのまさに
戸口のところでエゴを落とさなければならないからだ。

ユングがインドを訪れたとき、まだラマナ・マハリシ
は生きていた。そして、多くの人がユングに勧めた。
「インドにおいでになったのだし、あなたは生の内なる神秘に
大きな関心をもっておられるのだから、ラマナのもとへ行かれる
のがいいでしょう。あなたは『黄金の華の秘密』の注釈を書いて
おられますが、ここでは満開の"黄金の華"が咲いています。
どうしてラマナのもとへ行かれないのですか?」

だが、ユングは一度も足を向けなかった。彼はインドを
旅して多くの人々に出会ったが、ラマナには一度も会いに
行かなかった。なぜだろう?何を恐れていたのだろう?
この人物に出会うことを恐れ、この鏡と顔を合わせる
ことを恐れていたのだ。

ユングの写真を見たことがあるだろうか?写真を見ただけでも、
彼のエゴは歴然としている。フロイトはユングほどエゴが強そう
には見えない。おそらくユングは、みずからのエゴゆえに師である
ジークムント・フロイトと袂たもとを分かち、彼を裏切ったのだろう。
ちょっと彼の写真を見てみるといい。その目はとても抜け目なく、
計算高い。いつでも人に食ってかからんばかりだ。とほうもなくエゴ
が強いが、ひじょうに頭がよく、聡明で、知性が発達している。

いいかね、精神分析であれ分析心理学であれ他の流派であれ、
分析と言うゲームに興じるかぎりあなたは幸福にはなれない。
そのゲームのゆき着く果てはなまぬるい順応生活に他ならない。
それらはあなたが祝祭の炎と化すのを助けはしない。祝祭は
彼らの手にあまる。なぜだろう?それは彼らが思考を
分析しつつ゛けているからだ。分析は必要ではない。

それゆえに『黄金の華の秘密』は言う―


人はみなこころを落ち着かせようとする、これが正しい観想である。

私たちは実存全体に完全な安らぎをもたらしたい。分析は
助けにならない。分析は混乱を、不安な状態を生み出すからだ。


これと矛盾するのは誤った観想であり……

分析は「誤った観想」だ。


何も得るところがない。雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止まり、観想をはじめなければならない。

だから、この二つを覚えておくといい。これらは両翼だ。

ひとつは、間合いがあり、
思考がやって来ていないときに
観想するということ。

そして思考がやって来たら、これら三つのことを
見る―思考はどこにあるか、どこからやって来たか、
どこへ去ってゆくか。しばらくすきまを見ることをやめて、
思考を見つめ、思考を観察し、思考に別れを告げる。
思考が去ったら、ただちに観想を再開する。

もう一度、譬(たとえ)を使って説明してみよう。
道路を走っている車と車のすきまを見ているとき、
車がやって来たらどうするだろう?

あなたは車にも目をやるが、車の細部のことは気にかけない。
型、車種、年式、色、運転手、乗客のことは気にかけない。
そういった分析にはかかずらわない。

あなたはただ車を目にとめるだけだ。
車がやって来て、あなたの前を通り、去ってゆく。
再び、あなたはすきまに注意を払うようになる。

あなたの関心はひたすらすきまに注がれている。
だが、車がやって来たら、しばらくのあいだ車にも
注意を払わざるをえない。やがて車は去ってゆき、
あなたは再び安らぎ、観想、間合いのなかに落ちてゆく。


雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止まり、観想をはじめなければならない。観想したら、再び見つめる。

だから、思考がやって来るたびに、それを見つめ、
思考が去るたびに、観想する。


これがすみやかに光明を得るための二重の技法、つまり光を巡らせることである。巡らせるとは見つめることであり、光とは観想のことである。

観想するたびに、光が
あふれんばかりに押し寄せてくる。
見つめるたびに、あなたは循環を生みだし、
循環を起こさせている。どちらも必要だ。


光とは観想のことである。観想せずに見つめるのは光のない循環であり……

まさにそれが起こっている。ハタ・ヨーガ
その不幸なあやまちが起こった。彼らは一点
を見つめ、集中するが、光を忘れてしまった。

彼らは客をすっかり忘れてしまった。
彼らはひたすら家の準備をしつつ゛ける。
家を準備することにかまけるあまり、彼らは
何のために、誰のために家を準備している
のか、その目的を忘れてしまった。

ハタ・ヨーガは絶えず肉体を準備し、肉体を浄化
してゆく。ヨーガの姿勢を取り、呼吸法を実践し
ながら、それをどこまでも果てしなくつつ゛けてゆく。
ヨーガ行者は何のためにそれをやっているのかを
すっかり忘れてしまっている。そして
目の前にある光を認めようとしない。

光は人が完全に手放しになったときに
はじめて入ってくることができる。


観想せずに見つめるのは光のない循環であり……

これがいわゆるヨーガ行者に起こるあやまちだ。
別の種類のあやまちが精神分析医、哲学者に起こる。


見つめずに観想するのは循環のない光である。

彼らは光について考えるが、それが押し寄せて
くるのにそなえて準備したことがない。彼らは光に
ついて 考 え る だけだ。彼らは客について考える。
客について千とひとつのことを想像するが、家の
準備ができていない。どちらも取り逃がす。


これに注意しなければならない!

さもなければ、あなたもまた取り逃がすかも
しれない。準備して待ちなさい。用意を整えるのだ。
鼻の頭を見つめ、第三の目に注意を向け、背骨を
まっすぐに伸ばし、楽な姿勢を取る―

あなたがしなければならないのはそれだけだ。
それ以上のことは必要ない。ヨーガの姿勢を
年がら年じゅうやりつつ゛ける必要はない。
それは馬鹿げている。

いわゆるヨーガ行者がひどく愚かで知性を欠いている
ように見えるのはそのためだ。彼らの肉体は頑丈であり、
長生きするかもしれないが、それに何の意味がある?

光がなければ、生は知性の欠けた暗いものになる。
長生きしようが、早死にしようが違いはない。
大切なのはたとえ一瞬でも光のなかに生きることだ。
それで充分だ。その一瞬は永遠になる。

そして光について考えてばかりいる哲学者たちがいる―
光とは何か?光をどう定義すればいいか、どう定義する
のが最良か―彼らは様々な理論、定理、壮大な思想体系
を続々とつくりだすが、光に対する準備ができていない。
光は扉の前でひたすら待ちつつ゛けているというのに。


これに注意しなければならない!

この二つの誤りを犯してはならない。
目を見張ったままでいることができれば、
それはごく単純なプロセスであり、
大きな変容力をそなえている。

正しく理解する者は、
ほんの一瞬のうちに、
もうひとつの実在リアリティ
に入ってゆくことができる。

神は遠くにあるのではない。
神はあなたの内側にある。

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