2011年4月13日水曜日

『ダ・ヴィンチ・コード』 (2) - グノーシス獲得としてのセックス

『ダ・ヴィンチ・コード』 (2) - グノーシス獲得としてのセックス

なるべく他の人とは違う視角での批評を試みたいのだが、この本で強く関心を喚起させられたのはセックスの問題だった。小説『ダ・ヴィンチ・コード』の重要 なテーマは宗教と性の問題であり、読者はセックスの問題について深く考えさせられる。すなわち、キリスト教以前は人間が普通に抱いていた「聖なる女性」の 観念や女性崇拝の慣習が、教会によって否定され、異教的な倒錯や悪習として嫌忌され撲滅される対象となり、魔女狩りが行われ、女性の地位と尊厳が貶められ ると同時に、人間生活一般の中でセックスを不当に禁忌し卑蔑する観念が支配的になった。宗教の薀蓄が満載の小説の中で、一本の筋としてキリスト教における 女性とセックスの矮小化の歴史が告発されていて、女性とセックスを本来の地位に復活させるべきだという基調が貫かれている。


聖 婚(ヒエロス・ガモス)はエロティシズムとは無縁であるとラングトンは説いた。それは崇高な意味をもつ行為だ。歴史をひもとけば、性交とはそれを通じて男 女が神に触れるための営みだったことがわかる。古代には、男性は精神的に未完成であり、聖なる女性との交接によってはじめて完全な存在になると信じられて いた。女性との肉体的結合は、男性が精神的に成熟し、ついには霊知(グノーシス)-神の知恵-を得るための唯一の手段だった。エジプトの女神イシスの時代 から、性の儀式は男性を地上から天国に導くただひとつの架け橋と考えられてきた。「女性と通じることで、男性は絶頂の瞬間を迎え、頭が空白になったその刹 那に神を見ることができるんだ」 (中略)

生理学上、男性は絶頂の訪れとともにいっさいの思考から解き放たれる。つかの間の思考の真空と いうわけだ。すべてが澄みわたるその瞬間、神の姿を垣間見ることができる。瞑想の達人は性行為に頼ることなくそれと似た境地に至ると言われ、尽きることの ない精神的オーガズムをしばしば涅槃(ニルヴァーナ)と称する。(中略)「人間がセックスを通じて神とじかに交流できるという概念は、カトリックの権力基 盤を揺るがす深刻な脅威だった。そういう考えが広まれば、神への唯一無二の接点と称してはばからなかった教会の地位は低下し、主導権を失いかねない。教会 は明確な目的を持って、セックスを悪しきものと断じ、罪深く忌わしい行為へと貶めたんだ。 (中略)

「古くからの伝統もわれわれの肉体そのものも、セックスは自然な行為だと - 精神の充足を得るための気高い道だと教えてくれる」  (下巻 P.105-107)


 宗 教史を題材にした物語で薀蓄は豊穣でありながら、いまひとつ文学的な彫りの深さが感じられないこの作品だったが、ラングドンがソフィーにセックス論を講義 する下巻の件(くだり)には大いに刮目させられる。ここに作者ブラウンの思惟と主張が強烈に投じられている。インパクトがある。男性であるブラウンの内面 性を最もよく窺い知ることができる部分。すなわち意味剥奪されていた性の本源性の回復の思想。若干皮相的な印象はあるかも知れないが、メッセージとして確 固としている。『ダ・ヴィンチ・コード』が米国で人気を博したのは、このメッセージによるところも大きかったのではないか。女性の読者は異論なく共感を覚 えるだろう。そして男性の読者にもこの主張は心の深いところに確かに届くはずだ。現代はそういう時代だ。作者は若年ながら現代というものをよく心得てい る。

 性 とは何かを男が男の言葉で語らなければならない。女が語ったセックスについてのイデオロギー暴露を男がセオリーとして是認し肯首するのではなく、ジェン ダー主義にそのままホールドアップするのでなく、男が男にとってセックスとは何かを自ら肯定的に再定義しなければいけない。男が男にとって性が人生の重要 事であることを正当に認めること。そのことが大事だ。そして神なき時代である現代、まさに男たちはグノーシス(霊知)を獲得して精神を救済するために、女 との霊的な接合体験を切なく渇望して彷徨するのである。それは米国も日本も欧州も同じなのだ。セックスが唯一の神となり宗教となっている。自己を人として 自然として崇高なものとして確かめられるのはそこしかなく、また他者を確認できる歓びもそこしかない。再発見した神聖セックスへの現代人の信仰は篤く、そこに渾身の情熱を傾ける。

セックス論としてのメッセージが当を得ている。だから『ダ・ヴィンチ・コード』は売れる。




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「ダ・ヴィンチ・コード」と聖婚の宇宙的構造 Maitreyi and Mircea

 セックスの問題をいかに生理的、欲望的次元でなく象徴の持つ力を含めて語るか、実践するかは、歴史的にみればかなり古いといえる。宗教学者、ミルチャ・エリアーデは、1957年に出版された「聖と俗」の中でこう書いている。

 当然のことながら神々の物語は、人間の結合に対して模範的典型となる。しかしなお別の一様相が強調されねばならない。それは結婚儀礼と、したがってまた人間の性的振舞の宇宙的構造である。近代社会の非宗教的人間にとっては、夫婦合体のこの宇宙的にして同時に神聖な次元はなかなか理解し難い。しかし古代社会の宗教的人間にとっては、世界はしらせに満ちたものであった。しばしばこれらのしらせは符牒で書かれているが、そこには人間にその解読を助ける神話がある。人間の体験は総体としての宇宙の生命に一致する関係におかれ、それによって浄化されうるものである。宇宙は神々の至高の創造であるから。

 私には、実に「ダ・ヴィンチ・コード」はこの構造を踏襲した小説であるように思われる。エリアーデの言葉を借りればいかに「非宗教的人間」である我々が登場人物の行動を通して、天文学的な宇宙の構造、地球の方位と時間を決める構造体とも関連する暗号=符牒を、数々の神話、伝説を用いて解読していくというのは、宗教的な象徴の力が現代にも十分に生きている証拠であるように感じる。

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