2011年4月8日金曜日

密教:立川流 夜の宗教 立川流 8-13

夜の宗教・真言立川流 8

男女二根交会とは、魔界の魔神の力を借りて、「淫ら」を演出する魔神の行為である。

●なぜ真言立川流は髑髏本尊なのか

生者生殖のセックス宗教が、何故、セックスと死者の髑髏(どくろ)を結び付けるのか。
真言立川流の歴史の中で、この問題に対し、これに明確に答えられた人は、まだ居ない。特に髑髏は、死者の骨状態になって、はじめて髑髏と称するものであるからだ。

また、宗教という定義も難しい。何故なら、宗教が人間の死を取り上げているからだ。
ある人は言う。生者と死者の間には、宗教が関わらねばならない野望あるのでは、と。
また、ある人は言う。宗教はアヘンだと。中毒する媒体であると。

生者と死者の違いを比べれば、そこには歴
(れっき)とした違いを見る事ができる。医学的には生者と死者の違いは明白であろうが、その明確な違いは、まず男ならば男根であろう。男根を見る限り、生きている者は、精気を漲(みなぎ)らせ、生き生きとした男根が現われる。一方死者はそうはいかない。晩年まで人生を全うして死に就いた者は、一応その役目を終え、死後、男根は見るからに力なくなる。

生きていて、若いのであれば、そこに連想されるものは力強いピストン運動であろう。点に向かって聳り立つ、男根の精気の漲ぎりであろう。しかし、死者にはこれがない。況して老齢で死んだ場合は、論
(あげつら)うまでもないだろう。
一方、生者はこれと異なり、生きている限り勃起はあり得る。しかし、死者にも勃起があり得る現象が起る。それは首吊り自殺をした時などだ。

自殺直後には、男の場合、激しい勃起が起り、射精があり得る。また、絞死刑になったものも勃起し射精すると言う。これは人間の、子孫繁栄の本能が機能するからだと言う。また、その他の諸説もある。

この意味からすれば、勃起しての二根交会は、まさにアヘンの如き存在かも知れない。フワフワと空中を彷徨
(さまよ)う心地は、快感の極みであり、やがて魂は脱魂状態を起こす。女性ならば、髪の毛の先まで痺(しび)れると言う状態である。

またそれは、宗教のおける死生観を超越する快味の体得であるかも知れない。人間は死生観を超越する為に、また死の恐怖から解放される為に宗教の教えに酔う。生死
(しょうじ)の解決を宗教に需(もと)めるからだ。そして、死の間際の臨終は、安楽死でありたいと願うものである。
その為には、生死を解決し、生死を超越した快味の感得であろう。
しかし、死の瞬間が、男の射精
(しゃせい)の刹那(せつな)の快感や、女性の脱魂状態といっているわけではない。

さて、性の歓喜と、信仰の説法について論ずるとすれば、性と歓喜については、人岸は本質的に換気する生き物であり、また歓喜を求める生き物であると言う事だ。
信仰についても、人間が何故、信心をし、自分の求める心に応じて宗教に帰依するかと言うと、人間の本能が、信仰を持ち、朝夕拝めばそれにより心を清々しくさせ、信仰を側面に配して、精一杯生きる事において、気が充実して来るからである。

信仰を持つ事も一種の人間修養であり、その原動力は自己の向上の為に遣われる。しかし、現代という時代に信仰すべき宗教は見つからず、この意味からすれば、宗教は既に終焉
(しゅうえん)を迎えていると言えるであろう。
つまり、これまでの宗教は神社仏閣や、教会やその他の新興宗教の本部などに詣でて、そこで祈念し、わが身の健康と御利益を信心するものであったが、こうした宗教施設が既に、魑魅魍魎
(ちみ‐もうりょう)などの低級霊で乗っ取られている関係からすると、もう、こうした外側に見えるこれらのものは、力を失っていると見るべきであろう。

つまり、時代が進めば、外側に在
(あ)ったこれまでのシャーマニズムは、崩壊し、外から内への、内観法的な自己瞑想の世界へと移行しつつあるという事である。その証拠に、昨今の無神論者の急増である。
現代人は神や仏などと言う、抽象的媒体に対し、それに手を合わせ、拝むと言う謙虚な信仰心は喪っている。霊性すらなく、求める物は金・物・色のみであり、これ以外に求める対象は何もない。
つまり、神仏を否定し、無神論者に徹すると言うのが、現代人の新たな信仰なのである。無神論を信仰する事が、現代人の新たな宗教なのである。

そしてその究極の目的は、他人より出来るだけ要領よく金を儲け、物財を成し、未来を物財に囲まれてより豊かに、より贅沢に、より快適に、より便利な生活 を営むと言う事なのである。自分がVIPになる事こそ、一心に信仰する宗教の対象であり、現代人は物質教を崇めているのである。
これを現代では「喜び」という。

人間は喜びを求めて、色々なアクションを起こす意味ものである。学術上の発見や発明も、商人となって大金儲けを企む事も、絶世の美男美女を得ようとする事も、つまりは喜びを得たい為である、喜びを得る為に、力が入る分けである。
戦争も、勝って他を圧っして支配したい為であり、あるいは猟奇的な考えを持つ者は、虐殺行為に快感を覚えるかも知れない。
この根底には、支配されるよりも、支配する側になりたいと言う欲望が潜んでいる。支配する事により、物質的な歓喜が訪れるわけである。

しかし、物質界は相対界であり現象界であるから、支配者の一方的な歓喜は、実は被支配者の底知れぬ悲しみに繋
(つな)がっている。
物質的歓喜は、一方で底知れに物質的な悲しみが待ち受け、世の中全体を歓喜で満たす事は出来ない。物質的な歓喜の恩恵に預かる事のできるのは、ほんのひと握りのエリートでしかない。

そこで物質的な歓喜は、一方で悲しみを抱く人間を作り出す事になり、悲しみこそ邪道となり、悲しませる元凶は魔性の仕業と言う事になる。
これまで広く説かれてきた歓喜は、心が求めるものが歓喜であった。心を中心において、こことを人間の正道としたのである。

心とは物質を離れた世界で存在するものである。物質のように荒々しい粒子から構成されるものでなく、もっと極めの細かい、素粒子より更に小さな、清く正流を受けるものが心であった。したがって、人間の行うところに心があり、求めるところにも心があった。
心が存在していることこそ、歓喜の原点であった。この原点に心がある以上、歓喜は必ず訪れた。

しかし、心を原点とした歓喜は、今日では崩壊の一途にあり、現代人の心に法悦が機能しなくなった。法悦とは、恍惚
(こうこつ)とするような歓喜の状態を指す。エクスタシーの脱魂状態を指す。これがこれまでの人達の、この上ない喜びであり、法喜であった。それが現代では殆ど存在しなくなってしまったからである。

性愛から受け取る愛情は、一種の肉愛であり、肉愛は内外では物財で物々交換されている。今日の歓喜は、物質的な歓喜であり、愛情までも金で売買されている。そして精神も肉体も死に、神までも死んだ。
そして、性交の快感は肉体と精神とが区別され、結局現代においては、歓喜も、快感も、享楽も、単なる生理現象に成り下がってしまったのである。

つまり中途半端な精神で、また中途半端な肉体で、深厚にも法悦にも至らない、無駄な性交が現代の性情報の中で流布されているという事である。そしてこうした元凶が、合法的な売春や援助交際の元凶を派生させたのではなかったか。
ここに現代人が墜
(お)ちて行く要素が横たわっている。二根交会の正道は行われず、性交だけの邪道が幅を利かせているのである。これこそ、自由恋愛の実体ではなかったか。

そこで真言立川流は、男女二根交会を本来の正道に戻さねばならぬという原理に基づいて、性的歓喜をどうしたら求める事が出来るか、ということにこれ迄の長い時代を経ながら、それを一心に追求して来たのである。

では真言立川流の説く、信仰的な法悦や性的歓喜とは如何なるものか。
その鍵が隠されているのが、則ち「轆轤信仰」なのである。



●轆轤信仰の実体

信仰的法悦は、真言立川流では自分自身を御本尊様であると観ずる事である。これを自分の内に観じ、自分は何よりも世界で一番偉大な御本尊様と観ずるのである。神は自分の外にいるのではなく。自分の裡側(うちがわ)に居るのである。
この自身を、御本尊様と信ずる事により、男ならば不動明王であってもよいし、女ならば愛染明王であってもよい。あるいは気高き美しき少女の如き、観音様を意識してもよいであろう。そう、心から信じればよいのである。そう、想念するだけで、もう自分が御本尊の化身
(けしん)なのである。決して、卑下する必要はないのである。

もっと分かり易く言えば、かの大富豪を羨
(うらや)む よりは、自分がそれを超越した大富豪をイメージすれば良いのである。自分こそ世界一の大金持ちと心に念じ、努々疑わず、一心に思い込めばいいのである。心 から疑わず、そう信じ込めば、いい気持ちに慣れること、請け合いで、地球が自分の物になったと感じれば、そこに歓喜が派生する筈である。
人間の実体は心の意識であり、人間は心から出来ているのである。これだけ十分に理解していれば、後は心像化現象により、その根拠が時間的にズレて派生するのである。

但し、思うだけではどうにもならぬと言う御仁(ごじん)も居るであろう。そこで、「識(し)る」ということがその裏付けをする事になる。
では、「識る」とはなにか。
真言立川流あるいは密教房中術を「識る」ということなのだ。

世には、間違ったセックスが横行している。夜の宗教の法悦がなんであるかも知らず、自分勝手な、歐米のポルノ擬いのセックスが実は本物だと、無邪気な事を云っている連中が、訝
(おか)しな性情報を垂れ流している。小中高等学校では、性教育ならぬ性器教育が行われている。総て間違いだらけである。肉愛の極みである。短命で、寿命を縮める事ばかりやっている。ここに現代人が病魔に冒される現実がある。

だから、真言立川流や密教房中術で言う「識る」ということは非常に重要な事なのである。そして、「識る」とは人間の実体である、心に回帰していくものである。
したがって、心を楽しませ、和ませ、法悦に浸るものが自らの裡(うち)に棲(す)む本尊の姿であり、これをしかと観じるのである。これを観じる事こそ、「性の歓喜」であり、男女は二根交会により享楽を愉(たの)しむ事が出来るのである。

真言立川流では、肉体を、男女の二根交会を通じて、愉しむ事を教える。肉体を通じてお互いに楽しむのであるが、特に男は性器ばかりでなく、交会中に女性の乳房、背中、脇腹、太股、唇、耳朶(みみたぶ)、頸(くび)など、何処でも女体を完全に吾(わ)がものに出来るのである。

これを真言立川流の仏理に表現するならば、肌の密着は「地天」となり、腰の動きは「水天」であり、乳房の刺戟は「火天」であり、接吻や愛語の囁(ささや)きは「風天」となる。そして性器は「空天」であり、交会中のツボにも仏が存在する。

しかし、この仏理を識らぬ者は、総じて「烏(からす)の行水」であり、即戦即決、早とちり、早漏、そして相手をした女性は益々不感症へと陥っていく。こうした現実を余所目に、自分だけが識っているということは、自分に一枚の大切な「切り札」を所有している事になり、この「切り札」をもって、様々な分野に応用が自由なのだ。
真言立川流の教える事は、交会(こうえ)を通じての「仏の世界」であり、この仏の世界は現世と隣り合せにあると言う事を教えているのである。

だから「識っている」ということは、どんなに大金持ちでも、持ち得ない「切り札」を自分が手にしているということなのだ。
その基本こそ、大いに時間を掛けてお互いが悦に入る性的法悦なのである。さまに金銭では買えない、また物質では味わえない歓喜が、ここにあるといってよい。

では、何故こうした手の込んだ、「識る」という事を学ばねばならないのか。
その訳は、頭脳を明晰(めいせき)にする事だ。
「交会」をすれば、頭脳明晰になるのである。だから人は、人類有史以来、性交をして来たのである。性欲は単なる欲望ではなく、「一(いつ)」になることによって、威力が絶大になり、それが一方で頭脳明晰と言う副産物を提供しているのである。

だから「烏の行水」ではいけないのである。早漏ではいけないのである。
夢中になって相手の肉体にしがみつき、むず痒(がゆ)い欲望に惹(ひ)かれて発射し、パーにしてはいけないのだ。それでは厳しい現代社会を生きていけないのである。
といって、心を別の所に置き、性交中までに仕事の事や勉学の事まで持ち込んで、無駄なエネルギーを遣っていたら、病気になってしまうであろう。

そこで呪文を唱え、心身を統一して、燃える性エネルギーと、頭脳を連結させる事ができれば、頭は冴(さ)え渡り、偉大に神通力が得られるのである。
したがって、轆轤(どくろ)信仰は頭脳明晰の中に回帰していく修法なのである。




●轆轤信仰を通じて魔力を身に付ける

「魔力」というと、現代では子供じみている、幼稚なオカルト思考、また人を迷わす妖(あや)しい、どこな如何わしい力などと思ってしまうだろう。しかし、これはとんでもない間違いである。
それは外側に向けて害を及ぼす魔力ではなく、裡側
(うちがわ)に向けて自己を護る魔力であるからだ。自己を護る事が出来なければ、現代社会は生きていけない。魔力が乏しくては直ぐに災難に出くわしてしまう。

人類の歴史を顧みれば、有史以来から、多くの災難に、人類が出くわしていることが分かる。人類の歴史は天変地異と食糧難から始まり、戦争や病気で死んで 行くと言う「苦」の中に活路を見い出す連続だった。至る所に苦しみの種が存在し、生活力や腕っぷしの弱い人間は、苦しい時の神頼みに趨
(はし)った。
また、積極的に苦に挑戦した人間は、シャーマニズムをもって魔神崇拝者となっていった。魔力が自分に宿る事を祈った。厳しい困難を乗り切る為には、強力なエネルギーが必要であるからだ。

では、「魔力」とは何か。
何ものをも恐れず、敵を木端微塵
(こっぱみじん)に粉砕する力だ。強烈な破壊力だ。どんな困難も打ち砕き、それを強く祈る事で、生き抜いて来たのである。魔力こそ、人類の原動力となり得たのである。

人類の歴史を振り返り、魔力と共に人間が発展して来た歴史は否めない。魔力抜きで、人類の歴史は語れない。人類は魔力と共にあり、進化を続けた。したがって、魔神
(まじん)の力は決して忘れてはならないものである。

これからも様々な苦悩が人類の上に降り掛かる。また、様々な危機を迎えるであろう偈ん大尽は、魔神を再評価する時期が来ていると思う。そして、魔神は正しく評価されなければならない。

では、魔神の持つエネルギーをどうしたら会得できるか。どうしたら魔的エネルギーを吾
(わ)がものにできるか。
一般に「魔神」といえば、「魔の神」であり、災いを齎
(もたら)す神であると信じられている。災いの巣窟(そうくつ)に魔境に居て、悪魔の世界に棲み、悪魔の如き振る舞いをする悪神だと思われている。

しかし、人間の脳裡に描く
「淫ら」は、実は魔界のものであり、「淫ら」こそ、一方に於いて、子孫繁栄を齎している。西洋では、この「淫ら」を愛と云い、男女の美しき睦み合いと解釈している。
しかし、男女の戲れは、その根元が淫らであり、卑猥であるからこそ、男女二根交会に関して、男は男根が勃起し、女は女根が膨らみ、陰核が勃起する。この男女二根交会を無視して、次世代の子孫繁栄は有り得ない。

密教房中術や真言立川流では、愛欲は清いものと解釈するが、実は淫らな、卑猥なるものを無視して、この清いものの存在はあり得ないのだ。男が淫らから、 精液を漏らすのも、その他の動物が性交に及び、女根に差し込んで精液を漏らすのも、一種の同じ原理から出来ていて、「刺戟」あるいは「興奮」は、その源泉 が淫らである。
特に人間の場合は、この「淫ら」が存在しない限り、性交や交会を営むことは出来ない。

つまり夫婦の営みは、昼と夜があり、昼は社会生活を営み、夜は夫婦生活を営む存在が人間であると云うことである。したがって、この世には、白昼の世界で はなく、夜の「淫らな世界」もあると云うことを知らなければならない。そして、夜こそ、魔神の力を借りねばならず、魔神は男女に成り変わって、「淫らな世 界」を創造するのである。

そこで重視されるのが、真言立川流では轆轤信仰であり、これを「ドクロ学」と称している。髑髏こそ、生命を生み出す基盤的な発信源であり、髑髏なくして、悟りの境地はあり得ないとしている。



●真言立川流が説く聖なるドクロ学

真言立川流には、髑髏の製造法が記されている。
この製造法には、大頭と小頭の区別があり、大頭は持ち難いとして、小頭の製造法を特に重視しているようだ。

「大頭の頂点の八分に切りて、その骨を面像として、霊木
(れいぼく)をもって頭を作り、具してハクを押し、曼荼羅を書き、和合水を塗る也」とある。

このようにして作り上げた小頭は、秘密呪符を入れて首に掛け、自らの体温をもって供養するのである。

『受法用心集』には、「月輪形とは、大頭の頂上、もしくは眉間などに前の如く取りて、大頭の中なる脳を袋をよく干し、洗いて、月輪形の裏にムキ漆にて伏せて、その中に種々の相応物秘符を被
(こうむ)ること、またハクを押し、曼荼羅を書き、和合水を塗ること、みな前の如し。月輪の面に行者特念の本尊を絵の具にて描くべし。裏には朱を指すべし、己にしたてなば、女人の月水(メンス)に染めたる絹にて、九帖(くじょう)の袈裟を作りて包むべし。九重の桶の中に入れて、七重の錦の袋に入れて、首に掛けて特念すること、前の如し」とある。
九天図。人間を取り巻く階層は九天図に示される通り九つの階層で分かれている。
 注釈として挙げるのならば、「九重の桶」というのは、霊的世界を顕わしたもので、神道では死後の異次元を九つに分け、これを「九天(きゅうてん)」と呼んでいる。異なる異次元世界が、九層あると言う事であり、「九天図」には総ての次元が、一番下の階層人間の足許(あしもと)で結束している事を説き、超越神界の入口は現世の中に在(あ)るとしている。そうした物に因み、「九重の桶」としているのである。

此処には女人の月水まで用いるのであるから、これだけで猟奇と言えよう。更には、髑髏本尊の製造法を述べ、まだまだ種々の故実口伝があり、『受法用心集』には細かい部分が挙げられ、注釈が多く上がっている。

例えば、髑髏の眼窩
(がんか)には、玉を入れて目玉とし、顔面には彩色化粧をして口紅まで付け、美女のようにすることまで挙げられている。そして、頭蓋の上に金箔(きんぱく)を貼り、そこへ曼荼羅を描けとまである。頭蓋の内部には春画や秘符を入れ、その墨なりの絵の具には、男女が交会した時の和合水まで用いれと記している。
こうした製造法並びに注釈は、正常な神経の持ち主なら、まさに
「猟奇じみている」と映るだろう。

では真言立川流は、何故こうまでするのか。
つまり、人間の男女の営みは、「生と死の合体」と説いている事である。生と死の合体とは、エロスの女神と、死神との結婚を意味するものである。生と死の合体にこそ、真言立川流の原点がある。それでなければ、何も髑髏
(どくろ)本尊として崇(あが)める必要がないからである。

何故、髑髏を本尊として崇めるのか。
それは、大国人間が幼児の時から、天国を意識し、地獄を意識して育って来た事に由来する。一部の徹底した唯物論者でない限り、天国も地獄も否定できないであろう。
特に日本人のような、一見無神論者でありながら、死者に対しては合掌をし、葬式まであげると言う行為は、その心の深層部に、「人間の魂は実際には存在するのではないか」という、心に懸
(かか)るものがあるからだ。

また、こうした魂への疑念が、一種の霊魂信仰へと繋
(つな)がり、神聖の存在を信じ、中途半端な無神論者に徹して来たのではなかったか。あるいは、苦しい時の神頼みで、天に頼り過ぎた顕われではなかったか。

こうして人間の脳裡に「信仰」なるものが生まれたが、その信仰が、日本の場合は、大地も聖なるものであり、大海原も聖なるものであった。
何故ならば、そこからは生命が誕生し、生物を派生させたからである。そして派生させるばかりでなく、生物の生命までもを育んだのである。

真言立川流における轆轤信仰は、髑髏を本尊とする、その行為の中に、大地大海思想が流れている。
一方、その他の殆どの宗教は、大地や大海を聖なる箇所として、拝むものが少ない。殆どは天を仰ぎ、天に向かって祈りを捧げる。それ故に、天地を仰ぐ、真言立川流は、他の宗派から視て不浄視される。邪宗と一蹴
(いっしゅう)される。それは地に葬られるべき、髑髏を本尊と仰ぎ、それを崇めるからだ。

しかし、大気のない天空に、人間は存在できないことは、また事実であろう。この現実を知らずして、天が尊いからと言って、天に憧れるのは、隣の庭に咲く赤い花を憧
(あこが)れるのと同じではないか。隣の花が、紅く見えるうちは、それはまだまだ本物ではないのである。

そこで真言立川流は、髑髏礼拝する。髑髏礼拝は、極めて地球的であり、また大海原や大地を崇めることに帰依し、そこに信仰の対象を求めるのと同じ事であ る。大地にこそ、地球的なリアリズムがあり、根本を大地から生まれでは人間に主眼をおいて、人間宗教としているのが、真言立川流の説かんとする所である。 宗教は、人間があっての宗教であり、人間を抜きにした宗教などあり得ない。そこで人間の生死を取り上げ、その根本に男女二根交会があり、その延長上に子孫 の繁栄がある。

天ばかり仰ぎ見ると、ホモに趨
(はし)り、 「鉢巻き現象が起るのだ」と指摘するのが、真言立川流である。人権の権利や、趣味指向のみで、子孫繁栄はあり得ず、またホモ同士が、愛し愛されつつ、それ で子供ができると云うわけではない。あくまでホモ現象は、趣味と指向の問題であり、子孫に繋がる「性」とは大きく掛け離れている。そして、この凶事に「鉢巻き現象」が起るのである。

鉢巻き現象に見回れたものは、それ一代で滅ぶことを真言立川流は指摘している。事実、そうなる。遅かれ早かれ、ホモは「鉢巻き現象」によって滅ぼされる。その滅びの指摘が、また髑髏なのである。
髑髏崇拝は、原始信仰の形で、現代では理解されているようだ。



●原始宗教から見えて来るもの

 原始信仰を見れば、首狩り族の髑髏にも酷似しよう。また、人類の歴史を振り返れば、獣肉などの動物の肉を食べるばかりでなく、人肉を食って来た歴史が、つい二十世紀初頭まで続けられていた。
また、今日でも、人間を生贄
(いけにえ)にして、食する儀式が秘密結社などで続けられている。この犧牲になるのは、殆どが子供である。そして「黒弥撒(くろみさ)」と称されるものには、子供の肉が生贄として試食され、これにより若さを得たと解釈されているムキがあるようだ。

(やみ)の世界では、依然として轆轤信仰が根強い。髑髏に威力や力を感じるのも、古代人ばかりではなかったはずだ。現代人でも、髑髏に抱く脅威と称するものは大きい。
しかし、今日では少年雑誌や猟奇映画にしか髑髏は登場しないが、それでも過去の歴史から「泣き髑髏」や「髑髏盃」なるものがあり、海賊旗も「髑髏旗」ではないか。また、ナチス・ドイツの、親衛隊の記章や徴章が髑髏ではなかったか。
これは髑髏が、日常生活性がないという事を顕わしている。

ところが、何故あえて髑髏がこうしたものに用いられるのか。
それは一種の「神秘」から起るものであろう。神秘を考える場合、髑髏と神秘は無関係でない。この神秘主義こそ、人類の脳裡
(おうり)から未(いま)だに消滅していないのである。ここには一種独特の、強大なパワーがあると信じられているからだ。

真言立川流は髑髏について、どう価値付けているか、『受法用心集』から窺えることは、男女二根交会の愛液から、魔神が出現すると言う神秘科学を説いているのである。
古来より、神秘科学は真言立川流のみならず、西洋の秘密結社などで多く取り上げられて来た。

特に、西洋の神秘科学として有名なのが、カバラ神秘学
Kabbala/ユダヤ教の秘密の教えを記したとされる、13世紀スペインのユダヤ人の書物に由来し、これには、神秘説を伝える口承や伝承がある)からなる、ユダヤの神秘説である。そして轆轤信仰は廃れていない。

ユダやカバラ思想によると、宇宙を九つの世界で顕わし、この宇宙は太陽系と九惑星を意味するものである。そしてユダや神秘学者達は、九つの宇宙を各々に三つの世界に分け、「宇宙樹の話」を誘導している。髑髏を種の最初の、「一滴」として扱っているからだ。

それは古細菌のアーコバクレリアなどにみられ、原核生物に属する単細胞の微生物を指すものであるが、このバクテリア類には、リボソーム
ribosome/細胞質中に遊離するか、または小胞体や核膜と結合して存在する小顆粒。例えば5SrRNA)を遺伝子時計にして、種の分化の系統樹の研究が為(な)されている。これによれば、ユーカリオ、アーコバクテリア、ユーバクレリアの三種類に分類され、これがかなり古い時代に棲(す)み分けられたとしている。

神秘学者達はこれより宇宙樹を構成し、宇宙樹はギリシャ神話の世界では、人格化されて、「復讐の三人の女神」である、レークトー、ティーシポネー、イガイラを登場させている。宇宙樹の実体は、超古代に存在した三つの彗星あるいは彗星軌道帯だと推測されている。
しかし現在では、必ずしもこうした彗星は存在しない。何故ならば、一つは木星に追突して大赤斑になってしまい、もう一つは金星に衝突して、巨大なクレーターを作り、金星の高熱の大気を作って消滅してしまったと言う事になっている。

神秘学では、九つの世界に根を張り、そこでネットワークを巡らせた宇宙樹の事が挙げられている。その梢
(こずえ)は、全世界に広がり、天の上にまで広がっていると言う。この大きな根が、樹そのものを支えて遠くまで伸び、その一本は神々の世界に伸び、もう一本は昔ギヌンガの淵(ふち)にあった霧の巨人の国へ、そして三本目は最も寒い世界とされる、ニブルヘイムまで伸びていると言う。

またニブルヘイムまで伸びている根の傍
(そば)には、ブヴェルゲルミルという泉があり、霧の巨人のところに伸びる根の傍には、ミミールの泉があると云う。ブヴェルゲルミルの泉には毒龍ニドフグが棲んでいる。ミミールの泉には知恵と賢さが隠されている。

北欧神話伝説によれば、「私は憶
(おぼ)えている。風吹き曝す樹に、九夜、槍で傷付けられ、自分自身にわが身を捧げ、誰もどんな根から生えているかを知らない樹に吊り下がっていたのを。私はパンも角の杯も差し出しもらえず、下を窺(うかが)って、ルーネ文字を掴んだ……」とあり、これは宇宙と生命の起源について述べたものではないか、と神秘学者達は考えたのであった。

北欧神話に基づくこの著述の一節は、九つの世界は太陽系の九惑星を顕わし、神々の国は小惑星の軌道帯に宇宙都市を作って棲
(す)んでいて、ニブルヘイムは太陽系外の極寒の世界、霧の巨人の国とは木星、土星などのような外惑星の軌道帯、そして、ギヌンガの淵とは太陽系の創世初期に、この地帯はブラックホールのような宇宙空間の空洞を形成した窺わせるような記述を著している。
そして、彗星は太陽系では最も原始的な天体であるとされている。中核は氷のような物質で、その周りには明るく輝くコマ
(髪)といわれるガス層が取り巻いていて、太陽系に近付くとガス層が光圧で吹き飛ばされて太陽と反対の方へ尾を引くのである。

彗星は、天文学上、太陽系内の天体の一種で、太陽を1焦点とする楕円や双曲線などの二次曲線を描くことで知られている。本体は核と呼ばれ、水・アンモニア・二酸化炭素の氷に固体微粒子が混じったものとされる。
こうした現象は、中国および日本では、妖星と称し、その出現を凶兆視したのである。

ところが、真言立川流はこの妖星の「魔」を魔神に結び付け、無から有が生ずる現象を愛液から魔神が出現するとした、人間信仰に置き換えて、髑髏を本尊とする神秘論を打ち立てているのである。
愛液は、無から有が生まれる根元であるからだ。そしてその仕業
(しわざ)は、魔神によるものとされる。






夜の宗教・真言立川流 9


●轆轤信仰と荼吉尼

真言立川流には、「愛液から魔神が出現する」という考え方がある。つまり、魔神のもつ偉大な力を借りて、人間が鬼神に成り変わることを云うのである。
真言立川流の『用心集』の問答に、髑髏
(どくろ)本尊をして、「この本尊に、何故、髑髏を用いるのか」よいう問いかけがある。
そして回答者は、次のように答えている。

「衆生の中身には、三魂七魄
(さんこんななはく)とて、十種の神心あり。衆生死すれば三魂は去りて六道に生を享(う)け、七魄は裟婆(しゃば)に 留まって本骸を護る鬼神となる。夢に見え、物に託すること、みなこの七魄のなすところなり。人この髑髏を取りて、よくよく養い祀れば、その七魄喜び行者の 所望にしたがって、有漏の福徳を与うなり、曼荼羅を書き秘符をつめれば、曼荼羅と秘符の威力によりて通力自在なり。この故に種々に建立するなり」と答えす る。

次に「和合水を塗ること、何の故ぞや」と問い、これに答えて曰
(いわ)く、「衆生の生益することは、二を種として生ずるが故に、この二を髑髏に塗りて髑髏に籠る七魄を生ぜしむるなり。たとわば水にあいて諸の種の生ずるが如し。そもそも人身の三魂七魄はっもとより二の中に備わり、二の母の体内にて、ようよう固まりて肉となり、人の体となるにしたがって。魂魄同じく生長して、智慧(ちえ)かしこき人とも生いたてり。しからば今二を髑髏に塗らば、二の三魂と髑髏の七魄と寄り合いて、生身の本尊となるべし」と『用心集』は説明している。

真言立川流では、死者の骨を霊的な生仏
(いきぼとけ)としているのである。
魂を「男
(お)たましい」といい、魄を「女(め)たましい」という。これは陰陽に相応した呼び名である。陰陽が相応しないと、生身の本尊とはならないとし、陰陽の交会により、互いの愛液が分泌される。この分泌液を120回、髑髏に塗るのである。この、塗る時に、女性の受胎は避けなければならないともしている。

これは受胎を避ける為である。受胎で陰陽が、人間の中で結合すれば、当然、髑髏に感応しなくてはならなくなる。そして、120回塗終えても受胎しなかったら、その後は何回でも妊娠するまで塗り続け、これにより成就するとある。
つまり、あらゆる望みを叶える、魔神が機能すると言うのである。これこそが、生仏製造法なのである。
真言立川流を研究するならば、これくらいの努力は遣
(や)らなければならない。

但し、猟奇的な「髑髏」と云ったものは手に入らないであろうから、髑髏に代わる代用品として、水晶玉が挙げられ、これを髑髏に見立てて愛液を塗るのも一 つのアイデアであるかも知れない。この水晶は、小さな厨子に安置し、人目のつかぬところに置き、事後の跡の男女の愛液を礼儀正しくして塗るのである。

これを馬鹿じみていると一蹴すればそれ迄だが、折角の男女の愛液を事後処理のチリ紙に丸めて、ポイ捨てなどとは余りにも無駄遣いと言うものであり、第一「もったいない」はずである。

この男女の和合愛液を塗った水晶玉は、髑髏の代用品であるが、これを七年間に亘り、行者と寝る時、夜具の傍
(そば)に厨子を置き、中から水晶玉を取り出し、体温で暖めて、まるで鳥が、わが卵を慈しむように大切にするのである。この秘法を「荼吉尼(だきに)の秘術」という。

荼吉尼天は、文殊菩薩の化身である。竜女と同体である。夜叉
(やしゃ)の類(たぐい)で、胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅外金剛部院に配される女性の悪鬼とされているが、本来は「文殊菩薩の化身」である。
この文殊は6ヵ月前に人の死を知り、その心臓を食うという。また、その法を修するものには自在の力を与えるという。日本ではその本体を狐
(きつね)の精とし、稲荷(いなり)大明神・飯縄(いづな)権現などと同一とする。しかし、本来は文殊であり、竜女である。

竜女は八歳にして正覚
(さとり)を得た行者で、竜宮にいるという仙女である。特に、八歳で成仏したという沙竭羅(しやから)竜王の娘である。この竜女に因(ちな)み、髑髏本尊に見立てた水晶玉も、八歳より霊力を至ったのであるから、七年間、男女の和合愛液を塗り続け、八年目に成就するのである。

インドの魔女だった荼吉尼は、修法者が荼吉尼に祈ると、神通力が授かると信じられて来た。このように、「神通力」などと称すると、迷信めくが、魔神の正体は、修法者自身が持っている生命エネルギーなのである。つまり、自らの躰
(からだ)が、天命の恩恵によって生かされ、人生を全うする為に、「生きようとする力」である。

魔神崇拝とは換言すれば、自分の裡側
(うちがわ)に棲(す)んでいる、自分で自分の体力を強め、体質を良くし、気力を強める事に他ならない。それに照応して、尊像も忿怒(ふんぬ)の表情を持つのである。
忿怒の形相を示す愛染明王だが、その正体は文殊菩薩であり、また、八歳で正覚したという竜女である。
 菩薩信仰は、かかる魔神的な「力」を求め、よき加護と効果を狙っての「情」としての表現であり、尊像には満足感が漂っているのである。つまり菩薩信仰こそ、心の拠(よ)り所となり、これは深層部では魔神と繋がり、そこに偉大な神通力が備わっていると言う満足感である。

したがって、魔神の力無くしては、菩薩の慈悲も、心に安定も成立しないからである。人間の内部に、強力な魂が存在していなければならない。それは一つの心の拠り所であり、強く、信念を燃やして信じ続けるものがいる。唸
(ねん)として、心に刻まれるものがいる。
これは単に、偶像崇拝ではない。

菩薩信仰は、尊像に対して崇拝の対象を求めるのであるから、一見、偶像崇拝のように映る。しかし、尊像に対して崇拝の念を示し、そこに懼
(おそ)れを感じるのは、心の中に強力な念じる力を養うものである。この懼れの原点が、「畏敬の念」であり、また、強力な魂が出現しなくては、何事も成就しないのである。

(ちなみ)に、如来とは、力と情を総合した生来、「本有(ほんう)」の生命体表現なのである。これは過去に存していたことであり、「先有」といい、また、本来からそなわっている姿を云う。そして本有は、“四有(しう)の一つ”だが、生れてから死ぬまでの、人生を経験する間を云うのである。人間が人生を経験する時間こそ、本来の生命の姿であり、これこそが唯一の生命体表現なのである。

密教は、煩悩即菩提ともいい、菩提こそ、悟りの表現型であるが、一方、仏即人間であると置き換える事も出来る。仏即人間であるならば、これこそが即身成仏であり、この理
(ことわり)によって、轆轤信仰に徹すれば、魔女荼吉尼修法も、単なる迷信でない事が分かるであろう。
これこそが、自己の精力強化を目指す、唯一の自己鍛練法なのである。



●脅威の髑髏秘法

髑髏本尊が、「正」か「邪」について、『用心集』では、問答形式で質問者の 言に答える形で、論じられているが、それは宗門の教理の違いに過ぎない。自宗を「正」とし、他宗を「邪」とするのは、一般的な信徒や門徒の考え方である。 したがって、髑髏本尊が猟奇的であるからと言って、「邪」とは限らない。

髑髏本尊は、あくまで生命エネルギーの表現型に過ぎないのである。したがって、エネルギーを悪神、情を善神と考える一般宗教では、到底、真言立川流の奥儀は計ることができないであろう。
そこで表現型として、荼吉尼天の印契と真言が必要となる。

印契は、左の掌を窪
(くぼ)め、皿の形として、これを嘗(な)めるようにする。





 この修法は、除難招福、無病息災、立身出世から怨敵退散、呪殺と、万能であり、特に「財宝福徳」を授かりたい人は、霊験あらたかとされている。これは人間に内在する生命エネルギーが本尊であるから、非常に大きな御利益があるとされる。

また、この修法は「神変不思議法」と云われる。寺院での修法は十八道立である。十八の印契を用いる修法で、荘厳行者法
(護身法)、結界法、道場荘厳法、召請法、結護法、供養法の六法を云う。
更にこの時、修法する、本尊を中心とした観念の世界を「道場観」といい、壇上には「きりく」の梵字が有り、それが荼吉尼天
(だきにてん)の食物とされる肝臓となる。その肝臓が変じて荼吉尼となり、あるいは文殊菩薩となる。
眷属は、日本ではその本体を“狐の精”とし、稲荷(いなり)大明神や飯縄(いづな)権現などである。
 荼吉尼天は狐を眷族(けんぞく)とする夜叉神である。この夜叉神は人間の心臓や肝を食べると言う怕(こわ)い神だった。日本では、平安時代の中期毎から狐信仰が流行し、稲に関わる神として稲荷神として庶民の信仰の対象になった。
また神道に於ては、稲を背負う老翁を稲荷の神としているが、稲の豊作がそのまま生活の豊かさに通じていた当時としては、夜叉が転じて豊作祈願の対象になったのは当然と言えよう。

一般的に、世間で祀
(まつ)られている荼吉尼天は、天女の姿として描かれ、左の手に如意宝珠(にょいほうじゅ)または火焔(かえん)宝珠を載せ、右手に剣を持ち、空を飛ぶ為に白狐に跨(また)がっている。
「財宝福徳」を求める時は、観念法という修法を行う。

この場合、荼吉尼を象徴する梵字の種字を書いたものを眼前に置き、それを凝視する事により、やがて
「その文字が変じて人間の心臓になり、更に変じて荼吉尼となり、また荼吉尼が変じて、文殊菩薩となり、更に再び荼吉尼となる」観想を行うのである。

この修法を会得すれば、常に荼吉尼天が自らの傍
(そば)に居て、吾(われ)に仕え、その命令を実行し、「財宝福徳」が得られてとされている。
荼吉尼天は文殊菩薩の化身であるから、純粋な「仏智」でもある。したがって、我欲や野望を捨て去った幸福ならびに福徳は、それ願いが純粋であればあるほど、その成就は純粋の範疇
(はんちゅう)に於てのみ成就すると云われる。

ここで言う「純粋」とは、我
(が)という吾(われ)が存在せず、無私であり、煩悩に阿終われる欲が消滅した時、そこには本当の「福徳」が訪れるとされている。
つまり、自他の垣根を取り払い、自他同根の慈しみと哀れみが生じた時、それが「仏智」となって文殊に化身し、安住を得るとされている。

しかし、欲で掻き乱され、騒音で掻き乱され、雑然とした淀みの中では、福徳は遣
(や)って来ず、子宝にも恵まれないとされている。
真言立川流では、人間を本尊としている為、その象徴は髑髏
(どくろ)である。「しゃれこうべ」を本尊として拝む宗教である。したがって、その根本には、「人間を拝む」という“宗教的な思想”がある。この思想は、他の宗教では見る事は少ない。何故なら、人間そのものを拝むからだ。

そして、人間を徹底的に拝み、拝んだ末に男女が結びつき、二根交会を行って、やがてそこなら次なる、次世代の生命が生まれる。この次世代の生命こそ自らの分身であり、人は、この分身を子宝として、尊く崇
(あが)めるのである。しかし、人間信仰が人間信仰で無くなった時、そこには不幸が訪れる。

その不幸は、男女の二根交会を「快楽」や「享楽」として、性を貪った時、それは福徳の招来ではなく、邪の招来となってしまうからだ。
真言立川流は、人間は食の化身であり、この世の食べ物が人間の肉体を齎していると考える宗教であるから、“食”イコール“肉体”という構図があり、この構図は、人間が食によりその生命を保ち、それをエネルギーにして生きている為、此処には食に“正食”と“
雑食”があると考えている。

正食者は「福徳」を招き寄せ、雑食者は「邪」を招き寄せるとされる。
では、なぜ邪を招き寄せるのか。それは二根交会に大凶時
(おおまがどき)の禁があるように、快楽や享楽を追い求めてセックス遊戯では、結局、最後は大凶時の禁を冒し、そこに誕生して来る子宝としての自己の分身は、犯罪者としての「邪」であるとするからである。
密教房中術や真言立川流では、「邪」の誕生を明確に述べ、大凶時の禁を冒すと、そこに出ずるものは、「邪」としているのである。このように人が、二根交会を快楽遊戯のみに用いた場合、そこには邪が生ずるとしているのである。

だからこそ、真言立川流が髑髏を本尊としていることは、非常に怕
(こわ)いのである。そして、こうして轆轤信仰の原点を追うと、「正」も「邪」も表裏一体の関係であると云う関係である事が分かる。
したがって、髑髏秘法は慎重を期し、快楽に快楽遊戯に趨
(はし)ってはならないことは明白となろう。



●鬼子母神の髑髏秘法

 さて、髑髏秘法を修めると、髑髏は八年目に口を利き、行者と会話すると云われている。そして行者のよき協力者となり、援助者となり、指導者となると信じられている。それはまさに荼吉尼の如しと云われる。そして人生に於て、最大の守護神と作(な)るとされる。

髑髏本尊が大地大海から発想された宗教思想であると述べたが、ここで言う「大地」とは、自らの肉体を結ぶ生殖の母神の胎内にあって、子宮の中の「羊水
(ようすい)」という大海原で、宇宙空間に静かに揺られ、その安住の安らぎを女体に求めることを云う。

陰陽道は、木・火・土・金・水の五行説を生んだが、この中での「戊・己
(つちのえ・つちのと)」の土性(どしょう)の干には、辰(たつ)・丑(うし)・戌(いぬ)・未(ひつじ)の四支もあるのに、他の干は、陰陽に一個ずつしか支を持っていない。
また九星では、二黒・五黄・八白と、土性が多い。
これは人間世界が、母性原理を基本として動いている証拠であり、陰陽説が信じられているということであろう。
つまり、土を意味する「母性」は女性の事であり、女神信仰が、現世と言う世の中では、多くの御利益を生み出すと云うことを物語っているのである。

真言立川流の髑髏本尊とは、換言すれば女神崇拝信仰であり、これが死生
(しじょう)の境まで突き詰めて轆轤信仰になったと思われる。この他にも、髑髏を女性の神霊化身と観(かん)じて、祈願対象にする「鬼子母神(きしぼじん)の髑髏秘法」がある。
鬼子母神は荼吉尼と同じく、インドでは魔女であるが、密教では天女形としているのである。

鬼子母神は王舎城
おうしゃじょう/古代、中インドにあったマガダ国の首都で頻婆娑羅(びんばしやら)王・阿闍世(あじやせ)王の居城で、釈尊入滅直後、城外で仏典の第一結集を行なった)の夜叉神の娘で、千人とも万人とも云う数の子を生んだが、他人の子を奪って食したので、仏は彼女の最愛の末子を隠して戒めたという。
以後、仏法の護法神となり、求児・安産・育児などの祈願を叶えるという神となった。また、法華経を受持する者を守護するともいう。
鬼子母神の像容には、一児を懐
(ふところ)にし、吉祥果(ざくろ)を持つ天女形と、忿怒相の鬼形とがある。鬼子母神は、訶梨帝母(かりていも)とも云われる。

鬼子母神の髑髏秘法の印契は、左右の五指を伸ばし、右の掌
(てのひら)を左手の甲(こう)に重ねて握る「請召の印」を作る。更に内縛し、両中指を立てて合わせ、人指し指は立てても、合わせずに、薬指は拇指(おやゆび)と人指し指の股(はた)の処に出し、拇指は立てて並べる。これを「降伏の印」という。

真言は、「おん・どど・まりかきてい・そわか」である。

また修法は、怨敵降伏には髑髏一個を呪文と印契で加持し、これを「百八遍」唱える。そしてその髑髏を、敵の邸内の床下などに密かに置き、唸呪
(ねんじゅ)する。これにより、敵に災難が降り懸(か)かること、必定とされる。

この修法は髑髏の代わりに、水晶玉を用いて構わないが、修法を行う際の祭壇に備えた菓子類や飯類そのたの供物は決して食してはならない。一度使用した、供物は必ず捨てるべしとある。また、祭壇に備えた供物は修法者自身が持ち運び、他人に任せてはならない。
供物を捨てるのに「もったいない」
【註】一 端に云う「勿体無い」は、そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しいという意味であるが、神仏に備えた供物の場合は、神仏・貴人などに対して不都 合である場合や不届きである場合を指す。したがって供物に、「もったいない」の気持ちを起さないことである。一旦自分の所有から離れてしまった物に未練を 抱かないことである。抱けば凶事となる)という感情を起した場合、また、食べるなどして、この禁を冒した場合は、効果が消滅するばかりでなく、敵に向けた災いが、即、自分に跳ね返って来るとされている。






夜の宗教・真言立川流 10

●四面愛染

本来愛染とは、「貪愛染着(とんあいせんじやく)」の意味であり、むさぼりの愛を指し、それに囚われ、染まることをいう。これこそまさに煩悩(ぼんのう)の最たるもので、人はこの貪愛(とんあい)に溺れる生き物である。

一方、密教では、「愛染法」というものがあり、愛染明王を本尊として、敬愛などを祈願する修法を指す。そして、愛染曼荼羅という、愛染明王を中尊として構成された曼荼羅を愛染法の修法の際に用いるのである。

四面愛染の図

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 愛染法において、衆生(しゆじよう)の愛欲煩悩が、そのまま悟りであることを表す明王が愛染明王である。この本地は“金剛さった”である。
“金剛さった”は、全身赤色、三目六臂(さんもくろつぴ)で忿怒(ふんぬ)の相をなし、弓箭(きゅうせん)などを持ち、愛染法の本尊とする。後に、愛染明王は恋愛成就の願いなどもかなえる明王として、水商売の女性などの信仰の対象ともなった。

さて、愛染明王の手相は、人差指と中指との間に、筋の入っている手相をいい、相術におけるこの相は
「剣難の相」と云われるもので、「剣難に遭う」といふ筋を顕わしている。剣難は言わずと知れた、刀などで殺傷される災難を指している。

愛染法における「剣難筋」は、節度がなくなり、これに溺れると命取りになることを顕わしている警告筋でもある。この世に、愛に溺れこれに狂い、生涯を快 楽主義の犠牲者として実を費やす者も少なくない。これは老若男女を問わず、その犠牲者になる者が大勢居る。昨今は、この剣難筋に、
「鉢巻き現象」をもろに受ける同性愛者が増加した。そして、これに染まり、貪愛に耽り、身を穢(きたな)く滅ぼしている。

だから密教房中術では、異常に愛情に溺愛する寵愛的な愛に警告を鳴らすのである。この警告は単に同性愛者のみに警告を鳴らすものではない。溺愛から起る、トリッペル
(Tripper)という花柳病もある。
つまり花柳病とは、花柳界で感染する病の意味の性病を指し、一般に流行する多くは淋病である。トリッペルとは淋病を指すのである。

この病気は、人間が欲情し、男女が成功に及んだ時に、相手方の何
(いず)れ かにその保菌者がいれば、感染すると云われている。淋病は、淋菌によって起る尿道粘膜の炎症である。主に性交によって伝染し、感染後2~3日で、放尿時に 痒感・疼痛を覚え、また、尿意促迫を起す病気である。初めは粘液性、後には膿様の分泌物が尿と共に出て、その中に多数の淋菌が含まれる。女性では子宮・卵 巣等の炎症に進展し、不妊の原因となる病気である。
また、子宮ガンは性的な未熟者同士が性交に及んだ場合、男側の恥垢が子宮内に付着して、これが炎症を起し、ガンを発症させると考えられている。

さて、トリッペルに感染すると、放尿時の痒感・疼痛も然
(さ)る事ながら、忽ちのうちに、「憂鬱」になることだ。こうした精神的な没落を称して、この病名が「淋病」であるとも云う。
感染した経験者ならば御存じであろうが、初めて自覚症状を持った時から、暗い気分になることは逃れられない精神的苦痛であろう。気持ちが暗くなり、気が塞がってしまう。

特にこれまで、人一倍にして清潔を旨として来た人は、この感染により大きなショックを味わう。男の場合、花柳病に感染した場合、罹病
(りびょう)している女性と肉体交渉があり、それから2~3日してから症状が顕われる。この治療には、一般にペニシリンが遣われるが、一見癒(なお)ったようにもみえて、癒(なお)らない場合が多い。昨今は、ペニシリンが有効でない淋病も、夜の巷(ちまた)に流行している。

これを「ベタ菌」などと称し、日本では欧米人が横行する港町では、この種の病気が流行している。港町で、「国際都市」などと称されているところでは、普通の少女までがこの病気に罹っていると云われる。
また東南アジアなどの異国では、「花が咲いた」
【註】この病気は男根の亀頭部に顕われ、亀頭部下の首に花のような炎症が顕われる。そしてこの炎症が亀頭部の首の下を一周すると、男根切断と云う自体が発生する。ある意味で梅毒より恐ろしいと言えよう)などと称して、このような隠語で呼ばれる場合もある。「ベタ菌」あるいは「花が咲いた」などの罹病に関して呼称される隠語は、ペニシリン耐性の病原菌であり、耐性菌を持ったベタ菌などは、殆どペニシリンの効果がなく、また耐性によって更に悪化するとも云われる。

こうした病気に感染するのは、その殆どが、日本の商社マンや外国に支店を持つ企業などであり、接待を受けたり、あるいは誘われて色街に遊んだことに端を 発する場合が少なくない。そして、こうして外国で感染し、日本に持ち帰ってくる商社マンらは、次に自らの妻に感染させ、あるいは愛人に感染させ、もし、妻 や愛人が浮気者であれば、その感染網は拡大していった。

こうした感染症は、性病以外の疥癬
(かいせん)などにも見られ、ヒゼンダニが媒介するこの病気は、かつては性病を思われていたが、東南アジアの売春宿などで流行したことから、性病と思われていたのであるが、昨今は人が集まるところで感染し、布椅子などに坐る事により感染する病気もある。

諺に「類は友を呼ぶ」というのがある。これは、似た者同士は自然と寄り集まるという喩えだが、男女間においても、似た者同士が求愛することが多々ある。男の場合、妻子がいて、難無く幸せな日常生活をしていても、良人
(おっと)に異性を狙う浮気心があれば、その脳から発する煩欲は、直ちに相手方の異性を求めて反応する。つまり、「脳が反応する」のである。

この現象は、単に異性のみに止まらず、同性にも反応し、自分が両刀遣いのホモである場合、この脳の応呼に応じて、ホモ指向の男が群がって来る。これは全く麻薬常習者の心理と同じで、薬物常習者が、高価な薬物を求めて徘徊
(はいかい)している場合、薬物常習者は誰が売人であるか簡単に見つける事が出来る。
これと同じ反応をするのが、「類は友を呼ぶ」という現象である。

例えば、夜の盛り場で男好きする女を求めて徘徊した場合、これに反応する女と巡り合うことがある。これこそ
「煩欲」の 最たるものであろう。煩欲を抱いた者同士は、互いに反応するのである。特に浮気相手を求めて徘徊した場合、この相手は容易に見つかる。こうした不幸にし て、浮気相手を見付けた男は、タダで女と性交できるので、「自分は運が良い」などと称するようであるが、これこそ実は、全くの逆で不幸の始まりなのであ る。不幸は、人の出会いから始まると言うのが仏教の教えである。

不幸を齎
(もたら)す出会いは、「離(り)」によって終焉(しゅうえん)を迎える。ここでいう「離」とは、易の八卦(はっけ)で云う、「離」のことで、数理では「七・三」で表す。
この「離」は、火に象
(かたど)り、また南方に配する。五行の象意では「九紫(きゅうオ)」の気を含み、四季は「夏」、五味は「苦」、中るヘ「心臓」であり、南に禍(わざわい)を残し、その向かい側は、北方であり、八卦ならびに八門遁甲では転機して「死門(しもん)」に位置する凶事を招く。
つまり、休門が立ち所にして死門となるのである。
此処は冒してはならない方災であり、此処を冒せば、「大凶時
(おおまかどき)」を冒したことと同様になる。
八門本命方災の年齢数。八卦における方災を冒すと、年齢数の方災により、大きな禍が起って、日常生活や愛情面などに破綻が起る。
 こうした易に疎(うと)い人間は、人の出合いを「喜び事」と思ってしまう。人の出会いこそ、実は凶事の始まりなのである。特に「離」を方災として冒した場合、その八門方災から考えれば、その年齢において「離」を冒し、「火」を冒していると言える。家庭経済と愛情が“火の車”となる意味だ。

では何故、禍
(わざわい)が発生するのか。
それはその時、その場の方位神を冒したからである。人間は運命の陰陽に支配され、その支配から逃れることができない。常に、運に左右され、その支配を受 ける。セックスにおいても、この支配から逃れることができない。吉凶にも種々あるが、無知この方災を冒し、それを知らずに行動した場合、必ず無理は自らの 罪として跳ね返って来る。
しかし、この恐ろしさを知らない現代人は多い。特に、性交遊戯に明け暮れる若者は、この愚に嵌
(はま)り易く、また、これに嵌まったとしても、その愚に気付かずに人生を送る者が少なくない。

特に、思い掛けない「喜び事」に遭遇した場合、その時点の場だけを考えて、「自分は運が良い」と思ってしまう。思い掛けない、偶然に思える「喜び事」こそ
【註】実際に「偶然」という現象はあり得ない。現象界は必然の成り立ちで出来上がっているので、この世界で起ることは因縁であり、因縁こそ必然の最たるものである。起るべきして起ると言うのが、現象界の因縁である)、実は、「近い将来の凶事」を包含しているのである。
それは「離」を冒したからだ。こうした場合の方災は甘く見るべきでな「。「離」は、内実共に懸命に積み上げて来た日常を崩壊させる意味を持つ。その為に、仏道で云う「別れ」や「離散」が待っている。

五行方角象意

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 では、離を冒した場合の現象は、どういう事が起るか。
まず、肉体に顕われる現象は
「疲れ易くなる」ということだ。病気でない病気とか、常に不定愁訴のような症状が顕われ、「眠気に襲われる」ということが、その症状である。当の本人は、疲れや眠気を多忙と思い込んでいるようだが、こうした状態は「必然」から起る、運命支配の顕われである。

最初のうちは、贅沢
(ぜいたく)な暮らしが出来ていると錯覚し、また、贅を求めて奔走する意識が起る。しかし、立ち所に苦しくなり、台所は“火の車”となる。豊かな生活を送っているようで、実は、自転車操業的な「苦」が殺到するのである。

そして「喜び事」から始まった一つの「喜
(き)」は、実は不幸と関連していて、総てが凶事に包まれるという事である。普通、「喜び」とは、慶事の意味を持つ。しかし、慶事は長続きしない。したがって「喜」は、一喜一憂の「喜」と考えなければならない。
それは人間と言う生き物が、運命の陰陽に支配されるからである。常に繰り返される、情況が変るたびに、喜んだり心配したりして落ち着かない支配を受けている。
つまり慶事は、次の凶事の暗示となる場合が少なくない。

人間は、慶事の訪れに喜び、有頂天に舞い上がる生き物であることを忘れてはならない。こうした隙
(すき)を、幸運の女神は見逃さない。慶事は連続しないものである。そして、性病に罹病するなどの現象は、慶事の延長上に在ることを忘れてはならない。

さて、運命の展開に於いて、どのように発展していくか探ってみよう。
仮に、妻以外の女性に男が知り得る機会を得たとしよう。その時、男のモーションによって女が動かされ、以後、度々性交を重ねるチャンスが訪れたとしよ う。これにより、派生する結果は、まず、男に避妊の心得がない場合、また女に避妊の意識がない場合、その結果は「不遇の子ども」の妊娠である。

この結果からそれ以降、幸せになる条件は何一つ存在しない。むしろ不幸の種子を発芽させたことになる。あるいは妊娠が免れたとしても、その原因は流産で あったり、あるいはベタ菌等の感染であるかも知れない。何故ならば双方とも、身持ちが悪いからだ。身持ちの良い人間は、将来、不幸を招き寄せるような浮気 はしない。

もし、妻以外に女性が出来、それに愛情が附随したと言うならば、それは浮気などではなく「本気」である。浮気は性交遊戯を目的とした、快楽の為の戲れであるェ、本気は、そうした一面を全く所有しない。双方が真剣になる。
したがって、この場合のルールは、前妻と離婚して、新たに後妻を迎えると云うことになる。この過程において、事の成り行きが説明でき、世間にも申し開きができる体制であれば、それほど運気は低迷しない。低迷するのは、その過程の中で、「人間の理
(ことわり)」を踏んでいないからだ。

密教房中術の説く、愛とは、その根底が、何処までも清らかなものであると言うのが、この定理である。「清らか」とは、不純でないと言う事であり、不純を冒さない理
(ことわり)であるならば、それは本気である場合に限り、何処までも通用する。しかし、これが浮気であり、火遊びであり、一時の戲れであった場合は、その結果が多いに違って来る。

「火遊びで淋病に感染した」などは、これにあたり、その後の運勢に大きな影を投げかけることになる。その影は、今日では典型的なトリッペルでありながら、ペニシリンが効かないと言う事実である。これは遊んだ人間への天罰だと見るべきであろう。

人間は如何なる人も、運命の陰陽に左右されている。多くが、この支配から抜け出すことができない。だからこそ、人間界の現象人間に甘んじているとも言える。
したがって、例えば「不可能を持たぬ」という、人間の欠点を放棄することができない。不可能を持たぬということは、実は可能も所有していないことにな る。だから不可能を知らないということは、同時に可能も知らないという事である。此処にこそ、運命の陰陽支配の原点がある。

大自然には陽も陰も同時に備わっているのであるから、この中には最初から有も無も、そこには「在
(あ)る」ということになる。
例えば、宝探しをする山師は、財宝は既に自分の中に存在するという確信から、宝探しの行動を起す。既に自分の物であると言う確信から、アクションが起っているのである。これは、生まれながらにしての普遍が、常に、自分に属していると言う発想である。

昔、中国では、美しい女は財宝と同じように扱われていたが、例えばこうした財宝も、新たに奪うのであれば、美しい百人の女奴隸も、それは喩
(たと)え“遠巻き”で見ていても、盗賊にとっては、それを見るや否や、自分の物として感得できるのである。これは、現象人間界における、創造も発見も、「恒(つね)に在った」と考える思考であり、この思考が存在するから、人は宝を求めて奔走する動物であると云うことになる。「恒に在った」と感ずることこそ、哲学的には、無遍在のそれは「在る」ということになる。

また、この哲学的定理を感得することこそ、奔走する人間は、恒にその脳裡に「在る」という事実を確認しつつ、アクションを起しているという事である。
このアクション起勢の原理に、「四面愛染」という仏が存在する。

この仏は愛染明王の形相を持ちながら、四面に顔を持ち、その顔が東西南北に四方に配されている。愛欲に溺れた際にブレーキをかける尊い仏である。この仏への修法は、四方に八幡の神を配し、その神に幣
(ぬさ)を手(た)向けて「祈る」ということである。
「幣」とは、麻・木綿・帛または紙などでつくって、神に祈る時に供え、または祓
(はら)えにささげ持つもので、「みてぐら」「にぎて」「幣束」などという。

幣を手向けて祈る祈りは、既存への祈りであり、また閧ヨの祈りである。これは何故の祈りかと言うと、「無他」なるものへの祈りと云うことになる。四方に囲まれた、四方に自他の区別がなくなれば、そこには即座に同化する想念が顕われる。
しかし、地上で起ること、人間界で起ること、現象界で起ることは、恒に有限であることを忘れてはならない。
つまり、自分の知りうるその許容範囲では、有限を上限として、有限を逸脱してこれが無限に飛躍する事はない。有限の中で堂々回りを繰り返すのが、現象人間界の、「有限」たる所以である。

ところが、現象人間界の巡り巡ると言う、循環現象がまるで無限原理の動力で動いていることを、錯覚させるところに、愚かしい無限原理などと云う妄想が派生する。有限は最初から顕著に有限であり、然
(しか)も、そこに「既に在る」のである。
これは自然界を見れば一目瞭然となる。

例えば自然界は、海と云う巨大な存在を挙げても、玲瓏
(れいろう)たる青海波(せいがいは)は宇宙が存在した開闢(かいびゃく)以来、既にその時存在していたのである。
したがって、宇宙の青海波も、子宮の羊水の揺り籃
(かご)のような「揺れ」として、これは人間の最初から在ったことになる。突如として湧いたものでもなく、適者生存が繰り返されて種が変化したものでもない。最初から、有限の限りにおいて、「既に在った」ということになる。

「既に在った」という事を観じることを、密教房中術では四方愛染に託す修法をする。
生まれるべきして生まれるものが、既に在ったと言う現象により、生まれ出て、やがて生を全うして死んで行く。死生は表裏一体であり、死が表で生が裏の現象として顕われるのであるから、本来に人間の姿は「死すべき者」の存在である。
この「死すべき者」が生きているのだから、これを仏道では「奇蹟」と云うのである。ここに人間が生かされていると云う、運命の陰陽支配が働いているのである。
つまり、それは
“金剛さった”の働きに他ならない。此処にも生かされていると云う「他力一乗(たりきいちじょう)」の作用が在る。四面愛染は“金剛さった”の働きと言えよう。

四面愛染は、「愛を清らかなもの」と観じる愛染明王の象徴である。この背景には、人間が自然を尊重し、自然に忠実に、然も命を燃やして努力している限り、如何なる場合も、道は向こうから開けて来ると言う「他力一乗」の教えである。
仏道の説かんとする所は、まず、自然の摂理に遵
(したが)うことを教える。この教えは、夫婦の睦(むつ)み合いも同じであると説く。

現象人間界は、夫婦の睦み合いこそ世の中の基本と考え、一組の男女が愛し合い、互いが信頼しきって生きる事こそ、社会の最小単位としている。この最小単位が狂ったり、信頼が失われると、世の中は絶望の阻む力が失われ、希望が後退すると言う。

本来、希望を掲げて生きる力は、自然が与えた通りに生きていくことに他ならなかった。密教の教えは、一夫一婦制を強制しないが、喩え、良人が他の女から水を向けられても、これが遊びの為の遊びなら、そこには「不自然」の臭いがすると警告している。それは
“金剛さった”の意志にも背くからである。
一方、
“金剛さった”は魔神をも従える力を持つ。ここが真言立川流の魔力の持つ「畏れ」であろう。



●阿尾捨の外法

真言立川流の髑髏(どくろ)本尊の成就法には、髑髏に男女の愛水を塗ることで成就されると云われる。男女の愛液はもともと「生命原液」であり、陰陽合体において、入魂祈願の法要をするものであるが、入魂の髑髏は“金剛さった”の化身となり、光明を放って観想しなければならない。また、“金剛さった”は諸願成就、除難招福の守護の本尊である。

髑髏より発するエネルギーは、歓喜
(かんき)の魔力であり、この喜びをもって、生命は躍動し、やがて歓喜天(かんきてん)の加護を受けて、障害をなす魔神を支配し、成功への成就を約束するものとなる。魔神の力を得るには、魔神の力を知らなければならず、その魔力を充分に享受しなければ、魔神を遵(したが)え、事の成就は達成されないことになる。

真言立川流は、遂には魔神すらも吾
(わ)が協力者に遵えてしまうのである。そこに生命の躍動エネルギーがあり、その源は「歓喜」である。

躍動エネルギーを得る呪文は、「のうぼ・ばきやばとうしゆにしやおむろろそぼろ・しんばらちしゆた・しつたらしやねいさらばらたさ・たにえい・そわか」である。

更に印相・印契は、左右の手で虚心合掌
(きょしんがっしょう)し、両方の人指し指を曲げて、両方の中指の上節につけ、微笑している眼のようにする。両方の拇指(おやゆび)の中指の指先を捻(ひね)って、笑いを含んだ眼のようにして、小指も少し開き、虚心合掌(きょしんがっしょう)自体を微笑の眼のようにする。つまり、これが「眼笑」である。

この眼笑は、歓喜天
(かんきてん)の形相を模したもので、形像は象頭人身で、単身像と妃(きさき)を伴う男女双身像がある。妃は十一面観音が魔神としての働きを封じる為に現した化身であり、歓喜天は「歓喜自在天」「大聖歓喜天」あるいは略して「聖天」ともいう。

眼笑を形とする理由は、その根本に大印とし、行者はこの印をもって、目眉、眉間を拭う時、真実がはっきり見えて来て、迷いも悩みもなくなり、この印で自分の顔を三遍拭えば、自分の見るものが思い通りに適
(かな)うとも云われる。
これこそ歓喜天の魔力であり、魔神が同化し、支配したことを意味するもので、そこに「喜びの魔力」を秘めるとも云われる。

そして「喜びの魔力」としての願い事が成就したら、呪文「あく・びらうんきりく・あく」を唱える。
その時の印相は、「破諸宿曜印
(はしょしゅくよういん)」である。更に内縛(ないばく)して、拇指を立てて並べ、合わせるのである。これは「一切不祥(いっさいふしょう)の印」ともいって、特に、怨敵退散の調伏法(ちょうぶくほう)に霊力を発揮するとも云われる。

また、もっとも恐ろしい魔力を振う呪法は「阿尾捨
(あびしゃ)」とも称される外法(げほう)の「妖術」であるという。「阿尾捨」は仏法以外の妖術である為、真言秘法の一つとされ、天神魔神の降下を願い、未来の吉凶を占う妖術で、これは髑髏本尊に祈願を込めて、強力な霊験を求める時に用いる秘法とされる。

その呪文は「おん・まかやきしや・ばざらさとばん・じやくうんばんこく・はらべいしや・うん」である。

印契は、一番霊力のある「五秘密印
(ごひみついん)」を用いる。外縛(げばく)して中指を立て、指先を合わせ、人指し指を立てて開き、拇指と小指を立てて、この状態で並べて合わせる。

この修法の祈念が籠
(こも)る時、本尊である髑髏に陰陽の精気が交会(こうえ)されると、この呪文は更に大きいものになると言う。
その時の呪文は「おん・だき・うん・そわた・はらべいしや・うんはった」である。
この呪文を唱えれば、陰陽冥合
(いんようめいごう)し、燃え上がる魔神エネルギーが、行者に乗り移り、行者は魔神の化身となるとされる。

身体虚弱者が、この外法を行ずる時は、女人と共に七日間、隠行法
(おんぎょうほう)、礼念法(らいねんほう)、転法輪小周天法(てんぽうりんしょうしゅうてんほう)などの修法を会得してからでないと、かえって災難が降り懸(かか)るとされる。
この時、行者は芽で作った指輪をはめるとある。この指輪は宝石フ指輪でもよいとされ、神秘的な光を放つものに限られるとウれる。

法輪の持つ「輪」の威力は、一種の呪力となって、祈願の一念を強めるからであるとされる。男の行者は白色の布を用い、女の行者は赤色の布を腰に巻き、交 会の時以外に性器を剥き出しにしたいことと戒められている。交会前または交会後は、性根からエネルギーが逃げないようにしなければなら兄。

深夜の寝室は「夜の宗教」の為の道場である。男女の修法者が髑髏を前に置き、心ゆくまで交会をし、然
(しか)もその時の愛水を髑髏の頭に塗って、呪文を唱えるのは、如何にも異様で、奇怪過ぎる光景であろう。
これが果たして宗教であるのか、猟奇であるのか、このような疑いを持つ御仁
(ごじん)も少なくないであろう。

あるいは、それよりも前に、髑髏の入手自体が不可能に思う御仁も少なくないであろう。髑髏修法は現代の時代にそぐわないのではないか、こうした疑問も生 まれて来る。そこで、髑髏の代わりに水晶玉が用いられ、これを髑髏と看做すのである。これであれば、誰でも出来ることであろう。

また真言立川流には、「秘具」を用いる修法がある。一つは「張形
(はりがた)秘具」であり、もう一つは法具としての「人形杵(にんぎょうしょう)」である。






夜の宗教・真言立川流 11

蓮華台は極楽往生の縁を結ぶとされる生命の糸である。

●牛の角

秘具と云い、張り型と云えば、誰もが、かつての「大奥の牛の角」を連想するのではあるまいか。

二千九百九十九は牛

 という川柳がある。その意味は、江戸大奥の後宮(こうきゅう)では、女官が三千人いて、その大奥に出入りできるのは将軍唯一人からこう呼ばれ、残りの二千九百九十九人の女人たちは牛の角を相手にしなければならなら事から、秘かにこう呼ばれたのである。

牛若と名づけて局(つぼね)秘蔵する




事おかしくも張形へ吉野紙

 大奥のお局さまと雖(いえど)も、まだうら若き女性達である。例え30歳でお褥(しとね)下がりしようとも、僅かに30歳で性欲はなくなるものではない。
そこで「牛若」の名付けた張形が大活躍する。張形が疵
(きず)つかぬように房事(閨房で行う事で、男女の交合を指すが、大奥では男が「牛若」であった)に用いる吉野紙に大切に包み、これを秘蔵している様を詠んだ句である。
逢夜雁之声(おうよがり‐の‐こえ)の第一図。 拡大表示
 この張形の歴史を追うと、玉茎の形を模した張形は、江戸期以前に存在し、この秘具は古代から珍重されていたとある。
夜の宗教を秘した『阿奈遠加志
(なかとかし)』には、次ぎのような記載がある。
「石にても、木にても造り、もとは神業
(かみわざ)にのみ用いられしを、奈良の都になりて、高麗百済(こまくだら)の手人(てびと)どもが、呉(ご)という国より多くひさぎ(売り)出す水牛というものの角(つの)にて作りはじめたるは、きめ形極(きわ)めてうるわしく、綿を湯に浸して、その角うつろなる所に差し入るれば、暖かく……云々」とあり、水牛の角で作った張形は、本物の男根と数分の違いもないと云うことを述べている。

天智天皇の四年、新羅
(しらぎ)の国から水牛の角が渡来したと言う説もあり、水牛の角の薄さと滑らかさは最高であることを述べている。
この張形の用途に於ては、独悦具、行房補強具、破爪用具に分かれている。そして一般に張形と云えば、「独悦具」を指すようだ。

また独悦具には、張形をはじめとして、勢々理
(せせり)形、久志理形、兜形、鎧形、姫泣輪、ずいき、安楽形というものがあった。
これ等の材質に於ては、最も高級なものが鼈甲
(べっこう)製であり、表面は極めて薄く、内部を空洞に抉(えぐ)っている。また、表面には波形の揺れ動くような襞が彫りつけられていて、ピストン運動の際の悦楽境地を作者が表現しようとしたところが、ある意味で「姫泣かせ」であった。

「姫泣かせ」といわれた最高級品の鼈甲製張形は、湯に浸し綿を詰めなくても、そのまま湯に浸して用いる事が出来た。
また、勢々理形は小型の張形で、指に冠して少女が用いたもので、爪形とも呼ばれ、勢々理は陰核を「せせる」ことで、開用にはやや大型の指形を用いたと云われる。

久志理形も同じようなもので、何れも以上は女性の為の悦楽具であった。
次に、女同士の悦楽具に互形、叱翼形、両首などがあり、これは左右に二個の男根があり、根元のところで継ぎ合わされ、間仕切りの為に鍔
(つば)を付けたものである。
これは女性用の同性愛用であるとされ、根元に紐
(ひも)のついたものは、男役がこれを腰に結んで用いた。

更に兜形は玉茎に被せて補強にも、避妊用にも使用され、男が用いたものである。

また蛸
(たこ)に引ったくられる兜形

その他、性具としては「ずいき」た「りんの玉」があり、これは大奥ではあまり必要ではなく、御殿に出入りする小間物屋が奥女中の注文に応じて、大小の張形の注文を承っていた。

江戸市中では、「四つ目屋」で売っていた張形などは「笑い道具」とされ、秘め事を記した枕絵などが「笑い絵」と称された。更に中臈
(ちゅうろう)以上の大奥の女官たちは狆(ちん)を飼っている者が少なくなかった。狆は、非常に愛嬌のある動物で、女主人と共に添え寝してくれる犬であり、また舌嘗めが巧みで、舐陰に用いられた。
こうした女官たちの齎
(もたら)す大奥内の流行は一世を風靡(ふうび)したけれでも、その実、将軍はこうしたことを一向に御存じなかった。



●陰陽秘具と人形杵

人形杵(にんぎょう‐しょう)とは、愛染明王が手に持つ五鈷杵(ごこ‐しょう)のことで、和合杵、割り五鈷とも称する男女の象徴秘具である。
五鈷杵とは、金剛杵
(こんごう‐しょう)の先端が五頭に分かれた「杵」のことで、五智五仏を顕わす密教の象徴的な法具である。

真言立川流では、この五鈷杵を縦割りにして、先端を三股
(みまた)と二股(ふたまた)とに分けた形で、その一個を「金剛杵」と呼び、他方を「蓮華杵(はす‐しょう)」と呼ぶ。これは二個合体に於ての男女の“交会”を顕わしたものである。
そして、人形杵の合わせ目に願い事を書いて、髑髏
(どくろ)本尊の前に置くと、霊験があるとされる。

この修法を行う際、「割り五鈷」をガチャガチャとならし、性交時の男女の歓喜
(かんぎ)の声とする。仏法での歓喜は、「がんぎ」と呼び、宗教的な「よろこび」を指すもので、これを「歓喜踊躍(かんぎ‐ゆやく)」とも称す。この“歓喜踊躍”によって、菩薩十地(ぼさつ‐じゆうじ)の第一とされる菩薩が、修行によって煩悩を断じ、心に歓喜を生ずる位を授(さず)け、「初歓喜地」を得るとされる。その為、これを「初地(しょじ)」ともいう。

菩薩十地とは、歓喜地を初地とし、歓喜
(かんぎ)地・離垢(りく)地・発光地・焔慧(えんち)地・難勝地・現前地・遠行地・不動地・善慧(ぜんち)地・法雲地の十地をいい、菩薩の修行の段階を第十段階に整理したものである。そして、後に菩薩の修行が第五十二位に整理されると、その第四十一位から第五十位までに当てられた。

密教房中術では、交会
(こうえ)は歓喜であり、性交時の男女の「よがり声」はまさに歓喜の最たるもので、これ以上の喜びはないとし、真言立川流の「セックス教」たる所以(ゆえん)であり、ここに人間本来の面目躍如(めんぼく‐やくじょ)がある。
また「よがり声」とは、“善
(よ)がる”のことであり、「満足に思う」「嬉しがる」「愉快に思う」「得意になる」の順を経て最後は「快感を感じ」遂に絶頂の、“髪の毛の先まで痺(しび)れる”という状態に至ることを言う。これこそ魂の“脱魂”であり、人間が神と合一した「忘我(ぼうが)」の神秘的状態となる。
これを「エクスタシー
(ecstasy)」ともいう。此処に神と人の接点があるとされる。うっとりと余韻(よいん)を曳(ひ)いて“我を忘れる”のである。恍惚を感得するのである。

更に面目躍如とは、大いに面目を施すこと、あるいは如何にもその特徴が表れ、世間の評価が高まるさまをいい、此処に大人の男女の別の一面を如実に顕わしている。
普通、現代人のセックスは、その行為を「愛の延長」と考えているが、これはとんでもない間違いである。それは、世間には性欲の対象として女を利用し、一 方女達はセックスを“自分が男から愛されている”という思い込みをしているからである。また、こうした自惚れが、本当の愛情を混乱させているのである。

これらは決して愛情ではなく、また神と人の合一なども起こりうるわけがない。それは犬と同じ交尾であり、雄と雌の行為なのである。交尾に等しい性的な満足と言うものは、愛の形を構築する「菩薩行」に比べれば取にたらない瞬時の出来事なのである。刹那
(せつな)を追って何になろう。

現代の世で言う、性的な繋
(つな)がりが愛の変形と言う、真っ赤な大嘘に騙(だま)される結婚適齢期の男女は多い。性的な繋(つな)がりまで続く「愛の経過」などは存在しない。それは精神と肉体が、肉の関係により愛を育むと言う実情を招来しないからだ。肉の関係は、何処まで追求しても肉の関係しかない。
したがって肉の関係で愛を追求しても、そこには愛の純粋さがない。犬と同じ交尾に過ぎない。その交尾に註釈を付けて、これを“滑稽なる愛”に摺り替えているだけである。

真言立川流で言う、「菩薩行」は性行為の刺激だけを追い求めて、それに満足するという精液の垂れ流しを修法とするのでなく、男女二根交会を通じて、神
(仏)への距離を“縮める”というのがその「行」であり、これがあくまで愛の表形として、そこに男女の結びつきがあったとされるのである。何故ならば、人は創造主(神仏)の創造物であるからだ。

さて、二根交会は、大仏事であり、これこそ「人間を救う教え」である。二根交会以外に、これを除いて男女の喜びはあり得ない。そして歓喜を主張し、これ こそ人生の喜びと掲げている真言立川流であるから、密教として欠く事のできない曼荼羅も、一般的な金剛界や胎蔵界の曼荼羅である筈もない。最も人間のし て、根源的な男女の営みを顕わす「両頭愛染曼荼羅
(りょうず‐あいぜん‐まんだら)」となる。

しかし、「がんき」は苦楽と一体であり、歓喜のその裏が「苦」であるということも、承知していなければならない。苦楽は常に一体であり、本来人間の本質 は、「楽」にあるのでなく、「苦」にそれを背負うことが多い。用意周到の計画でも、狂うのはこの為であり、万全と思えた策にも、実はそこに手抜かりが在る ことを知らねばならない。
密教は、苦楽が表裏一体であると云うことを教えていると同時に、生死も表裏一体であることを教えている。




●両頭愛染曼荼羅

両頭愛染曼荼羅の「両頭」は「りょうず」と読む。
この両頭は、文字通りに「二つの頭」を指す。これは「一身」としての両頭である。しかし、一身でありながら、心情は異なる。
左面は起ったような真っ赤な貌
(かお)をし、右面は優しい感じの白い顔をしている。尊像の形は“金剛さった”である。

『羅我記
(らがき)』によれば、「左手に鈴を持ち、右手に杵を持ち、頂上に五色に烱(ひか)りを放ち、月輪の中に住し、紅蓮の華の上に坐している」とある。
これは男女が性交し、肉体が溶け合って一体となった姿である。愛欲の心を顕わし、セックスの交会がそのまま仏の姿となった形である。この仏こそ、仏道の奥儀に繋
(つな)がるもので、表現の形としては、愛染明王像であり、男女が睦(むつ)み合う真の姿こそ、正形ということを顕わしている。
周天法に見る任脈と督脈のルート 拡大表示
 この正形に至る為には、先ず男女が肉体的にも精神的にも正常が維持されていて、特に脳に障害がなく、気血の循環が正しくなければならない。気の循環が周天法の任脈(にんみゃく)と督脈(とくみゃく)のルートを正しく巡り、男の場合は丹田(たんでん)から発した気が下に降りて会陰(えいん)に向かい、女の場合は丹田から上昇して、天突(てんとつ)方向の上に向かうルートを通らなければならない。

次に血の運行は男女とも、心臓から送り出された血が、動脈から静脈に流れるルートを通り、再び心臓に戻る流れが正常でなければならない。特に男女共、重 要になるのは血の運行に際し、身体の末端まで送り出された血が、動脈から静脈に移る過程の、毛細血管の箇所であり、この箇所が優秀でなければならない。高 血圧症を始めとして、動脈硬化症などの障害があってはならない。

此処に問題のある男女ならびに、男女の何
(いず)れかに、この症状があってはならない。血の運行が肝心のクライマックスで滞り、重大な障害を招くからだ。肉体的には脳を循環して宇宙を感じる体感に異常を起こし、脳が閉ざされる。現代病風に言うならば脳卒中などであり、特に脳梗塞は、事故死をする時機(とき)の“断末魔”のそれであろう。
意識を感得する脳での状態は、まさに断末魔を感得する、そのものであり、肉はちぎれる。骨がへし折られるといった感じの最悪の断末魔が起る。

一般に、セックスの最中に“腹上死”などで生天した場合、極楽を夢見て果てるなどと信じられているが、これは大きな間違いである。生天は、天界に生れることとされるが、肉体が味あう断末魔はそんな生易しいものではない。

セックスの際の腹上死は、心筋梗塞や脳梗塞などで死ぬことを言うのであるが、この場合は天界に生まれるのではなく、“地獄に堕
(お)ち る”ことを言うのである。永遠の死である。この死は永遠の死であるから、輪廻転生の理論から言えば、地獄に次々に生まれ変わり、天界ならびに人間界に再生 できない死である。永遠の死と、死の苦しみがあるばかりである。特に、断末魔が繰り返される苦しみは、筆舌に尽くし難いだろう。
ゆめゆめ“腹上死”などを「気持ちのいい死に方」と揶揄
(やゆ)して、これを楽観視するべきではないだろう。辛い死に方であることを忘れてはならない。

施論・戒論・生天論を説く輪廻転生論は、断末魔によって永遠の死を決定する。これを「血の不浄」といい、「気の不浄」と倶
(とも)に最悪視されるものである。端(はた)で考えるほど、腹上死はいいものではないのである。死に方としては、「横死中の横死」である。この死に方は、実に怕(こわ)いのだ。
血の不浄は血行不良などの、高血圧症や動脈硬化症などの不浄を指し、循環が行われずにそこで血が滞ることを言う。血が滞る穢れが脳血栓または脳塞栓である。この結果、医学的には脳血管の一部が閉塞し、その支配域の脳実質が壊死
(えし)・軟化に陥る疾患であるが、これは霊的に見れば、霊性が非常に衰えら状態であり、意識の欠落が起るからである。

意識のないものに、肉体を動かす力もなく、血を順調に循環される力もない。毛細血管の末端部では壊死が起り、既に肉体の手足の随意運動は不能となる植物 状態が始まっているのである。その元凶が、毛細血管の破裂によって起る脳出血によることが最も多いが、脳塞栓や脳膜出血などでも似た症状が起る。意識不明 の状態である。交会の最中にこの状態が起れば、醒
(さ)めぬ意識が感得するのは永遠の、ただ苦しいことのみの断末魔である。

これは血の運行が滞り、血液が滞留して、そこで腐っていることを顕わす。また“血の滞り”は、気の滞りを誘発し、気が循環せずに止まることを言う。死の状態であるが、「死にきれない死」である。つまり、永遠の死である。

男女二根交会において、男女の睦
(むつ)み合いはその尊像である、不動と愛染の二明王の合体であり、これは実に神聖なものである。神聖なものであるが故に、血の不浄と気の不浄はあってはならないのである。
そもそも男女の合体は、不動明王と愛染明王の合体である。

男女交会に行われる“煩悩
(ぼんのう)”即“涅槃(ねはん)”の原理から言うと、愛染とは「情欲」の塊(かたまり)である。この欲の塊である、愛染と性交することを言うのである。愛染は女であるから、その欲の塊(かたまり)は凄まじい。一歩間違えば、断末魔に落されてしまうのである。性交の最中に、脳梗塞などを起こし、突然に生天すれば、地獄への直行便となり、永遠の死が訪れる。それだけに、男女が交会する時は、肉体的な血管や精神的な異常は持ち込んではならない。

男女何れにおいてもであるが、特に情欲の塊である女を抱くと言う行為は、一種の危険が伴うもので、それだけ烈しい煩悩の焔
(ほのお)で、男が灼(や)かれると言うことだ。
「慾触愛慢は
“金剛さった”なり」の教理には変わりないが、女の情欲が凄まじいだけに、また男も女を抱くと言うことは一種の命賭けと言うことになる。

この意識が低ければ、遂に男は女の愛染の煩悩に尽く焼かれ、脳を灼き、地獄へと堕ちる。脳を灼かれ、地獄へと堕ちれば、「煩悩即菩提」の原則は失われ、死して再生できず、永遠の死と倶
(とも)に“欲界”へと墜ちて行く。

人形杵、両頭愛染曼陀羅は、「淫欲即道」を顕わしているが、「淫欲」は一歩間違えば、地獄と隣接しているので、「道」に至どころか、地獄へと直行するのである。男女は、交会に当たり、健全かつ健康でなければならない。正道性に則っていなければならない。



●真言立川流の密儀

髑髏(どくろ)本尊を修法する時、この場合の法具はなくてはならないものとされる。
男女のセックスの正道性を強調する為に、である。男女和合の愛水を塗った髑髏が発揮する威力は凄まじい。この時に放射する陰陽の霊力は凄
(すさ)まじいものがあり、修法者たる人間と連結する為の仲介の役をするのが「髑髏」という法具である。

また、性器、性交を象徴する造形物は、真言立川流に限らず古今東西に亘って存在するものであり、インドの「リンガ・ヨニ」
【註】linga/インドのヒンドゥー教で崇拝される男根形の石柱で、シヴァ祠に祀られる。シヴァ神の象徴とも)の如きは有名で、他には例えば、弓矢の矢は男根で、後方に付けた二枚の羽根は睾丸とする喩(たと)えなどである。
更に、神社に立つ鳥居が、女性の陰門を顕わしていることは、よく知られたことである。

どの民族発生の神話を観
(み)ても、その殆どが陰陽・生殖の性的エネルギーをテーマにしたものばかりで、此処に人類繁栄の原点がある。
性的エネルギの拡散・膨張は、男女の絡み合いを招く。この絡み合いは、男女の生殖であり、また大自然の弁証法でもある。この弁証法を具体化したものが真言立川流であり、それを体験的証明として今日に密かに伝えている。

陰陽が合わされば、また次の陰陽を生む。これが人類の歴史が続く限り、陰陽は絡み、合わさり、結論のない永遠の弁証法が繰り返される。男女の愛欲の、「因」と「果」の輪廻が、これである。まるで車の車輪が廻るように、その営みは繰り返されて、流転するのである。

真言立川流の信仰は、その流転に身を委せ、その流れの中から人間の愛欲の意味を自覚させ、セックスに知的な喜びを与えようとするのがその主旨であり、そ れを知る為には真言立川流の密儀を知らなければならない。この密儀を知れば、永遠の生命を手に入れることになる。

それは髑髏エネルギーにより、男女の愛水
(生命原液)を塗ることで、陰陽合体入魂祈願の法養とするからだ。入魂の髑髏は、“金剛さった”の化身となって光明を放つと、その観想をしなければならない。これこそが諸願成就、除難招福の本尊となるからである。そしてこれこそが「髑髏本尊諸願成就法」であるからだ。
真言立川流が髑髏を用いるわけは、魂魄陰陽、相合わさって、はじめて生命を生じさせると信じるところに、「魂」と「魄」とが分かれるとされているからである。

「魂は天心にありて“陽”なり。軽清の気なり。これ太虚より得来。元始と形を同じくす。魂は“生”を好む」と、真言立川流では伝えられ、人間にあっても変わらぬ宇宙的な光として生命の根本を観じるとされている。
“一”なる真実の魂が、子宮に入り、胎子となる時、「魂」と「魄」に分かれる。

魄とは、魂の“根元
(こんげん)的霊体”に対比する「意識的霊体」のことである。つまり、根元的霊と意識的霊の根源で両者は対(つい)を為(な)している。そして意識的霊は、人間の感情とされる。根元的霊は則(すなわ)ち、陰陽の根本である「静」を顕わし、大地的な陰である。根源である。これに対して意識的霊は、「動」を司り、目紛(めまぐる)しく動き回る。セックスなどの性欲はこの仕業(しわざ)であり、これこそ煩悩(ぼんのう)が起る所以(ゆえん)である。こおの煩悩発生に関わっているのが「魄」の仕業だ。

この魄は、生まれて以来、ずっと動き詰めである。この動きが、肉体を疲れさせるのである。肉体を酷使したり、感情に振り回されるのは「魄」の仕業であ る。魄が動き回ればそれだけ躰を動かすことになり、それだけに疲弊する。疲弊が肉体を駄目にさせる。肉体が老化するのも、魄の仕業であり、ついに死を齎
(もたら)すことになる。肉は朽ち果て、最後は陰の死骸となる。
しかし、肉の死に至までのプロセスには、魄が動き回った躍動の足跡を記録する。

一方、根元的霊を為す「魂」は、清くて軽やかだから、陰の形体である“死骸”から離れ、根元たる天へ飛び去るというのが、陰陽道
(おんみょう‐どう)の生死説(しょうじ‐せつ)である。
これは東洋でも西洋でも、人間の煩悩ならびに情念を燃やすこの動機は、「魄」とするのだが、この点は洋の東西を問わず共通しているようだ。
陰なのに「七魄」と「陽数」で呼んでいるのは「七情」の“情念の意”である。

「七情」は七種類の感情のことを指す。素問霊枢
(黄帝内経)では、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚を指す。礼記の礼運篇では、喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲を指す。仏家では、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲を指す。
魄は下に沈む「陰の精気」であるから、死者から離れて天に昇ることなく、死骸に取り憑
(つ)くのである。
三魂七魄は、これに由来し、魂魄陰陽が合わさって、はじめて生命ありと信ずるが故に、真言立川流では髑髏を本尊とし、これを建立して「真体」とするのである。



●なぜ髑髏本尊なのか

 真言立川流は、なぜ髑髏を本尊とするのだろうか。
これは自己と仏道を照射し、双方を鏡の反射として照らし合う為である。本尊とは、無智で架空の偶像崇拝であったはならないのである。則
(すなわ)ち、本尊とは仏道を“わがもの”にする為に、神秘的な鏡としてのみ、本尊が存在するのである。
神社の鳥居は女性の陰門を顕わす。
 男性絶無の「女護ヶ島」で、女体が受胎を臨むとき、太陽に向かって性器を開くのである。そうすると、子供ができるという昔からの言い伝えがある。この時の本尊は“太陽”である。修法者の体内に、次世代の生命をつくる強い力が太陽なのである。

これは正反合の弁証法によると、男女陰陽の関係を顕わす。しかし、その結果として受胎があるとは決まっていない。現実の生命体における男女の結果は、そもそもが「死」であるからだ。
死こそ、人間の非存在たる所以である。宇宙の生命緑を絶対視する真言立川流は、人間は修法の結果その終局は死となっているからである。

死の象徴としてのシンボルは、「髑髏
(どくろ)」である。
死のシンボルである「髑髏」に生命水である「愛水」を塗り、反魂香
はんごん‐こう/漢の武帝が李夫人の死後、香を炊いてその面影を見たという故事から、それを炊けば死者の姿を、煙の中に現すという香)と称する死者を呼び出す香を炊き、髑髏を生と死の中間的存在としたのである。
つまり、仏道的思想によると、これは「中有
(ちゅうう)」の世界のもので、髑髏を仮の間の観念と定義したのである。

髑髏本尊により、修法者の究極である「死」を乗り越え、永遠の生命軌道に乗ったと信じる信仰が、実は轆轤信仰の主旨であった。此処に真言立川流の教義が確立するのである。

死者に対し、汝は天国に行けるとか、地獄に墜
(お)ち るとの選択肢は、本来、仏道には存在しない。仏を説いた釈尊は、宇宙論者であって、死の選択をするせこい宗教学者ではなかった。地獄や極楽も説かなかった し、善いことをしたから天国へ、悪いことをしたから地獄へと言う論理を展開させたことは一度もなかった。こうした事が仏教の中に登場するのは、歴史的に 云って、中世以降の事である。

 法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)の登場によって、仏道の戒律を外したことにより、地獄や極楽論が出て来た。これは“無一物”になれなかった結果からである。念仏宗(ねんぶつ‐しゅう)は最後まで、裸になることを拒んだからである。煩悩に縋ることを肯定したからである。そして、死して行き着いた先は、「極楽という名の地獄」だった。






夜の宗教・真言立川流 12

古来中国では、女は特別秘密兵器であった。

●遠望の士

三魂七魄(さんこん‐ななんはく)の正体は、真言立川流では髑髏(どくろ)本尊に置く。真言立川流の髑髏本尊と鬼子母神の髑髏は、それをそのまま人間の本能に結び付ける。本能的に感じさせる呪術をベースにしている。一方髑髏は、グロテスクな印象を受ける。それは外観が“死骸”を顕わすからだ。
しかし髑髏が齎
(もたら)す、その根本には「三魂七魄」が潜んでいる。喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲である。また、しかしこれが過ぎれば、人間は死を顕わす死骸へとなり果てる。此処が恐ろしいところだ。

(すなわ)ち人間臭さを剥(む)き出しにして、人間は動物化した時、その果ては「死骸」であるということを明白にし、その死骸の象徴が、また「髑髏」の持つ意味なのである。何事も「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」である。
度を過ぎてしまったものは、程度に達しないものと同じである。したがって、どちらも正しい「中庸
(ちゅうよう)の道」ではない。中庸でないことは、偏(かたよ)りであり、それは同時に取り返しのつかない、「死への速度」を早めてしまうことを意味する。

歴史を振り返れば、人間の歴史には明らかに「酒池肉林
(しゅち‐にくりん)」の足跡がある。
酒池肉林こそ、“人間臭さ”の象徴であるが、此処には無駄な精禄
(せいろく)を使い果たした、哀れな男女の末路がある。欲望の渦と、情念の渦(うず)が「精の陰之気」に引き摺(ず)られ、その底に沈んだ哀れな末路である。脳を灼(や)き、刺戟に誘われて欲情を燃やし、ついに脳に狂喜を齎(もたら)した哀れな末路である。
“七情”に煽
(あお)られた姿である。

酒池肉林。
これは古代中国の話である。
『史記殷本紀』には「以酒為池、懸肉為林」とある。酒や肉が豊富で、豪奢
(ごうしゃ)を極めた酒宴のことだ。それに明け暮れる王が居た。
そして、それは現代人に異様な“ハレムの世界”として反響してくる。言葉の印象からは「禁じられた場所」あるいは「男子禁制」などと“特別区”のイメー ジを受ける。動物が形成する、一雄多雌の群れを、そう呼んだ。そうした特別区が、古代中国にはあった。それが「後宮
(こうきゅう)」である。宮中奥向きの殿舎(でんしゃ)のことだ。そこで権力者の雄が、多数の雌と戯れたのである。あるいは美女を独り占めしたのである。まさに人間性の廃頽(はいたい)へのストーリーである。

紀元前1030年頃、慇
(いん)王朝の末期、ある“噂”が立った。「有蘇(ゆうそ)氏に美しい女がいる……」と。そして「その美しさは誰もが魂を奪われてしまう……」と。
この噂は、西の彼方の「周
(しゅう)」までも伝わった。

周は有力な諸侯として、殷に仕えた家柄だったが、もうその頃は名主文王の時代に入っていた。そして当時の天下の主人
(あるじ)は、暴君の紂王(ちゅうおう)だった。紂王は暴君なるが故に、日に日に人心を失いつつあった。
紂王は殷王朝の最後の王だった。妲己
(だつき)を寵愛(ちょうあい)したことは、よく知られるところである。
また、酒池肉林に溺れ、虐政
(ぎゃくせい)の為に民心が離反したと揶揄(やゆ)され、周の武王に滅ぼされたことも、よく知られるところである。そして紂王こそ、夏(か)の桀王(けつおう)とともに暴君の代表とされる人物だった。

この当時、文王
(ぶんおう)の子の武王(ぶおう)と周公(しゅうこう)の兄弟は、わが父に決意を薦(すす)めた。
「殷の徳は衰えました。益々人心は離れていっています。取って代るべきです」
しかし文王は二人の息子から薦められても、勢い込む、わが息子に、ただ首を横に振るだけだった。

「五百年も続いた王朝である。一人の天子が不徳であるからといって、殷をそう簡単には倒すことが出来ない」
文王は慎重だった。
「父上、紂
(ちゅう)があれほど暴虐(ぼうぎゃく)であってもですか?!」
「紂の、あれくらいの暴虐では、これまで五百年掛かって積み重ねてきた積徳は簡単には崩れはせんよ」
「ほうー、まだ紂の暴虐が足らないと仰
(おっしゃ)るのですか」
二人の息子はそう言って、互の顔を見合わせた。

彼等はいつも紂王を倒す話ばかりをしていた。二人の話題は領内の政治のことと、天下国家についてだった。実力は兄の武王の方が優れ、思慮に優れていたのは弟の周公だった。

「有蘇
(ゆうそ)氏に美しい女がいる……」という噂は、武王と周公の兄弟の耳にも入っていた。
「兄上、その娘を貰
(もら)い受けましょう」
思慮の優れた周公が言った。
「なに?!……」
弟の言ったことに兄は驚いた。

弟の周公は、これまで女の話題などしたことがなかった。それに故に、兄の武王は驚いた。美女が欲しいと言うのは分かるが、その有蘇
(ゆうそ)氏の美しい娘だと言う。
「さて、その娘、まだ嫁いでないそうだ。したがって息子も娘も居ないそうだ」
武王は微笑んで言った。

「では娘が生まれるまで待ちましょう」
周王が言い返した。
「ほうー、気の長い話じゃのう。ハッ、ハッ……」武王は大声で笑った。

勘所
(かんどころ)のいい武王は弟が目前のことより、大局を見る遠謀(とうぼう)の人物であることは見抜いて居た。戦略家であることを知って居た。大局を見る眼は確かだった。
そして政治や軍事のことだけではなく、“女に関して先を見る眼”も確かだった。武王は、わが弟を見てそう観じた。新しい発見であった。

「私は本気で申しております」
周公は不服そうな顔をして兄に切り返した。

さて、此処では分かり易いように武王とか周公と表現しているが、父の文王在世中であるから、彼等はそんな名前で呼ばれたのではない。兄の名前は「発
(はつ)」といい、弟は「旦(たん)」と呼ばれて居た。
この時、周公は確かに本気で戦略を練って居た。そしてこれを直ぐさま行動に移した。周公の優れた面である。緻密な計算をして、頭脳から弾き出した結果であった。まさに“
遠望の士”だった。
周公は有蘇氏に使者を遣
(つか)わした。未婚の美女の娘を養女にする交渉に取り掛かったのである。

当時の有蘇氏は諸侯の一人だったが、その領土は何処にあったか、はっきりしていない。現在の河南省済源
(さいげん)県の西北という説があるが、これは定かではない。もし、河南省済源県であれば、周(しゅう)と慇(いん)との首都があった安陽地方との中間位置となり、その領土の所在は益々掴み難くなる。

周公は思った。絶世の美女から生まれる娘は、また、やはり類
(たぐい)(まれ)なる美人になるだろう。周公は、そう踏んだ。遺伝の法則である。
美貌
(びぼう)はそれ自体が強力な武器なのである。それは美人に転ばない権力者は居ないからだ。権力を持ち、権勢を振るい、権限を持つ輩(やから)は、みな美人が好きである。絶世の美女が好きである。これに誰一人として転ばないものはいない。例外はいない。それを周公は人間の眼で、人間の目線で検討し、こう判断を下したのである。その眼は確かであると言えよう。
そして周公の恐ろしき戦略は、その美貌の娘に女の子を生ませ、その女の子を赤子の時から訓練し、美貌という武器と、女としての特権を持たせて、徹底的に教育をしようとした事であった。

“噂の美女”は間もなく嫁に行った。そして何年か経つと、女の子を生んだ。既にこの女の子は予約済みだったので、周公に引き取られた。しかし周公はこの女の子を引き取ったことを直隠
(ひた‐かく)しした。こうした女の子が居る事は極秘だった。絶対その事を知られてはならなかった。

周公は秘密裏に特別チームを結成し、その側近達と綿密な打ち合わせをし、周公がその女の子に仕込んだ手法は、「男心をとろかす」恐ろしき術であった。これこそ「帝王学」として伝わった“汪を支配し、操る術”だったのである。
帝王学は一般に知られている内容では「帝王になる者が、それに相応
(ふさわ)しい素養や見識などを学ぶ修養」などを指しているようである。あるいは「社長など人の上に立つ者に求められる修養」と看做(みな)されているようである。では、此処で言う「修養」とはなにか。
一般に修養と言えば、精神を練磨し、優れた人格を形成するようにつとめることなどを指すようだ。

果たして、この程度のことで、謀略は成功するのか。策謀は図に当るのか。
帝王学には、王が極めるべき『謀略』がある。敵を倒し、自分が生き残る為の策略がある。これを極めずして、王としての“修養”は完成しない。
当然この修養の中には、「男女を狂喜させる極秘の術」がある。どうすれば、屈強で剛勇の敵を転覆させることが出来るか、これを知らずして、王が王を支配する帝王学は成り立たない。
周公は、古来より伝わる「房中術」の徹底研究を始め、それを極めることを目的としたのである。この房中術の『男をとろかす』の“術”こそ、紂王を倒すべき要になる術であった。

男と雖
(いえど)も、人それぞれに個人差がある。権力者で権勢を振るい、実権を誇示する人間ほど、その好みは煩(うるさ)い。散々どこかで賞味し、その味を知っているからである。それだけに“性”に関する好みが煩く、またそれに固執する性格もしつこい。そうした性格から読み取り、その訓練に的を絞り、徹底的に策謀を巡らしたのが、実は周公だった。

周公は兄の武王を助けて紂
(ちゅう)を滅ぼした策士である。遠望の士である。後に魯(ろ)に封ぜられただけある。魯は孔子の生国としても知られる国である。
一方、周は殷
(いん)に朝貢していたが、西伯(文王)の子発(武王)がこれを滅ぼして建てた国である。周公は武王の死後は甥(おい)の成王せいおう/武王の子で、周の第二代の王。叔父周公旦が摂政となる。七年後親政など)ならびに、その子康王こうおう/成王の子で、周の第三代の王。周公がこのころ制度や礼楽を制定した後、これが定着する)を補佐して、文武の業績を修めた人物として知られる。しかし、この「文武の業績」の中には、王家伝来の“房中術”が含まれていた。

当時の天下の主人は、殷の紂王である。
紂王は確かに暴君であったが、歴代の王と違って、それほど暗愚ではなかった。紂王が、暴君たりえたことは、彼自身の実力を物語るものである。暴君は自分 一人だけでは成り立たない。実力者であり、影響力が大きいからその暴君の度合いも大きくなる。これが暴君の暴君たり得る証
(あかし)である。この証こそ、また彼が実力者であったことを物語っている。
実力なしに好き勝手に振る舞えば、到底今の地位を保つことは出来ないし、わが身の保身も危ぶまれよう。

『史記』には、紂王の姿をこのように表現している。
「天性の雄弁家であり、行動は敏捷
(びんしょう)であった。見聞してもその理解力は鋭く、才能や持って生まれながらの素質は他を圧っして優れていた。体力が旺盛で、素手で猛獣を倒す事が出来、頭脳は優秀で、知力は家臣のどんな諌言をも言い負かせられる弁術を有して居た」と、このように紂王を描いている。

紂王が人並み外れた王であったことは疑いないようだ。それがまた、彼を実力者に押し上げて居た。この実力は、一部上場会社の代表取締役の権限を持つ、ワンマン社長の比ではあるまい。桁
(けた)外れて凄(すご)かったということである。緻密な頭脳をしている為に、他人の意見や世評を顧(かえり)みず、自分の思うままに振舞う人である。こういう人には隙(すき)がない。側近が操るにしても、それに取りつく島がない。つまり、実力のある権力者とは、紂王のような人間をいうのである。

この人間的なレベルからいうと、いっそのこと暗君の方が、操り易い。お追従
(ついしょう)でおだてたり、あやしたり、遂に言動に左右されれて、御(ぎょ)し易いのである。
しかし紂王は抜群の資質の持主であった。それだけの、現在の高級官僚のように、思い上がることも人一倍だった。自分より優れた人間は居ない。こうした思い上がりは、国家上級試験のパスし、キャリア畑を経て高級官僚になった人間に、多く見られる現象である。
自分の実力に思い上がっている男を操縦するのは至難の技である。入り込む隙がないからである。これに取り入るには余程のことがなければ、そのチャンスは塞
(ふさ)がれてしまう。

そして特記すべきは、『史記』から研究すれば、この国家は『神権政治」の国体を有しており、歴代の歴史家は殷王をエジプトのファラオに近い存在として論 じているが、確かに紂王は、こうした人物に匹敵する絶対者であったろう。絶対者としての存在が明確であるから暴君の名を恣
(ほしいまま)にする事が出来、紂王こそ、当時は現人神(あらひと‐がみ)として天下に君臨したのである。

(ちな)みに、神権(divine right)とは、世俗の権力者が、神から授かったと称する権利のことである。古代中国での君主専制の基礎づけに使った観念でもあった。
つまり紂王の目指したものは、まさに神権政治
(theocracy)であり、政治的支配者が、神の代理者として絶対権力を主張し、人民に服従を要求する政治もしくは統治形態である。そこには、神としての絶対君主が存在する。まさに「神裁」であり、一切のことは、神の裁きによって行なわれるのである。では、この時の“神”とは誰か。

神とは紂王のことである。神としての一切の裁きを決定するものは、現人神の紂王だった。彼は絶対君主だから、側近は誰一人として彼に逆らわない。為
(な)すが侭(まま)である。絶大な権力を持っているのである。
神裁の威力は、正直は神の加護を受けるとの信念から出たものと考えられていたから、これには絶対に逆らえない。まさに紂王は現人神
(あらひと‐がみ)であった。

現人神は、神の“隠身”を常とする。人間の姿を借りることを常とする。人の姿となってこの世に現れた神である。随時、姿を現して霊威
(れいい)を発揮する神である。それゆえ、紂王が何か一声発すれば、“鶴の一声”であることは明確である。こうした現人神が君臨する世の中を変えようとすれば、まず紂王の意識そのものを変えねばならない。周公は、紂王を変えようと思った。

しかし周公は紂王をよい方に変えようとしたのではない。紂王が墜落する方向に変えようとした。
紂王が賢君
(けんくん)になれば、世の中など変えようがない。周公が天下を窺(うかが)うチャンスはなくなってしまう。

周公は「紂をもっと悪く変えよう」と思う。此処が周公の策略家としての凄いところであった。
その為に武器として思い立ったのが「女」だった。女を武器に遣おうと思った。周公は紂王のこれまでの行動様式を反芻する。紂王は女好きである。美酒にも目が無い。紂王は酒と女が大好きだったのである。ある一面で享楽主義者だった。享楽主義者はこれに「恋」が絡
(から)む。女と酒と恋が絡めば、享楽主義の“三部作”となる。この三部作を以て、紂王を墜落するように仕向けようとしたのが周公の策略だった。

有蘇
(ゆうそ)氏の噂の美女の娘を、紂王の宛(あて)がう。これが周公の策略だった。周公は自分の名の「旦」に、「女偏(おんな‐へん)」を付け、『妲』と言う名を与えた。有蘇氏の性は「己(き)」なので、有蘇氏の美女の娘は以後、「妲己(だっき)」と呼ばれるようになる。
妲己のその後の運命は、殷の紂王の寵妃
(ちょうき)となる。彼女は淫乱ならびに残忍を極めたといわれる。最後は周の武王に殺される運命を辿る。

しかしそのように仕組んだのは、周公の策略であり、その手始めが、妲己という秘密兵器を遣って、紂王を墜落させる秘術を巡らせたのである。
周公は練りに練った。紂王は女からどんな風にされると喜ぶか。あるいは、どんなことを嫌うか。彼のウィークポイントは何処にあるか。起居振る舞い及びその癖、衣服や飲食の好みなど、生活面の細かい部分まで研究した。更には彼の習慣や嗜好
(しこう)などもである。紂王の弱点を調べ挙げ、そうした綿密な調査を続け、それに基づいて、養女“妲己”を教育したのである。

そして妲己を徹底的にトレーニングした。
そのトレーニングの中心は、「房中術」だった。“紂王がどういうことをされたら悦に浸るか”ということは、結局、男がどういうことをされたら喜ぶかと同義であり、この“閨房
(けいぼう)の中で男女がすること”を徹底的にトレーニングしたのである。このようにして妲己を徹底教育した後、有蘇氏に送り返したのである。
これは総て秘密裏に行なわれ、妲己の特訓トレーニングに携わった者は、ごく限られた一部の人間だけであり、この策謀を知る者は殆ど居なかった。

周公は、天子紂王が有蘇氏に対し機嫌を損
(そこ)ねる事態を計画した。紂王が機嫌を損ねて、怒り心頭に来る事態を仕組んだのである。その時に、有蘇氏は妲己を献上すると言うシナリオを作り上げた。そして遂に、有蘇氏は紂王の機嫌を損ねる事態を招き、妲己を献上する羽目を招いたのである。後ろで天蚕糸(てぐす)を引いた周公の思惑は見事、能(あた)った。
紂王は絶世の美女の妲己を得て、狂喜したのである。
紂王は「これこそ本当の女だ」と狂喜した。妲己の素晴らしさに、遂に舞い上がった。それは特に、閨房
(けいぼう)の中においての男女の“秘め事”についてであった。秘め事は、秘めて人に知らせない事柄である。秘事である。多くが知らないから秘事という。この“秘事”を周公は妲己に施した。

紂王は妲己を得て、これまでの女は何であったかと思う。まるで木偶
(でく)ではないかと思う。妲己こそ、紂王にとって、まさに“天女”だった。天が吾(われ)に遣(つか)わした天女と思った。特別な女だと思った。紂王は、生まれて始めて、本当の女を知ったという気持ちを持ち、遂に本当の女に巡り合えたと狂喜したのであった。

紂王がこのように感得した時、周公は遂に王を取り込んだと思った。確かに妲己は紂王を墜落させる為に、作り上げた周公の特別秘密兵器だった。しかしこの特別秘密兵器を作ったのは、天でなく周公だった。周公はまんまと紂王を、わが術の中に嵌
(は)め込んだのであった。

だが此処で特記すべきことは、紂王が並外れた頭脳明晰
(ずのう‐めいせき)な人物であったということである。普通の、並の男どもとは違う。独断専行の暴君であるだけに、そのワンマンぶりは群を抜いていた。こうした人物が、下手なからくりを弄(ろう)せば、直に見破ってしまう。何しろ紂王は、女に掛けては“通(つう)中の通”なのである。俄(にわか)仕込みの美女を宛(あ)てがっても、そんな小細工は直ぐに見破るだろう。

ところが、妲己は生まれて直に周公に引き取られ、『紂王向きの女』として特訓されたのである。一般の美女と称される女を無理にねじ曲げて特訓したのでな く、最初から生まれながらして、ごく自然に教育し、その自然さに何ら不自然は感じさせなかったのである。全く、取って付けたようなところがなかったのであ る。
もし妲己に不自然なところがあれば、紂王のことであろうから直に見破っただろう。しかし紂王は妲己に不自然さを感じさえないばかりか、そうした疑念の入り込む余地は全くなかったのである。

また妲己自身も、自分がねじ曲げられて特訓した女であることを、自分自身でも知らなかった。ごく自然に教育されたのである。そして自らの、思いのままに振るまい、それが自然なるが故に、妲己の仕種
(しぐさ)の一つ一つが、紂王を有頂天にさせ、舞い上がらせたのである。
周公の思惑は、見事的中したと言えよう。



●男をとろかす口伝の術

紂王は暴君になる性格だけに、実に気性の烈(はげ)し い人物だった。好き嫌いも烈しかった。それどころか同じことに対して、それを繰り返されれば、直に飽きてしまう性格だった。気分もバラついていた。同じこ とに対しても、時と場所、あるいは虫の居所によっては、その時々で全く違った反応をした。紂王は感情の複雑な人物であり、これは暴君やワンマン人間に共通 した、ある意味でのウィーク・ポイントであった。

暴君は我が儘
(まま)なのだ。ワンマン人間は、強いようで、ある意味で感情に流される人情家だった。心の中には複雑な隆起のヒダを持っている。隆起した“ヒダ”に触れられると、それにより喜怒哀楽が烈しくなる。
これはワンマン人間が「欲天五淫
(よくてん‐ごいん)」に支配されているからだ。
真言立川流の説くところは、一般に検
(み)て仏道は、禁欲的と思われているが、実はそうでもない。仏道では、セックスの楽しみ方をちゃんと教えているのである。

その楽しみ方は、「天上界の姿」を借りて、人間界に教えなのではないかと思われる。
そもそも「欲天」とは、天上界に存在し、低地の俗界には存在しない。則
(すなわ)ち、天界の欲は、天に存在する欲のことであり、天から授かった欲を、地上界に降ろし、本能的に快楽を求めるようにしたのが、人間の与えられた「性交」であり、これを真言立川流や理趣経では、“交会”という。

したがって、無差別に性を貪ることではなく、そこには礼儀と作法があり、その手順に従い、天界の交会を人間が楽しむと言うことになっている。
そしてこの享楽には、五淫という、欲天の存在する六種の仏様達が、それぞれにセックスを楽しむ行為があり、四天王は、“トウ利天”と人間なみに性交する のである。この仏の目的は、性器を交えるセックスが中心である。その意味からすれば、礼儀も作法もないのである。性器に以上なる執念を持っている。交会を 楽しむという仏ではない。

また夜摩天
(やまてん)は、単に抱き合うだけで性欲を満足するが、兜率天(とそつてん)が手を握る合うだけで性欲を満足し、化楽天(けらくてん)はお互いに笑い合うだけで、他化天はお互いに見つめ合うことだけで、それぞれに性欲を満足するのだ。
しかし、他化天はそではない。人間並みに男女二根を交え、セックスするのである。何故なら、他化天は、「他化自在天」ともいい、“第六天”
【註】他化自在天に同じで、多くの眷属をひきいて仏道の妨げをなすところから、「第六天の魔王」といわれる)ともいって、一尊を恭(うやうや)しく堂宇(殿堂)にお祀りし、欲天のうちでも、最高の快楽を楽しむ仏として知られている。

こうして欲天のそれぞれの仏を分析すると、次のようになる。







夜摩天
(欲界六天の第三天)
この天では、よく時分を知って五欲の楽を受け、寿命は2千歳、その一昼夜は人間界の2百年に相当するという。この仏は抱き合うだけで満足するのだから、“レスビアン”だろう。
兜率天
(欲界六天の第四天)
内院は将来仏となるべき菩薩が最後の生を過し、現在は弥勒(みろく)菩薩が住むとされる。日本ではここに四十九院があるという。この仏は手を握るだけと言うのだから、手で性器をまさぐることが目的であり、おそらく“ホモ”だろう。
化楽天
(欲界六天の第五天)
ここに生れたものは、自ら楽しい境遇を作り楽しみ、8千歳の寿を保つという。この仏はお互いの顔を見つめ合うだけというのだから、“プラトニックラブ”のカップルだろう。
他化天
(欲界六天の第六天)
欲界六天の第6で欲界の最高所。この天に生れたものは他人の楽事を自由自在に自己の楽として受用するからいう。
この仏だけが一番凄い。カップルとなって、セックス・プレイをする。したがって、一段とセックス・アップを目指す仏だ。
 そこで問題になるのは、欲界“第六天”代表する他化天である。この仏は“他化自在天”ともいわれる。それだけに人間並みに性交をし、現代にあっても、セックスの神様として衆人の信仰を集めている。
他人のセックス・プレイを視ながら自分も欲上し、身悶え、つり込まれるのを昔から「貰
(もら)い床」といい、珍重されるが、これは一種の“覗きの類”であり、こうしたことよりむしろ、本来、自らも性の快楽を満喫した方がいいのである。
このことを力説するのが、“他化自在天”であり、見物するより、実行せよと説くのだ。

これは酒を飲む時、他人より先に酔っぱらった方が得だとするのと同じである。他人の酔っぱらった姿を見ても、何の得にもならないのである。自らが酒を飲んで、酔わなければ、何の意味もないのである。

つまり交会である、セックスも同じなのだ。自らが体験して大いに価値があるものと言うものだ。
酒でも、セックスでも、取り残された方は、結局、他人が酔ってその介抱をさせられたり、貰い床では、ただ視て、当てられるだけと言うことに終わり、自己処理に精を出すだけである。

だから、特にセックスにおいては、仮に見物人がいてとしても、それらは無視し、思う存分、楽しんだ方が幸せなのである。セックスは、幸せになる為に「する」ということを肝に銘じなければならない。
こうなる為には、様々なテクニックを駆使し、双方が仲睦み合い、“他化自在天”さながらに燃え上がらなければならないのである。

こういう過程として、立川流では秘伝として『日月尊像図印集』があり、“四十八印契”に至るまでのプロセスとして、序盤戦の「隆起した“ヒダ”に触れ る」という作法がある。これを遣ると、遣られた方は、有頂天に舞い上がり、狂喜する。これは色界の「第四天」の色究竟天の行為であり、形ある世界の最も上 に位置する天界だ。
この天界は、無色界
(むしき‐かい)の第四処で、“非想非非想天(ひそう‐ひひそう‐てん)”の世界を指し、色界では最も上に位置するところだ。

則ち、有頂天であり、有頂天の上り詰めれば、物事に熱中して、我を忘れることになり、これが「忘我」となる。
また、今が得意の絶頂のことをいい、仏道では、無色界の第四天で三界諸天中の最高位置である。ここに生れる者は粗
(あら)い想念の煩悩(ぼんのう)がないから「非想」というが、微細なものが残っているから「非非想」という。仏教以外のインド宗教では、「解脱(げだつ)の境地」を指す。仏教では「迷いの境地」のことだ。

一方は「解脱の境地」といい、他方は「迷いの境地」という。
説は、双方で180度異なるが、どちらも本当であろう。
人間は、「色」に魅せられ、色の根本は「人形
(ひとがた)」の持つ、独特の「色気」である。色気こそ、その姿は人間を魅了し、人間は人間に惹(ひ)か れるという現象が起こる。それは容貌であり容姿である。その双方が、ある特定の者を目掛けて集中すれば、そこには当然、隆起が起こるはずである。そして、 「手玉に取る方」と「手玉に取られる方」の関係が出来る。そしてその仕掛けは、人間界にあるのではなく、天界のものである。天界の「もの」が人間界に降ろ されたのだ。これが『秘伝』である。

人間界にあっては、この隆起のヒダを分析する心理学者のような、心理分析ができれば、紂王は簡単に“手玉”に取ることができる。ある意味で、複雑な感情を持つ人間こそ、その裏の隅々まで観察し、それを逆手にとって操ることが出来るのである。

妲己は紂王にとって、ぴったりと適合した女であったと言う事ができよう。ワンマンな人間ほど、表向きは強いだけあって、裏面では弱い弱点を持つ。この弱点を徹底的に攻め捲れば、豪
(ごう)の者は崩れる。しかし豪の者は自分が何をされたか分からないし、気付かない。それどころか、宛がわれた女を、世の中には二人と居ない女だと解してしまう。そしてもう、こうした女は二度と自分の前には顕われないかも知れないと思う。

豪の者ほど心理的には、情が烈しいだけに、また未練も烈
(はげ)しい。愛(いと)しい者への溺愛は、いかにも未練がましく、思い切りが持てない。こだわって、そこから抜け出せない。豪の者の特徴である。
こだわり尽
(つ)くす人間の特徴である。表が強いだけに、裏でもこんな弱い一面を持っている。山高ければ、谷深しなのである。欠点や弱点を攻められれば、急所を叩かれるように、ころりと参る。

ワンマンで、豪の者と称される人間の特徴は、まず“目立ちたがり屋”である。自己意識が過剰である。常に自惚れ、思い上がったところがある。これに権力 や権限が絡めば、その思い上がりは頂点に達する。権限を持つ人間は、「小役人」でも美女が好きである。この手の小役人でも、美女を宛てがわれれば転ぶ。

その背景には、男特有の、「自分は他人と違う」とか「俺の方が優れている」という、深層心理に隠れた“思い上がり”がある。その思い上がりの最たるもの が、自分の側近に引き寄せた「女」であり、その女の容姿端麗さを、他人に自慢することである。街に一緒に連れ歩けば、“人が振り向くような女”を自分が占 有していることを唯一の自慢にする。
これこそ、ワンマン人間の、自分自身で思い上がった「男の甲斐性」と信じている滑稽
(こっけい)さである。この背景にある自己顕示欲は強い。自分の存在をことさらに目立たせることは、“目立ちたがり屋”の心理として、当然たる“性癖”である。

要するに、その“性癖”はそのまま、ワンマン人間、あるいは豪の者、更には“お山の大将”の滑稽さは、自分で勝手に思い上がり、「一人相撲をする」ところである。つまり周公は、自己顕示欲が強く、思い上がる人間ほど、この弱点が多いことを知っていたのである。
周公の策謀は見事であったと言う事ができよう。

特別秘密兵器である女は、よく教育され、よく磨かれ、一国の謀略の為に遣われた、強力なる武器だった。妲己もこうした女の一人であり、周公が綿密に練り上げた、紂王忙殺の為に差し向けられた女だった。
 では、これを策謀した周公は、どのような“手”を用いたのだろうか。“男をとろかす”ような、そうした「術」は、どのようにして手に入れたのであろうか。

さて、“性”に対する姿勢は、西洋が否定的であるのに対し、東洋では、これが肯定的だった。この背景には宗教が絡んでいたものと思われる。
特に古代中国では、性と宗教は密接な関係を持ち、両者はしっかりと結びついていたのである。

五千年前、中国の古代文明が誕生した時の背景としては、当時の社会の時代背景として、その特徴は「家母長制」であったことだ。女性の子宮は創造の源泉であった。その源泉この大地そのものであった。性行為は、まさに創造力を得る手段だと考えられたのである。
中国での男女の性行為は、それ事態が尊く崇高なものであった。そこには、単に性行為が子孫を残す為の生殖行為でなく、万物を創造する「錬金術的な魔術」として、その存在を帝王学の一種として考え、支配者はこれに精力を投じるのである。

これは後の、老子や荘子の思想から考えても明白になろう。女こそ、また女の持つ、子宮こそ万物を創造する偉大な泉となり得たのである。
古代中国では、万物を創造する女性の子宮を崇め、これを尊んだ。故に、尊ぶ手段として性愛技術が発達したのだった。その技術は極意として、
“裏の帝王学”と倶(とも)に、口から口へと「口伝」として伝えられた。
この「口伝」は多くは口から口へと言う事であったが、その一方で文字にされ、あるいは絵にされた。そしてこれが数千年にわたり、“裏の帝王学”として伝えられたのである。

その代表的な“性の技術書”、または“性の指南書”として伝えられたのが、『素女経』であった。
この『素女経』は、これが伝えられたと言われるのが、今から二千年前とも、三千年前ともいわれ、初期のものは挿入画はついていなかったが、文章のみで、 後に五百年から千年後に挿入画がその解説として付け加えられ、今から千年前ほどに図版入りの『素女経』が作られたと言う。そしてこの書は“極秘扱いの書” で、帝王学の「裏の書物」として、各王朝ごとに遣われたと言う。






夜の宗教・真言立川流 13

神仙思想を生んだ神山信仰。そして神山とは仙人の棲(す)む山のことである。仙人は空気の綺麗な山にしか棲めないからである。

●素女経

『素女経』の基盤には、神仙思想と道教思想が盛り込まれている。
神仙思想は中国古代の神秘思想であり、山東省
さんとう‐しょう/中国華北地区北東部の省で、黄海と渤海湾との間に突出する山東半島と西方の泰山山脈とを含む地域である。ちなみに「山東」とは太行山脈の東方の意)の神山信仰【註】神を祀(まつ)ってある山への信仰の意で、霊山信仰を指す。あるいは仙人が棲(す)んで居るや間への信仰)に端(たん)を発し、不老長寿の薬を求め、煉丹術を生んだと言われる。此処で言う、“神山”とは仙人の住む山のことであり、また「霊山」ともいい、“仙人”の「山の人」という意味を持つ。

(ちな)みに、「山の人」とは“仙人”を指し、一方、俗人を「谷に落ちる人」と対峙(たいじ)させる。つまり、「谷に落ちる人」とは“俗人”を指すのである。
世の中には山よりも低い、下界の平地に棲
(す)む「俗人」という種族の人が居る。下界とは“谷間”のことだ。“低い”ことを顕(あら)わす。

俗人は、「谷に落ちる人」の意味である。
つまり、先祖や親から貰った性的エネルギーを使って、“射精”や“排泄”によって使い果たし、身を落としていく人のことを言う。性で滅びることを言う。 性的エネルギーは精力を使い果たすからである。性で使い果たすことを言う。性で消耗する人のことを言う。性的エネルギーは「精的エネルギー」に変換される からである。精的エネルギーこそ、精力の源である。

だから、「谷に落ちる人」のことを、「俗人」と言う。俗人は精力を浪費する。俗人は精力を浪費して“谷に落ちる人”のことだ。一歩間違えば、谷底まで墜
(お)ちて行く。

これは、仙人とは対照的である。この事が、俗人といわれる所以
(ゆえん)である。俗人は、高山のような空気の綺麗なところには居ない。下界の淀(よど)んだ空気の中に居る。経済優先で、利益追求に余念がない。金・物・色にほだされて、これに奔走する。夜の巷(ちまた)の嬌声(きょうせい)の中を徘徊(はいかい)する。色を求めて奔走する。脳裡には、「隙あらば……」という下心と、虎視眈々としたところがある。
だから、淀
(よど)みの中で種々の病魔に襲われる。それは肉体ばかりではない。思考まで冒されるのだ。

また一方、俗人は生殖器を通じて、因縁から起る子供を作るが、仙人は自己の体内の中に、
「光の子供」を宿す。 この「光の子供」こそ、極めてよく練り上げられ、昇華されたエネルギーのことである。
したがって、次世代に繋
(つな)げる生命の性的エネルギーに加えて、更に食物の中からも、同じような性的エネルギーを抽出するのに、優れた能力を持っている。それが仙人である。

仙人は食物の中から、裡側
(うちがわ)に蓄える性的エネルギーを抽出するのである。この性的エネルギーは、“四ツ足”などの、人間と同じ性(さが)を同じとする共食いを避ける為に、動物の肉は摂らない。動物の肉は、血液を汚染し、短命する元凶であるからだ。また食肉を食べると、性腺(せいせん)を異常刺戟(しげき)し、早熟となる。早熟なだけにそれだけ老化も早く訪れる。年から年中、性腺が刺戟されて発情する為である。発情すれば、「精」の根本である精液ばかりが異常の造出される。その為に、排泄が必要になる。排泄の捌け口を求めて、徘徊(はいかい)しなければならなくなる。これが四つ足を喰(く)った成れの果てである。

また、従来の性的エネルギーを、更に精選して、「精的エネルギー」に変換させるのに、動物や乳製品などの動蛋白は不適当であるからだ。異常な発情を起こすからだ。

人はなぜ山に登るのか。これについて明確に答えられる人は少ないだろう。あるいは言葉で表現できないのかも知れない。しかし高山には、俗界と違う、何かがあるはずである。
かつて、「山に居る人」を仙人といい、下界の「谷に落ちる人」を俗人と呼んだ時代があった。

現代人は、その殆どが、みな平野部か、谷に当たる部分に棲
(す)んでいる。この意味で、現代人は「俗人」といえるだろう。
 仙人は、食物から第二種の工程で、「精的エネルギー」を変換する方法を知っている。それは、一つは酸素であり、また、食物を酸素で分解するのである。こうして昇華された「精的エネルギー」が作られる。

酸素により、食物をよりよく分解する為には、空気の汚い俗人界では、目的が達せられない。だから仙人は、山頂の空気の綺麗な高山に棲
(す)み、そこで植物が新鮮に繁茂(はんも)しているところでしか生きていけない。エネルギーを清潔に保とうとするからだ。

更に、もう一つの仙人が長寿を全うする秘訣は、「心」である。心が綺麗で、清らかでないと、精的エネルギーを蓄積することが出来ない。清い心と、精的エネルギーは“相乗関係”にある。
欲などがあり、常に煩悩
(ぼんのう)に煽(あお)られるようでは、心が清らかにはならないし、最終目標は達成されない。

したがって、仙人は、性的な衝動が起ったとしても、これに安易に排泄はしない。無闇に“精”は漏らさない。更に仙人は、膨大で絶大な精的エネルギーを溜め込んでいるにもかかわらず、排泄という、射精の類
(たぐい)の愚行は行わず、更に欲情すらも外に漏らさず、内に溜め込むのである。“内在する力”を溜め込む。
こうして溜め込むことにより、これまでの俗人とは違う「性的エネルギー」を溜め込み、その溜め込んだ後、遂にこのエネルギーを、1ランク上の「精的エネ ルギー」に変換させ、昇華させ、精なるエネルギーに満たされて、千年単位の長寿が全うできるという。これが仙人が霞
(かすみ)を食べ、何千年々も生きられる秘訣であるらしい。

この話は、勿論、寓話
(ぐうわ)を交えての話であるから、その真相は定かでないが、仙人が仙人たる所以(ゆえん)は、独自に「陽気」を発生させて、これを体内に巡らす「周天法(しゅうてん‐ほう)」にあるらしい。周天法で得たものが「光の子供」であるらしい。

仙人は陽気のエネルギーを丹田
(たんでん)に蓄え、それを丹田から発気させて、会陰(えいん)、命門(めいもん)、夾脊きょうせき/脊柱上の経穴)、玉枕(ぎょくちん)の上昇させて、やがて泥丸(でいがん)に至り、印堂(いんどう)を経由して人中(じんちゅう)、天突(てんとつ)を巡らせ、やがてこれを元の丹田に戻す「術」を編み出した。驚愕すべき術である。これを「小周天(しょうしゅうてん)」という。正中線上にある、任脈(にんみゃく)と督脈(とくみゃく)のルートである。この軌道を周回するのが周天法である。
陽気を発生させ、特に女の場合は霊媒(れいばい)体質を養成すれば、「眠れる蛇」が上昇する。「眠れる蛇」は、一方で男に纏わり憑き、とろかして、虜(とりこ)にするのである。この術は、日本では陰陽道(おんみょう‐どう)や神道(しん‐とう)の一派にも伝わる。巫女の神楽舞(かぐらまい)などがこれに当る。

左右に回転することにより、霊的エネルギーが起り、それは腹部から、やがて脳の泥丸
(でいがん)に向かって上昇する。「眠れる蛇」はそこで脱魂状態の女体をコントロールしはじめる。
 更に、丹田に蓄えた「陽気」を全身に隈(くま)なく循環させて、再び戻す術を「大周天(だいしゅう‐てん)」という。躰全体が黄金に輝くという。陽気の循環で、黄金の心境を得るとされる。同時に、女体では「眠れる蛇」は脊柱を昇り、泥丸へと上昇する。こうした霊的エネルギーを蓄えた女を、「仙女」という。

仙女は恐ろしい力を持つ。その力は、正と邪からなる。邪は“魔”と結びついて、「邪魔」となり、俗人の精肉倶
(とも)に行動を狂わせる力を持つ。しかし、「眠れる蛇」が寝ている間は、その兆候が観られない。仙女も、ただの女に過ぎない。山に棲む女だ。あるいは天界に住むという女だ。
それだけに、地界と天界では高低差がある。高低差がるばかりでなく、仙界と俗界の違いがある。

仙術などで、仙人の房中術を「接して漏らさず」などと、俗人は揶揄
(やゆ)するが、仙人は安易に排出する「精」を決して漏らすことなく、遂に溜め込み、「陽気」として蓄えたのである。
一方俗人は、性的エネルギーを無駄に浪費する。盛りがついた発情期の動物のように異性を求めて奔走する。そして、「接して無駄に漏らす」のである。
これにより「精」が衰弱する。仙人とは対照的である。此処に、仙界と俗界の高低差が存在する。

また仙人は親を経由して、先祖から貰った「先天の気」を、食物から精的エネルギーに変換する方法を編み出し、更にこれを殖
(ふ)やし、「陽気」としたのである。この陽気こそ、仙人が言う「光の子供」であったのである。光の子供を宿し、更に「精」を蓄えていく。これこそが、仙人行法の真髄(しんずい)であったのである。

今では、「精力絶倫」などと称して、精力の強いことを笑い話の一つの房中術を、でっち挙げているようであるが、これは生命の大事さが理解できない俗人が垂れ流す侮蔑俗語
(ぶべつ‐ぞくご)であり、本来、仙人が意図した言葉ではない。仙人への嘲笑は、そのまま俗人の程度は低いことを顕わしている。

昨今では、「性」を対称にしている猥褻
(わいせつ)サイトや、この手の講習会を開くと、どこも満員になり、儲(もう)け話の一つに挙げられているが、こうした卑猥(ひわい)なことを考える、中年男女は、その深層心理に「仙術の性を学べば、セックスが疲れないで出来、精力絶倫の状態で性交遊戯が出来るのではないか」という期待が、こうしたものへ興味を向けているようである。この程度からして、俗人である「谷に落ちる人」の思考はレベルが低い。

また、仙術や房中術の「性」を、不倫の材料として、女漁
(あさ)りや男漁りをするのが今日の、中年男女の行動パターンで、誰とでも寝て、疲れないセックスに目をぎらつかせているようだ。
これこそ、世の中が「一億総不倫」に傾き、至る所で性的エネルギーが浪費されていることを物語っているといえよう。だから世の中は、俗人の性的エネルギーで満ち溢れているのである。地界では、精液が垂れ流されているのである。

古くから人間に、潜在的に先祖から伝わった「後天的性エネルギー」は、今や、その排泄口を求めて右往左往している。現代人に残された、先祖からの先天的 な性エネルギーが遺伝子情報の何処に残っていて、この記憶が時々暴れ出し、性衝動を起こしているのではないか。現代人は性衝動に煩わされ、その排泄の機会 を求めて奔走しているように思える。命を縮める愚かな奔走である。それが昨今の「性の氾濫
(はんらん)」ではないか。
人間の欲望は、外に向かって限りなく拡散・膨張しているのである。裡
(うち)に宝物が潜んでいることも知らないで……。

また、この性衝動が存在する限り、俗界での俗人の性エネルギーの膨張は止まることがないであろう。半永久的に、拡散・膨張し続けるだろう。この拡散・膨 張の中に、現代人は生きているのであって、私たちが、「今、生きている」ということは、人類を生きるのと同義語になり、私たち人間が生きるということは、 地球の中で、「地球を生きている」という意味ではなかったのか。

だから現代人は、既に忘れてしまったのであるが、「人間が生きる」ということは、地球と倶
(とも)に生き、大宇宙と倶(とも)に存在し、あらゆる人々と倶にあり、「現世」という二つとない、このシナリオのないドラマを生きていることになりはしないか。この基本だけは忘れたくないものである。

現象界で起ることは、「結果」に合った「原因」が派生している。原因こそ、結果の裏返しであり、結果が原因を派生させ、結果に則した形で、結果が原因を 辿って居るのではないか。なるように必然的に導かれているのである。この世に、偶然は発生しない。偶然であるかのように思える事柄も、実は必然性の要素を 持っている。必然は因縁によって起るからだ。

したがって、いま起っている結果は、元を辿れば、やはり結果に則した原因が、過去に在
(あ)ったということにもなる。
もしかしたら、現代人の残された命題は、過去を辿り、生命の源泉にまで遡
(さかのぼ)る旅が定められているのではあるまいか。

また、これが、生と死の源泉から立ち上る「生命のひと雫
(しずく)」である、呼吸法で謂(い)う、「阿吽(あうん)」ではないのだろうか。
生命は、始めがあって終りがある。生まれては死ぬのだ。但し問題は、同じ生まれるにしても、健康で長寿を保てる「生」であるか、年から年中、病気して短 命で終る「生」であるかの違いである。そしてもう一つは、因縁によって生かされる生であるか、因縁によって滅ぼされる生であるかの違いである。
因縁によって滅ぼされる生は、その裏に策謀が渦巻いている。

策謀は、常に人間の“性”に絡む。この“性”が絡むと、先祖の徳の浪費が行なわれることになる。先祖の徳は、また必然により、宇宙の根元に回収され、御破算
(ごはさん)になって行く。策謀を仕掛ければそうなる。それが性に絡め捕られて、無に帰するのである。
天がその因縁を以て、一人の人間の生命を奪うことは容易
(たやす)い。天は人に徳を積ませることも教えるが、一方で積んだ徳を減らして行く因縁すらも、天にある。この天が働けば、人間の生命など一溜まりもない。特に乱世での徳の瓦解は意図も簡単に遣(や)って退(の)ける。

革命思想で天命が革あらたまれば、天子と雖
(いえど)もそれに従わねばならない。天命をうけた有徳者が暴君に代って天子となることは、古代中国以来、許されてきた。暴君は滅ぶべき存在だった。易姓革命がこれを如実に顕わしている。辛酉(しんゆう)の歳には、世が乱れる。これが『易経革卦(えきぎょう‐かくけ)』の主説である。讖緯(しんい)説や陰陽道では、この年に変乱が多いと言う。
後の太平道
(たいへい‐どう)にも、五斗米道(ごとべい‐どう)にもその徳の入れ代わりが、高らかに謳い上げられていた。革命とは、かくもこのようなものであった。

更には後に、太平道
【註】後漢の道士張角の始めた呪術的宗教。184年黄巾の乱を起した。五斗米道と共に道教の源流をなす)や五斗米道【註】五斗米とは、入門の際、五斗の米を納めさせたからいう。後漢末期の社会不安に乗じて興った民間信仰の一つである。張陵が老子から呪法を授かったと称して創始した。太平道と共に道教の源流をなし、天師道ともいう)などにも影響を与え、道教の中にとりこまれた。

さて、『素女経
(そにょ‐きょう)』の“素女(そにょ)”とは、「仙女」のことである。つまり、仙女とは、「女の仙人」という意味であるが、西王母(せいおうぼ)や嫦娥(じょうが)の類(たぐい)を指す。また、山を守り、山をつかさどる女神の呼称で「やまひめ」【註】山姫)などともいい、あるいは「妖精」などもこの中に含まれる。また西洋では、フェアリー(fairy)ともいう。
能の西王母
 そして仙女として有名なのが、「西王母(せいおうぼ)」で、中国に古くから信仰された女仙(にょせん)のことである。
西王母は、姓は“楊”、名は“回”といった。周の穆王
(ぼく‐おう)が、西に巡狩して崑崙(こんろん)に遊び、西王母に会い、帰るのを忘れたという。崑崙は中国古代に、西方にあると想像された高山のことである。
書経の禹貢
うこう【註】「書経」夏書の一篇。禹が洪水を治めて天下を九州に分ち、貢賦を定めたことを記したもので、古代中国の一種の地理書)、爾雅じが【註】中国古代の字書で三巻からなる。撰者不明。漢代初期以前の成立)や山海経せんがい‐きょう【註】中国古代の神話と地理の書で、山や海の動植物や金石草木、また怪談を記す。十八巻からなる。禹の治水を助けた伯益の著というが、戦国時代~秦・漢代の作)などに見える。そしてこの高山を「崑山」とも謂(い)った。
また、漢の武帝が長生を願っていた際、西王母は天上から降り、仙桃七顆
(せんとう‐しちか)を与えたという。

また嫦娥
(じょうが)は、『淮南子覧冥訓(じゅんなんし‐らんめい‐くん)』にあり、中国古代の伝説で、“げい”の妻とされた。“げい”が西王母から得た不死の薬を盗み飲み、仙人となって月宮【註】月宮は「がっくう」あるいは「げっきゅう」といい、月光殿のことをいい、須弥山(しゆみせん)をめぐる月の中にあり、銀・宝石から成る月天子の宮殿)に入ったと伝える。また、月宮にすむ天女を、「月天子」ともいい、“三光天子”の一つとされ、月を神格化したものをいうこともある。そして月宮に住み四天下してん‐げ【註】四洲(し‐しゅう)のことで、仏教の世界説で、須弥山(しゆみせん)の四方にあるとされる南贍部(なんせんぶ)洲・東勝身(とうしょうしん)洲・西牛貨(さいごけ)洲・北倶盧(ほつくる)洲の総称)を照らす「月天」ともいわれる。

伝説では、西王母は『素女経』の元祖ともいわれ、穆王
(穆公)と関りがあり、穆王は春秋時代の秦の第九世で、五覇の一人とされている。名は任好(にんこう)といい、大夫たいふ/周の職名で、士の上、卿(けい)の下に位するもの)百里奚ひゃくり‐けい/春秋時代の秦の名相で、字は井伯という。虞の人。紀元前655年、晋の献公が虞を滅ぼした時に晋軍に捕えられたが、秦の穆公(ぼくこう)がその賢を聞き五ご羊(ごこよう)の皮(5枚の牡羊の皮)であがなったという。ゆえに五ご大夫と呼ばれた)を用い、領土を拡大した。また西戎(今のチベット)に覇を称えた。彼の在位は前660~前621頃と言われている。

周公が策略を巡らす、約400年後のことである。
さて、『素女経』の“素女”という「仙女」は、“商”を起こした黄帝
(こうてい)まで遡(さかのぼ)る。“商”とは、中国古代の王朝名の「殷(いん)」に同じで、「殷商(いんしょう)」とも言う。

黄帝は、中国古代伝説上の帝王である。三皇五帝の一人とされる。姓は姫、号は軒轅
(けんえん)氏。炎帝えんてい/神農(しんのう)氏のこと。中国古伝説上の帝王で、三皇の一人。姓は姜(きよう)。人身牛首、民に耕作を教えた。五行の火の徳を以て王となったために“炎帝”といわれた。百草をなめて医薬を作り、五弦の瑟を作り、八卦を重ねて六十四爻(こう)を作ったとされる)を破り、蚩尤しゆう/中国の古伝説上の人物。神農氏の時、乱を起し、黄帝と啄鹿(たくろく)の野に戦う。濃霧を起して敵を苦しめたが、黄帝は指南車を作って方位を示し、ついにこれを捕え殺したという)を倒して天下を統一したとされる。

黄帝
(こうてい)は、また養蚕・舟車・文字・音律・医学・算数などを制定したという。陝西省せんせい‐しょう/中国北西部の黄土高原にある省)の黄陵に祭られ、炎帝とともに漢民族の始祖として尊ばれる。
また黄帝の医学書として知られる、『黄帝内経
(こうてい‐ないきょう)』は特に有名である。

『黄帝内経』とは、中国最古の医学書のことである。古く黄帝外経と内経の二書があったとされるが、その原本は伝わらず、現存する「黄帝内経」としては、唐代に楊上善が注を加えた「黄帝内経太素」30巻
(うち25巻の平安末期写本が京都仁和寺に国宝として所蔵)がおそらく原形に近く、また隋(ずい)の頃「素問」と「霊枢」に二分されたテキストが宋の学者の校訂を経て「新校正素問」として流布した。
更に、別に「黄帝内経明堂」十三巻
(楊上善注)がある。
素問は人体の生理・病理を説き、霊枢は鍼灸など治療を説き、太素は両者の内容を含むとされる。黄帝と岐伯ら六名医との問答形式で構成された。中国医学第一の古典として、日本でも重視された書物である。

「殷商」を起こした黄帝は、“性の秘伝”の技術を伝えたと言う人物でも知られる。
つまり、黄帝の性の秘伝は、素女と言う“仙女”が、それを伝えると言う伝授形式をとってこれを伝えているのである。

この黄帝という王は、生涯に二千人の女性と交わり、150歳まで生きたと謂れる。その長寿の秘訣は、女性の性的エネルギーを性行為によって得る事であっ た。これが後に日本に伝わった時、真言立川流では、この秘伝を研究し、女性の性的エネルギーを、そのまま自らに還元する、「還精法
(かんせい‐ほう)」や、勃起力を支える呼吸法の秘法へと発展させたのである。また、「精」を吸う“風行秘仏(ふうぎょう‐の‐ひぶつ)”の修法へと発展させたのである。

さて、真言立川流では、この「風行秘仏」では、深秘の説で、他言を禁じられていたのである。
此処で言う、「風」とは五大の一つのことで、呼吸の意味である。この呼吸は男女の性器を風行如来と観じ、男は女根から陰の精気を吸い、女は男根から陽の精気を吸うのである。男と雖
(いえど)も、陽ばかりでは日射病に罹ってしまい、女も陰ばかりでは凍死してしまうようなものである。互いのバランスを均衡に保つ必要がある。
この際の修法は、男は女根を開き、それに口付け、肉体の“陰の精気”を吸い込むのである。一方女は、男根を起こして勃起させ、これを口に含み“陽之気”を吸い込むのである。

特に男根を口に含み、陰嚢
(いんのう)あるいは陰茎部から亀頭先にかけて、陰茎の縫(ぬ)い合わせに沿って吸い上げるのである。真言立川流のこの「風行秘仏」は、素(もと)を辿れば中国伝来の『素女経』に端を発していると言えよう。
そして絶妙な動きは、“舌先”である。陰茎
(いんけい)に沿って舌戯を催しつつ、精気を吸い取る。この精気が吸い取られる際に、女が精を吸えば、男は躰が軽くなり、天にも昇る気持ちとなるのだ。

「英雄色を好む」という。英雄は女色を好む性癖があるのだ。あるいは女色を好むことの弁護としても用いる語であるが、やはり“英雄は色を好む”のであ る。それは「精的なエネルギー」が溢れるがゆえである。だが、「精力」の浪費は、体力を消耗し肉体を弱める。その為に、遣い過ぎたエネルギーを再び還元さ せる「還精法
」があるのだ。

高弟は医学と倶
(とも)に、この事を強調している。精を浪費し、遣(つか)う場合ばかりでは、「精禄」を失うのである。精禄を失えば、体力や肉体を衰退させ、本来の精力エネルギーは失墜する。その為に黄帝は、性の喜びを男の自分だけが独り占めするのではなく、女にも提供し、双方の喜びを以て、生命力を倍増させる「術」を編み出したのである。
つまり性の交わりは男女の間を循環するという法則を発見したのである。
これが黄帝の編み出した『素女経』と言われるものである。



●酒池肉林の開幕

だがしかし、『素女経』には、女が男を“攻める術”もあった。男を「とろかす術」である。どうすれば男が喜ぶかの“術”である。
この「とろかす術」は、後年、日本に伝わった真言立川流の「風行秘仏」でも明らかであろう。

周公はこの術を、紂王
(ちゅうおう)に仕掛けようとしたのである。その為に、妲己(だっき)を赤ん坊から秘密裏(ひみつ‐り)に育て、遂にそれが完成するのである。紂王を自在に操り、暴虐に見て見ぬ振りをして、ついに墜落するしシナリオを描いたのである。
このとき紂王は、自分が生まれて始めて、他人と一体になる感覚を経験し、それは天にも昇る気持ちだった。自分の望むことは、妲己が望むことと同じで、また嫌い対象も同じだった。

「涓
(けん)に言い付けて、もっと心をとろけさせる音楽を作らせましょう」妲己は云った。
このころ紂王は宮廷の音楽に不満を持ち始めていた。妲己は紂王と同じことを考えていると言うより、紂王の考えていることを先取りするようなところがあった。

紂王は思うのであった。
《わしが心の底で考え付いたことを、まだ表面に出していない時に、妲己はそれの先駆けて、わしの心の底を汲み取ってくれる》そう思うのだった。

こうなれば、妲己は紂王にとって命だった。
普通、男女が何
(いず)れかが命、あるいは双方が互いを命と思う際の心理は、肉を通じての精的エネルギーの享楽は双方の間に取り憑(つ)いている。これが「精」の交わりであり、男女はこれにより命を磨(す)り減らし燃焼して行く。相思相愛とはこうした中であり、此処には肉の関与があったことを物語っている。つまり情念である。これが烈しければ烈しいほど、未練を引き摺(ず)るものとなる。換言すれば“滅びのプロセス”である。

この“滅びのプロセス”は肉の交わりに価値の概念を置き、物質第一主義である為、魂の触れ合いより肉の感触を第一とする。その感触が極めて物理的であれ ばあるほど、その狂喜は烈しくなり、特に男は狂い易い。その狂いが絶頂に達した時、そこから“滅びのプロセス”を辿る。
現在でも、愛憎による心中事件が、こうした“滅びのプロセス”が絡んでいる。昨今はこの中でも、不倫はその最たるもので、結末は“肉の滅び”である。あるいは肉の老朽化から起る、心の廃頽
(はいたい)である。不倫に趨(はし)る多くは、その実情の裏を知らない。

双方は、あるいはその何れかが、特に男の場合、未練を引き摺
(ず)る現象が起きた時に、相手を“いのち”と入れ上げ、共に滅ぶのである。

紂王は涓という音楽家を呼びつけ、今までより奔放で淫
(みだ)らで官能的な音楽を作るように命じた。それが『北里(ほくり)の舞(まい)』や『靡靡(びび)の楽(がく)』などであった。

中国の革命思想からいう「天子の徳」は、人を感化する人格の力でなければならなかった。モラルの面でも、「道」を悟った立派な行為を示し、万民の手本に ならなければならなかった。中国には古来よりそんな考えがある。徳を全面に出した人格こそ、それはまさに天子の人格と言えた。善い行いをしなければならな い。悪い行いをすれば、人心を失う。
それ故に、紂王が淫らな曲を作ったことは、人心を失う要因となり、この事に人々は眉をしかめた。

その一方で、妲己は思った。
《天下の主人は、天下の富を総て集めなければ》と。
妲己はそう云うと、紂王はそれに応じて、自分の富の集め方が足りないと思い返すのであった。

それが重税と化した。税金が重くなり、人民は重税に喘
(あえ)ぐようになった。一方宮廷では、鹿台(ろくだい)の金庫と鉅橋(きょこう)の穀倉が満杯になった。民間にある珍物や財宝は、見付け次第没収され、それらは直に宮廷に持ち込まれた。

また沙丘
(さきゅう)の苑台(えんだい)を拡張した。そこは「桃源郷」を模した。此処は俗世間を離れた別天地であった。仙境であり、武陵桃源(ぶりょう‐とうげん)であった。裕福な「生」を楽しむ仙境であった。
歓待されて帰り、また尋ねようとしたが見つからなかったような、そんな桃源郷を紂王は作ったのだった。
そこでは花が咲き乱れ、鳥獣が放し飼いにされ、沙丘の宮殿は、この世に二つとない別世界だった。

この沙丘を妲己は、特に気に入っていた。
妲己は「また沙丘に行きましょう」と、こう言って紂王を誘った。
沙丘の宮殿の石段の畔
(ほとり)では、妲己が躰をやや斜めに傾けて欄干(らんかん)に凭(もた)れ掛ける、そうした姿が、紂王は特に好きだった。そして妲己は紂王を意識しながら、潤(うる)ん だ眼を天に向け、見上げるのだった。この妲己の動作は、紂王には、ごく自然な起居振る舞いと思えた。憂いを含んだ哀愁が漂ってると見た。妲己が子供の頃か ら特訓されて、意識的に作る、そうした動作には思えなかった。だからこそ、紂王は妲己のこのポーズを最も好んだのである。

妲己に紂王が近付くと、彼女は眼を輝かせてこう云った。
「ねえ、大王さま。楽しみの極致って何で御座いましょうか?」
「……………」
紂王は突然の妲己の言葉に、即答出来なかった。それを見超したかのように妲己は言葉を続けた。
「あたしは中途半端なことが大嫌いです。楽しむなら、その極まるところまで行きとう御座います。それは何処でしょうか?」
「……………」
紂王は返す言葉がない。
「今は現にここにいるのですから、いまこの時を思う存分楽しみましょう。行き着くところまで行き着くことを考えて……」
妲己は紂王に、こう促すのだった。

これが妲己の哲学だった。彼女の云った“行き着くところまで行く着く”とは、快楽を求める彼女の性格そのものであり、その性格すらも、実は紂王の所有物であった。

「よし、徹底的に快楽の追求をするぞ!」
紂王は遂に妲己の言葉に促され、その気になった。

王の命令一つで、事は運ぶこととなったのである。命令一下、直ちに野外大パーティが繰り広げられることになった。しかし、紂王はこの時、それが顛落
(てんらく)の第一歩になることは、まだ気付かなかったのである。
妲己の思考の中には、周公の仕組んだ「滅び」が、巧妙にプログラムされているのである。紂王は妲己の正体も知らなければ、周公の謀略にも気付かなかった。ただ妲己可愛さに、愚行に逸
(はや)り、顛落の第一歩を踏み出していたのである。

これこそまさに享楽主義に戯れる、恋と歌と酔いの“三部曲”だった。享楽こそ、その裏返しには「滅び」が控えているのである。人生の「享楽の裏」には滅びが控えているのである。
人間は、無理に徹底的に享楽主義を押し通さなくても、元々が誰もが享楽的である。敢
(あえ)て演出する必要はないのである。そうした舞台装置は、人間の思考の中にしっかりとインプットされているのである。それがまた人間の自然の傾向である。これは人間の本性であるとも言えよう。それを紂王は自ら、「もっと多くの享楽を」と踏み外したのであった。

しかしこれを心理的に考えれば、ある種の厭世観
(えんせい‐かん)であり、また虚空感や絶望感がこうした享楽へと囃し立てるのである。それは奇(く)しくも、滅亡への第一歩だった。
桃源郷には桃の花が咲き乱れ、湖面には蓮華の花が浮かんでいると言う。極楽浄土を暗示させる世界と言う。きわめて安楽で、苦しみのない場所や境遇を、こう呼ぶ。

蓮華の花は、桃源郷における極楽浄土と同義語だった。
 中国の古詩人が詠(うた)った句に、次のようなものがある。
死後千載(せんざい)の名を得んより、生前の一杯の酒に若(し)かず
 これこそ享楽主義をよく言い表わし、此処に人生観を「楽」の世界のみに追い求めた句である。
どんなものでも永遠はない。永遠どころか、千年万年のものもない。百年ものさえ少ない。人間が高々百年生きることも難しい。幾ら完全なものであっても、時代が変わればその価値観も変わる。時代を経て、遠い過去のものに成り果てる。
新しい時代には、新しいものが生まれるのである。歴史が変化すれば価値観も変化する。前のものは、変化と倶
(とも)に価値観を失う。

偉いとされたものも、次の時代にはちっとも偉くなくなっている。偉人は、歴史と倶
(とも)に変化し、暴君と成り果てることもある。
安易に紂王を暴君と決めつけたのは、後世の歴史学どもである。紂王が生きた時代は、それなりに先祖の積徳がまだ残っいて、王としての品位はそれなりにあったと思われる。
しかし、これを転覆させたのは周公だった。周公の策略は見事であったと言えよう。そして紂王の「酒池肉林」は、これから始まろうとしていた。



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