2011年4月8日金曜日

密教:立川流

髑髏本尊
この髑髏本尊の作成方法は、誓願房心定の立川流批判の著書、「受法用心集」下巻に詳しい。
この書によると、髑髏本尊は大頭、小頭、月輪鏡の3種類がある。
また他に狐の頭部を用いた呪法の記述もある。

まず大頭の作り方であるが、まず人間の髑髏が必要である。最良の髑髏は智者(高僧)のもの、続いて行者(修行を積んだ僧)、国王、将軍、大臣、長者、父、母、千丁、法界髑の順である。
9番目の「千丁」とは、1千個の髑髏の頂上の部分を取り集め、これを磨り潰して丸めたものである。髑髏の頂上には6粒の「人黄」があるという。これは人 間の魂魄が宿るところで、人間の命を宿し、生殖に必要な精液を作るところでもあるという。別項で詳述するダキニ天の好物も、ここであるという。これは明ら かにヨーガで言うところの「サハスラーラ・チャクラ」が仏教に取り込まれ、変形したものであろう。
次に「法界髑」であるが、これは旧暦の重陽の節句(9月9日)に墓場へ行って無数の髑髏を集めて積み上げ、毎日欠かさずダキニ天の真言を唱え続けると、 底のほうにあったはずの髑髏が上のほうにあがってくる。この髑髏のことであるという。あるいは、霜の降りた朝に、一つだけ霜のかかっていない髑髏があれ ば、それでも良い。またあるいは、骨と骨との縫合線の無いものも、それであるという。

こうして良い髑髏を手に入れたのなら、この髑髏に肉付けをする。顎をつけ、舌を作り、歯を付ける。麦漆に繊維屑や木粉を練り混ぜたもので骨の合わせ目を埋める。次にその上に良質の漆を塗り重ねる。
次にパートナーの女性が必要だ。この女性は「吉相」を持った者でなければならない(この「吉相」については、「用心集」には記されてはいない)。
この女と交わり、和合水(精液と愛液が混じったもの)を塗ること120回。そして、この和合水を用意する時は、女が妊娠しない様にしなければならない。 妊娠してしまえば、和合水の力は無効となる。毎夜、子丑の刻に反魂香を焚き、その香煙を髑髏にあて、反魂の真言を唱えること1000回。
以上の作業が終了したら、髑髏の中に種々の相応物(ゴマや芥子などの呪物、加持物)、秘密の符を書き込む。
次に銀箔と金箔をおのおの三重に張り重ね、その上に曼荼羅を描き、さらに金銀の箔を押す。これを繰り返すこと120回(略式では5~6回あるいは13回)。
この曼荼羅を描くのは先の和合水でなければならない。
舌と唇には朱をさし、歯には銀箔を押し、目は玉の義眼を入れるか絵筆で彩色する。そして白粉を塗る。
その表情は美しい女か少年にし、貧相に作ってはならず、微笑を浮かべたものとする。怒ったような表情にするのは禁物である。
これら全作業を行う時は、人気のない場所を選び、行者とパートナーの女、髑髏を加工する職人以外は、決して人を近づけてはならない。そして、ご馳走と酒を用意し、正月の時のように祝い楽しまなければならない。

こうして髑髏が完成したら、それを壇上に祭り、山海の珍味を供え、反魂香を焚き、子、丑、寅の三刻に祭祀を行う。そして卯の刻になったら、七重の錦の袋に入れる。
こうして、行者はその袋に入った髑髏本尊を、夜は行者が肌で抱いてあたため、昼は壇に据えて山海の珍味を備えて供養する。
これを7年間続けるのである。
そして、8年目になると、最上の成就を成すと、本尊は言葉を発して語りかけて来る。中程度の成就では、夢でお告げをくれる。最も低い成就では、お告げは無いが、一切の願い事は意のままに成就するという。

なお、「小頭」は髑髏の頂上部分(人黄のあるところ)を八部に切り取って人面の形に加工し、霊木で頭蓋部分を作って組み合わせ、同じような作業を行う。
「月輪形」の場合は、髑髏の頂上もしくは眉間の部分を切り取り、脳膜を乾燥させたもので種々の相応物と符を包んで、切り取った骨の裏に篭め、同じような作業を行うのである。

以上が、髑髏本尊の作り方である。
この髑髏本尊はいかなる理論によって成り立つのか?
ここに「三魂七魄」説が関わってくる。これは、道教の理論である。人間の魂魄は、3つの魂と7つの魄からなる。魂は人間の精神的要素であり、魄は肉体的 要素である。陽である魂が、身体の濁鬼である陰の魄を制御することによって、人間の生命活動が行われる。人間が死ぬと陽の霊である魂は抜け天に帰る。そし て、死体には七つの魄だけが残り、やがて地に還る。だが、この魄は死後もしばらくは残っている。幽霊の出現などは、この魄だけが残って生じる現象であると いう。
髑髏には、この「三魂七魄」のうち、「七魄」だけが残っている。そこで、髑髏に生命を吹き込むには、足りない「三魂」を補ってやれば良いわけである。
ここで重要になってくるのが「赤白ニ滞」の考え方である。人間の生命は、女の「赤」と男の「白(精液)」が、混ざり合うことによって生まれる。男女の和 合水は、まさに「赤白ニ滞」の産物なわけであるから、これを塗ることによって、新たな生命たる「三魂」が補完され、この髑髏は生命を帯びるというわけだ。
しかし、この教説は、非常にお粗末な代物なのだ。
だいたい、道教の理論である「三魂七魄」説に、仏教の思想である「赤白ニ滞」説を横滑りさせるだけでも、乱暴な論の組み立て方だ。
それに、仏教の生命の誕生説は阿含経に記されている。これによると、妊娠と言うのは母の赤、父の白の二滞が肉体の基となり、そこに中有(死んで肉体を失い、生まれ変わるのを待っている状態)の魂が飛び込んで、初めて人を生じる。
いわば、「赤白ニ滞」と言うのは、仏教の教学では、魂の入れ物である肉体の原料に過ぎないわけで、「魂」そのものでは有り得ないのだ。

実際、立川流の僧たちも、それくらいのことは分かっていた。立川流においても、この「赤白ニ滞」は、あくまで魂の乗り物であって、魂そのものではない。
にも関わらず、この髑髏本尊の理論では、この「二滞」と「魂」を混同していた。
おそらく、文寛などの立川流の高僧たちは、このような髑髏本尊の建立などは、実践していなかった。
これは、あきらかに、高度な仏教教学を知らない、民間の無教養な呪い師が考え出した呪術だろう。
だが、中央から異端視され、弾圧すらされた立川流が、大勢力と成り得た秘密がここにある。
立川流が成立したのは、平安時代末期から鎌倉時代である。この時代は、特権階級のものだった仏教が、急速に民間に広がった時代である。真言宗が、いわゆ る「呪術宗教」として民間に受け入れられ、広がったのが、この立川流だったとも言えるのだ。民衆に支持された宗教の力は強い。
いわば、この髑髏本尊は、民間に受け入れられた呪術を体現したものとも言える。

私は当初、この髑髏本尊は、立川流の敵がでっち上げた創作ではないか? と疑ったことがある。
しかし、民間において、こうした呪法が用いられていた可能性は極めて濃厚だ。 
と言うのも、仏教においては、立川流が成立する以前から、仏教には人骨や髑髏を崇拝したり呪物として用いる教義が存在したからだ。

一つ重要なのは、「仏舎利」の崇拝である。
この髑髏本尊は、この仏舎利の崇拝が基となっているという考え方もある。例えば、仏舎利は、銀箔や金箔の箱に何重にも入れて安置する。これは、髑髏に銀箔や金箔を重ね塗りするのと通じるのではないか?
また、古来から髑髏には鬼神が宿るという信仰もある。
実際、鬼神の宿る髑髏を所有し、この鬼神を使役する、という呪術師の話しなども残っている。

こうした信仰がないまぜになって、髑髏を用いた呪術が、すでに立川流の髑髏本尊以前から存在していたのは、間違い無い。
例えば、「多聞ダキニ経」なる和製の偽経が、真言宗の仁和寺から発見されている。
この偽経には、人骨と髑髏を用いて願いを叶える修法が説かれている。
有徳の僧の髑髏を盤において供養すれば、お告げをくれるというのだ。
また、1268年には、太政大臣西園寺公相の首が葬式の夜に切り取られ、盗まれる事件が起こっている。葬式を主催した僧に疑いがかけられた。
さらに1293年には、行広という僧が、天武天皇の古墳をあばき、髑髏を盗掘するという事件が起こっている。
鎌倉時代の天台宗の記録にも、髑髏を用いた呪術の流行の記録がある。
これらが立川流の信徒の仕業だったと考えるのは早計だ。しかし、このような修法が、髑髏本尊の原型となったことは、おそらく間違いないだろう。


「立川邪教とその社会的背景の研究」 守山聖真 国書刊行会
「邪教・立川流」 真鍋俊照 筑摩書店(ちくま文庫版もあり)
「真言立川流」 藤巻一保 学研
「日本秘教全書」 藤巻一保 学研

・真言立川流

・仁寛と立川流
・髑髏本尊
・ダキニの法
・五色阿字と男女和合の儀式
・中興の祖、文寛
・「受法用心集」と「宝鏡抄」






仁寛と立川流

この真言宗の流派は、邪教として弾圧を受け、消滅した。
この流派に関しては、今もなお謎が多い。彼らが記した資料のことごとくが、激しい弾圧によって焼き捨てられてしまったからだ。金沢文庫などに断片的な資料が残されてはいるが、彼らの教義を知るには「受法用心集」や「宝鏡抄」と言った彼らの敵が書いた書物が未だに第一級の資料とするしかないのである。

確かに立川流は、我々の想像力を刺激する。
髑髏本尊と言った不気味な修法を行い、反魂香なる香を焚いて死霊を呼び出し、男女和合を説いた日本版「左派タントラ」?
しかし、この立川流の真の姿は、思われているほど奇怪な宗派とは言いがたい。「性」を神聖視する宗教とは、世界じゅうにいくらでもあるし、それが仏教に 取り込まれたり、日本に存在しても不思議じゃない。また、髑髏本尊にしてみても、例えば「出羽三山」の即身仏ミイラ崇拝と比べて、どちらがより不気味なの だろうか? 
そもそも、この立川流は数世紀に渡って存続した。初期と後期の教義はだいぶ違う。少なくとも、初期にあたっては、髑髏本尊や儀式的性交が行われていたとは考えられない(これらについては別項で詳述する)。
また、立川流を真言宗の中に生じた単なる異端派のセクトと考えるべきでもない。立川流は、一時期には大勢力となり、権力者の支持も受け、高野山をはじめとした他の教学にも影響を与えたとも言えるのだ。
私は、現在の中立的な仏教学者の多くがそうであるように、立川流を「邪教」とは考えない。

立川流の開祖は、仁寛であるという。だが、彼に関する記録はその多くが抹消されていて、非常に限られる。生年すら謎である。
歴史学者達の研究により、仁寛が実在の人物であったことは疑問の余地は無い。だが、果たして彼が本当に立川流の開祖であったのだろうか? 「野沢血脈 集」の脚注や「伝灯広録」という(記述にミスの多い)本、金沢文庫の資料などにも、彼が開祖であるとの記述がある。少なくとも、後世の立川流の信徒達は自 分達の奉じる宗派を開いたのは、彼だと信じていた。歴史学者達も、明確な根拠は無いとしながらも、さりとて反証する材料も無いとしている。しかしながら、 彼を開祖とするには、どうにも不自然だ。
ただ、立川流が成立したのは、平安時代末期、いわゆる院政の時代であったことは確かだ。

仁寛とはいかなる人物か?
彼は、村上源氏の血をひく、有力者の出である。
彼の父はその村上源氏の嫡流の源俊房で、左大臣の位も持っていた。また叔父の顕房は右大臣、従姉妹の中宮賢子は白河天皇の皇后で堀河天皇の母にあたる。まさに権力の中枢に居る高級貴族の出身なのだ。
彼の血縁者が活躍したのは宮廷だけではない。彼の兄の勝覚は、真言宗の歴史の中でも大変に重要な高僧である。と言うのも、彼こそが真言系修験道の総本山 である醍醐三宝院を開いたのである。この三宝院流は後に嫡流の定海によって大成し、醍醐寺を含む6つの大きな流派、小野六流の最大流派となり、さらに多く の支流を生み出す母体となっているのである。
仁寛は、この兄の勝覚の弟子となり、真言宗の教学を学んだ。そして真言宗の僧の最高位である阿じゃ梨となる。そして、後三条天皇の子で、天皇位につくことが確実視されていた輔仁親王の護持僧となるのである。
彼の将来は揚々たるもののように思われた。

しかし、彼の人生は天皇家のお家騒動に巻き込まれ、大きく狂ってゆく。
後三条天皇は、藤原氏とは直接の血縁関係が無い。それゆえに藤原氏を遠ざけ、天皇親政へと向かい始めた。藤原氏による摂関政治は衰退し、院政の時代が始まる。
後三条天皇は自分の次の天皇として白河天皇を据えた。そして、その次の天皇には、先の輔仁親王を据えるように遺言したのである。しかし、白河天皇は色々 と理由を付けて自分の幼い子の堀河天皇を据えた。いわゆる「白河院政」の始まりである。白河上皇は、堀河天皇の次には輔仁親王を天皇位につけてやる、と約 束した。しかし、堀河天皇が夭折すると、約束を破りわずか5歳の鳥羽天皇を即位させてしまう。要するに、自分の院政の権力を守るために、父の遺言と弟との 約束を反故にしたわけである。
当然、輔仁親王は納まらない。
この時、村上源氏の一族は、この輔仁天皇を支持していたのである。村上源氏にしてみても、輔仁親王が天皇位につくことを期待して、親王を支持していたわけで、まさに貧乏くじを引かされた格好だ。当然、不満がくすぶりだす。
この時、「千手丸事件」が発生する。
鳥羽天皇が即位してから6年後の1113年のことである。白河天皇の内親王・令子の御所に匿名の落書が投げ込まれた。内容は「輔仁天皇と村上源氏が共謀 して天皇暗殺を計画している」と言うものである。さらにこの落書には、「暗殺実行犯として、千手丸なる童の名が書かれていた。この千手丸は、仁寛の兄の勝 覚に仕えていた稚児だったと思われる。
ともかくも千手丸は捕らえられ、尋問された。すると、千手丸は「仁寛に天皇を殺すように命じられた」と白状した。
仁寛も捕らえられ、尋問を受ける。当初彼は否認したが、6日目には自白したという。
そして、仁寛は伊豆に、千手丸は佐渡に流罪となった。
この事件は、不自然きわまりない。罰を受けたのは仁寛と千手丸だけである。この事件によって、輔仁親王と村上源氏の力は大きく削がれたが、特に罰は受け ていない。また勝覚すらお咎めは無かった。また、仁寛の取調べの時も、白河上皇以外の公卿達はやる気の無い様子だったと言う。それに、暗殺計画自体が、あ まりに杜撰すぎる。
要するに、これは白河上皇が仕組んだ陰謀だったのではないか? と言うことだ。邪魔な輔仁親王と村上源氏の力を削ぐために、嘘の自白をさせ、事件をでっちあげたと。さすがに良心が咎めて、輔仁親王たちには直接手を出さず、仁寛だけを罰したのだと。

仁寛が流刑地の伊豆の大仁についたのは、1113年11月のことである。
そこで彼は名前を「蓮念」と改める。
ここで、「武州立川の陰陽師」と出会う。この陰陽師は、神道を学び、易占を好んでいた。その彼が、仁寛に帰依する。法名を「兼蓮」という。また、他に伊豆出身者の浄蓮、遠江八田極楽寺学真房なにがしという弟子も、ほかに二人居たらしい。
仁寛は、この三人の弟子に、密教の秘法をあまねく伝えた。
そして、伊豆に流されてからわずか5ヶ月後の1114年3月、岸壁から身を投げて投身自殺をしたという。
その後、立川出身のもと陰陽師の兼蓮は、この密教に陰陽道、易学、神道の教えを混合した独自の流派を作り上げた。これが「立川流」の始まりであるという。

この伊豆に流されてからの話しというのは、「伝灯広録」という、いい加減な記述の多い本をもとにしているので、あまり信用が置けないと考える歴史学者も多い。だいたい、わずか5ヶ月で密教の奥義を伝授する、なんてのも無茶な話しだ。
しかし、他の系譜資料にも名前が登場することから、「立川出身の兼蓮」もまた、実在の人物であったと思われる。 
ともあれ、この出来たばかりの立川流には、まだ髑髏本尊の類の教義は無かったものと思われる。後に詳述するが、この教義は仏教教学から見るとあまりにお粗末で、仁寛ほどの頑学が、こんな主張するとは思えない。
が、一種の「性」を神聖視する教義を伝えた可能性は大いにある。
仁寛の兄の勝覚は、弟を重用した。にも関わらず、勝覚を開祖とする三宝院派の記録には、仁寛の記録は殆ど無い。後世の僧たちによって抹消されてしまったのだろう。だが、その断片的な記録に愛染明王の修法に熱中した、という記録があるからである。

また、弟子の兼蓮が陰陽師だったと言うのも、充分ありそうな話しである。
陰と陽を「女性原理」と「男性原理」とし、これを密教の「胎蔵界」と「金剛界」と照応し、「理趣経」の文章を即物的に解釈した、というのも自然な話しだ。ともあれ、立川流の成立に、民間の陰陽師の関わっていたことは間違い無いと思われる。

その後、この立川流は、民衆の間に、関東から広がり始め、やがて近畿にも達する。
そして、その勢力は馬鹿に出来ないものへとなってゆくのである。


「立川邪教とその社会的背景の研究」 守山聖真 国書刊行会
「邪教立川流の研究」 水原尭榮 富山房書店
「性の宗教」 笹山良彦 第一書店
「邪教・立川流」 真鍋俊照 筑摩書店(ちくま文庫版もあり)
「真言立川流」 藤巻一保 学研

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