2011年4月8日金曜日

ミトラ教

ミトラ教

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牡牛を屠るミトラス
ミトラス教またはミスラス教(-きょう,英語:Mithraism)は、古代ローマで繁栄した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教である。
普通、ミトラス教は古代のインドイランに共通するミトラ神(ミスラ)の信仰であったものが、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に入った後に形を変え、主にローマ帝国治下で紀元前1世紀より5世紀にかけて発展、大きな勢力を持つにいたったと考えられている。しかし、その起源や実体については不明な部分が多い。
近代になってフランツ・キュモンen)が初めてミトラス教に関する総合的な研究を行い、ミトラス教の小アジア起源説を唱えたが、現在ではキュモンの学説は支持されていない。

目次

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概要 [編集]

ミトラス教は牡牛を屠るミトラス神を信仰する密儀宗教である。信者は下級層で、一部の例外を除けば主に男性で構成された。信者組織は7つの位階を持ち(大烏花嫁兵士獅子ペルシア人太陽の使者)、入信には試練をともなう入信式があった。
ミトラス教はプルタルコスの「ポンペイウス伝」によって紀元前60年ごろにキリキア海賊の宗教として存在したことが知られているが[1]、ローマ帝国で確認されるミトラス教遺跡はイランでは全く確認されていないため、2世紀頃までの発展史はほとんど明らかではない。いずれにせよ、ミトラス教は2世紀頃にローマ帝国内に現在知られているのとほぼ同じ姿で現れると、キリスト教の迫害によって滅びるまでの約300年間、その宗教形態をほとんど変化させることなく帝国の広範囲で信仰された。
キュモン以降、ミトラス教はインド・イランに起源するミトラス神や、7位階の1つペルシア人をはじめとするイラン的特徴や、初期に下級兵士を中心に信仰されたという軍事的性格か ら、ミトラス教は古代イランのミスラ信仰に起源を持つと考えられてきた。しかし両者の間には宗教形態の点で大きな相違点があり、古代イランにおけるミスラ はイランを守護する民族の神であり、公的、国家的な神だったが、ローマ帝国におけるミトラス教は下級層を中心とした神秘的、秘儀的な密儀宗教の神であり、 公的であるどころか信者以外には信仰の全容が全く秘密にされた宗教であったし、民族的性格を脱した世界的な救済宗教としての素質を備えていた。こうした宗 教としての根本的なちがいは研究者にとって悩みの種であり、現在ではキュモンのようにイランのミスラ信仰から直接的に発展したと捉えることは困難とされて いる。しかしミトラス教のイラン起源を全く否定することもできず、ミトラス教の黎明期に教祖ないし宗教改革者が存在したことを想定する研究者もいる[2]
他方、エルネスト・ルナンの有名な1節によって、ミトラス教がキリスト教の有力なライバルであり、ローマ帝国の国教の地位を争ったほどの大宗教だったとする過度な評価は現在も根強い。さらにキリスト教との類似からキリスト教の諸特徴がミトラス教に由来するという説が魅力的に論じられることも多い。他宗教との比較という点では、日本では以前から大乗仏教弥勒信仰がインド・イランのミスラ信仰に由来することが論じられてきたが、宗教形態の違いから、むしろ近年ではミトラス教と比較されることがある[3]

ミトラス教史 [編集]

インド・イランのミスラ信仰 [編集]

この神の名は、ラテン語では一般にミトラス Mithras と表記されるが、ギリシア語資料にはミスラ Μιθρα (Mithra)という表記もある[4]
西アジアにおけるミスラについての最古の記述はミタンニ碑文で、ミトラMitraである。「ミスラ」という語形はアヴェスター語形で、パフラヴィー語ではミフル(Mihr)、ソグド語ではミル(Mīr)、バクトリア語ミイロ(Miiro)という。西アジアではつねにアヴェスター語形で呼ばれたわけではない。中世はミフルとミトラという呼び方が一般的だった。
元々、ミトラス神は、アーリア人の古い神話に登場する光明の神であり、イランの『アヴェスター』においても、インドの『リグ・ヴェーダ』においても登場する有力な神であった。ゾロアスター教でも、ミトラは中世ペルシア語でミフルヤズドと呼ばれ、重要な役割を持ち、多数の神々のなかでも特殊な位置付けであった。
ミスラはインド神話におけるアーディティヤ神群の一柱ミトラと起源を同じくし、古くは古代アーリアにおいて信仰されていた契約・約束の神だった[5]。中世以降は友愛の神、太陽の神という性格を強めた。民間での信仰は盛んで、ミスラを主神とする教団も有り、またミトラを一神教化するという動きもあった。
古代ペルシアのゾロアスター教においては中級神ヤザタの一柱とされ、英雄神、太陽神とされる。のちゾロアスター教がペルシア帝国の国教となってからは、ミスラをはじめとする神々ではなく、アフラ・マズダーに対してのみ崇拝をすべきとしたため、周辺のアーリア人の宗教に比べ、ミスラ神は低く位置づけられた。ミタンニ人もミトラを崇敬した[6]

キリキアからローマへ [編集]

ミトラス教に関する最古の記録はプルタルコスの「ポンペイウス伝」である。これによるとポンペイウスの時代(紀元前106年~前48年)、ミトラス教はキリキア海賊たちが信仰した密儀宗教の1つにすぎなかった[1]
プルタルコスと同時代の詩人スタティウスen)の91年頃の作品である『テーバイス』(1・719~720)にはミトラス教について言及している箇所があるが、その内容は後世のミトラス神の聖牛供儀と同一のものである。この点からミトラス神の聖牛供儀の神話がこの時代にすでに成立していたことがわかる。しかし79年にヴェスヴィオス火山の噴火で滅びたポンペイからはミトラス教の遺跡が発見されていないことから、この時点ではミトラス教はまだイタリアに伝わっていなかったという説がある[7]。いずれにせよ、150年頃、ローマ帝国内に姿を現したミトラス教はまたたく間に全土へ広がり、やがてローマ皇帝たちも個人的ではあったが関心を示すようになった。

発展と衰退 [編集]

コンモドゥス帝(在位180~192年)はローマ皇帝で初めてミトラス教に儀式に参加した皇帝とされ、コンモドゥス帝はオスティアの皇帝領の一部を寄進した[8]。この時代、ミトラス教の考古学資料は増大し、中には属州でコンモドゥス帝のためにミトラスに奉納した旨を伝える碑文も発見されている。ルキウス・セプティミウス・セウェルス帝(在位193~211年)の宮廷にはミトラス教に信者がいた。
しかし250年ごろからディオクレティアヌス帝の統治が始まる284年ごろまでの間はミトラス教遺跡は激減する。これはダキアゲルマン民族が侵入して帝国の北方地域が荒廃したためである[9]ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(在位270~275年)は、ローマ帝国内の諸宗教を太陽神ソル・インヴィクトスのもとに統一しようとしたが、これはミトラス神ではない。太陽神殿跡からはミトラス教の碑文が発見されているが、それはコンモドゥス帝時代のものである[10]。その後、ディオクレティアヌス帝(在位284~305年)は他の共同統治者とともにローマ帝国の庇護者である不敗太陽神ミトラス(Dio Soli invicto Mithrae Fautor)に祭壇を築いた。
しかしこの時代が過ぎるとミトラス教は衰退に向かった。ディオクレティアヌスやガレリウスはキリスト教を迫害したが、続く大帝コンスタンティヌス1世(在位306~337年)はキリスト教を公認し(313年)、325年のニカイア公会議を主導、死に際してはキリスト教の洗礼を 受けた。この時代以降、ミトラス神殿がキリスト教徒によって襲撃されるようになり、実際にオスティアの神殿の1つやローマのサンタ・プリスカ教会の地下か ら発見された大神殿などには破壊の跡がみられる。各地で碑文も減少し、キリスト教を迫害して古代の神々の復権を図った背教者ユリアヌス(在位331~363)の治下で増加するが、わずかな期間にすぎず[11]、5世紀頃には消滅してしまった。

ミトラス教とキリスト教 [編集]

初期のキリスト教とミトラス教との関係性のアイデアは、キリスト教の「交わりの儀」を「悪魔的に模倣する」ミトラス教徒を非難した2世紀のキリスト教著述家ユスティヌスの一時の感想を元にしている[12]。これをもとにエルネスト・ルナンは1882年に、二つのライバル宗教の生き生きとした描写をした[13]。「もしキリスト教の成長がいくつかの致命的な病によって遅らせられていたなら、世界はミトラス教化されていただろう」。エドウィン・M・ヤマウチはルナンの著作について「刊行されたのは150年近く前のこと、典拠たる価値はは持ち得ない。彼(ルナン)はミトラス教についてほんの僅かしか知らない…」とコメントしている[14]

ミトラスと処女からの誕生 [編集]

ミトラス教学者ではないジョセフ・キャンベルはミトラスの誕生をイエスのそれのような処女からの誕生であると記述した[15]。彼はその主張に、古代の出典を与えていない。どの古代の原典においてもミトラスが処女から生まれたとは考えられていない。むしろ、洞窟の岩から自然に目覚めている[16]Mithraic Studies では、ミトラスは堅固な岩の中から大人の姿で生まれてきたと述べられている。「プリュギアの帽子を被り、岩の塊から生じた。今までのところではまだ彼の剥き出しの胴は見えない。めいめいの手で彼は灯された松明を高く掲げる。風変わりな細部として、ペトラ・ゲネトリクス(母なる岩)から彼の周りに赤い炎が吹き出る」[17]。デイヴィッド・ウランジーはこれが鍾乳洞で生まれたとするペルセウス神話から着想された信仰であると推測する[18]

ミトラスと12月25日 [編集]

12月25日には、ナタリス・インウィクティと呼ばれる祭典があった。この祭典は、ソル・ インウィクトゥス(不敗の太陽神)の誕生を祭るものである。このソル・インウィクトゥスとミトラスの関係をミトラス教徒がどう考えていたかは、当時の碑文 から明白である。碑文には「ソル・インウィクトゥス・ミトラス」と記されており、ミトラス教徒にとってはミトラスがソル・インウィクトゥスであった。
現在、12月25日はイエス・キリストの誕生日としてキリスト教の祭日となっている。しかし実際にはイエス・キリストがいつ生まれたかは定かではなく、12月25日クリスマスとして祝うのは後世に後付けされた習慣である。『聖書』にもイエス・キリストが生まれた日付は記述されていない。
ローマ帝国時代において、ミトラス教では冬至を大々的に祝う習慣があった。これは、太陽神ミトラスが冬至に「生まれ変わる」という信仰による(短くなり続けていた昼の時間が冬至を境に長くなっていくことから)。
この習慣をキリスト教が吸収し、イエス・キリストの誕生祭を冬至に祝うようになったとされる。

ミトラスと救済 [編集]

ローマの サンタ・プリスカ教会にあるミトラス神殿遺跡の壁に書かれた文章、et nos servasti . . . sanguine fuso (そしてあなたは我らを救う……流された血によって)の意味ははっきりしていない。だけれども、他のいかなる出典でもミトラスの救済について言及はしてお らず、おそらくミトラスによって殺された雄牛をさしている。
ロバート・ターカンによると[19]、ミトラスの救済は個々の魂における他の世界的な運命にはほとんど関与しなかったが、邪悪な力に相対する、善き創造の宇宙的な闘争への人間の参加についてのゾロアスター教の様式には存在していた[20]

ミトラスと十字のしるし [編集]

テルトゥリアヌスはミトラスの信奉者が彼らの額に様々な方法で印をつけていたと書いている。ここにはそれが十字か、烙印か、刺青か、他の不変な印であるのかというほのめかしは一切無い[21]

中世キリスト教美術の中のミトラス教モチーフ [編集]

18世紀末から幾人かの著述家たちが、中世キリスト教美術の諸要素にミトラス教のモチーフの反映があると示唆した[22]。 その中にはフランツ・キュモンもいた。だけれども彼はいくつかの要素の組み合わせやそれらがいろんな方法でキリスト教美術と結びつくかとは関係なく各々のモチーフを研究した[23]。 キュモンは異教に対する教会の大勝の後、芸術家たちが元来ミトラスから得られた蓄積されたイメージを『聖書』の馴染みの無い新しい物語にあてはめたのだと 言った。「仕事場の締め付け」は初期キリスト教徒の美術が異教美術に甚だしく負っていたことと「服装と姿勢での少数の変更が異教の背景をキリスト教美術に 変化させた」ことを意味した[24]
以来、一連の学者たちが中世ロマネスク美術にあるミトラス教モチーフの有意な類似性について議論している[25]フェルマースレンは同様な影響の唯一つ確かな例は、炎のような馬に引かれた戦車に乗り、天に昇っていくエリヤのイメージであると述べた[26]。 デマンは孤立した要素を比較するのは無益であり、組み合わせが研究されるべきだと述べた。また彼はイメージの類似は、思想の影響であるか技法上の伝統であ るかを我々に教えることは無いと指摘した。それから彼はミトラス教モチーフに類似する中世のモチーフのリストを与えたが、それらが主観的であることを理由 に結論を引き出すことを拒否した[27]

弥勒信仰および マイトレーヤ信仰との関係 [編集]

仏教には、弥勒菩薩が存在し、「弥勒信仰」がある。この弥勒は、サンスクリット語ではマイトレーヤというが、マイトレーヤとは、ミスラの 別名またはミスラから転用された神名である。すなわち「マイトレーヤ」は、ミスラ神の名と語源を同じくする。「mitra/miθra」は本来「契約」と いうほどの意味だが、後には転じて契約によって結ばれた親密な関係にある「盟友」をも意味するようになった。マイトレーヤはその派生形容詞/名詞で「友好 的な、友情に厚い、慈悲深い(者)」の意味となる。また、弥勒の字である阿逸多 Ajitaはミトラの母であるアーディティヤが変化したものと言われている。ミスラはクシャーナ朝ではバクトリア語形のミイロ(Miiro)と呼ばれ、この語形が弥勒の語源になったと考えられ[28]クシャーナ朝での太陽神ミイロは、のちの未来仏弥勒の形成に影響を及ぼす[29]。ミイロの神格は太陽神であるということ以外不明であるが、定方晟マニ教の影響なども考慮して、救世主的側面があったのではないかと推測している。
このような比較神話学および比較言語学の系統分析によって、ミトラ教の神話体系が仏教では菩薩として受け入れられ、マイトレーヤを軸とした独特の終末論的な「弥勒信仰」が形成されたといわれる[30]。マイトレーヤ信仰または弥勒信仰はのち中国など東アジアに伝わった。
なお仏教の弥勒信仰以外にもインドではミトラ信仰・マイトレーヤ信仰があった。



ミトラ教天使七星教会

ミトラ教と神智学

ヘブライの館 2 

自己紹介より
●ちなみに、「ヘブライ」という言葉には「対岸に立って向こう岸を眺める」という意味があります。

またユダヤの聖典『タルムード』には、人間は常に向こう岸から物事を眺めなければならない、という教訓が書かれています。つまり、少し距離を置いて物事を見ることが大切だというわけです。面白いことにイスラエルではユダヤ人が3人集まると、4つの意見が生まれると言われています。

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