2011年4月8日金曜日

密教:立川流 夜の宗教 立川流 1-7

ウィキペディアより 「立川流


立川流(たちかわりゅう)とは、鎌倉時代仁寛によって開かれ、南北朝時代文観によって大成されたとされる密教の一派である。
真言立川流(しんごんたちかわりゅう)ともいう。

目次

[非表示]

教義 [編集]

経典は般若波羅蜜多理趣品、所謂理趣経(りしゅきょう)で、荼枳尼天(だきにてん)を拝する。本来仏教では性交は不邪淫戒で誡められているが、密教では瑜伽(たんか)タントラの理趣経や多くの無上瑜伽タントラによって肯定されており、性交を通じて即身成仏に至ろうとする教義解釈がある。ただし、日本には瑜伽タントラまでは多く伝わっているが、具体的に性交を論じた無上瑜伽タントラは部分的にしか伝わっていないため、立川流を除く多くの密教では性交には否定的である。
特に髑髏本尊は大頭、小頭、月輪行などの種類があり、この建立に使われる髑髏は王や親などの貴人の髑髏、縫合線の全く無い髑髏、千頂といって1000人の髑髏の上部を集めたもの、法界髏という儀式を行って選ばれた髑髏を用いなければならない。こうして選ばれた髑髏の表面に性交の際の和合水(精液と愛液の混ざった液)を幾千回も塗り[1]、それを糊として金箔や銀箔を貼り、さらに髑髏の内部に呪符を入れ、曼荼羅を書き、肉付けし、山海の珍味を供える。しかもその行の間絶え間なく本尊の前で性交し、真言を唱えていなければならない。こうして約7年間もの歳月を費やして作られた髑髏本尊はその位階に応じて3種類の験力を現すという。下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して三千世界の全ての真理を語るという。
しかし、この淫靡な儀式の奥には別の真実が隠れている。理趣経は本来男性と女性の陰陽があって初めて物事が成ると説いている。この儀式に7年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が悟りを得ることがその目的だからであり、そうなればもはや髑髏本尊など必要なくなってしまうのである。
立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである。この点において、「女性は穢れた存在であり、仏にはなれない」と説いていた既存の宗派と異なる。
立川流の金剛杵は特殊な金剛杵であり、片方が三鈷杵、もう片方が二鈷杵になっている。この金剛杵を割五鈷杵(わりごこしょ)という。
なお、立川流の教義自体は、陰陽の二道により真言密教の教理を発展させたもので、男女交合の境地を即身成仏の境地と見なし、男女交合の姿を曼荼羅と して図現したものであるが、髑髏を本尊とするなどの儀式に関しては、あくまでも俗説であって、立川流の秘儀や作法などが述べられた文献は殆ど焚書で無く なっており、立川流の件で現存する文献はすべて弾圧した側のものであるから、それが真実かどうかはわからないとされている。
男女交合の境地、すなわちオーガズムが即身成仏の境地であるとされるに至ったのにはいくつかの理由がある。密教では、人間はそもそも汚れたものではないという、自性清浄本覚思想)という考えがあり、理趣経にも「妙適清浄句是菩薩位(びょうてきせいせいくしぼさい)」、「欲箭清浄句是菩薩位(よくせんせいせいくしぼさい)」、「適悦清浄句是菩薩位(てきえいせいせいくしぼさい)」などとあり、そこに性行為を含め人間の営みはすべて本来は清浄なものであると十七清浄句が説かれていることに起因すると考えられている。
また立川流が東密(真言密教)の流れを汲む邪宗とされるのに対し、台密天台宗の密教)でも男女の性交を以って成仏とする玄旨帰命壇という一派があったことから、この二つはよく対比して論じられる事が多い。

歴史 [編集]

立川流は鎌倉時代に密教僧である仁寛によって開かれ、南北朝時代に後醍醐天皇の護持僧となった文観によって大成されたといわれる。

創始 [編集]

1113年(永久元年)、後三条天皇の第3皇子・輔仁親王に護持僧として仕えていた仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を図って失敗し(永久の変)、11月に伊豆の大仁へ流された(ただし、これは冤罪の犠牲ともいわれる。後述)。名を蓮念と改め、この地で真言の教えを説いていた仁寛は、武蔵国立川(たちかわ)出身の陰陽師・見蓮(兼蓮とも書く)と出会った。ほかに観蓮、寂乗、観照という3名の僧と出会った仁寛は、彼らに醍醐三宝院流の奥義を伝授した。
1114年(永久2年)3月に仁寛が城山(じょうやま)から投身自殺を遂げたのちは、見蓮らが陰陽道と真言密教の教義を混合して立川流を確立し、布教したとされている。鎌倉には、京都から放逐された天王寺真慶らによって伝えられた。
その後も立川流は浸透を続けた。『受法用心集』によると、真言密教の僧のうち、9割が立川流の信徒となっていたといわれる。

中興 [編集]

鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。文観は後醍醐天皇に奥義を伝授し、自身は醍醐寺三宝院の権僧正となった。天皇が帰依したという事実は、文観にとって大きな後ろ盾ができたということであった。
1322年(元亨2年)、文観は後醍醐天皇の中宮・禧子が懐妊したのに際して、安産祈願の祈祷を行った。しかしこの祈祷は、政権を掌握している執権の北条高時を呪い殺すことをも意図していたため、高時の怒りを買った文観は鹿児島の硫黄島へ配流された。
1331年(元弘元年)に元弘の変が勃発した。倒幕計画に失敗して捕らえられた後醍醐天皇は隠岐島へ流されるが、悪党や有力な御家人の相次ぐ挙兵によって、1333年(元弘3年)に倒幕が実現した。これに伴い帰京を果たした文観は、東寺の一長者[2]にまで上り詰めた。
これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、1335年(建武2年)に大規模な弾圧を加えた。立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。一長者の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られた。その後も文観は、吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して陰で動いた。

その後 [編集]

後南朝が衰退した後、立川流も徐々に衰退し、江戸時代の弾圧によって断絶。現在には伝わっていないというのが定説である。真言正統派においては、この邪説に対する反証として、戒律を厳しくするなどの試みが行われた。
しかしその独特の教義は仏教の各派に多くの影響を残し、後の日本の密教思想の形成の大きな遠因となっている。

疑問 [編集]

上に記述した歴史については、多くの学者が疑義を呈している。
  • 仁寛を立川流の開祖とする記述は、『伝灯広録』などの文献にみられる。しかし『伝灯広録』は、その記述に誤りや矛盾が数多く指摘されており、信頼性が低い。
  • 仁寛が伊豆に流されてから死去するまでの期間は5ヶ月であった。流刑に遭うまでは、仁寛には独自理論の確立に関する目立った動きがみられないこと から、この5ヶ月間で教義を練り上げ、しかも伝授したと考える必要があるが、あまりに短すぎるため不自然である。配流される前の、醍醐三宝院に在った頃か ら研究をしていたと考えても、見蓮に奥義を伝授するのに要した期間が短いことには変わりない。
  • 千手丸事件で罰せられたのが仁寛、及び実行犯とされる千手丸の2名のみであったのは、そもそも天皇暗殺計画がなかったからではないか。即ち、謀反は輔仁親王や支持勢力の村上源氏(仁寛も一族の1人であった)の影響力を削ぐために白河上皇に よって捏造されたものであり、彼らを一掃せずとも所期の目的を果たせさえすればよしとしたため、この2名のみを「生贄」としたのではないか(その際、仁寛 の邪悪性を際立たせる材料として立川流を利用し、彼を開祖に仕立て上げたとの見方もある。なお、文観についても同様に、悪人の印象を植え付けるために立川 流と関連付けられたとの説がある)。
  • 立川流が邪教視されるようになったのは、高野山の教学を大成した宥快が批判し、立川流の典籍などを高野山の御影堂の前に集めて焚書したことに始まるといわれる。宥快は高野山で行われていた念仏も追放したが、立川流も高野山教学の権威を高めるための犠牲になったとされる。また、立川流が南朝側と結びついていたのに対し、宥快などは北朝側と結びついていたため宗教的な権力だけでなく、政治的な権力の巻き添えになったとも伝えられる。
以上のような疑問のほか、仁寛や文観の言動と立川流の教義との間に差異を見出し、彼らと立川流との関係を疑問視する向きもある。
しかしながら、ほとんどの記録が失われた現在では、多くの疑問点が未だ真相不明のまま残されているのが実情である。現在残っている資料として『受法用心集』『宝鏡抄』といった文献があるが、これらは立川流を敵視する立場から書かれたものである。


夜の宗教真言立川流より

夜の宗教・真言立川流 1








『肉筆絵巻』より。宮川春水/画

●真言立川流とは何か

 「密教のセックス入門」に、真言立川流の秘法がある。
一般に真言立川流と言うと、“邪教”として扱われる場合が多い。それは「セックス説法」が題材になっていると勘違いされている為である。更に、大きな誤解を招いたのは、男女が和合し、その垂れ流した愛液を髑髏
(どくろ)に塗り付け、これを“本尊”として礼拝する忌わしい黒魔術と思われているからだ。それは極めて“猟奇的である”と解釈され、長い間、誤解を招いて来た。
また、この誤解が、今日にでも邪宗化され、その誤解の甚
(はなは)だしきは、“セックス”と“猟奇”を同じように扱い、サドマゾ的な“猟奇”の対象として考えられてきたことだ。

しかし、真言立川流を研究していくと、これは決して猟奇などではなく、ズバリ言えることは、この宗派が
「夜の宗教」であると言うことだ。
つまり、セックスとは、人間の根本の根源であり、人間が総
(すべ)て、女性の“股”から発祥したと言うことである。生命は“女の子宮”から生まれたのである。したがって、真言立川流は女性器を崇拝し、これを高く尊ぶのである。

また、男の要求に応じる女性が居たから、人類が発展して来たとも言える。この点は非常に
「老荘思想」と共通点を持つところである。老荘思想の根本も、女性に求める。
老荘思想の根本は「天地不二
(てんち‐ふじ)」にある。老荘思想には、天地の根本は“善”とか“悪”とか、また“愛”とか“仁”とかという徳目は、一切関係ないと言い切っている。

何故ならば、“愛がないから子供は生まれないという事はない”と教えている。愛の心があろうが、なかろうが、生命は生まれて来る。逆に、「仁」などという人間のちっぽけな徳力で、子供が生まれて来るものでない事も教えている。これが
「天地不二」である。
天地は、仁愛で生命を造り出しているのではない。“生まれ出る因縁”が生命を造り出している。

また老死は、天地大自然は「鞴
(ふいご)」のようなもので、何の価値や基準もない空洞のようなところから、何でも生み出すとしているのである。そして道祖神(どうそ‐じん)に代表されるように、女性こそ“生命の源”としているのだ。つまり、「女性の性器」を指している。此処から生命が始まるとしている。

また一方、真言立川流も「性」は“人間の原点”であると論破する。
真言立川流は数ある宗教の中で、神聖なる「性」を題材とし、これに真剣に取り組んで来た歴史を持っている。真に、その真髄に迫った宗教である。
宗教とは、いつも新鮮であり、不滅でなければならない、と真言立川流は教える。
そこで、昔から行われて来た
「真言立川流の秘法」を明かにし、現代人に関わる「本当の性」の意味を明らかにしなければならない必要があると考える次第だ。

地球上には、大まかに分けて、人間が男と女しか居ない。つまりこの地球上では、この世が現世の地獄と化しても、男と女の協力なしでは、人間は生きて行けないようになっている。
この事から、真言立川流は、男女から発生する陰陽独自のエネルギーを主体として、双方が肉体に還元し、それを循環させて、人間に秘められた魔力を開発すると言うものである。
つまり、「肉体修法」も極めれば、肉体以上のエネルギーが生み出されるのである。そのエネルギーの凄
(すご)さを教えたものが「開経偈(かいきょう‐の‐げ)」である。

開 経 偈

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇

我今見聞得受持 願解如来真実義

「開経偈」には、仏教の真理を詩の形で述べたもので、これを「偈頌(げじゅ)」という。これによると、「真言立川流の教えは魔術的であるが、実に凄(すご)い。これが“淫ら”と称されようが、この書により、男女の秘密が明らかになった以上、この修法を学ばなければならない」と記されている。
それは奇
(く)しくも生命の根源を知ることであった。



●飲食と男女の享楽の本当の意味

 「飲食」と「男女の享楽」は、昔から大欲とされた。確かに、人間の持つ食欲と性欲は大欲である。
また生きながらに、本能によって躰
(からだ)や感情が動かされるという煩悩(ぼんのう)に支配される。これは人間ばかりではなく、あらゆる生物にも当て嵌(はま)まることである。これは動物ばかりでなく、植物にも当て嵌(は)まろう。
では、生き物は何故、飲食を求め、男女や、雄・雌の異性
を求めるのか。
男女の性欲の正体は何処に潜むのか。
 生理学者や生物学者に言わせれば、食欲は生命を繋(つな)ぐ為であり、性欲は子孫を残す為だと答える。
しかし、人間は食欲の為や性欲の為に、日常生活を営んでいるのであろうか。単に、生殖を目的にして、男女の営みが繰り返されるのであろうか。

一方、暴飲暴食をすれば、幾ら食欲であったとしても大喰
(ぐ)いに趨(はし)れば、躰(からだ)を損ねてしまう筈(はず)である。
食欲は一方で、生命維持の為と云いながら、特に現代では、生命を損ねるような暴飲暴食が繰り返され、一日3食のみならず、一日4食、あるいは朝・昼・晩 の他に、間食や夜食が日常化され、一日5食や一日6食と云った、暴飲暴食の飲み食いが繰り返されている。現代の食傷の翳
(かげ)りは、こうした生活習慣にも顕われ始めている。それはまた現代人のセックスにも反映され、一方で畸形(きけい)に満ちた、“歪んだ性”が蔓延(まんえん)している。

この為に、過食傾向にある現代人は、精液が薄くなり、受胎し難い荒淫
(こういん)の限りをつくしているのである。何と愚かなことであろうか。
「食」を誤れば、則
(すなわ)ち、「性」も誤ることになる。更に、穀物菜食者と肉常食者の性能力の違いも異なる事を知らねばならない。また、特記すべきは、ジャンクフードやインスタント食品の常食者も、多くは“歪んだ性”の持ち主だ。こうした食品の常食者は、心(精神)までもが歪み、そして性までもが畸形するのである。精神病を病んでいる者も少なくない。統合失調症患者の多くにも、こうしたジャンクフードやインスタント食品の常食者は多い。それに輪を掛けて、アルコールとタバコが、更にねじれた状態を作る。

さて、玄米雑穀・貝類・小魚介食をして「正食」を実践している壮年者が、排泄する精液は濃いく、量も多く、数年を経ても、中々減量することはないが、肉 常食者の精液は、最初は濃いが、年齢と共に薄くなり、量も徐々に減少し、一定の年数を超えると、衰退方向に向かう。単にこうした肉体的現象だけではなく、 気力も萎
(な)え、不能状態になり易い。
肉常食者は青年期の初期に至って、発情は盛んかも知れないが、壮年期や晩年期に入ると、早く衰えてしまって、女性に対しては空元気
(から‐げんき)で終る事が多い。また、こうした事が恐妻家を作る原因になる。恐妻家の多くは、肉常食者が多い。

一方、穀菜食をする正食を実践している人は、有機的な発情心が盛んと云うわけではなく、また自制心も働く為、一生の間、ほぼ一定していて、特に、早期に限ってばかりが盛んと云うわけではない。生涯を通じて平均化しているのである。
これは食材に含まれる“カリ塩”と“ナトロン塩”の関係であり、食品には塩類の
「夫婦アルカリ論」の定理が働いている。バランスがとれている証拠だ。

食材に含まれる動物性蛋白質のようなものばかりを食すると、ナトロン塩が多く含まれている為、年から年中発情しなければならず、逆に、カリ塩が多くナト ロン塩が少ない食餌を実践して居る人は、性交回数はそれほど多くないが、衰えるのが遅いだけでなく、一生の間、晩年になっても元気であり、性力があり、夫 婦生活を実行し続ける玄気
(げんき)をもっている。

人間は本来、生殖が目的ならば、食欲も性欲も
「ほどほど」の中庸(ちゅうよう)にするべきであろう。また、享楽も、溺れ過ぎては、この虜(とりこ)になってしまい、愛憎を深くしてしまうので「ほどほど」に愼(つつし)むべきであろう。

また、本当の生殖ならば、女性の排卵周期の一番良い時期を狙って、一発で良い子供が生まれるように、正常妊娠するような男女の営みが行われる筈
(はず)である。
ところが、発情心が旺盛で、性交を毎日行っている夫婦や、結婚もしない未婚の男女が婚前交渉として、性欲に煽
(あお)られ、これを頻繁(ひんぱん)に行っている今日の現実を、どう解釈すればよいのだろうか。好んで寿命を縮め、死期を早めているとしか言いようがない。

こう考えていくと、飲食や男女における性欲は、生命の維持や生殖と云うことよりも、もっと大きな目的はあるのではなかろうか。
つまり、長生きをして、健康体としての長寿を維持し、一方、男女の中にあっては、お互いが睦
(むつ)まじく、享楽を共に味わうという考え方である。つまり“陰陽の気”の交換が行われるのである。これが「玄気」に繋がっているのである。

人間が、なぜ暴飲暴食をするのか。あるいは荒淫
(こういん)に陥るのか。それは双方に、快楽に耽(ふ)る甘味があるからだ。
人生の至る所には享楽と言うものが横たわり、これが落し穴を作っている。享楽に節度がなくなれば、「ほどほど」を超える、理性や知性の欠如が起る。
しかし、凡夫
(ぼんぷ)には「享楽」の意味が、いま一つ解り辛い。

例えば、美食に浸りきりなるのは、味わえる愉
(たの)しみにおいて、美味しい物を貪(むさぼ)るのは一種の「快感」である。
また、快感を為
(な)すものに、一時の性欲の捌け口としての、慰安的な狭義のセックスがある。
これ等の愉しみは、さほど訓練や修行を積む必要がなく、誰でもこの快感に浸る事が出来る。ごく自然に、誰にでも、よく分かる愉
(たの)しみである。人間の行動の中で、原始的かつ基本的な享楽であり、この限りに於ては、殆ど誰から教わらなくても、容易に理解できることである。一々、傍(そば)にいて誰かが指導をするというものではない。

一方、仏教では、人生は「苦海」と称しながらも、多くの大衆は、苦海に未練を持ち、いつまでも苦海の中に沈みたいと考える。そこに一種の甘味が横たわっているからだ。
男女の関係や恋愛ごとは、常に人生の題材になり、その題材に未練を引き摺
(ず)るのが、人間の実体である。
したがって、人間の潜在意識の中には、甘味を味わい、美味や快楽について、享楽に浸ることこそ、生命や生殖より大事であると考える、享楽主義までが存在する。人間は自然的に言って、結局、人間が動物であると言う建前をとっている。

人間を論理的に評すると、“政治的動物”とか“社会的動物”とか“道具を使う動物”などといっているが、結局、動物の規定から逸脱していない。
人間は自然的存在としては、まさに動物の一種に過ぎない。他の動物と「種」を異にしているに過ぎないのである。そこに様々な愛欲や快楽が渦巻いている。怒りや憎しみや争いを繰り広げながら、また一方で喜びや楽しみや幸福感が縺
(もつ)れ合っているのである。その幸福感の中には、男女が楽しみにするセックスも含まれるだろう。快感は、一種の幸福感を与えるからだ。
そこで幸福感の一種を彩る恋愛遊戯、あるいは現実逃避から起る快楽的な追求こそ、人生そのものであると云って退
(の)ける知識人までいる。しかし、こんなところに、人生の目的が転がっているのではない。

人間の本質は、本来、根源的な生命に根ざすものでなければならない。
この意味に於て、真言立川流も『般若理趣経
(はんにゃ‐りしゅ‐きょう)』と同じ思想を持つ。両者は、人間生命の露(あらわ)な発現形態を取りながら、ありの儘(まま)に人間の姿を捉え、人間は如何にして生きていくべきか、また、如何にして死すべきかを力強く教えている。
ここに弘法大師空海
(こうほう‐たいし‐くうかい)が云った、「顕蜜(げんみつ)は人にあり」という言葉に回帰されるのである。
弘法大師・空海画像
 空海は、「父子があい親しくしているのに、なぜ親しくしているのを知らないのだろうか。夫婦は愛し あっているのに、なぜ愛しあっていることを知らないのか。日月が大空に輝いているのに、何故それを見ようとしないのか。知らないのでは、まるで人間の眼 は、犬の眼か、羊の眼か」と嘆き、千年も昔の教典であった『般若理趣経』を中国から持って来られた。

そして『般若理趣経』に向かう限り、まず身を浄
(きよ)め、曜宿(ようしゅく)の法に隨(したが)って、一番良い日を定め、師に遵(したが)って読み方を習い覚え、このお経から人生を学び取れとしたのである。

食べる事と、性交する事は、まさに他人から、どうこうされるものでなく、自力本願でなければこれを味わう事は出来ない。したがってセックスは、大らかに楽しむべきなのである。
仏教は長い間、死への準備として「諦めの精神論」に固執していたが、死を説くだけが仏教ではない。

単なる精神論だけでは、現代人の本当の悩みを解決することができないのである。苦悩の淵
(ふち)から人間を救えるのは、この時ばかりは、肉体信仰に徹し、自力本願のみの信仰が、本来の人間の原点に立ち返らせるのである。
「性」こそ人間の原点であり、人間生活の「聖」なる根本となる。これを否定しては、人間は、人間としての人生を全うする事は出来ない。

人間の「性」は、決して猟奇の対象ではない。それどころか、人間の「性」は、人間生活の「聖」なる根本ではないか。
この根本があるからこそ、人類は地上で発展する生物になれたのではなかったか。

歴史を振り返れば、人間の歴史は、いい女を抱きたい、世界中の美女を吾
(わ)がものにしたい、という男の夢願望が世界を開き、これに応じる女性本能が、人類の発展の原点となったのではなかったか。
真言立川流では、「性」は人類の原点であると説く。真言立川流は、神聖なる「性」をテーマに、不滅なる新鮮さでそれぞれの時代人に問いかけているのである。男女から派生し合うエネルギーを主体にして、男女は生きる為に協力し合うべきだと。


古代蓮華。真言立川流では、射精の刹那を「竜華会(りゅうげ‐え)」という。
竜華会とは、弥勒菩薩
(みろく‐ぼさつ)がこの世に顕われ、竜華樹の下で悟りを開き、何億かの人間を救う仏説を云う。実際に男は一回の性交で、何億かの精子を放つ。この場合の「竜」とは男根の象徴である。池に咲く蓮の花は、女根を顕わす。

また「竜体は大池より水を吸い上げ、かえりて大雨を降らす」とは、女根に充つる愛水に悦楽の刺戟を受けた竜が、その辺礼として、大雨の如く、愛らしき蓮の花に精液を降らすのである。したがって「蓮華」とは、古来より女根の象徴であったのである。


●修法場としての床の中のインテリア

 男女二根が交会(こうえ)を重ねる床の中は、当然そこには、修法場としての意味を持たなければならない。つまり、床(ステージ)を「道場」に見立てる思想がなくてはならない。
二根交会は真言道清浄句法
(しんごんどう‐せいじょうく‐ほう)であり、深行(しんぎょう)にして、「神妙なる法」の意味がなくてはならない。

真言立川流の『自心開悟蔵私記
(じしん‐かいごぞう‐しき)』には、二根交会に際して男女の真呼吸が説かれ、また、修法場としての床には、本尊たる阿字(あじ)を道場内に掲げ、男女の修行者は「阿(あ)の字」と同じ高さに顔が来るようにしなければならないと説かれている。そしてその距離は一尺六寸(約48cm)と定められており、これは「菩提心論(ぼだい‐しんろん)」によるものである。

菩提心論の中には、「八葉白蓮一肘間
(びゃくよう‐れんげ‐いっちゅう‐の‐かん)」という句があり、肘の長さの距離で、八葉白蓮と対面せよと教えている。つまり、人間の肘の長さを一尺六寸と見立て、人間の本能が持つ、心の煩悩や仏心のシンボルを八葉白蓮としているのである。

また、本尊の阿字
(あじ)とは、八葉の蓮華(はす)に乗った梵字の事で、万物は此処から生まれて来ると言う、女根を讃えたものである。
八葉の蓮華と阿字(イラスト/曽川 彩)

拡大表示
 では、男女和合の床では、どうするか。
八葉白蓮または赤蓮
(あかはす)の本尊の代わりに、鏡または照明器具を配すれは良いであろう。
鏡は煩悩を燃焼させ、昇華させるものである。照明器具は、古代インドでは「スラタ・プラディパ
【註】性交用灯りの意)」と称され、男女二根交会の修法に、インテリアとして一役買ったのである。



●密教房中術の交会四十八手の前半「手解き八手」

仏教で行う印契(いんげい)と性交の関係は、人間の指に「五大」の密意が含まれている。人間の印をつくる両手は、右手の金剛界と、左手の胎蔵界を組み合わせる事により派生するのであるから、そこに男女の営みを観ずるのは当然の事である。

(たと)えば、二本の指を遣う「安慰(あんい)の印」あるいは「随心(ずいしん)の印」とかは、性交時に男女が動かす「二本の指」を顕わしたものである。つまり、「印契」である。
印契は古くは、印章の意に始まり、両手の指を様々に組み合せて、宗教的理念を象徴的に表現することである。ヒンドゥー教や密教とも共通する印である。この印契は神像や仏像にも見られる。そして両手の組み合わせにより、「印契を結ぶ」あるいは「印相
(いんぞう)」などとも言う。

これはわが人体を「小宇宙」とし、天の「大宇宙」と結ぶことを意味するのだ。
真言立川流は、印契を用いて、様々な体位の変化を“男女二根”で具現することを言う。
また「四十八印契」については、「日月尊像図印集」によるもので、各々の体位は、各印契が示す尊像と一体のなり、悟りに入る境地を顕わし、心して行うべきものである。

『大びるしゃな成仏神変加持経
(じょうぶつ‐しんべん‐かじ‐きょう)』の「秘密八印品(ひみつ‐はちいん‐ぼん)」にも、「自身本尊の形に住して堅固不動なり。本尊を知り終って、本尊の如く住すれば悉地(しっち)を得る」と示されている。
(ちな)みに、「悉地」とは、密教の秘法によって得られる悟りを顕わす。ここでは「手解(てほど)き八手」を紹介する。

1.浄法界之印
(前つけ)
両手を金剛拳にして向かい合わせ、人指し指だけを立たせて両方の指の先端を合わせる印契。これは交会を前にして陽根を手にし、陰根を撫で上げ、共に性器を浄化する意味で“露払い”の体位をとる。
2.吉祥法螺之印
 (向こう突き)
両手の十指を合わせ、両人指し指を曲げて拇指の背に当てる。交会に際し、相手に十分に快感を与え、「死ぬ死ぬ」とか、「イクイク」と喚かせて、「向う突き」の姿勢をとる。
3.大慧刀之印
 (本間どり)
人指し指と拇指の先端をつける。この印契は一気に突き入れる体位であり、四十八手では「本間どり」という。この場合、男上位で力を込めた方が、陰陽の精気が安定する。
4.吉祥願蓮華之印
(小股はさみ)
十指を開いて合掌し、拇指と小 指を立てる。次に残りの三組の人指し指、中指、薬指を汲み合わせる。この印契は男女二根交会を顕わし、お互に強く抱き締め、これにより、かなり深く入る し、締め具合も良い。双方の満足感を高める働きがあり、男女の愛情の純度を増す効果がある。種字は「あ」である。
5.金剛大慧之印
(鴨の入れ首)
両手を外縛し、中指を立てて人指し指を曲げる。更に拇指と小指を立てる。これは邪魔物を排除する印契であり、行為の最中に邪を寄せ付けない。
また四十八手の名前からして、「鴨
(かも)の入れ首」とあるのは、鴨が首を入れるがごとく、女性の片脚を男が持ち上げ、ピッタリ重なりあう事を重視している。種字は「うん」である。
6.如来頂摩訶之印
(かつぎ上げ)
内縛し、中指を立てて先端を合 わせる。次に人指し指を側面に立て、拇指を揃える。これは快感を顕わす印契であり、夢の中のエクスタシーを表現するものである。体位は夢中になる事に主眼 が置かれている為、「あつぎ上げ」「きぬかつぎ」等の名前があり、男の勢いを象徴している。
7.満願之印
(松からみ)
右手は拳を握って眉間に当てる。次に左手は掌を重ね合わせ、下腹に当てる。この印契は「男の射精」と、女性が陽精を受け入れる事を満願する形を顕わしている。「松からみ」は男上位で、女性は脚を開いて受け入れる体勢をとる。
8.びぐてい之大印
(善光寺)
拳を握り、人指し指を立てる。この印契は射精しても、直ぐに挿入を解かず、女根内から陰の精気が急速に消滅しないように、男はこの間待たねばならない。
一方女性は、男根から陽の精気が急速に減退しないように静かに膣を絞める。これは男女双方の心遣いによって完成される。「善光寺」の異名を持つのは、女性が股を固く閉じる事の意味である。
 二根交会は、そもそも性交そのものが「小周天法(しょう‐しゅうてんほう)」の呼吸法である。
男も女も、肉体内を巡る陰陽のエネルギを充分に吸収し、精力強化を図る事を目的とする。
また精力強化は、「穀菜食」を正食にする事により得られる。

人間が穀菜食をする理由は、人間の持つ歯型ばかりでない。周天法を完成させる為にも、穀菜食は人間に適当な食べ物であり、また、穀菜食こそ、呼吸法の誤りを招かなくて済む。
人間には発情心の一定作用がある。しかし、正食を忘れ、動蛋白や乳製品を主体とする白米雑食に趨
(はし)った場合、定期的に一生を通じて、一定に保たれるはずの発情が、不定期的に、あるいは毎日のように訪れて来る。これが異常性欲である。

これは食肉や乳製品の過剰摂取が原因である。
元々、人間が穀菜食型の動物である。また、人間が食肉を常食とするには、ライオンや虎などの肉食獣と違って、動物性蛋白質を還元する酵素が殆ど無く、肉食獣と同じように、これを食べれば、腸内の異常醗酵
(はっこう)を招いてしまう。

肉常食者が早熟で短命なのは、この為である。それは穀菜食の実践者と違い、内臓機能が早く老化するからである。その元凶は、腸内の異常醗酵である。
肉の分解によって生じた強酸類は、まず、血液を汚染し、血液そのものを酸毒化する。血液が酸毒化に陥れば、代謝機能を根底から狂わせる。この結果、性的な興奮が不定期的に起り、荒淫
(こういん)に趨るのである。
また、この性的興奮は、単に不定期な興奮を齎
(もたら)し、人間に異常な発情心を起させるばかりでなく、深刻な排泄障害まで引き起こすのである。肉常食者が、前立腺肥大症になり易いのはこの為である。

こうした事から、生涯を通じて定期的な発情と、一定量の射精を均等に行う為には、根本の食から改めなければならない。
肉常食者は、早い時期から性に目覚め、早期喪失という形で、少年少女は童貞や処女を失う。十代前半には性交渉を持っていると云う男女は少なくない。した がって、若い頃は性交が非常に盛んで、発情心も旺盛なのであるが、中年に差し掛かった頃から、欲情や性力が減退し、初老に差し掛かった頃には、萎
(な)えて不完全勃起の状態に陥る。

また精神的には、中年男女が倦怠期に陥り、性交後は早々と背を向け、高鼾
(たかいびき)で眠りこけるという状態も珍しくない。更に、情事後は、お互に言葉すらかけたくないと言う状態に陷る。疲れて“だるさ”を感じるのである。また、狎(な)れ合いで、あきあきする精神状態に陥るのである。
したがって改めて、男女の愛情とは何かと云う事を考え直してみなければならない。






夜の宗教・真言立川流 2

水月観音半跏像


●わが性器を拝め

 自分の肉体は、誰の物でもない。自分自身の物である。しかし、この肉体は自分 に与えられているものであって、大事に使うと言うことが要求される。粗末に使ってはならない。それは借り物だからである。借りた物は大事に使い、死んでい く時には返さなければならない。死ぬその日まで、大事に使い、古くなったとは言え、最後は肉体を返さなければならない。古くなっても「お返し」して死んで いくのである。
肉体は自分の物でありながら、実は借り物なのである。借り物であるから、最後は返すことになる。

しかし、自分の肉体が「借り物である」と言うことを知らない人が多い。その為に、つい乱暴に使い、あるいは酷使して、故障だらけにしてしまう。酷い人に なると、肉体を病気まみれにしたり、再起不能の後遺症を背負わせる人までいる。肉体の管理者は、自分自身であるのだから、酷使や不摂生は結局自分に跳ね返 り難儀をするのだから、これを粗末に使ってはならない。

まず、自分の肉体とは如何なるものか、点検する必要がある。
特に、生命の根源である性器は、その点検に必要があろう。男女を問わず、性器については何も知らない人が多い。性器は躰
(からだ)の中心をなしながらも、貌(かお)と異なり、簡単に鏡に写し出せると言う物ではない。鏡で視(み)ても、写し出せない箇所があり、自分からは見えない箇所がある。分かっているようで、分からないのが“自分自身の性器”なのである。

真言立川流は、自分の尊い性器を眺
(なが)めることから始めよと教える。性器をじっくりと眺めることで、新しい人生が見えてくると教える。そしてよく眺めた上で、これを拝めと言うのである。わが性器を拝むことにより、活気溢れた人生が生まれると言うのだ。

ちなみに「性器」とは、生殖器並びに肛門や会陰部
(えいん‐ぶ)を指し、この部分が健康でなければならない。健康な「性器」を拝むことにより、運が開けて来るのである。もし、性器が健全かつ健康でない場合は、食生活の改善は必要であろう。
特に、肛門の病気を患
(わず)っている人は、食生活の改善により肛門は健康状態に戻すことができる。
要は、肉の常食を止め、玄米穀物菜食・小魚介
【註】菜食主義ではないので注意。必ず近海の小魚介の動蛋白を入れることがポイント)の「正食法」を徹底しすれば、痔瘻(じろう)などの一切の病気は改善されるものであり、肛門が穢(きた)ければ、幾ら真言立川流の修法に励んでも、殆ど効果はないものになってしまう。

まず、「日々新た」という気持ちは、健全かつ健康な性器を拝
(おが)むことにより始まり、新たな自己が誕生すると言うのである。それもそのはずだ。
性器は自己を生み出したところであり、自分の人生は性器より始まってと言っても過言ではないからである。

そして、性器は「眺めること事態が修養効果」をもっていると言う。
例えば、男の場合、細身の人は上から眺めるだけで、自分の性器を検
(み)る事は出来よう。しかし、腹の突き出た男は、腹が邪魔してお辞儀をしなければ見えない。女性の場合は、まず、見えない。鏡でしか見えないのである。
真言立川流は、この点を指摘する。まず、自己を客観的に冷静に眺
(なが)めることのできるのは、身分の性器を拝む為に、苦労する人ほど、修養効果を持ち、特に腹の突き出た男は、この時に自分が肥満体型である事に気付かされ、日々の食生活の反省が、この時に思い当たる機械を齎(もたら)すと言う。

これは女性の場合も同じで、肥満体ほど、幾ら鏡を使っても、見る場合は苦労する。自分の性器が容易に拝めないようでは、その人生も高が知れているのであ る。したがって、自分の体型の醜美に気付き、改める事を教えるのが、性器であり、性器を拝むことがこの切っ掛けを作ると言うのである。

ともあれ、自分の性器は、自分に貸し与えられた、今は「自分のもの」である。自分で覗くのであるから、覗いたとしても、犯罪ではない。びくびくする必要 はない。じっくり観察して、まず、「性器の不思議」に気付くことである。そこには神秘的な力を秘め、これ自体に迫力がある事に気付くであろう。



●現代の「わが性器」を拝まない恐るべき現象

 昨今の小中学生などの子供が、性に対して異常な関心を示し、小学校高学年から既に異性関係を持っている実情は、総(すべ)て動蛋白摂取の元凶であり、特に、肉の常食は人間の性腺を異常刺激して早熟に趨(はし)らせているようだ。そして、老化を早めているという今日の社会の風潮から考えても、動蛋白摂取過剰が危険な状態を作り出しているのは明白な事実である。
つまり、早い時期から異性関係を持ち、それが常習化すれば、それだけ老化が早まるということである。
その証拠に、昨今の青少年男女の面
(つら)構えは、動蛋白摂取過剰の為に、荒淫(こういん)に充(み)ちている。相手に少しでも隙(すき)があればと、それに乗じようと虎視眈々(こし‐たんたん)としている。

昨今の少年少女は、一見可愛らしくあるけれど、その本性は男も女も、度が過ぎるほどの情欲に耽ることで、脳を煩悩
(ぼんのう)に灼(や)いている側面がありありと現れている。彼等が極めて動物的であることも、肉食の弊害であると思われる。男女が愛するとは、「男女が抱き合って寝ること」と、この年齢層は勘違いしているようだ。

そして、こうした青少年男女に共通していることは、日本人には、これまで余り匂わなかった体臭がきつくなり、肉食主体の食生活をしている欧米人並みに、非常に臭いことである。
また、肉を常食にする少年は、包皮と亀頭の間に溜まる垢様の物質の、所謂
(いわゆる)恥垢(ちこう)が多くなり、特に、包茎に多く見られる、陰茎ガンの原因となる。また少女でも、陰核や尿道の周りに垢様の物質が溜まる。肉食を好む少年少女は、既に、身も心も早熟と老化が始まっているのである。

少年少女時代に、小中学校時代の早い時期に異性関係を持った男女は、大人になっての、二十代後半から、その多くが、男性であれば陰茎ガンや睾丸ガン、あるいは前立腺肥大症という病気に苦しめられ、また女性の場合は、子宮筋腫や子宮ガン
【註】子宮に生ずる癌腫で、子宮頸癌で主として扁平上皮癌と、子宮体癌で主として腺癌があり、前者の頻度が高く、その原因は男の恥垢とされる)などの病気で苦しめられている。何(いず)れの病気も、早期発見であれば、一応外科手術などで治るが、しかし、術後は失うものも多く、実に惨(みじ)めである。肉体的には、男は陰茎や睾丸を失ったり、女は子宮を失う者までいる。

では、何故こうしたことが起こるのか。
それは自分の性器を拝まないからである。汚らしいものを扱うように、これを扱ってはならないのである。また、真言立川流では、「男はよく洗え」と教え、「女は洗うな」と教える。

「男がよく洗う」ためには亀頭部が包茎であっては洗えるはずもなく、結局、濃厚な恥垢が残留する。女の場合の「洗うな」は膣内を洗うなということであ り、腔は交接器と、分娩道とを兼ねる拡張性に富む粘膜性を持ち、かつ筋肉性の管で、上方は子宮に連なり、下方は外陰部に開口している哺乳類特有の雌性外部 生殖器である。
そして膣内の粘膜性に富む箇所を洗うと、粘膜特有の、所謂
(いわゆる)愛液製造の能力が失われ、更にはこれ自体を洗うと、洗い流してしまう為に、ビデ(bidet)などの女性用局部洗浄器で洗うと「不感症」になるのである。

この為に男は“男根をよく洗え”と教え、女は“女根を洗うな”と教える。
つまり女性は、膣内を洗ってはならないのである。洗えば不感症になり、二根交会の際に、女性は髪の毛の先まで痺
(しび)れる快感が得られなくなるのである。

真言立川流のいう「わが性器を拝め」とは、自分の躰を大事にして、愛せということであり、まず自分の躰が好きにならなければならないのである。自分の躰が好きになるとは、まず、今の自分の鏡を姿見などで映してみることである。その自分の躰を凝視して、中庸
(ちゅうよう)を保っているか、これを検討する必要があろう。
男は、いわゆる
「ボテ腹」「肥満体」の“メタボ”では、持続力もないであろうし、女性の場合も「腰にくびれがない」ような醜い体型では性欲を失せてしまうであろう。また、そうした躰は醜いだけであり、この醜さは、そのまま男女二根に反映されるものである。
精子と卵子の生命の出(い)づるところこそ、礼讃に値する男女二根なのである。
 「わが性器を拝め」とは、自分の肉体の点検を促しているのである。
自分の躰は自分が、天から貸し与えられた躰であり、この肉体は天からの借り物である。借り物や何
(いず)れ死ぬ時に返さねばならない。また、借り物である以上大事に使わなければならない。そして躰の中心は、生命を生み出す男女二根である。

男女二根は肉体の中心にある。したがって、この、自分の尊い性器を眺
(なが)め、更に拝むことで、今までに見えなかった新しい人生が見えて来るのである。活気に溢れた人生とは、日々新たに「自己を誕生させていく」ことであり、性器の拝むとは、自分自身の今の姿を点検することなのである。



●春画と言う日本特有の文化

 性器を礼讃する日本では「春画」という、日本特有の文化がある。そして、日本を除く、世界の文化圏の国の中で、日本の春画の持つ「性愛学」の格調高いまでの文化資産は、未(いま)だ何処の国の古文献や性愛学の書にも登場していない。それだけ、日本の春画と言う文化遺産は、世界に誇るべきものなのだ。

さて、「性技四十八手」といえば、直ぐに思い当たる作者が菱川師宣
(ひしかわ‐もろのぶ)である。
菱川師宣は、江戸前期の浮世絵師である。万治
(1658~1661)から寛文(1661~1673)の頃江戸に出て、肉筆画や版画、特に版本の挿絵を次々に制作し、浮世絵の新領域を開拓した絵師である。
そして師宣の作風は、版画『吉原の躰』や肉筆画『見返り美人図』に代表されるように、男女の性の営みに対して、異常な執念を燃やして男女二根を見事に描き切っていることである。

しかし、日本の春画に描かれた男女の性交図は、一見淫
(みだ)らなモチーフにもかかわらず、悪趣味にならない卑猥(ひわい)さを持たず、また、一方に於いて、細かい失敗を恐れない、伸びやかで、ふくよかな線の描写が何とも魅力的に描かれている。こうした深い精神性は、日本独特のものであろう。

更に、登場する男女の表情は、いずれも福々しく、嫌らしさや、貧素な病的さを持たない。その表情からは、思わず後光が差し込んで来るような神々
(こうごう)しさを持ち、交会自体に人間の生きる喜びが描き出されている。つまり、「セックス」とは、生きる喜びなのだ。
ここに人間としての共感を得る事が出来、同時にそこには、「性」への価値観が存在している。そして、「淫ら」までもを精神と融和させているのである。


菊川英山『江戸之紫』第四図

拡大表示
柳川重信『五ツ雁金』第八図

拡大表示
 春画には、まず男女の睦言(むつみ‐ごと)の原点があり、情感豊かな、睦(むつ)まじくする親しさが感じられる。
そして日本の春画には、外国の春画には見ることができない、猥雑
(わいざつ)な性の描写だからこそ、その部分を強調して、余計に美しく見せてやろうとする絵師の凄まじい気魄(きはく)と気概が感じられる。

また、“性技四十八手”と言われる性描写は、その姿勢からして、春画に描き出される一つの機軸となって、清らかで、愛情豊かな性物語が描き出されていると言う点である。

下に示した春画は、左側が十九世紀の中国の春画であり、また右側が江戸文化年間に著した『富久寿楚宇』の、昭和初期の複製と言われる『浪千鳥』である。表情の豊かさは、断然十九世紀の中国の春画より、『浪千鳥』の方が優れている。


十九世紀の中国の春画(売春宿の図)

『浪千鳥』第五図

拡大表示
真言立川流は春画までを、修法の一部として取り入れ、女性の艶姿を一種の極楽境として観じるのである。
男女には、宇宙からの“霊力ホルモン”と云うべき、それぞれに陰陽の特効薬が授けられていると観る。これを真言立川流では、「天中天の宝蓮華
(ほうれんげ)」と呼んでいる。これは宇宙生起の根元として、秘かに祈念し、「花の匂い」や「色の美しさ」を堪能(たんのう)するのである。

男女の睦の中には、それぞれの性質から発生させる陰と陽の色気が放出されている。また、この色気が「床上手のホルモン」となるのである。
性生活の快美にするのは、単に性器の摩擦だけではない。色気が漂っていなければならない。この色気こそ、「床上手のホルモン」なのである。そしてこのホルモンは、春画によって齎
(もたら)されるとしたのは、日本の文化だったのである。

春画の構図は、単に「卑猥
(ひわい)なるもの」の表現ではない。そこには「美しい色気」がある。性生活の快美にするのは、男女の色気と肉体を楽しませるテクニックである。極楽を味わってこそ、道場としての修行の場のベットは、砂漠の中のオアシスとなり得る。
スポーツ選手でも芸術家でも、その技に長けた人の動きは美しい。更にこれ等が齎
(もたら)す形はと云えば、流れるように美しく、無駄がない事が分かる。

性技に長けたものも同じで、床上手にあっては、美しい色気と艶技が備わっている。こうした美しさを即座に表現したのが春画の作者であった。男女二根交会 は、単に性器の摩擦に終始するのではなく、霊力ホルモンを各々に取り入れると言う主目的があるから、またその動きも、形も、美しいものになるのである。



●金亀

 密教語に「金亀(こんき)」なる語がある。
この金亀と言う語は『秘蔵記抄』に出て来る言葉である。『秘蔵記抄』によれば、「金亀とは、金輪
こんりん/三輪・四輪の一つで、仏教の宇宙観で、須弥山世界を支えているとされる最上層)なり。即、地輪じりん/五輪の一つ)とは是(これ)なり」とある。

これは水輪にあって須弥山
(しゅみせん)を背中に乗せている「霊亀(れいき)」のことである。
須弥山
(梵語Sumeruの音写。蘇迷盧ともいい、妙高山あるいは妙光山と訳す)とは、仏教宇宙観が説く、世界の中心に聳(そび)える巨大な山の事である。

須弥山を象徴する巨大な山は、仏教の世界説で、世界の中心に聳
(そび)え立つという高山のことで、海中にあり、高さは八万由旬(はちまん‐ゆじゆん)という。頂上は帝釈天(たいしやく‐てん)が住むト利天(とうり‐てん)で、中腹には四天王が住むという。周囲は九山八海に囲まれ、その海中に閻浮提えんぶだい/南贍部洲)などの四洲がある。そして日月星辰(ひつきせいしん)は、須弥山の周囲を回転しているという。
因みに、「辰」は日・月・星の意味である。

また、閻浮提は、仏教の世界説で、須弥山
(しゆみせん)の南方にあるとされる島(洲)のことである。あるいは人間の住む世界を指す。
この世界は四洲の一つで、閻浮樹
(えんぶ‐じゅ)の茂る島を意味する。閻浮樹はインドに多い蒲桃(ふともも)のことを指すが、仏典中では閻浮提の北にある巨大樹をもいう。
諸仏に会い、仏法を聞くことができるのは、この洲
(しま)のみとされる。もとインドのイメージによって構想されたが、後に、人間世界全体を意味し、また現世の称となったとされている。

そして須弥山を乗せている霊亀は、大海の中にある金輪の上にあるとされる、神秘的な存在である。
真言立川流では、「金亀は理
(ことわり)の赤水、大海は智(ち)の白水」とされる。これは女性生理を「金亀」、男性生理を「大海」とする。

一般に「亀」といえば、男性自身の頭の先の部分と思うし、大海と言えば女体の中を連想するであろう。しかし、真言立川流では、この性宇宙観を、精液は大海のものであり、その中に首を伸ばす子宮が金亀だとしている。
また受胎し、発育させる大自然の生殖力が、金亀の背に乗る須弥山となるのである。

須弥山には周囲を巡る日月があり、それが精子と卵子である。山頂に棲
(す)むとされる帝釈天(たいしゃくてん)は、仏法の宇宙原則を守る守護神のエネルギーである。帝釈天は梵天(ぼん‐てん)とともに仏法を護る神である。また十二天の一つで、東方の守護神でもある。須弥山頂のトウ利天(とうり‐てん)の主で、喜見城(きけん‐じょう)に棲むとされている。これは神々の王としてのインド神話のインドラ神が仏教に取り入れられたものである。


後醍醐天皇像

 喜見城は帝釈天の居城である。その居城は須弥山の頂上にあり、その四門に四大園があり、諸天人が遊楽するという。
インドラ神は電光の神格化であり、『瑜祗経
(ゆがし‐きょう)』には、「須弥山は金輪際こんりんざい/金輪の奥深い所を顕わし、地層の最下底の所あるいは無限に深いという意)より出生するが故に、金亀に収め、その意を得るべし」とある。

男の精液ならびに、女性の愛液は「真実の棲
(す)む所」とされる。これを「重如月殿(じゅうにょがつ‐でん)」と呼ぶのである。

男女が睦み合い、互いになれ親しみ、その証
(あかし)としてセックスに及ぶ。こうした行為を軽蔑し、馬鹿にし、賤(いや)しむ言を発する道徳家は少なくない。また、眉を顰(ひそ)める者も少なくない。
しかし、人間の性と言うものを宇宙の真理として捕らえる事こそ、真理の追求であり、この事実を再度見直す必要があると思う。
 だがしかし、これもまた連日連夜の修法である為、この実践哲学に於ては躰が持つまいと言う懸念がある。そ こで、真言立川流では、精を消費しないように、次の修法を説いているのである。これこそが『不動秘伝』と言われるもので、かつては後醍醐天皇もこれを会得 したと言われる。



●不動秘伝

極意中の極意が『不動秘伝』である。
『不動秘伝』とは、密教房中術の奥儀であり、還精法
(かんせい‐ほう)を指す。その還精法の極意は、「 接して洩らさず」である。二根交会に於いて、性交を周天の呼吸として行い、神仏と一体化する修法が『還精法不動秘伝』である。

これは女体内にある気を、意識によって引っ張り込む秘法である。元気がよく、気立ての良い女性は、その女体内に多くの気を蓄えている。昔から、「気立て が良い」と表する意味は、単にその女性の心の持ち方を示すのではなく、持って生まれた性格であり、強いて云えば“過去世
(かこぜ)からの因縁”である。
「気立てのいい人」「気立てのいい娘」などと称するのは、その女性の裡側
(うちがわ)に“良質の陽気”が存在するからだ。

一方、「気立てが悪い」というのは、良質の気が存在せず、その本質は陰気であるから、「気立てが悪い」と称するのである。こうした「気立ての悪い」女は、得てして、過去世の悪因縁を引き摺
(ず)っており、気が安定してないので、精神的には不安定であり、躁鬱(そううつ)の波が激しいのである。ある時は陽之気を過剰に放出して躁(そう)状態になり、また、ある時は陰之気を過剰に放出して暗く沈み、欝(うつ)状態に身を委(ゆだ)ねる。これは気立ての“質”に問題があるのである。

そして“質”に問題がある場合、多くの場合は食べ物だろう。動蛋白が過剰になり、肉を常食しているものは、気立てが悪く、体毛が多く、体臭も鼻につくほど臭い。肌も汚くなり、これにアルコールとタバコが加われば、黒ずん
で来る。これは大腸の腸壁に“酸毒物質”が滞留しているからだ。
大腸は、食物残滓からの水分の吸収し、粘液の分泌および糞便の形成が主機能だが、これが壊れると、心の性質まで病変する。便秘は、その最たるものであろう。
また大腸は、小腸に続き肛門に終る消化器官であり、その中間点に位置するものだが、此処に異常があると、肛門まで壊れてしまう。その最たるものが痔疾患である。肛門が汚くては、“質”の良さは派生されまい。

夫婦和合に於ての男女の仲は、こうした「気立ての悪い」女に遭遇した時、男の運気は一度に崩壊する。それから先の人生も、順調に事が運ばなくなり、苦行の日々の連続となる。これもまた因縁と考えれば、その男は因縁解消の為に、気立ての悪い女性を娶
(めと)り、それにより、少しずつ因縁解消をしているともいえる。

だが、巡り逢いは、最初の見識眼が必要であり、男女とも、自分の“勘”を大事にし、容姿や顔だけにこだわった選択をすると、後にとんでもないババ
(ジョーカー)を掴まされる事になる。そして、こうした場合、悪循環に悪循環が繰り返されるのは、女性から陽気を授かる事ができないことになる。

本来は、元気のいい女性から、互いの粘膜を通じて陽気を貰う事であるが、一見、気立てが良いように見えて、陽気過剰の精力絶倫の躁状態の女性である場 合、これも正体は陰気なので、深入りしたり、寝取った場合、今度は男の方が陽気過剰で頭をやられ、精神異常を起こす場合がある。

したがって、日々、気を掴む訓練をして精進に励む必要があるが、この訓練の充分でない人は、まず自分自身の中で陽気を廻す、「周天法」を学ぶべきである。
一方、病弱な人や感受性の強い人は、霊的影響を受け易く、この場合の影響は、一方的に悪影響であり、正流と交流が出来ず、邪気の交流が主体になってしま う。その為、精神が不安定になるのである。病弱な人や感受性の強過ぎる人は、体力がなく、また体質も良くないので、邪気を防ぐ霊的フィルターが貧弱であ る。その為に、もろに邪気や外邪の侵入を許してしまう。

また一方、霊的フィルターが充分に発達していて、逆に感受性の劣る人は、気の不足が殆ど無い。こうした人は正しく周天法を学び、陽気を発生される訓練を 行えば、長い時間を要する事なく周天法を会得してしまう。まず、こうして自己の中に、陽気を発生される訓練を行う事である。

陽気の訓練をする際の注意点は、まず、冷静な気持ちで行う事である。この気持ちを失うと、とんでもない錯覚に陥るからである。
特に、暗示性の強い人は、錯覚に陥り易く、間違いも発生するので要注意である。
因みに、暗示性の強い人は、新興宗教などの勧誘に安易に掛かり易い人で、心の中に疑いが半分あり、また、半分は信じる気持ちがあって、不安定な状態になっている時に、心の隙
(すき)をつかれて邪気が侵入して来るので要注意である。

したがって、「あるが儘
(まま)」に一切を受け入れると言う、「今」の現実を迷わず受け入れる事だ。
「あるが儘」を受け入れる事ができなければ、どうしても、疑う事と、信じる事で中途半端になり、此処から迷いが生ずるのである。
だから「今」何も感じなければ、無理に感じる必要はないのである。また、一度感じたからと言って、有頂天になってはいけない。一度できたからと言って、それで有頂天に舞い上がり、結局、一度きりという場合も少なくないので、繰り返し修練する事が必要である。

また、注意を要する状態は、気の強弱は一定でなく不安定な場合は、この修法は止めるべきである。その際、肉体的な意識や、季節の温度差が激しく、寒暖の極みにある時も止めるべきである。
特に、人間の平均値として、その前後に位置する人は、男女とも、無理をしてはいけない。平均的人間は性交をし過ぎると、躰を傷
(いた)めるので要注意が必要であり、慎む必要があり、こうした場合に登場するのが「 接して洩らさず」なのである。

性交した直後、躰がだるくなる、眠気に襲われる等は、まず、その人が「平均的人間」なのだ。更に、耳鳴りが起ったり、膝がガクガクする等は、普段から疲 れていて過労状態にあり、体質の悪化による体調不調が挙げられる。こうした人は、体力ばかりでなく、体質を改善して疲れない躰を養う事が急務である。

疲れない躰とは、体力とは無関係に、体質の良さをいうのであって、これは玄米穀物菜食・小魚介を徹底し、粗食・少食を実践する事で得られる。
一般に、「疲れたら休めばいい」などという。しかし、これは若いうちだけだ。30歳を過ぎ、中年に差し掛かると、そうはいかなくなり、あまり頑張ってもいられなくなる。

そして精液を無駄に浪費すれば、それ自体で健康を害し、“精液消耗ノイローゼ”になるのである。このノイローゼのはしりが、眠気が指す人である。性交直後に眠気
(ねむけ)が指すと言うのなら未(ま)だしも、普段から眠い状態にある人は要注意であり、こういう人は急激に「精禄(せいろく)」の容量が失われているのである。

精禄は、その人の一生涯に必要とする生殖器の「精」の容量であるが、性交に及びこれを洩らし続け、浪費し続けて居る人は、「眠気がさす」という状態で精 禄許容量に危険信号が示されているので、まず、体質の改善が急務である。これを怠ったり、無視し続けると、後で、とんでもない災いに遭遇することになる。

この兆候は、まず「眠気がさす」という状態から起り、次に「この頃、精液を放ち過ぎているのでは」という精液消耗ノイローゼに陥って行く。そしてこの状態は、既に性ホルモンの調子が狂い、洩らし続ける事により、全身から気力が抜け出しているのである。
こうした状態にあって、仕事が重なり、仕事が過酷である場合、「生きていてもつまらない」という鬱病
(うつ)に入って行くのである。

人間が精神障害を起こし、精神分裂病等の病気に罹
(かか)るメカニズムは、その実態は憑衣(ひょうい)であるが、過剰なセックスも憑衣され易いので要注意が必要である。既に、「好色である」ということ事態が、憑衣体質であり、色情因縁に搦(から)めとられるので、特に男の場合、「射精コントロール」が出来ない人は、霊体質の場合、憑衣され易いので充分に気を付けると同時に、「接して洩(もら)さず」の、射精コントロールの訓練をする必要がある。

特に「平均的人間」で、霊体質にあり、体力も人並み程度という人は「接して洩
(もら)さず」の修法に励み、憑衣とセックスが密接な関係にある事を知らねばならない。
男も平均的な人間、女も平均的な人間というケースで、何
(いず)れが霊体質で憑衣(ひょうい)を受け易い因縁を持って生まれている人は、憑衣とセックスの因果関係を知らない場合、男女何れかの霊体質者は憑衣されて精神を害する懼(おそ)れがある。これが「大凶時(おおまか‐どき)」に性交をする怕(こわ)さだ。

(ちなみ)に“大凶時”とは、「黄昏時(たそがれ‐どき)」のことであり、この時間に交わってはならない。何故ならば、人間は発情期の犬や猫と違うからだ。大凶時の交会は、非常に危険なのだ。
この時刻は、夜になりきれない時刻であり、方うす暗くなって「誰たそ、彼は」と、人の顔の見分け難くなった時分である。この時刻こそ、「魔」が入り込む時刻なのだ。

もし、この時刻に交会をして、出来た子供は片輪か、凶悪犯罪者のような者が出来ると、古来より言われている。これを信じる、信じないは別だが、昔から「よくない」と言われていることは、一概に迷信と決めつけず、避けた方が賢明であろう。
性交とは「夜の秘め事」であるからだ。夜にならないうちから、これに耽ることは禁物である。

次に、男女の何れかが平均的人間より好色で、激しい性に趨
(はし)る場合、弱い方は必ず精神を病む。その為に、男は射精コントロールの「如意法輪(にょい‐ほうりん)」が必要となり、これを防止し、吾(わ)が身を防禦(ぼうぎょ)すると同時に、この修法の熟達に向けて精進しなければならない。






夜の宗教・真言立川流 3

極楽蓮華の世界。『日本霊異記』によれば、極楽とは「庶(ねが)はくは、地を掃はらひて共に西方の極楽に生れ……」とあり、ここは心地よい空間である事を記してる。

●不能はあり得ない

 性不能にインポテンツ(Impotenz)という、陰茎の勃起不全または不能の為、男子が性交不能に陥った状態がある。この原因は、性医学上は脳脊髄障害にあり、また睾丸機能不全、あるいは精神的かつ心理的原因によるものといわれている。

しかし、真言立川流は、本来不能はあり得ないと説くのである。
多くの場合不能状態に陥るのは、性器の清浄化と歪
(ゆが)んだ性知識から起こったものが起因していて、これを機能修正すればよいとされている。つまり性機能を矯正(きょうせい)し、それを図る修行が真言立川流の修法なのである。

更に、性器は始終清潔にしておかねばならないところであり、修法に入る前には肉体の部分的四肢のみならず、特に性器に対しては念入りに清潔に保っておく必要がある。何しろ、性器こそ、「神さま」「仏さま」なのである。

また、性器は肛門に至るまで清潔にする必要があり、痔疾は治しておくべきで、肛門およびその近接部分の疾病は矯正しておくべきだろう。肛門も一種の「性器」なのだ。
痔の畸形
(きけい)は二根交会の際に呼吸法などに傷害を起こすので、痔瘻・痔核・肛門裂傷・脱肛などの痔疾は早急に治すべきであろう。性器が穢(きたな)いと、仏罰そのものを絵にしたようなものである。

さて、早漏とかインポという男を苦しめる病気がある。これは病気と言うより、一種の一時的な現象かも知れない。しかし、この状態を放置すると、「恐妻家病」という病気になるので要注意である。
一般に恐妻家と言う男の種族は、早漏であるかインポである。こうした現象に陥っている時、必ず妻は鬼女の面のような姿に変貌
(へんぼう)しよう。その象徴が“般若面”だ。
般若面には、女の妬
(ねた)みや苦しみ、怒りをそのまま男に投げ付けて来る、実(げ)に恐ろしき形相(ぎょうそう)である。

では、なぜ妻女が鬼面になるのか。
それは不能に由来する。また、恐妻家の男どもは、普段から日常において性器を礼拝しないところにこの元凶がこびり着いている。無神論者の男どもは、総じて“不能者”か“恐妻家”が多い。





 真言立川流の修法を実践するに当たり、上記は不動尊像隠行の大切な呪文である。交会の前に、繰り返し唱えると宜しかろう。そうずれば、インポは解消されよう、
まず、「おん・きゃら・かんまん」と覚えて、これが自然に言えるようにしておくことだ。

男女二根の自他の性器への尊厳は厳粛かつ神聖なもので、これを決して軽視してはならない。
諌言に曰
(いわ)く、「健全なる精神は健全なる身体に宿る(mens sana in corpore sano)」ことを想起して、これを敬いたいものである。
そして更に追言するならば、「健全なる性器は、健全なる精神に宿る」となるのであるから、本来インポはあり得ないのである。

いざ本番となって緊張し、緊張の余り半勃起であったり、逆に浮ついてしまって風船が破裂するがごとく、本番前にパチンと割れるようではお話にならず、 “内気”が飛び出さないように修練しておくべきである。真言立川流で言う、性器礼拝は不能に陥る予防薬なのである。



●性交時の憑衣のメカニズム

 性交は賤(いや)しむべきもの、蔑(さげす)むべきものではないが、紛(まぎ)れもなく、これは「淫(みだ)らなもの」であり、その為に、男女の二根交会には、性交中の周囲に様々な霊的意識体が派生する。邪は「淫らなもの」に群(むら)がるのである。

それは、将来の父母となるべき親を探す為に寄って来る中有
(ちゅうう)であるかも知れないし、あるいは邪気(じゃき)や外邪(がいじゃ)の類であるかも知れない。淫らなものには、こうした霊的意識体が集まって来るので、この事を充分に認識し、精禄(せいろく)を無駄に浪費させてはならない。

特に、男の射精コントロールがまずく、早漏気味に洩らした場合、憑衣され易い状態になる。
二根交会は、本来は女性の胎内から陽気を貰うのが目的であるから、女性の絶頂を待たずに早漏で洩らすと言う状態に至った場合、射精と共に霊的意識体が即座に憑衣する。

霊的体質で、体力がなく、病気がちで、神経質で、「こだわり」が激しく、ナイーブな人は、精神集中の不安定さに加えて、こうした精神的病弱な身が先行し ている為、射精コントロールがうまくいかない。そして、「接して洩らした」時、同時に、一瞬にして憑衣されるのである。射精後、“だらっとした”状態にな り、元気が失われたと感じる時は、憑衣された状態である。

中には、自分が霊的体質である事を有り難がり、その事を得意満面になって話す人がいるが、霊的体質者は男の場合、その多くは早漏か、もしくは遅漏である。精神の集中が不安定であり、しかも霊的防禦のフィルターが貧弱な為、常に憑衣状態にあるからだ。
霊体質のチャンネルは正流ばかりに向けて開かれているのではなく、邪霊や邪気に向けても開かれているのである。その為に、こうした物が一度憑衣して取り憑
(つ)くと、長期に亙(わた)り精神を病む事になる。
たかが性交であると、軽視してはならない。

男の場合、霊体質者が憑衣されるメカニズムは、正上位
(正常位とも)の状態で、男が女性の上にいる場合である。
正上位と言っても、その体位は種々のポーズがあり、密教房中術では「浄法界之印
(じょうほうかい‐の‐いん)」といって、“性技四十八手”のうち基本的な「手解き八手」の中の、「前つけ」という姿勢である。二根交会に於ては、「露払い」の体位であるが、この体位で射精コントロールが失敗して早漏に至った場合、射精とともに憑衣される。

次に、密教房中術では「勝願之吉祥・法螺之印
(しょうがん‐の‐きっしょう‐ほら‐の‐いん)」といって、「手解き八手」では「向こう突き」である。
交会に際して、男は女性を自分の膝の上に乗せ、互いに抱き合うポーズで性交に及ぶが、深く入れ過ぎて、早漏
(そうろう)気味に射精コントロールを過った場合、射精とともに憑衣され、また、女性も霊体質である場合、憑衣される事になる。

更に、「大慧刀之印
(たいえとう‐の‐いん)」といって、いわゆる「手解き八手」のうち、「本間どり」というもので、ぐいと差し込むポーズであるから、男の気力が劣る場合、陰気の精気が安定せず、その不安定から射精もしくは遅漏(ちろう)に陥って性的異常にある状態の時は、射精とともに、やはり憑衣され易くなる。あるいは、遅漏状態にあり、遅漏に心が奪われ、それを一瞬でも気にかければ、射精がなくても憑衣に至る。

「本間どり」は、一般的に言う正上位であり、女性が男の胴体に脚を絡ませれば、「松からみ」となり、密教房中術では「満願之印
(まんがん‐の‐いん)」という。
この「松からみ」は、男上位に対し、女性は脚を開いて受け入れる姿勢をとる為、房中術の秘伝に照らし合わせれば、その種字は「アク」「ハク」であり、この意識に欠けると霊体質者は憑衣の災いを受ける。

この場合、男の射精は、同時に女性から陽気を受け入れる事であり、ともに望みを満たす形で、本懐を遂げなければならない。ところが男の早漏
(そうろう)や遅漏(ちろう)はこれに密接に関わり、射精コントロールを失敗して女性の絶頂より先に放った場合や、遅漏で、女性は絶頂に達しているのに男だけは放てずに射精に時期を逸する遅漏である場合、女性から陽気を受け取ることができないので、陰気のみが充満して、その陰気の条件下で憑衣する。

これ等の状態を論ずれば、何
(いず)れも背中が男女とも抱き合っている為、後ろ向きであり、外邪は背中から憑衣するという事である。
憑衣に至るメカニズムは、背中の真中寄りの「風門」
ふうもん/足之太陽膀胱経の経絡線上にある経穴)より、スウーッと体内に侵入する。潜り込むと、まず本人は「何か、背中がゾクゾクとする」ような悪寒が疾(はし)り、その後、外邪は唖門宮あもん‐きゅう/この宮は精気を呼び込む場所として行法者に知られ、閉じたり開いたりする)へと上昇する。


憑衣・憑霊のメカニズム。マイナスの磁性の陰圧が高くなると、憑衣・憑霊体質のなってしまう。
最初は左手の「労宮
(ろうきゅう)」から侵入する。労宮は掌(てのひら)の中で最も特異なツボで、気は足の裏の「湧泉(ゆうせん)」から大地の気を吸収し、それが昇って、貌(かお)と掌から放出されている。しかし陰圧が高くなると、負の陰圧磁気流は左手の労宮から侵入し、経絡を経て意識体である想念波動を狂わせる。
 唖門宮は東洋医術では「唖門(あもん)」と言う名前で知られ、督脈(とくみゃく)の経絡線上の経穴で、ここは後頭部の温中枢(おんちゅうすう)や冷中枢(れいちゅうすう)を司さどる処である。ここに邪気・外邪(がいじゃ)が侵入すると、体内の温度調節をするサーモスタット(thermostat/温度に応じて熱源を制御し、自動的に調節する装置)を破壊してしまう。

ここが壊されると、まず反射的に毛穴の立毛筋
りつもうきん/皮膚の中にあり、毛根に付着する筋肉。収縮すれば皮脂腺(ひしせん)を圧して分泌を促進し、また、毛髪を直立させ、粟肌を生じさせる)が収縮して、鳥肌が立つような状態が起こり、体内より気が逃げる阻止する。命の門が「命門」めいもん/《督脈》の経絡上にある経穴で、まさに命の門であり、腰冷え現象をを起こす。これはやがて頑固な腰痛となる。腰の悪い人は憑衣されていると観(み)て差し支えない)、外邪の風の門が「風門」ふうもん/東洋医術で言う《足之太陽膀胱経》の経絡上にある経穴)、毛穴の門が「気門」きもん/毛穴を開いたり閉じたりする「門」で、自律神経系の支配下に入る)なのである。

外邪が侵入すると、これらの三つの門の中枢機能が破壊されて、バランスを失う。初期の状態であれば自律神経失調症であるが、深刻な状態になると神経症から「鬱病
(うつびょう)」 へと病変する。体内の温度調節をするサーモスタットを破壊されているから、体温がどんどん上昇したり、あるいはどんどん下がったりもして、体温調節が出来 なくなるのである。精神分裂患者が、暑い日に毛皮のコートを着込んだり、寒い日に半袖一枚でいるというのは、体温調節が出来ないからである。

こうした状態にある人が、男女二根交会の及んだ場合、特に女性の中では静脈の細い人は、絶頂感に達する事が出来ず、中途半端でセックスは辛い行為となる。セックスを辛いと感じる女性は、直ぐに肩が凝
(こ)るとか、頭痛がするとか訴える。こうしたタイプの女性も憑衣され易い。
静脈の細い女性で、こうした状態を改善するのは男であるが、男が房中術の智慧
(ちえ)がなく自分勝手で無能な場合、このての女性のセックス観は改善されないまま、更年期障害に向かい、憑衣されたまま、歳を取るのである。

これを改善するには、月経が行われている年齢までに、男が女性を頭の天辺まで、あるいは髪の毛の先まで痺
(しび)れさせるエネルギッシュな交会で、女性をリードし絶頂に導かなければならない。しかし、術を心得ていないと、これも叶わない。
女性は一度絶頂感を覚えると、これまでの静脈の細い、か細さからは一転して朗らかになる。とにかく明るくなる。だが、この事を知らない男は、女性を従える場合、理屈で分からせようとする。口で言って、理解さしょうとする。しかし、これは無駄だ。

口で言う事を聞かせるよりも、男女の和合は躰
(からだ)をもって、介入する行為であるから、男はそれを知るべきである。そして、男は女性の躰を知り、その生理を知る事が大切である。
また、統計的に見て、女性の場合、十九歳までのセックスは遊戯恋愛であり、この遊戯恋愛を十代の早い時期に覚えた女性ほど、中年になって憑衣され易く、また狂い易い。
精神科や神経科に殺到している女性の多くは、遊戯恋愛によって、早期に性行為に及んだ女性である。

さて、憑衣を確認する証拠は、性交に及んで「風邪
(かぜ)をひく」ということだ。
悪寒を催し、寒気がしたら、それは憑衣された証拠である。霊的体質者ほど風邪をひき易い。これは霊的防禦
(ぼうぎょ)のフィルターが貧弱な為に、その感受性の敏感さから、どうしても憑衣を免れない。特に、体調の不安定な時に性行為に及べば、必ず憑衣される。

人が風邪をひくと言う現象は、寒さ等によって風邪をひくと言う事よりも、憑衣されて風邪をひくと言う場合が多く、風邪をひいた状態が、罹
(かか)って直ぐに治る場合は問題ないが、長期間、二週間も三週間も、あるいは一ヵ月や二ヵ月も風邪をひいた状態が続くのは、明らかに「憑衣」である。

そして、こじらせれば肺炎にまで発達し、不運な場合は回復する事なく死亡する場合もある。これは因果関係が憑衣であるからだ。躰が弱って死に至るのではなく、要するに「取り殺される」ことである。
生きた人間の恨みである場合は「生霊
(いきりょう)」が、死者の不成仏霊から起る怨念(おんねん)の場合は「死霊(しりょう)」がである。
セックスを、単に男女の性交と甘く見てはならない。「淫らなもの」あるいは「淫らな時間」というものには、必ず「邪」が群
(むら)がる事を忘れてはならない。それだけに「交会(こうえ)は儀式」であり、この儀式には礼儀と修法の作法がなければならない。

しかし、こうした現象を起すのは、その根底に何らかの魔力が働いている。それは恨みから来るものであるかも知れないし、あるいは「魔物」を使っての、意図的な「調伏
(ちょうぶく)」であるかも知れない。
したがって、真言立川流では男女の性交を営むベットや寝床を、単に寝る道具とは考えず、そのものを「道場」と見立て、ここで「破魔
(はま)」の修法をするのである。



●金剛三昧耶の理

 真言立川流では、女体は「大地」であると教える。したがって、大地には当然、四季が備わる。息を吹い始める時は「春」であり、吸い切った時は「夏」である。
また、吐き始める時は「秋」であり、吐き切った時は「冬」である。

真言立川流の敷曼陀羅(しきまんだら)の図。この敷曼陀羅こそ、歡喜体位の秘法である。
 男は、こうした女体の四季を味わいながら、様々な修法を行うのである。大地を味わう男根は、まず睾丸、陰茎、亀頭の三つに分かれる。
それと同じように大地である女体も、胸にあるふくよかな二つの乳房があり、これは男根に例えれば二つの睾丸であり、しなやかな背中は陰茎部にあたり、尻部の丘陵
(きゅうりょう)のそれは、まさに亀頭を観じるのである。女体が、それ自体で「性器」と呼ばれるのはこの為である。

つまり、女体の胸から背面を、一本の男根と見立てるのである。
そこで、睾丸である乳房へ精を吹き込み、男根が力強く勃起すれうように、女性の背面へと精気を送り込み、そこを張りがあるように漲
(みなぎ)らせるのである。尻部の丘を刺戟(しげき)すれば、男根の亀頭がはち切れんばかりに膨らむように、女体の尻部も撫でる事により、充血膨張するのである。
この修法を「金剛三昧耶
(こんごう‐ざんまいや)の理(ことわり)」と云う。

真言立川流の説くところは、本尊とは真理であり、仏法を人格化したものである。
つまりその本体は「空」である。空は陰陽合わさって「中有
(ちゅうう)」をなし、その象徴が“合掌”である。一般に合掌が、礼拝形式の演技の一形式を思われている。

ところが、合掌
(がっしょう)の本位は自己の肉体が仏法と一体化することを言う。一体化して、実相になったことを言う。ここに何の難しいことも生じない。理屈を捏ねずに、素直に合掌すればいいのである。心が素直になれば、それだけ真理に近付く。それだけ仏との距離が縮まる。

真理をとことん追求しようと思ったら、まず心を素直にし、仏との距離を縮めなければならない。そして真言立川流こそ、真理を追求する人間修法であるから、欲天
(よくてん)に棲(す)み、“煩悩(ぼんのう)”即“菩提(ぼだい)”だから、男女二根交会(こうえ)の修法を学ぶべきであろう。

したがって、人間を否定してはならない。肉体を否定してはならない。人間となるべきである。肉体を持つ人間となるべきである。人間となるには、人間臭さを表面に出さなければならない。しかし、この「人間臭さ」は、獣
(けだもの)のそれとは違う。これには節度があり、修法を学ぶ為の段階があるのだ。これが「真言立川流性愛術」である。この「性愛術を学ぶには、男女二根の陰陽の組み合せの“法”を知らなければならない。

現代流のポルノグラフィーのような、欧米から持ち込まれた性的興味をそそるような描写の類を、安易に真似すると取り返しのつかない事になる。この路線の文学・書画・写真・映画の類は多くが「大凶時
(おおまか‐どき)」の禁を犯している。
それが現代に生まれて来る赤子を見れば、容易に想像がつこう。いま100人に1人の割合で奇形児が生まれてきているのだ。目がなかったり、鼻がなかったり、口が三つ口
【註】上唇の中程が先天的に縦に裂けているもので、兎唇(としん)ともいう。胎生期における鼻突起と左右1対の上顎および下顎突起相互の癒合が不完全な為に起る)り、指は多かったり少なかったり、性器が異常であったりというのは、この禁を犯している為である。

「恋愛」と云う言葉を借りて、あるいは「相思相愛」と云う言葉を借りて、男女が24時間発情期で性交を行なうと、この禁に触れる。性交は犬や猫もするが、人間の場合は単に生殖の為の性交ではない。愛は清らかなものと云うことを前提とした「交会
(こうえ)」である。此処が獣類と人間の違うところだ。
地球の時間には、時間帯に応じて赤外線に包まれたり、紫外線に包まれたりして、そのピークが時間ごとにある。そうした時間には、地球も太陽系の波調
(はちょう)に合わせて変化する。

この場合、有害なのは紫外線を多く含む黄昏時に、交会をすることは良くないとされてきた。この時間帯を「大凶時」という。したがって人間は、24時間発 情期であってはならないのである。節度を持つことだ。節度を持つことにより、人は、人となることができる。異性器に興味を持つ獣であってはならない。

女性のふくよかな二つの乳房は、男根の二つの睾丸に相当し、真言立川流ではこれを「天宮宝蔵
(てんぐう‐ほうぞう)」と云う。女体は「男性器の写し」なのである。この事をしっかりと認識すべきである。そして二根交会は、一種の修法と考えるべきである。
したがって、この修法をするにも「礼儀」が必要になり、修法前には「金剛起
(こんごうき)」という印契に注目したい。
交会と時こそ
「親しき中にも礼儀あり」なのだ。思い切り“他人行儀”になって頂きたい。仏法の教えは、親密過ぎて節度を失うのは不和のもとだから、親密な中にも礼儀を守るようにせよと説く。これが中年から訪れる倦怠期を防ぐ、唯一の教えだ。

さて天宮宝蔵は、仏道では“お経”をしまう「経蔵」のことであり、これは男から見れば、女体の乳房は確かに天空にあるような、神々しく、美しく、非常に魅力的な宝物である。また、女体を魅力的な宝物にするには、両手を組み合わせ、臂
(ひじ)を挙げ、肩と水平にし、力強く合掌をする。これは丁度、滝に打たれて一心に呪文を唱える修法者のスタイルとなる。

この時の修法者のスタイルは、息を吸う時に合掌を弛
(ゆる)め、息を吐く時に両掌を強く押し付けるのである。これを10回から20回程度行い、指と指を絡み合わせて、左右に引っ張るのである。息を吸う時には強く引っ張り、息を吐く時には弛めるのである。

この時の呪文は、「おん・あ・ふん」を唱え、朝晩毎日、実践するのである。
自然の大地も、また女体としての大地も同じであるが、そこには必ず呼吸があり、伊吹
(いぶき)があり、生命の躍動するリズムがある。
したがって男女の呼吸にも、生命のリズムと同じように、ゆったりとした息遣いがなければならない。

仏道では、こうした呼吸を「息念
(そくねん)」という。つまり、呼吸を数える事で精神統一を遣(や)り、この法として「数息観(すうそく‐かん)」や「持息念(じそく‐ねん)」の観法がある。






夜の宗教・真言立川流 4

●霊体質女性の、げに恐ろしき腔口痙攣

 男の場合、静脈の細い女性を抱いて、最も気を付けなければならないのは、このタイプの女性の「腔口痙攣(ちっこうけいれん)」である。腔口痙攣を起こし易い女性は、明らかに霊体質であり、憑衣体質であるので、こうした女性を抱く男は、特に痙攣を警戒すると同時に、自分への憑衣を警戒する必要がある。

男にとって、性行為の際、一番恐ろしいのは性病に罹
(かか)る事でも、腹上死することでもない。
性病を移された場合は、早く治療すれば治るし、腹上死の場合は川柳にもあるように、「仕殺
(しころ)して検死をうける恥ずかしさ」とあるように、残された家族は辛いであろうが、当の本人はやりたい事をやって天国行き(性 交中に昇天する死に方を成仏とは言い難いが、本人の色情因縁により、無痛な肉体と霊体の分離が行われたのであるから、無痛な点は断末魔を体験する横死とは 異なると言えよう。しかし、冥界に旅立った後の、意識体コントロールの生活が大変である。なぜなら、意識体は、肉体死後も意識体として残留するからであ る)なのだから、頗(すこぶ)る太平楽な死に方である。だから、性病も、腹上死も、それほど恐れる事はない。

ところが「腔口痙攣」は話が別だ。所謂
(いわゆる)、ワギニスムスというものだ。
こうした病状を医学的に言えば、癲癇
(てんかん)作用だとか、腔口過敏症と言うらしいが、これは霊的に言うと、霊体質の女性に多く、こうした女性が、神社仏閣で性交に及ぶとか、主人が女中を手当りしだいに手を付けて強姦するとか、人妻が間男(まおとこ)をすると、そうなると、昔から言われて来た。

川柳にも、こうある。


拔けぬぞの女房をおどし伊勢に立ち

 昔の亭主と言うものは、伊勢参りをする時は、必ずこういう台詞を浴びて旅に出かけたものである。女房達も、これに脅されて、間男を銜(くわ)え込むことを控えた。そして、当時は腔口痙攣が起れば、千人の人々に、この状態を見せなければ、絶対に離れないと信じられていた恐ろしい状態である。

しかし、腔口痙攣は何も昔に限った事ではない。今日でも、屡々
(しばしば)起こりうる。見合結婚をして、性交が不馴れで、処女と童貞の間に起ったり、性行為そのものを汚らわしいとか、卑猥(ひわい)であるとか考えている女性と接する場合、こうした事故に見舞われる。

今は、昔と違って医者を呼び、麻酔薬注射一本で離れる事が出来るが、少なくとも誰かに来てもらい、医者の厄介にならなければ離れないと言うのが、何とも困りものだ。
腔口痙攣を起こした女性は、眼が三白眼
(さんぱくがん)になり、歯を食いしばって歯ぎしりをし、その形相は、げに恐ろしきものとなる。
これは交会に及ぶ前に、房中術の智慧があれば簡単に回避する事が出来るが、慣れない男は、つい、うっかりするものだ。

未熟のこの実態を知らない無知な男は、性交に及び、大変快適で、心地よい味に、つい、深入りし、飛び退くタイミングを逸してしまう。そして、その後、間もなく腔口痙攣が起り、塗炭
(とたん)の苦しみを味あう。
つまり、これは泥にまみれ火に焼かれるような、極めて苦痛な境遇を指し、精神に異常が発生する暗示を持つ。
しかし、房中術の智慧があり、交会について研究している人ならば、こうした状態に直ぐに気付く。

それは、まず、女性が異常な汗を流す事だ。異常発汗である。それはまるで、年寄りが死ぬ間際、異常発刊し、衰えて行く様子に酷似する。
次に、抱かれた男に爪を立て、快感とは異なる異常な表情をする事である。したがって、女性の表情は、交会に及んでいる時、常に見守る必要があるのである。

また忘れてはならない事は、女の性というものは、本来は邪淫
(じゃいん)である。邪淫であるから、中途半端な御し方では、男の方が当てられるのである。一旦女性を攻めはじめたら、一気に息の根が止まるくらいに髪の毛の先まで痺(しび)れるように極楽に送り届けなければならない。しかし、途中で手を弛(ゆる)めたり、男の方が先に果ててしまっては、その反動を女性から喰らう事になる。

女性が本当に快感を感じているかどうかを、見分けるには、中国の素女が、次の五欲を挙げている。

意中に男を望んでいる時は、気息きそく/息遣い)を懲(こらす)らす。
行為に臨み、快感を感じている時の女性は、両方の鼻腔(びこう)を広げる。
欲望が淫らで、猛烈な時は、愛液を充分に分泌し、身を震(ふる)わせて男にしがみつき、奥へ誘い込もうとする。
充分に満足を得ている時は、下衣などの衣装を程よく濡らす。
女性が充分に満足しきった時は、躰を真っ直ぐに伸ばして心地よい眠りに就く。この場合、心地よい寝息を立てて寢る場合、充分に満足した証拠である。
 そして、人間には三大欲望と言うものがあるが、それは「くう」「ねる」「する」であるが、これは房中術を知らない一般論であり、密教的房中術から言えば、「する」「ねる」「くう」の順になり、人間は性的欲望を満たす事により、最高の熟睡が得られるのである。
したがって、不眠症等で苦しんで居る人は、性的にノーマルな生活を送っていない事になり、不眠から来るノイローゼで胃腸等の内臓障害を起こしたり、あるいは精神を病んで精神分裂病と言う憑衣現象が顕われるのである。




●漏らさぬ不動秘法

『理趣経』は次のように説く。
「宇宙、人間の別なく、原因、結果、総ての現象が、大いなる輪をなしているものである。したがって、万物は無差別である一方、みな平等観によって成り立っている」と。
これは真実であり、その実体を明らかにしたものであると言えよう。

そこで『理趣経』を探究して行くと、愛情の原点は、男の為に女の精気を利用する還精法を排除するのであるが、ここで申し添えておきたいことは、情愛は男女がともに体験して行く人生の真理なのだ。

したがって男女の何れかの、一方だけが真言立川流や密教房中術を会得しても、それは片手落ちという事である。これでは折角の数々の修法も、無駄になって しまうのである。真言立川流や密教房中術と言うものは、男女がカップルとなって、秘法を修得し活用する事に本来の目的があるのである。

また、これこそが金剛平等の説く、総ての万物は、一個の輪の如く、上下の差別なく、平等であると言う真理に行き着くのである。
(すなわ)ち、 平等と言うものは、民主主義下の平等意識でなく、大宇宙の真理なのだ。民主主義下の平等は、公民に選ばれた一人のリーダーが登場し、そのリーダーの見下 す、微生物的大衆に向かって、上から下に平等観を強制するものであるが、こうした平等意識は、本当の平等ではない。単に、その他大勢を、ひと握りの権力者 が、微生物視し、微生物としてのその他大勢は、平等であると傲慢に言い放っているに過ぎない。これは権力者を見れば明白であろう。

こうした、権力者は見下す平等観に、本当の大宇宙の金剛平等は存在しない。だから『理趣経』は平等を説き、その中に金剛平等を始めとする、義平等
(ぎびょうどう)、法平等(ほつびょうどう)、業平等(ごうびょうどう)を説くのである。

だからこそ、『理趣経』は「如来は、また一切平等を観ずる所の自在する智印を出生する般若理趣を説き給う」とある。この「一切平等を観ずる所の自在する智印」こそ、『理趣経』の説かんとする教えであり、この原理は真言立川流の教義そのものでもある。
しかし、真言立川流は長い間、邪教視され、不当に歪められ、大きな誤解を受けて来た。

般若理趣を学んで行く上で、般若は真理を教える道であり、その真理の道程に人生を体験する男女の情愛があった。この情愛こそ、一切平等の思想からなり、そこに男女の睦
(むつ)まじい姿が存在するのである。
女体を顕わす愛染明王像
 般若理趣は更に教える。
「金剛平等に入るのは、則
(すなわ)ち、法輪なり」と。
したがって「一切の法輪に如来の姿がある。この姿は金剛平等であり、如来の法輪に入るのは、義平等に入ることなり。これは則ち、大菩薩輪に入ることな り。一切平等に入ることは、則ち、妙法輪に入ることなり。一切平等に入ることは、則ち、一切事業輪に入ることなり」と力説している。

金剛平等は、密教の教える真理である。したがって万物は、総てが一つの輪として存在しているのだ。男女も、その他の生きとし生ける動植物も、この輪の中 に入っているのである。そして、そこには宇宙の摂理としての、上下の差別のなさを如実に顕わしているのである。上下の差別がなければ、万物は横一直線上に 総て置かれ、そこに上下競争を争う、闘争は皆無になるのである。
しかし、今日の闘争の世の中は、こうした現実に目を向けず、己
(おの)が欲望の為に奔走する世の中であるから、世は騒然(そうぜん)となり、混沌として来るのである。

だからこそ、“金剛平等の教え”とともに、義平等
(ぎ‐びょうどう)の真理に迫れば、万物の存在と言うものは、その因果関係の道理から、前後の存在がなくなり、前後が存在しないから、誰が前だの、後だのの争いがなくなり、ここに平等観が存在すると教えるのである。
したがって、此処に存在する真実は、原因も結果も一切が輪の中に包含され、どこが先で、どこが後かの差別が存在しないのである。これこそが「無差別」であり、大自然の無分別と言うところである。

また、法平等
(ほつ‐びょうどう)は真実の理(ことわり)は、一点に止まる事なく、それは空間的に平等であることを説いている。更に、業平等(ごう‐びょうどう)は人間の働く行為は、万事左右の別なく、みな平等であると説く。
だからこそ、男女の情愛は平等観に満ち溢れていなければならない。陰と陽が合体して、天地
(あめつち)の理(ことわり)に合すると言う東洋思想は、天地の間に人が存在し、あくまでこの存在は、男女が共通であり、平等でなければ、結局、真言立川流も密教房中術も、公平感が存在しないと説いている。
つまり、性愛に於いて、男女は共に平等であり、ここに平等を観ずることが、『理趣経』の説かんとするところなのである。

したがって、男の為の還精法は、これが男だけのものであっては、何も意味をなさず、つまり独りよがりの還精法を『理趣経』きょうでは排除しているのである。ここに男女がともになければならない重要性がある。

だからこそ、男女の交会に対しては、当然の如く、「女性版の接して漏らさぬ秘法」も存在する。こうして正しい交会修法を実践した場合、具体的には、男女が共にどんな効果を得るかそれを紹介しよう。これを男女の「不動秘法」と言う。

射精しそうになった時、それを制してコントロールできれば、気力が強化される。また、こうした男と交会した女性は、その気力を受けて、女性自身も気力が充実する。
二日連続して、みだりに精を漏らさなければ、耳が聞こえ、眼がハッキリし、こうした精を漏らさぬ男と交会した女性は、同時に同じ効果を得る。
三日連続して、みだりに精を漏らさなければ、病魔からの心配や、その翳りが姿を消す。こうした精を漏らさぬ男と交会した女性は、同時に同じ効果を得る。
四日連続して、みだりに精を漏らさなければ、内臓に活力が湧き、内臓の強化とともに、生命力が充実する。こうした精を漏らさぬ男と交会した女性は、同時に同じ効果を得る。
五日連続して、みだりに精を漏らさなければ、欠陥が伸びやかになり、血液が安定する。こうした精を漏らさぬ男と交会した女性は、同時に同じ効果を得る。
六日連続して、みだりに精を漏らさなければ、腰がしゃきっとなり、背骨がしなやかになって安定し、躰の動きが滑らかに、スムーズになる。こうした精を漏らさぬ男と交会した女性は、同時に同じ効果を得る。
七日連続して、みだりに精を漏らさなければ、尻や股に力がつき、生き生きとして来る。こうした精を漏らさぬ男と交会した女性は、同時に同じ効果を得る。
八日連続して、みだりに精を漏らさなければ、活力に満ち、肉体の表皮は色艶が良くなり、皮膚がなめらかになる。こうした精を漏らさぬ男と交会した女性は、同時に同じ効果を得る。特に刺々しい女性は、こうした男との協力を得て、肉体の線に滑らかな線を帯び、肌が美しくなる。
九日連続して、みだりに精を漏らさなければ、長生きする長寿が約束される。また呼吸の吐納が滑らかになり、自然とともにある吾(わ)が実体を観ずる。こうした精を漏らさぬ男と交会した女性は、同時に同じ効果を得る。
10
十日連続して、みだりに精を漏らさなければ、悟りの道が開け、安心立命を得て、人の人間としての人生が全う出来る。こうした精を漏らさぬ男と交会した女性は、同時に同じ効果を得る。
 「不動秘法」には以上の事が述べられ、これは男の還精法のみならず、女性も同じ効果が得られるとされている。但し、女性の場合は男と違い、射精と言う感覚のハッキリしたものがなく、「 接して漏らさず」といっても困ることであろう。

性交遊戯に溺れ、その自覚がないと、うっかり痺
(しび)れてばかりで、腰が抜け、翌朝起きられないとか、無関心になってしまう場合が少なくなく、接して漏らさずが逆効果になってしまう。つまり男が、電気にゴムであり、汗をかいて励んだ割りには、何の効果も得なかったと言うことになり得ない。

そこで女性にとって、「 接して漏らさず」とは、何かと言うことを教授しなければならない。
もともと女体は、全身が性感帯である。したがって無関心や不感症は罰当たりであり、既にこうした現象が、人生を坂道に転がり込ませているのである。
全身が性感帯の女性は、まず、男女二根が交会をすることで「いい気持ち」にならなければいけない。いい気持ちになることが女性には必要なのである。また、女性をいい気持ちに去れるには、男側の密教房中術に対する智慧
(ちえ)も必要であろうし、真言立川流の『性技四十八手』も会得していなければならないであろう。
『浪千鳥』第十一図

拡大表示
 但し、意味のない、無理の生ずる強烈な体位は是非とも避けるべきであろう。
その上で、先ず男女は、呼吸を合わせることが基本となる。先ず開始は、「玉兎法
(ぎょくと‐ほう)」で“玉磨き”から始め、互いに大きく息を吸ったり、吐いたりの繰り返しをして、呼吸を合わせることである。この呼吸が合わなければ、男女共に 接して漏らさずの境地には辿り着けない。

とにかく呼吸を合わせることだ。
女性が息を吸う時、快感を感じるように、男は女性の呼吸に合わせて静かに突き込れ、快感が女性に染み込み、感極まって、大きく息を吐く時、男は静かに男 根を差し抜き、こうした女性の快感の状態を判断しながら、差し、あるいは抜くのである。こうして「差し」と「抜き」が、女性の呼吸と一致しなければならな いのである。

そしてこの交会運動を丹念に30~50回も続ければ、女性の腰はポカポカ温まり始め、冷え症等は癒(なお)るとされている。
つまり、女性の冷え症は、亭主側の恐妻家にあり、恐妻家の原因は亭主側の無知が、夫人に、かくもこのような病状を必然的に作り出しているのである。

したがって、先ず亭主側としては、性を蔑んだり見下したりする事なく、真摯に修法に励まなければならない。そうすることにより、女性の恐妻は緩和され、 やがて不感症だった女性も快感が染み渡り、濡れ濡れになっても、最後の失神状態までには行かず、といって、途中で放り出されたような不満感も残らず、男女 共に仲睦まじく、円満に、接して漏らさずの境地が得られるのである。更に付け加えるならば、接して漏らさずを実践しながら、女性を極楽に送り届け、同時に 男も、極楽に到達すると言うことだ。

しかし、世に、性の根本を考え違いする者は少なくない。
絶頂まで上り詰めながら、なぜ排泄しないのかという排泄第一主義の御仁
(ごじん)も居(お)ろう。
だが、人間には「精禄」と言うものがある。精禄は、あくまで生殖の為に射精の「精」であり、これは子作りの為に浪費される精の総量である。この精の量は、予
(あらかじ)め人間が成人して定められた精液の量であり、また女性の場合は愛液の量である。これを無駄に浪費することを密教では戒めているのである。この浪費は自殺行為に等しいからだ。

だからこそ、接して漏らさずの健康法としての交会が必要になって来る。しかし、精を排泄行為と考える男女は、この本当の性宇宙の仕組みが分からない。だから、無駄な精を浪費して病魔に襲われるとも言える。

現代は現代栄養学が、人間の人生を生きる上で、多くの役割を果たしていると錯覚している男女が少なくない。しかし、現代栄養学の原点は、動蛋白摂取であ り、動蛋白摂取は人間の老化を早める元凶を作る食事法である。この食に関する基本的な考え方を改めない限り、女性の不感症も、冷え症と云った慢性病も完治 することはないであろう。

人間が、動蛋白を大量に喰らうと、先ず代謝機能が狂わされ、性欲過剰になる。この性欲過剰は、動物が常に発情した状態に置き換えられ、常に男女は異性を 求めて、あるいは男の場合は同性を求めて、ホモに趨りやすい状態に陥る。これは、動蛋白摂取から起る性機能の異常が原因している。
正しい食餌法を行えば、人間が同性に狂うと言うことは起こり得ないが、食肉や乳製品等が盛んに摂取されるような時代になると、性腺を刺戟し、異常排泄障害を起こす。これが、性を排泄行為と見誤る元凶を作り出しているのである。

また、同性愛に奔らなくとも、「不動秘法」を会得しなければ、それは種々の災いを招く元凶を作ることは明らかである。この災いを密教房中術では「五障七悪(ごしょうしちあく)」という。
つまり、二根交会にも、同性愛以上にタブーの元凶があるのである。




●五障七悪

二根交会にはタブーの現実がある。この禁を破れば、楽しいはずの人生は半減すると言えよう。したがって単なる迷信と退けるべきでなく、真摯(しんし)に受け止める必要がある。
その第一は、女性がメンスが終ったばかりで、女体が清潔にならない時、交会に及んではならない。こうした時に交会に及ぶと、生まれて来る子供は不浄の子供となり、その分だけ子供の父母は人生で大きな苦労を背負い込むことになる。

その第二は、父母の肉体に腫れ物が出来ている時である。つまり、肉体の内外に、炎症が起っている時である。一般には、ニキビ、ふきでもの、はれもの、おでき等を指す。これは炎症により、皮膚の一部が腫れたもので、膿
(うみ)等を持つ場合を言う。あるいは内臓等に炎症を起こしている場合である。内装の炎症は細菌感染・化学的作用・物理的作用などによる組織の傷害に反応して、身体の一部に発赤・腫脹・疼痛・発熱などを起す場合と、食事の誤りによる胃潰瘍・大腸炎・ガン等の炎症である。

前者の異物の侵入または異物化した組織を排除しようとする生体の防御反応の場合は、多くが体外の皮膚状にその症状が顕われ、後者の場合は長い潜服期間を持ち、慢性病によって細胞の代謝機能が失われた場合である。
したがって、こうした状態にある時は、性交に及ぶべきではなく、また子供の出産を考えるべきではない。

その第三は、家族に死者が出ている場合である。喪に服している時に、交会に及ぶべきではないのである。死亡した人を追悼する礼は、喪に服する事である。
特に、人の死後、その親族が一定期間、世を避けて家に籠り、身を慎むことは非常に大事なことであり、この禁を破るべきでない。親疎によって、その期限に 長短があるが、喪に服し、追悼する礼は、道理で考えて一定期間、性交等は慎むべきである。つまり「喪」とは、凶事であり、凶事のセックスのタブーを重ねる べきでない。

第四に、熱病に罹っている時である。高熱を伴う疾病であり、頭痛・不眠・譫言
(うわごと)などを伴う病気の場合に、性交に及ぶべきでない。また熱病には、猩紅熱・肺炎・チフスの類があるが、熱性病の場合に性交に及び、そこで受胎した子供は凶事を背負って生まれて来ることになる。

第五に女性が妊娠している場合で、神経質になっている場合である。神経質状態は神経の機能の過敏、または繊弱を特徴とする心的性質の顕われであり、心配事があったり、こまごまと気に病む、心に何かが引っ掛かっている場合は、性交を避けるべきである。

以上の五つを「五障」と言い、この時に交会を行うのはタブーとされている。
また五障には、日取りの「三殺日
(さんさつび)」というものがあり、この日には交会をすることを慎まなければならない。
三 殺 日
却殺日
寅・戌・午の月……亥の日
亥・卯・未の月……申の日
辰・申・子の月……巳の日
巳・酉・丑の月……寅の日
災殺日
寅・戌・午の月……子の日
亥・卯・未の月……酉の日
辰・申・子の月……午の日
巳・酉・丑の月……卯の日
月殺日
寅・午・戌の月……丑の日
巳・酉・丑の月……辰の日
辰・申・子の月……未の日
卯・未・亥の月……戌の日
三殺日に交会をすれば、災難が来るとされている。この思想は、五行説から来たもので、支の三合する「水」と「火」が相剋することから来たものである。
そしてこれに合わせ、以上を無視し、交会に及べば、生まれた子は難があるとされている。

一方、こうした古来からに事実を無視して、「迷信だ」と一蹴
(いっしゅう)する現代性学者がいる。彼等は現代科学を大自然界にまで持ち込み、科学万能主義をもって、故事を迷信だと言って憚(はばか)らない。
三合の意義

拡大表示
 日本では平安時代中期頃に陰陽道(おんみょうどう)の論理が確立され、国家体制の中でこの思想が定着しつつある時だった。陰陽道の思想は、古代中国の陰陽(いんよう)五行説に基づいて天文・暦数・卜筮(ぼくぜい)・卜地などを扱う方術である。
日本では、大宝令に規定があり、陰陽寮が置かれたが、次第に俗信化し、宮廷・公家の日常を物忌・方違えなどの禁忌で左右した事実がある。そして、その後、平安中期以後、賀茂・安倍の両氏が分掌し、近世に於ては土御門神道
(つちみかどしんとう)などの一派を造り出して行く。陰陽道と神道とを習合したもので、安倍神道などとも称された。

さて、平安時代末期頃になると、中国から体系付けられた陰陽理論に加え、様々な医術書も日本に持ち込まれることになる。その陰陽理論の影響を受けて誕生したのが中国の『医心方』などの書物だった。
また『医心方』
(房内編)が編纂されて以来、性交の厄日が定められ、庚申(「こうしん」あるいは「かのえさる」といい、庚申の夜、仏家では帝釈天(たいしやくてん)および青面金剛(しょうめんこんごう)を、神道では猿田彦を祀って、寝ないで徹夜する習俗のことで、その夜眠ると、人身中にいる三尸(さんし)が罪を上帝に告げるとも、命を縮めるともいう)の日を性交の厄日とした。

(すなわ)ち、旧暦で言う、三月一日や五月十六日の庚申の日を性交の厄日と下のである。
この説は、古代中国の易であった陰陽五行説から来たもので、十二支の庚申の日が、三月一日と五月十六日の「金」と「水」は、五行説の論理に遵
(したが)い、腎水じんすい/精液)が精子を失う為、妊娠に異常が現われ、孕んだ子供が病弱な身か、色情の子か、精神異常者になりやすく、これを避ける為に、性交の禁忌の日としたのである。
一方、こうした故事を一蹴する好色的な考え方がある。

それは、男女が健康であれば、いつ性交を行っても関係ないと言う考え方である。迷信に過ぎないと、一蹴する考え方である。しかし、迷信だ、俗説だと一笑に服しても、人間には健康人と雖
(いえど)も、生体に見られる諸種の機能や行動の周期性がある。天体にも運行周期があり、大自然にも自然の摂理としての周期がある。それは一日周期で顕われるものや、一年周期で顕われるものなど、様々である。

また、この周期はバイオリズム
(biorhythm)にも顕わされ、例えば、睡眠と覚醒は、約一日を周期とするバイオリズムの典型であろう。
何故ならば、人間は自然界の生き物であり、自然の生体波動を無視しては生きられないからだ。古人が探り当てた五行説に真理を、現代科学に照らし合わせて合理的ではない、と一蹴
(いっしゅう)するのは如何なものか。

そして、合理的ではないと一蹴しながらも、否定できない神秘性があることは事実であり、これを無視する事は出来ない。また、人間の及ぶ災いは、こうした古人の智慧
(ちえ)を無視した時、災いは人間を襲っているのである。この事実は、歴史を見れば明白ではないか。
科学的に未発達な古代人の信仰と考えたり、性行為に関して無縁な迷妄だと一蹴した時、人は必ず筆舌に尽くし難い不幸を背負い込むのである。
特に、口先で性行為を汚らしいと罵り、その実、自分はその汚らしい性行為に及んだ場合である。この場合、「言動の不一致」が禍
(わざわい)を齎す。それは正しい想念を歪め、悪想念を抱かせるからだ。悪想念が不幸現象へと誘うのである。

その証拠として、歴史上に誕生する人間の種類に、何故善悪が存在するのか。善玉と悪玉は何故対峙
(たいじ)するのか。また、神とサターンは何故対峙し、こうまでに激しい闘争を繰り返すのか。
こうした歴史上の事実は、人間が大自然の一部から派生していると言う根拠を示している。こうした事実を真摯
(しんし)に瞶(みつ)めたのが、古人の霊的な精神性であり、そこから生まれた智慧(ちえ)が「五行説」をなしたのではなかったか。

また、性交
(セックス)のタブーには、他にもある。
性交タブーの第一
雷鳴りの激しい日や、風の強い 日、または天地が感応して、地震等で揺れ動く時に交会に及べば、生まれた子は難有りとされている。雷・風・地震などは、電磁場の周期的な変化を生じさせる 横波である。電磁波の作用で起るものであるから、当然こうした横波が人体の波動を狂わすような時は、性交を避けるべきであろう。特に、子作りを目的とした 性交は、こういう日を避けるべきである。
性交タブーの第二
暴飲暴食をした直後に交会に及ぶと、生まれた子供は精神的に不安定であり、狂人になるとされる。暴飲暴食をすれば、その直後は内臓に負担が掛かり、正常な代謝機能が狂わされてしまう可能性が大である。したがって、こうした直後は避けるべきである。
性交タブーの第三
小便をした直後は、精が流出しているから、この時に受胎した子供は若死し易い。また、大便をした直後に性交に及べば、根気や、踏ん張りの効かない意志薄弱な子供ができるとされる。
男の小便の排泄時は、同時に少量の精液も排泄されるのである。精虫の世界は、一億分の一以下の適者生存
(生物が、生存競争の結果、外界の状態に最もよく適したものだけが生存繁栄し、適していないものは淘汰されて衰退滅亡すること)の生存競争が行われているので、優秀な種を残す為には、大小便の直後には性交を避けるべきである。
性交タブーの第四
極度の疲労があり、あるいは躰の何(いず)れかの箇所が傷む時に交会に及べば、生まれた子供は長寿を全うできないとされる。
つまり、不摂生を重ねている時期や、病気勝ちで床に臥せっている時は、性交に及び、それに伴う受胎を避けるべきである。
性交タブーの第五
入浴中に交会に及び、そこで受胎した子供は、“横死”や“変死”をすると言われる。
浴槽の中や、浴室等で性交に及び、それで受胎した場合の子が“横死の相”を背負うのは、浴室等が、そもそも男女二根が交会する修行の場ではないからだ。
性交タブーの第六
勃起した男根の静脈血管が異常に 膨らみ過ぎ、膨らみ過ぎて、交会の際に痛みを覚える場合は、止めるべきで、これを無視して交会に及び、それで受胎した子供は、生後、病気勝ちの人生を送る とされている。この現象は、動蛋白摂取過剰の状態の時に起こり易く、普段から優秀な子孫を残そうと思えば、血管を傷めるような食事は慎むべきで、栄養価の 高い玄米等の発芽食品を中心に、雑穀等を混合して主食とし、それに少量の野菜・海藻.小魚介・貝類等を副食として食する習慣を付けておくべきであろう。
 また、野菜や海藻を考える場合、「粘りのある食品」は精力絶倫を維持するばかりでなく、長寿を保つ秘訣であり、精気を貯える食品でもある。多くの強精剤 は、動蛋白のエキスから摂取されるものでなく、植物性のエキスから摂取されること考えれば、植物性食品の持つエネルギーが、如何に素晴らしいか分かるであ ろう。

真言立川流や密教房中術では、これらの六つの「性交タブー」に加えて、「三殺日の禁」を破ることを「七悪」とし、性交は避けるべきだとしている。






夜の宗教・真言立川流 5

●胎蔵界・受胎之法

密教で説く両部ならびに両界の一つに「胎蔵界」なるものがある。この胎蔵界は、大日如来を慈悲、または理ことわり/真理)の方面から説いた全体部分の区分けしたもので、これに対のなすのが金剛界である。
蓮華の上こそ胎蔵界の一切を包含する世界である。生きとし生けるものは、一切がこの中に包含されるのである。
(イラスト/曽川彩)
 胎蔵は母胎の意味で、一切を含有することに喩(たと)える。そして、その表象は蓮華である。
蓮華は、蓮華から出生した浄土のことで、華厳経
けごんきょう/ 乗経典の一つで、漢訳に東晋の仏駄跋陀羅訳(旧訳華厳経、60巻)、唐の実叉難陀訳(新訳華厳経、80巻)、唐の般若訳(40巻)の3種がある。そしてこ れは華厳宗の所依の経典である。この経典には、全世界を毘盧遮那仏の顕現とし、一微塵の中に全世界を映じ、一瞬の中に永遠を含むという一即一切および一切 即一の世界を展開している)に説く盧舎那仏(るしやなぶつ)の世界、または、梵網経ぼんもうきょう/鳩摩羅什(くまらじゆう)の訳とされるが、五世紀頃成立した偽経ともいわれる。第二巻からなり、大乗菩薩戒の根本聖典として重視される経典)に説く、盧舎那仏とその化身の釈迦仏のいる世界などを指す。また、この世界は華蔵(けぞう)界ともいう。
なお、もともと経典には胎蔵界の語はないが、金剛界に合せてこういう思想が生まれた。これを「大悲胎蔵生
(だいじひたいぞうしょう)」という。

慈悲の世界は、仏や菩薩が衆生を憐
(あわ)れみ、また、慈しむ心を指す。一説に、衆生に楽を与えること(与楽)を『慈』、苦を除くこと(抜苦)を『悲』という。
特に、大乗仏教において、智慧
(ちえ)と並べて重視される事柄である。
そして人間の人生は、この「慈悲」の中に包含され、現象人間界では、このステージに於いて、「苦しみ」「悩み」「迷い」が派生し、その中に人は人生を経験するように作られている。

衆生とは、生きとし生けるものの、一切の生物を指す。一切の人類や動物こそ、衆生の顕われである。また、生きとし生けるものは、六道
(りくどう)を輪廻(りんね)する存在である。だからこの世界の別名を「有情(うじょう)」ともいう。そして、この有情の世界こそ、人の住む人間界である。
衆生の住む世界は、愛憎の心に満たされている。この愛憎の中から人は生まれて来る。

人が、子供が欲しいの願うのも、愛憎の心から生まれる。これこそ、衆生の原点である。心の働きや感情を持つものの意味であり、そこに後世の生命は宿っている。
したがって、子供が欲しいと願うなら、次の事を忘れぬようにしなければならない。

先ず第一に、月経が終り、受胎日となった時、夜中の12時過ぎまでに、一眠りして躰
(からだ)を休め、一番鶏が鳴く頃に、充分に前戯をして、女性を精気旺盛状態にして、発情させ、その後に交会を開始する。
そこで、充分に注意したいことは、一日のうち、午後から24時までは、死気の時であり、午前零時からは、天地の精気が強くなる時で、この時に受胎するように心掛けたいものである。

そして厳守したいことは、「死気の時」の、正午
(12時)から24時の、この時間帯を是非避けたいものである。
特に、黄昏時
(たそがれどき)と言われる、夕方うす暗くなって「誰たそ、彼は」などと、人の顔の見分け難くなった時分は、是非とも避けねばならない。早まってはならない。死気が絶頂に達する時刻であるからだ。
大凶時
(おおまかどき)といわれるこの時刻は、「魔」が顕われる時刻でもある。
では、この「魔」の正体は何か。

黄昏時と大凶時

拡大表示
 『平家物語』灌頂には、次の一節がある。
「叫喚
(きょうかん)・大叫喚(たいきょうかん)の焔(ほのお)の底の罪人も、これには過ぎじ」とあり、これは八大地獄の第五層を指す。この第五層は、叫喚地獄の下にあり、苦痛は叫喚地獄の十倍と言われる。此処には、五戒ごかい/在家(ざいけ)の守るべき五種の禁戒(きんかい)のことで、不殺生(ふせつしよう)・不偸盗(ふちゆうとう)・不邪淫(ふじやいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゆ)の五つ)を破った者の墮(お)ちる所とされ、「大号叫喚地獄」ともいう。
ここからの大叫喚の湧き上がる時刻が、則
(すなわ)ち、黄昏時あるいは大凶時なのだ。この禁を犯すと、大変怕(こわ)いことになる。

さて、受胎之法の修法を試みて、どうしても受胎しない女性は、左手に小豆の粒を十四粒持ち、右手で男根を握って、女根にあてがい、腰を上げて男根をじっと押さえ付けると同時に、豆の粒を口の中に入れる。こうする事により、男根は精気を漲
(みなぎ)らせ、精力が絶頂に達し、交会して射精すると同時に精液が女体に流れ込む時に、小豆を呑み込むのである。これは効果抜群という言い伝えがある。しかし、これは土俗的な信仰を参考にした事柄であることは言うまでもない。

また、受胎之法には、このような言い伝えもある。
女性が受胎して三ヵ月以内の、戊子
(つちのえね)の日に、男性の性毛を抜いて焼き、その灰を酒に入れて、女性が全部飲む。すると、生まれた子どもは、大成功者になるという言い伝えもある。但し、これは精気盛んな男根に肖(あやか)ろうとする“陽物信仰”の顕われであろう。

しかし、故事の言い伝えや、“大凶時の禁”を決して馬鹿にしてはならない。
「やるべきでない」とする禁忌は、人類の歴史の中に誕生したものであり、これが長い年月を経て、一種の言霊化されている事を見逃してはならない。
人間の用いる言霊は、言葉に宿っている不思議な霊威であるばかりでなく、「言葉」というものは、則
(すなわ)ち、「光透波(ことば)」であり、これは神の言葉を、そのまま人間が使っていると言うことを顕わしている。

古代において言霊は、その力が働いて、言葉通りの事象がもたらされると信じられた。そして長い間、物質世界では一種の迷信と一蹴されて来た。
しかし、人の言葉に一種の威力を持った力の働きと言うのは、やはり大脳を刺激し、対峙する相手の殺生与奪の力があることが分かって来た。

これは、心理学的にみて、人間は心と言う情緒の世界に生きる感情動物であり、この感情が人間の行動を明るくしたり暗くすると言う、研究で明らかになって来た。
則ち、言霊と言うのは、それ自体に力を持っているのである。

太古からの言い伝えも、長い年月を経てその言葉自体に、霊威が宿っていると考えられる。したがって、これを安易に一蹴できない事実がある。
その、凶事を警戒する言葉として、黄昏時があり、また大凶時があるのである。



●九浅一深之法

陰陽道では、奇数を「陽」とし、偶数を「陰」としている。
女性は受胎し、出産するということで、その身は二つとなり、偶数であるから「陰」とされ、男は、あくまで一本立ちのみであるから、奇数であり、「陽」とされるのである。

そこで、二根交会にもこの陰陽が働く。二根交会に於いて、ピストン運動の際、「九浅一深之法
(きゅうせんいっしんのほう)」がある。
九浅一深之法とは、九回浅く突き、続いて一回深く突き入れて、休息し、これを繰り返すのである。

「九」という数字は「陽」の極みで、「一」に回帰されるとされているが、この法に於いては、「九浅」プラス「一深」で、「十」の陰数とし、「陰」の性質を持つ女性の為に奉仕する優しさが説かれている。
女性にとっては、「九浅」でも、かなりの情が高揚しているところに、奥深く一発お見舞いされたら、感激は間違いなく、然
(しか)も「九一」の法は、九回繰り返すことで常法とされている。
これは十回突いて、そのうちの一回だけを強く突くと言う意味でないので注意が必要。九回中、一回を深く突くとしているのである。

つまりである。
九九・八十一回も浅く突かれ、更に九回も奥深く突かれるのであるから、女性は陰陽の理に遵い、身も心も天に舞い上がり、宇宙空間の“遊泳”に入る。
また、その場合の入れ方であるピストン運動は、「弱入・強出」が最も良いとされる。つまり、突き入れる時はソフトに優しく、抜き出す時は強く刺激的にと言うのが九浅一深之法の基本である。

人間の男と女とでは、陰陽が異なり、これが異なると言うことは、その性質も根本的に違う。男女は、中性的に平等にはなり得ない。陰と陽の関係はどんなに 突き詰めても、平等になり得ないのである。但し、その格に於ては「同格」であり、「同等」である。しかし、平等でないことは心しておくべきである。

世の中には、奇妙な論理が罷
(まか)り通っている。男女の陰陽の性質の異なるのを無視して、平等論を展開する訝(おか)しな輩(やから)がいる。しかし、そもそも男女を平等と看做すところに、男女の不対等が存在するではないか。
陰と陽は、「対
(つい)」を為(な)すが、平等ではないのだ。その根本性質が異なるからだ。

したがって、ともすると男は、独走を始める。女性に対し、力の行使を試みろうとする。力自慢がしたくて、硬直したものを一気に突き入れ、「どうだ、参ったか」などと自惚れる者がいる。こうした輩
(やから)は、陰陽の性質を知らず、男女が同格であり、同等であるのを知らない者である。愚かで、無能と言う外ない。自信過剰者は、必ず後で“大きな報い”を受けることになる。「精禄」を粗末にした為である。

陰の性質である女体は、一種の精密機械のようなものであり、全身が性感帯で非常にデリケートに出来ている。これを乱暴に扱ってはならない。また、陰の性 質はソフトムードに酔うものである。鼻の穴をおっぴろげて意気込んで来る男は、余り好まない。素不図に出来ている関係上、子宮を強く突かれると、不意を喰 らって小水を漏らしたり、咳が出たりするのである。こうした状態が連日続けば、やがては不感症になる。男嫌いになる。

一方、男自身も、勝ち誇るように強く突いていると、その“しっぺ返し”の災いが降り掛かって来る。強く突きたがる男に齎
(もたら)される災いの多くは、その第一が尿道炎である。第二が膀胱炎である。あるいは陰茎癌や睾丸癌、膀胱癌へと発展する場合もある。前立腺肥大症も、こうした、強く突きたがる男に多い。こうした自信過剰人間は、キック運動などの“足を使うスポーツ”をする者に多いようだ。

強く貫こうとする意識は、陽圧を低下させ、陰圧を高める愚行である。これを気付かずに繰り返していると、尿道に損傷が顕われるばかりでなく、精魂尽き果てて、陰嚢
(いんのう)がジメジメしはじめ、カビが生え易くなるのである。
密教房中術での『不動秘法』では、男の乱暴なピストン運動を固く戒めているのである。

ピストン運動の回数について、『人形杵法』には「八は少陰の数であり、男は少陽の気である。少陰と少陽とを相和して陰陽とのう」とある。つまり、男は八回浅く入れ、九回目で深く突きベしと教えているのである。

よく知られた言葉に、「九死に一生を得る」という言葉がある。
これは、九分通り助からない命を辛うじて助かることを意味する語であるが、全体が十であり、その九割方が死であり、残りの一割に対して生を得るとしているのではない。
九の死のうちに、一の生を得る事を言うのである。だから「九死に一生」なのだ。つまり、八割が死であり、わずかに残された一が生と言うことなのである。八が死であり、そのうちの一が生なのだ。

したがって、九浅一深之法は男が、八回浅く入れ、九回目で深く差し込むのである。
この場合の女性側の腰の遣い方
(喩えば正常位の体位等の場合)については、「七は少陽の数であり、女性は少陰の気であるから、少陰と陰陽相和す」とし、男の「八浅」に対して、七回腰を持ち上げ、お相手することがベストと説くのである。



●天皇家に伝わる七草粥と神事の宴

密教房中術で言う強靱な体躯とは、単に、肉体的な体力を指すだけのものではない。また、精力の根本には「体質」というものが加味され、体質の良さが精力の有無を決定するのである。つまり、体質とは、生命力を顕わすものなのである。
こうした体質を良好にする為に、皇室には代々の食の伝統があった。


後鳥羽天皇像(在位1183~1198)。鎌倉前期の天皇で、高倉天皇の第四皇子。1198年(建久9)譲位して院政を行う。1221年(承久3)北条義時追討の院宣を下したが失敗して隠岐に配流(承久の乱)され、隠岐院と称される。その地で没し、顕徳院と追号する。
その後、種々の怪異が生じ、怨霊のたたりとされ、改めて後鳥羽院と追号された。歌道に秀で、新古今和歌集を勅撰、配流の後も業を続けて隠岐本新古今集が成った。また、密教に通じた天皇でもあった。
後醍醐天皇像(在位1318~1339)。鎌倉末期・南北朝時代の天皇で、後宇多天皇の第二皇子。親政を志し、北条氏を滅ぼして建武新政を成就する。

間もなく足利尊氏の離反により吉野入りし、南朝を樹立したが、失意の間に没す。
また密教や真言立川流などにも通じ、一方、荼吉尼天法の神通力をもってその神通力で守護した文観を天皇の護持僧として重用した。
 日本の食文化の中に、本来、天皇自らが正月の初子(はつね)の日に行った「小松曳(こまつびき)」の神事は、今日では松飾り、あるいは年始めの歌会等にその面影を微(かすか)かに伝えるものであるが、その起りは、正月の初子の日に、高山の山頂より西方浄土を眺めると陰陽の気を得て憂悩を取り除くと言う、中国の陰陽五行の思想によるものである。

こうした神事の始まりは、天平
(てんぴょう)の頃(「天王貴平知百年」の文字を背に負った瑞亀の献上による改元で、西暦729.8. 5~749.4.14まで)で、奈良時代、聖武天皇朝の頃と推測される。
またこの事より、これに伴い、初子の日に、野山より七種類の植物を採取して粥
(かゆ)に入れる「七草粥」は、天皇自らの手で野を耕し、地の神と交信する子(ね)の日に鍬を入れる神事である。
七草粥
 この神事によると、子の日に鍬入れを行い、野山にて小松を採り、その若芽を食する小松曳を行うとある。そして、これらの神事を野山にて楽しむ、初子の宴(うたげ)などに分化し、宮廷での習慣として広がったものが、貴族等の間にも定着したものが小松曳である。

この初子の宴は、これが習慣となった頃、既に歌人を集めての宴遊という形に発展しており、これに参加した一人の歌人・大伴家持
(おおともやかもち)の眼を通した初子の宴は、次ぎのような和歌によって伝えられている。  
はつ春の初子のけふの玉箒(たまははき)

手にとるからにゆらぐ玉の緒
 この詞書(ことばがき)には、天平宝字(てんぴょうほうじ)二年(758年)、内裏(だいり)の東屋の垣下に重臣を招いて宴を催し、その席に藤原仲麻呂(奈 良時代の貴族で武智麻呂の子として生まれる。光明皇后ならびに孝謙天皇に信頼されて、栄華を誇り、紫微内相となり橘奈良麻呂ら反対派を倒して政権を掌握す る。しかし、僧道鏡が孝謙上皇に重用されるに及んで、これを除こうとして挙兵し敗れ、近江(現在の滋賀県高島郡)で殺された。706~764年)が臨み、詔勅を伝達したとある。つまりこの時の仲麻呂は公には、天皇の言葉を直接効く立場であるが、それ以上に天皇の神事さえも深く関わって居た事を顕わし、仲麻呂の中国伝来の陰陽五行思想を基盤とした権力を誇示したものである。
しかし、仲麻呂の権力の座も、光明皇后の死と共に揺るぎ始める。

栄枯盛衰の現象人間界の法則に遵い、仲麻呂の周りは暗雲が漂い始め、まつての権力の座を追われた孝謙(こうけん)女帝(奈良後期の女帝で、高野天皇とも。聖武天皇の第二皇女。母は光明皇后で、在位後、道鏡を重用。のち重祚して称徳天皇と称す。718~770年)が道鏡(奈 良時代の僧で、宮中に入り看病に功があったとして称徳天皇(孝謙女帝)に信頼され、太政大臣禅師、ついで法王となる。また、歴史上では野心を燃やす妖僧と しても知られる。妖僧の所以は、呪術で女帝を翻弄し、天皇の座も窺おうとした怪僧であるからだ。生年不詳 ~772年)の策謀を得ることにより、権力奪回を狙って軍事行動を起こし、吉備真備(きびのまびき)を動かして、仲麻呂の先手を打ち、ついに仲麻呂を排撃した。
仲麻呂は一族とともに都を脱出し、琵琶湖畔の勝野鬼江(現在の滋賀県高島郡高島町辺り)において捕らえられ、短い栄華の時を終えた。

一方、道鏡はどう立ち回ったか。
まず女帝・称徳天皇に取り入る。そして女帝を呪術で翻弄
(ほんろう)し、政治の実質的な権力を握り、義理の息子である淳仁天皇をロボット化し、太政大臣の地位に上り詰めた。
当時の太政大臣の位は、皇族を除いて昇り得る事が皆無であり、「令(りょう)」にも、「余程の功績がある人物でも、皇族を除いて次官せよ」と規定された最高位の官位であった。

女帝は生涯、道鏡に翻弄され続ける。
天平宝字八年(764)、女帝が道教の存在を快く思わない精力を一掃して、再び天皇の位に返り咲くと、まず、道鏡が再び重用され、彼は史上例のない令外の官である、「大臣禅師」に就任する。ついで二年後の天平神護(てんぴょうじんご)二年(766)には、聖徳太子が後人から称せられた例があるのみの「法王」の位に就き、その翌年には、史上名高い宇佐八幡宮の神託(しんたく)となっている。

しかし、道教も野心半ばで倒れる時が来る。
直接的には、道鏡を天子の位に就けてはならないとする宇佐八幡宮の神託を、和気清麻呂が持ち帰った為であるが、失脚を、より決定的にしたのは神護景雲四年(770)の孝謙天皇の死であった。これにより、道鏡は最大の支柱を失うのである。

かくして道鏡は、東国一の大寺である下野国(しめつけのくに)薬師寺の別当(長官)として、東国で客死する。これは女帝が死して一年半後の事であり、空海が唐から帰朝して真言宗を開く三十三年前の事であった。



●精力とは持続力を顕わす

精力増強を図るのに最初に重要視されるのは、下腹部の強化である。性エネルギーの根本は「熱」であるから、この熱を下半身の下腹部に持って来るのである。
しかし、現代人は歩く事が少なくなった為に、下腹部への熱が上半身ばかりに偏り、中々肚を造ることができない状況にある。

人体の構造を考えると、上部にある器官は、その殆どが熱により、興奮状態にあるのに対し、下半身の機能はみな働きが衰え、衰退気味である。
現代と、それ以前の作業形態や働き具合を見ると、現代という時代は、熱が上半身に集中するような働きばかりで、特に頭脳に関しては、無駄な熱量が頭部に集中する頭脳労働は殆どであり、下半身を使う作業は殆ど行われなくなっている。
この為に、思考も頭脳的であり、突き詰めれば、性行動も頭脳によってそれを処理しようとする偏った行動原理で、性の捌け口を求める帰来がある。その最たるものが、男のホモ増加と言う現象だ。

つまり、これは上半身による、頭脳を中心とした性処理の行動であり、上半身は常に興奮状態にあると言ってもよいであろう。
そしてこうした偏りが、人間の営みを危うくさせ、下半身強化は蔑
(ないがし)ろ にされていると言う実態に気付かされる。上半身に集中する熱は、その熱自体が、気の形態を為しているが、それは同時に電気的エネルギーでもあり、この為 に、これに消費されるエネルギーは上半身のホルモンばかりを浪費して、本来のホルモン系や神経系に著しい、電気的な歪みを齎(もたら)している。
そして、ここに現代の男達がホモ化する猟奇的な畸形があると言えるであろう。

古来より、日本には下腹部を強化する食餌法があった。その食餌法こそ、粗衣粗食であり、少食による穀物や海藻等を食する植物性食品を摂取する強化法であった。これを密教房中術では「草粥
(くさがゆ)」といい、植物性の蛋白質を取り込んで、体質を改善し、強固な体躯を作る修法を行って来たのである。その代表格が朝鮮人参であった。
朝鮮人参
 朝鮮人参は、ウコギ科の多年草である。単に、人参または高麗人参ともいい、薬用植物として著名である。
また、その根は、肉質で直生し、分岐して色は白い。晩春頃には、緑白色の小さな五弁花を散形花序に密生、花後扁球形赤色の小果を結ぶ。朝鮮人参は朝鮮または中国東北部の山林樹下に自生する食性植物である。
近年には日本でも栽培され、乾かした根を生薬の白参、いったん蒸して乾かした飴色のものを紅参といい、ともに強壮薬として古来より有名である。

そして朝鮮人参は、精力増強の薬用植物でもあるが、かつては貴族等の上流社会では、一種の媚薬として用いられ、性エネルギーの強化に遣われたことは疑う余地もない。則ち、性欲を催させる薬であり、あるいは淫薬である。
それは下半身に熱を集め、ある意味で気のアンバランスを是正し、全身の熱を調和して、熱を集中させる事も出来るので、同時に性欲も高められるのである。

下半身が暖められれば、性欲が強くなるのは生理学の示すところである。
朝鮮人参に限らず、一般の人参
(セリ科の一年生または二年生根菜で、日本には十六世紀頃に中国から渡来。漢名は胡蘿蔔(こらふ)という)にも素晴らしい造血効果があり、また、保温効果がある。これ等の効果は、心身の底力を養ってくれる。疲れ易く、パワー不足の人には御薦めの食品である。

薬効効果としては、消ガン作用があり、他にも喘息
(ぜんそく)や糖尿病にも効果がある。そして人参の持つカロチン(カロテン)は消ガン作用がある。これは細胞膜の機能を政情に戻し、過敏性をなくして、炎症を起り難くする為である。

古来より、野菜の「三種の神器」と呼ばれるものには、人参、ジャガイモ、玉葱
(たまねぎ)であり、この中でも日本人の健康造りに役立っているのは、人参である。人参のオレンジ色はカロチンであり、これが体内に入るとビタミンAに変わる。ビタミンAは粘膜細胞を形成したり、病原に対する抵抗力を高めたりと、粘膜機能と深い関わり合いを持っている。

人体内の粘膜は、胃腸をはじめとして肝臓、腎臓、肺等のその他の総
(すべ)ての臟噐の表面に存在している。ビタミンAが不足すると、粘膜の再生が悪くなり、粘膜を潤している粘膜から分泌する分泌物の分泌量も悪くなる。これが悪くなれば、萎縮した状態となって、各臓器の働きは著しく減退するのである。

更にそればかりか、萎縮状態になると炎症が臟噐の種々に起り始め、こうした状態は発癌状態であることが最近の研究で分かってきた。
則ち粘膜の生理を顕然に保つ為には、ビタミンAが必要であり、また、ビタミンAを補うことで、消癌性があるという事が分かって来たのだ。

下半身に熱が発生しないと、下半身は衰弱する。虚弱体質者や精力減退気味の人は、要するに下半身に熱エネルギーが充分に発生しないのである。したがって、こうした人はビタミンA不足になって下半身は不能状態になっていると言える。

房中術には「金冷法」という精力強化法があるが、これは外部に突出している睾丸を冷やすのであって、下半身全体を冷やすのではない。下半身を冷やせば、 精力は減退気味になり、性欲が増すどころか、肉体は衰弱し、果てしなき下痢に悩まされることになる。また、下痢状態は、粘膜を弱め、炎症状態を作るので要 注意である。

さて、下半身に熱を集めることは、下半身を強化するばかりでなく、精力が増強されて来る。人体は、上半身を暖めるよりは、下半身を暖めなければならな い。下半身を暖める事により、性欲は増し、精力は強化される。この下半身の暖める効果が、人参にはあり、これが高級な朝鮮人参ともなれば、更に大きな効果 が期待できるのである。







夜の宗教・真言立川流 6

真言立川流の修法を会得した後醍醐天皇。 拡大表示

●立川流の房中帝王学と呪法

 帝王学の中には、後宮(こうきゅう)での房中術があり、これは帝王になる者が、それに相応しい素養や見識などを学ぶ修法である。この修法は呪術をベースにしたもので、本来ならば外護摩法や内護摩法等を用いて、帝王などの最高権力者が学ぶ術とされている。そして、その中には数々の秘伝がある。

また、房中術は、単に一般に行われている性交ではない。これには非常に深い霊的なものが絡んでいて、交会自体に過去世からの因縁が包含されている。
また、一般に言う求愛とも異なり、単の肉愛で終るのではなく、陰と陽の交会が含まれ、陰は陽を助け、陽は陰に慈しみを齎
(もたら)すものである。いずれか一方的な、傲慢(ごうまん)なセックスではない。

それは「男女一如」の言葉からも窺(うかが)える。男女が交会を至る行為は、肉を需(もと)めての行為に止まらない。陰が陽を求めるが如く、陽が陰を求めるが如く、その極性の需めに応じて「一(いつ)」になろうとすることである。これこそが宿縁の印であり、宿縁はそれ以内の因縁で求愛する事はあり得ない。

例えば、こうした宿縁によって起る求愛は、「恋愛の成り立ち」からも明白となる。恋愛の成り立ちは、ギリシャ神話などにも見られるように、もともと「一」なるものが、その片割れを探して、探し求める行為である。
ギリシャ神話によれば、世界の創造時に於ては、人間の各々の男女は、それぞれによって男と女を兼ねていたと言う。しかしこの時、造化の神がそれぞれを二つに分けたと言うのである。

その時以来、もともと一つであった人間の男女の合体は、その片割れを探して世を放浪すると言うのである。また、二つに引き裂かれた、それぞれの半身は、切に求めて、一つになろうとすると言う。
此処に課せられた因縁は、「一対(いっつい)」となるべき宿縁を持った二人が出会う必然的な行為から起る。必然は因縁である為、そこには不自然さがない。
したがって、「一目惚れ」という現象が起る。お互いは、激しい身も心も溶けるような、更には魂までが同化するような、お互いの因縁を知るのである。

この因縁には、人間は自分自身の中に、「自分の美の原形」を持っている事になる。また一方で、その片割れとしての「写し」は、この世の中の何処かにあっ て、その「写し」を需めて人はこの広い世界中を歩き回るといわれている。ここに「恋愛」という壮大なロマンがある。

そのロマンが、「美」であり、この間隔を探す事が出来る能力者が、精神的な深部に入り込んで、これを導き出し、外表としての肉体に表現するのである。こ の場合、この世と言う成果は相対世界であるので、肉体と対を為して相対する為には、精神を完全に満足させる、もう一方の片割れが登場しなくてはならなくな る。

陰陽が「一対」ならば、陰ならば陽が、陽ならば陰が、女ならば男が、男ならば女が出会わなければならない。そして、此処に顕れたもう一つの片割れは、何 の努力も、公開も伴わない愛するに値する存在でなければならない。愛を語るに相応しい「美しい和音」でなければならない。これが精神から肉体に至る出合い であり、それはやがて「恋」という形を経由して肉の行為が心へと回帰されるのである。そして肉だけの結合ではなく、心と魂までが結合され、「寄り添う」と いう幸福が齎(もたら)されるのである。

房中術はこうした高い愛情の次元を説くものであって、俗猥(ぞくわい)な肉の次元を説き、肉だけの固執する事を戒めている。男女は交会して、幸せを満喫する存在でなければならない。これが畸形
(きけい)であってはならないのである。だからこそ、幸せを得るには男女が「一(いつ)」になる必要があるのである。





「一」になる極意は、まず、男は己の男根を女性の女根とともに三回摩りながら、次の真言を唱える。

「オン・シュロチ・ソリチ・タラニ・コ・ウン・カク」

次に、この修法・呪術にかかる前夜には、法具たる「福の神」をつくる為に、二根交会をするのが常法となる。その時、交会直前にもこの真言を唱える。この真言は、女性に火竜を強める為に行う呪文なのである。

次に、男に火竜を強める真言は、
「オン・クロダナウ・コ・ウン・ジャク」である。

また交会に至り、呪法を霊験し、その成就を願う「除難招福(じょなん‐しょうふく)」を願うには、男女に次ぎのような条件が必要となる。


真言立川流の教理を理解し、これを信じること。
男女が常に二根交会修法に、互いに助け合い、一致協力して、心身ともに一心同体になること。
二根交会を行う前に、食べ過ぎたり、飲み過ぎたりしないこと。
二根交会修法前に、男女間で争いを起こしたり、夫婦喧嘩等をしないこと。
成就を願う「除難招福」の呪法を、決して疑ってはならないこと。
互いに、二根交会修法と「除難招福」の呪法の霊験を試してはならないこと。
 「一」になった威力は凄まじいものがある。しかし、上記の戒めを固く守り、謙虚さをもって臨む事である。
「除難招福」の呪法の前夜、交会をしてつくった液は「金剛水(和合水)」であり、液を湿らした紙は「水壇(すいだん)」となるのである。
水壇とは、修法に用いる円壇の事である。紙は三角に畳んで枕頭に置き、一夜お守りしてから、翌日、人目のつかぬところに納めておくのである。

男女が「一」になり、その唸
(ねん)をもって作り上げた「水壇」は、威力を投じるパワーがあり、それは除難招福、立身出世、降伏などの用いられる。また、この水壇は「福の神」とも称す。
但し、この福の神は、除難招福や立身出世にも遣われるが、同時にこれは降伏
(こうぶく)にも遣われ、両刃の剣である事を忘れてはならない。

この呪術が「除難招福」「立身出世」「降伏」
【註】怨敵調伏)として威力を発するのは、次の月・日・時である。
除難招福には7月と8月。
立身出世には9月と10月。
降伏
(こうぶく)には3月と4月。
 まず、月日であるが、1月、2月、4月で、12月は15日に修法を行えば成就する。除難招福や立身出世や降伏の修法日は1日、3日、5日、7日、または13日ならば成就する。
時間は、除難招福が午後6時~9時まで。立身出世は午前4時~6時まで。降伏は真夜中にかかる10時~2時までであり、これは非常に怕
(こわ)いものである。遣い方には慎重を要す。何故ならば、「降伏」に対しては「恐怖の呪い」であるからだ。



●「福の神」を用いた怨敵調伏の秘法

 「恐怖の呪い」の大秘術は、次のようにして行う。
最初に厳重注意しておくが、決して霊験を試す意味でこれを行ってはならない。
密教の四種法の一つで、五大明王などを本尊として法を修し、怨敵
(おんてき)・魔障(ましょう)を降伏(ごうぶく)することをいい、これを「調伏法(ちょうぶく‐ほう)」または「降伏法」という。

この修法は、不動明王を始めとする、五大明王を備えているから、万全であると言わなくてはならない。
この「五色阿字図」を描いた紙を、日中秘蔵にしておいた「福の神」に重ね合わせるのであるが、呪術を行う際は、男女の性毛を抜いて焼き、その灰に自分達 の血を少量付着させ、三角に折り込んだ「福の神」に入れるようにする。降伏ならびに調伏は「福の神」を三角に折り畳んで用いる事が、「呪い」の特長であ る。

これにより無敵の正法輪と、陰陽の宇宙エネルギーが一体となり、最高のパワーが発揮されるのである。
この修法を行う場合は、その夜に決して交会はしてはならないので、これは固く守るべきである。その理由は呪術者たる男女の魂を、修法に凝結させる為のことからである。

阿字を重ねた「福の神」は、まず枕頭の盆の上に備え、男は「外縛印」を結び、女は「内縛印」を結ぶ。そして二人並んで印を結んだまま心を一つにして、祈 念に入る。これは二人の「精」を強化する為である。また「精」の強化は、事前に接吻などをしておく事も善い事で、その際の周囲の電燈などの明は消す事であ る。

この際の明として一番理想的なものは「蝋燭
(ろうそく)」であり、この灯りのみを頼りに、呪術修法を行う。また、古来より蝋燭は大きな呪術効果があると言われる。
調伏などの際は、呪い倒す敵に言葉を吐くのは、本尊の「阿」の文字である。その際に唱える呪文は、「オン・ア・ウン」である。

この呪文と、呪いの言葉を交互に何度も繰り返す事である。この場合、阿吽
(あうん)の呼吸と、呪いを一致させる為に、呪力強化したもの次に示すものである。

 「阿」の一時より、万物が出ずると言うのが、「真諦(しんてい)」である。
また、呪術の場合、この一時が根本となる。呪術者は、真なる「一」から、無数の万象に分裂していく理
(ことわり)を応用して、自己のエネルギーに、呪いの言葉を溶解させる。
次に、「吽」の一字に封じ込めた自己エネルギーを、最高に一念充実させ、その最高頂に至ったと観じた時、「阿」の字より発し、万象を生み出すように、一気に念力を噴射させ、怨敵
(おんてき)を分裂させると強く観じるのである。
この降伏法を「怨敵調伏
(おんてき‐ちょうぶく)」という。

この怨敵調伏の呪いの威力は凄まじく、深夜の
「呪いの藁人形」の百倍の威力があるとされる。したがって、滅多に遣うべきでなく、「最後の切り札」として、本来ならば生涯遣わずにいるのが尤も最善の状態である。

「人を呪わば穴二つ」という諌言
(かくげん)がある。これは他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺されるから、葬るべき穴は、二つ必要なことになるという意味だ。したがって、絶対に遣うべきものでないと断言する。しかし、長い人生において、傲慢な輩(やから)や、理不尽な輩に対し、どうしても赦(ゆる)せない悪業三昧(あくぎょう‐ざんまい)もあろう。
あるいは組織間や民族間などの紛争において、どうしても宿敵を倒さねばならない場合が出て来よう。これに限り、遣われる「最後の切り札」と考えるべきであろう。

さて、怨敵調伏は密教僧や職業祈祷師に依頼して行う方法と、自らが行う方法があるが、前者は殆ど効果がない。それはこの手の人種が、既に調伏法で、自ら の精神を病んでおり、呪術者としての威力も失われている為である。呪術を行う僧侶や職業祈祷師の類は、生きながらにして断末魔を味わっている連中である。 また、彼等の臨終間際の断末魔の苦しみは凄まじく、彼等は死の刹那
(せつな)に、肉と骨とが引き裂かれる苦しみを味わい、死を向かえるのである。

彼等は人間として、既に崩壊しており、本来の自己は失われ、その肉体は魑魅魍魎
(ちみ‐もうりょう)に占有されている。したがって低級霊が僧侶になっていたり、祈祷師になっていたりして、世人を誑(たぶら)かしている。そして人間としての人格を持たない。仮に何らかの威力が備わっていても、効果も低いか、無力か、あるいは寧(むし)ろ逆効果である事が少なくない。呪いの依頼者にも跳ね返って来るからだ。

だから怨敵調伏は夫婦か、最も志を同じくする男女が、一対
(いっつい)のペアーとなって行う事が最良である。但し、繰り返すが、本来は面白半分に遣(や)ったり、安易な考えで「試す」などの軽はずみな事はしないことである。自分の跳ね返って来る事は必定である。

また、「福の神」は男女二根交会によって作り出された紙を「三角」に折る。
この「三角に折る」ということ事態が戦闘態勢であり、今から攻めていく暗示もあるが、同時に自分達の攻撃は跳ね返る覚悟もせねばならず、努々
(ゆめゆめ)無 傷で済まされるとは思わない事だ。人を攻撃する以上、それは霊的な攻撃であっても、一個の人間の精神と肉体を破壊するのであるから、怨敵調伏は、仕掛ける 側もこの事を覚悟して、当然自分に跳ね返って来る事も覚悟するべきであろう。それを承知の上であるならば、どうしても遣らなければ行けないのなら、遣れば よい。

さて、戦闘隊形の作った「福の神」を、「五色阿字図」と重ね、男女で呪う相手の名前と、呪いの言葉と、更には止
(とど)めとして呪文を唱える。これを何度も繰り返すのである。夫婦が一対になって、あるいは志を同じくする男女のペアーが、一心不乱になって、呪術の修法を行うのである。
一番効果がある時間は、「丑三
(うし‐み)つ時」【註】丑の時を4刻に分ち、その第三に当る時で、およそ今の午前2時から2時半または3時頃を指す。これは深夜スナックの店が跳ねる時刻とも一致している。魔界の何かが絡んでいるのか?)であり、それを前後した午後10時から午前2時までである。

では、怨敵調伏を行った場合、実際にはどうなるのか、それを検証していく事にしよう。
まず、調伏を受けた怨敵は、その猛烈な威力で、神経や細胞がバラバラになり、痴呆状態となる。世の多くの痴呆症は、これらの調伏によってアルツハイマー 老年痴呆病となる場合が少なくないようだ。ただ、痴呆症になった当事者は、自分が調伏によって、このような病気を招いたと言う事を知らないだけである。

現代医学で、病人が救われる確率は、全体の20%のみと言われている。あとの80%は原因不明で、また原因が分かったとしても、その病因は治せないといわれている。したがってアルツハイマー型痴呆症などの頭を冒される病気も、恢復
(かいふく)に向かう人は20%以下であり、後の大半はボケ老人の儘(まま)死を迎えることになる。

怨敵調伏は、その本人だけでなく、その血縁を持つ子孫に及ぶ場合もあるので、調伏を掛けられた者は、自分の生きている間に、この呪法を解除しておかねば ならない。親が頭の病気で死亡する場合は、こも頭の病気で死亡する場合が多く、二代続いて同じ病気である場合は、一応自分の因縁を疑うべきである。
特に、親が痴呆症で倒れ、子も痴呆症で二代続いた場合は、調伏の可能性が高いと見るべきである。恨みを買われているのである。

この病気は、初老期に始まり、記銘力の減退、知能の低下、高等な感情の鈍麻、欲望の自制不全、気分の異常、被害妄想、関係妄想などがあって、これが要因 とされるが、こうした兆候が見え始めて、まず、疑わなければならないのは、その病気の発病者が、人から恨みをかわれているか否かを考えねばならない。
やがて高度の痴呆に陥り、全身衰弱で死亡する。しかし、その進行過程には、脳に広範な萎縮
(いしゅく)と特異な変性が見られるなどが挙げられる。

そして、不可解な事は、医療の最先端を行っていると豪語する現代医学でも、実際的にアルツハイマー老年痴呆病を治療する治療方法が見つかっていない事だ。それもその筈である。
何故ならば、この病気は、単に脳の毛細血管に眼詰まりが起り、これが起因して起る病気でないからだ。結果が原因を招く、《予定説》的な輪廻の輪が存在していることになる。

また、こうした病因が、なぜ毛細血管を詰まらせるか、医学的なメカニズムが分かっていないのである。その原因に至る、原因が分からである。これは、結果 が原因を派生させると言う考え方をしない現代医学の見落としている点があると言えよう。現代医学の考え方は、何処までも可視世界の現象だけを捉える自然科 学である。

しかし、痴呆症は可視世界の波長
(波調)を遥かに超えた、不可視世界から飛んで来る超極小の波長であり、それは肉眼では決して確認できない霊子で、「霊的波調」である。つまり、物理学で言う素粒子より、更に超極小の物質であるからだ。
したがって、脳の表皮部分を襲う、蜘蛛膜下出血のような微細部の正体は不明であり、CTスキャン
computerized tomography scanner/コンピュータ断層撮影装置)にもレントゲンにも映らない。また、これらの装置を使用しても、実際には毛細血管の細部は映し出すことができない。

話は少しそれるが、怨敵調伏による降伏法を仕掛けられた場合のついてのことを少し触れる事にしよう。
まず、ボケ老人のアルツハイマー型痴呆症を予防するには、毛細血管の血行不良を改善する以外に方法はない。どんな凄い呪詛をかけられても、それに対抗で きる毛細血管を作り上げ、新たな回路を開発しておく事だ。怨敵調伏には、逆恨みもあり、また、呪詛の対象者として別人と言う事もあろう。冤罪でかれられて は、かけられて方も、いい迷惑であろう。

調伏法解除は、普通、祈祷等によって解除できると考えられているが、こうしたものは一切効果が無い。物質現象を結果として生じたものは、唸
(ねん)な どの解除するには、かなりの動力がいり、こうしたものは「毒を以て毒を制す」の思想から、血行不全に一番効果があるのは「食の改善策」である。食の乱れ や、食の誤りは調伏の的になり易い。また、調伏を受けても、これを跳ね返すのは「食の是正」である。その為には血液をサラサラ状態にしておいて、動蛋白を 一切避ける事だ。

また、歳を取って、鬱病
(うつびょう)になったり、精神分裂病にならないようにする為には、毛細血管の回路を開発する必要がある。毛細血管の開発が不充分であったりすると、敵の調伏にまんまと嵌(はま)ってしまう。怨敵調伏は、食の過った人間に対して行うと、効果覿面(こうか‐てきめん)なのである。

栄養を、全身にくまなく運ぶのは、血管を流れる「血液」である。その血管の中でも、小腸から吸収された約60兆個もある全身の細胞の一つ一つに、栄養を運ぶの回路は毛細血管であり、その働きは人間にとって大事なものである。

しかし、毛細血管のこうした働きに対し、これを阻止するのが「活性酸素」という障害物である。活性酸素の阻害されると、幾ら栄養をとっても、結果的には栄養が運ばれない状態になる。
「毛細血管」という存在は、今日の現代医学の医療機器の粋
(すい)を集めた最新鋭のCTスキャンでも、レントゲンでも、微細な毛細血管の映像は、ごく一部しか映す事が出来ない。また、毛細血管に目詰まりした活性酸素も映す事が出来ない。活性酸素は怨敵調伏の為に、敵が放った超極小の調伏因子とることが出来よう。

この段階では、毛細血管の目詰まり現象にある人は、異常も感じないし、痛みも感じず、その後、徐々に悪くなり、やがて血栓などが出来る。これは調伏因子がまんまと取り憑
(つ)いた現象である。
老化とは、活性酸素によって、遺伝子や細胞が損傷を受け、異常な遺伝子が殖
(ふ)えれば、則(すなわ)ちそれがガンの要因になるのである。ガンも一種の憑衣で起るからである。したがって、活性酸素を無害化し、血流の流れをスムーズにする事により、躰(からだ)の隅々にまで栄養を送り届けることが出来るのである。

人間の体内には、隅々の末端に至るまで、網の目のようになった血管が走っている。この血管が毛細血管であり、栄養分や酸素を送り、不要な物質を運び去る 役目を担っている。こうした血管の働きによって、体内の細胞は栄養分を燃焼させ、躰に必要なエネルギーを生み出している。 したがって、血流が順調であってこそ、栄養分は必要箇所に運ばれ、それが有効利用されるのである。

成人の血管は、大動脈、大静脈のような太い血管から、100分の1mmの極細の毛細血管まで、総て併せると、その血管総延長は約10kmといわれてい る。これは地球の円周で表現するならば、2周以上になるといわれる。そして、血管総延長の99%を占めるのが毛細血管である。この毛細血管の中には、肉眼 では確認不能な、赤血球の直径より細い血管も多くあるといわれている。

また、肺の中で、酸素と二酸化炭素を交換する為に、この箇所を取り巻いている毛細血管も、腎臓で老廃物を濾過
(ろか)して尿を作る毛細血管も、電子顕微鏡でしか見ることの出来ない血管である。肝臓も毛細血管の塊(かたまり)であり、小腸で最小単位にまで分解された栄養分は、まず肝臓に集められ、躰に利用できる形に変換されてから全身の必要な箇所へと栄養分が運ばれる。
したがって、血管が目詰まりをする現象は、まず毛細血管から始まるのである。

脳梗塞
(のうこうそく)や心筋梗塞は、脳や心臓の動脈に血栓などができる血流障害である。詰まった箇所の先には、血流が流れない為に、酸素や栄養などの補給が出来なくなり、これにより脳梗塞や心筋梗塞が起る。
しかし、毛細血管は極細である為、1mmの百分の一の傷や変質は容易にCTスキャンやレントゲンに映ることはない。こうした医療機器に映し出される場合 は、かなり症状が進んだ状態であり、太い血管に映し出される以前に、毛細血管では様々な箇所の目詰まりしていたと考えられる。

血液がスムーズに流れないという事は、白血球などの免疫細胞も運ばれない為、その部分の免疫力も極端に低下してしまう。その結果、病原菌の繁殖や、ガン細胞の増加が食い止められなくなり、免疫細胞が働かないまま、やられ放題になってしまうのである。

五色阿字図

拡大表示

怨敵調伏を遣られるとまず、頭部の縫合が外れるような激しい痛みを生ずる。また、縫合や関節がズレたり、外れて、痛みを感じる病気に「顎関節症」がある。
 さて、蜘蛛膜下出血や脳腫瘍(のうしゅよう)、更にはアルツハイマー型痴呆症で調伏された場合は、頭部の縫合(ほうごう)の繋(つな)ぎ目の、骨の噛(か)み合わせ部分に痛みを感じて来る。縫合は外れ、関節や骨のズレを感じ、全身の筋肉はだるくなり、あるいは筋肉痛を感じ、もし、この調伏を行われている最中に、運悪く愛人や情婦と性交をしていたら大変な事になる。
何もこの場合、愛人や情婦ばかりではなく、妻との性交、あるいはタイやフィリピンなどで、格安のコールガールと性交の最中だったらとんでもない事が起る。

では、どんな事が起るのか。
まず男は、快感がないのに射精して、精液が止めどもなく噴出し、大量に流れ出して来る。しかし、それは早漏射精とも、夢精とも全く違う射精である。
そして腰が抜けて、ヘタヘタという状態になる。同時に、射精時に、妻以外、恋人以外の名前を口走り、大変な一騒動の一夜となろう。
特に、妻以外の女を囲い、それを妻に内緒にしている場合、この秘密が発覚し、こうした女性の名前すら喋り出してしまうのである。

また、妻以外の女性と、浮気あるいは本気である場合も、その一夜のうちに、愛人の女性の存在を知られる事になる。翌日になって自分から進んで告白した り、中には御丁寧に、隠し子が居た事や、妊娠させてしまっている事なども、正直に告白してしまうのである。そして、その後の大騒動は、どれだけ大変なもの になるか想像に難しくないだろう。これには怨敵調伏が絡んでいるので、その揉
(も)め事も大変なもので、必ず裁判沙汰になる。調伏は感情に絡み付く唸が派生するので、どうしても複雑になってしまう。解決の為にかなりの時間を要するであろう。

最も多いのは、こうした騒動の後裁判沙汰になって、離婚をし、その後の人生があまり冴えない事だ。怨敵調伏により気力を吸い取られ、その後の人生は運命 の陰陽の支配に左右されるので、運気も逃しがちとなる。調伏を受けた場合、気力を失い、疲労ばかりが体内に蓄積されていくのである。疲れ気味で、衰退に向 かうのである。調伏を受けた男の身体的な特長は、「眼が赤い」ということである。
この「眼が赤い」と言うのは、過去に妻以外の女性がいて感情を荒立てて家庭が揉
(も)めたことと、その後の女性放浪が眼に顕われ、今もそれを引き摺っている事を顕わしている。こうした因縁は出来るだけ早く切り捨てる事である。

また、人生半ばの五十路
(いそじ)を 過ぎた壮年者や高齢者が、愛人や情婦と性交の最中に、怨敵調伏をやられると、腹上死は間違いないであろう。高齢者が腹上死をする場合、大方は性交の最中に 調伏を遣られたとみてよいであろう。この場合の「遣る」は、まさに「殺る」であり、調伏によって殺される事を意味する。そして、間違いなく死ぬ事だ。

次に調伏をやられた女性の方は、急に男のモノが骸骨のように水涸
(みずが)れし、膣内の“子壷”の辺りに、ゴツンと激しい衝撃が趨(はし)る。その激痛は一生涯忘れる事がない。そして、完全に性交拒否の、人形のような使い物にならない女体になってしまうのである。不感症なども、一種の調伏による恨みの場合が多く、これを解かない限り、生涯、人形生活を続ける事になる。

愛人同士の男女が、同時に恨みなどで調伏を掛けられる場合は、一番多いのが、女性の膣痙攣
(ちつ‐けいれん)であり、双方は七顛八倒(しちてん‐ばっとう)の苦しみを味わう。膣痙攣は膣の周囲の筋肉が酷い疼痛(とうつう)を伴って痙攣・収縮する症状で、最悪の場合は男根が女根の中に吸い込まれ、男女が結合したまま昇天する場合もあるといわれる。

こうした恐るべき修法を遣られれば、人生の大半の快楽は失われる事になり、生きながらにして地獄を味わうことになる。これは淫乱や色香に翻弄
(ほんろう)される色情とは、逆のコースの人生を辿り、激しい一切の性交拒否人間となるのである。

女の場合、こうしたタイプの人間に急変する事があるので、もし既婚者ならば、良人
(おっと)以外の男に安易に趨(みだ)らない事である。使い過ぎた女根は、自然と浮気が発覚するものである。それは、淫水の大量の流出により、自然と分かるものである。良人以外の男と肉欲に耽る女は殊の外、淫水の量が多くなり、これこそが浮気の証拠となる。しかし、それだけ早い時期から多く排出するので、涸(か)れるのもそれだけ早い事になる。

また、良人が暴力を振ったり、酒乱に趨
(はし)る場合も、妻に調伏を掛けられている場合が、大いに考えられる。良人が酒乱になったり、妻への乱暴は、単に良人自身に問題があるのでなく、妻にもの半分の責任はあるべきと見るべきだ。良人の因縁の陰性因子を、妻が浮気などをして逆撫(さかな)ですれば、必ずこれは浮上する。
この事は、幕末・明治期の政治家であった黒田清隆が、酒乱であった事も見逃すべきではないだろう。


怨敵調伏を遣られ、生涯、酒乱に悩まさ続けた黒田清隆。調伏による憑衣と見てよいであろう。


 アルコールが入ると人が変わってしまうというのは、過去世からの因縁であるが、普通、こうした保菌因子が表面化するのは、半面だけである。全面浮上は、必ずそこに何かの絡みがある。
黒田は酒乱による奇行で、三条実美
(さんじょう‐さねとみ)に禁酒を命ぜられるが、一向に改まらず、優れた資質を持ちながらも、酒乱の為にトラブルを続出させた。戊辰戦争の際、恨みを買われたのかも知れない。

そして妻が、お抱えの車夫と姦通したとして、その妻まで、酒乱で斬り殺ろしてしまうのである。これは前代未聞の事件で、判決では無罪となったが、何とも後味の悪い事件であった。その背後には、怨敵調伏の裏側があったことが考えられる。
調伏は生霊化
(いきりょう‐か)するので、非常に恐ろしいものである。また、こうした生霊は、並みの霊能者では解決できないので、非常に厄介なものであると言える。つまり、生きた人間の「凶」の悪想念がつくり出したものである。


しかし、ここで注意していきたい事は、こんな恐ろしい調伏をかける側は、ある程度の調伏に対する修行を行った者でなければならず、また、普段はこうした ものを遣うべきでない。行法未熟な者が、面白半分で、試す意味でこれを用い、人を呪えば、まさに「穴二つ」であることを絶対に忘れてはならない。同じ事 が、自分に跳ね返って来ることを覚悟しなければならない。

また、妻以外の女性を必要とする年齢になって、「二竈
(ふた‐かまど)」 以上を設けようと思ったら、これには作法があり、守らねばならない約束事がある。この約束事を無視して、こうした事を行うと、生霊が飛ぶような恐ろしい現 象が起るのである。更に厳守しなければならない事は、仮に、妻以外の女性を、妻の許しを請い、持てたとして、ここには作法がいるのである。この作法を無視 してはならない。

この作法を簡単に述べれば、「二竈」の別宅を設ける場合、仁義として同じ沿線の五つ目以内の圏内に愛妾宅は置かないこと。愛妾宅に通うのは一週間に一回 が目安。自分と二十以上も歳の離れた愛妾を作らぬこと。本妻に充分に喰わせるだけの資金を提供できること。自分の性的不能を感じたら、さっさと引き上げる こと。ダラダラの状態に発展させないこと。
更に、以上を含み、妻の承諾を得て、これを実行する事であり、これが逆になってはならない。つまり、妻の更年期障害あるいは生理が上がり、女を卒業し、こうした事が表面化した時に限るということである。

浮気心で、女性に近付き、その後、愛妾関係になり、これが発覚すると言うコースを辿ってはならない。その旨を、事前に告げて許可をとることであり、この許しが出なければ遣るべきではないし、この辺の仁義は守りたいものである、

しかし、普通は恨みを買うような生霊が発生するような事は、人間のして最初からするべきではないであろう。また、万一の場合を考えて、自分の人生が崩壊してもよいと考える覚悟があるのならそれはそれで、実行するが宜しかろう。
しかし、結果的には、よい結果が出ないのが大半である。したがって、愛妾は器がいるので、凡夫
(ぼんぷ)は手を出さない方が賢明である。是非とも賢明な人生を歩いて頂きたい。





夜の宗教・真言立川流 7

●霊力の大きい「福の神」作製の秘法

「福の神」は、男女二根の精気を含んだ
「愛液」で作る事は既に述べた。
しかし、「福の神」は男女二根の交会によって得た、愛液を拭った情事後の拭い紙ではない。拭い紙は単なる、紙と云う物質だが、男女二根の交会によって紙に認められた「福の神」はこれ自体で威力を持つ。
聖なる液体が拭き取られ、そこに紙によって掬
(すく)い採られた男女二根の分身は、それ自体が、立派な霊力を持った「福の神」なのである。

この「福の神」は、人間の幸福を齎
(もたら)したり、あるいは破滅を齎したりする。ここが事後処理の、単なる拭い紙と違うところだ。それは男女二根交会から起る「統一の念」が齎すものであるからだ。

男女が二根交会をするのは、「一つになる」ことなのである。では、何故男女は一つになろうとするのか。
かつて神話には、もともと男女は一体であったと言う話が出て来る。
しかし、「男女が一体」だとすると、人間は余りにも強くなり過ぎて、神に背
(そむ)きかねないと言う懸念(けねん)が起った。そこで神は人間を引き裂いて、男と女に分離させ、神への抵抗を削(そ)いでしまった。そうすると人間は割合に温和しくなり、男女が一体になる事は、特別な場合を除いて禁止してしまった。

一方、男女一体型であった筈
(はず)の人間は、男女別々に分離されたのであるから、その何れかの片割れは、切り裂かれた相手を求めて徘徊(はいかい)すると言う。この徘徊こそ、男女の恋愛ではなかったか。

人間が異性を求めて恋に落ちるのは、こうした理由によるものであるとする。そして再び一緒になって、強力な力を発揮したいと願うからだ考える。
これは単に生殖行為ばかりでなく、本願成就の場合においても同じであろう。もともと男女は、合体して協力関係を目的とし、協力する事により人生を全うしていく生き物なのである。

人間がある願い事を立てて、これを成就させようと思えば、男女バラバラでは駄目である。男女が一体にならなければならない。この男女一体は、単に性交ばかりを指すのではない。「一
(いつ)」になって、助け合い、補い、睦(むつ)み合うのである。
人間が「結婚」という行為に至るのも、一種の本願成就の為である。本願成就は男女一体になる事によってのみ、成就するのである。だから人間は、既婚年齢に達すると、結婚しなければならないのである。

昔は、既婚年齢に達すると、男女は早々と結婚した。婚姻をする事により、一人前ともなされ、お互いは協力し合って物事を成就させて来た。この成就には金 銭で買う事の出来ない精神的な成就も含まれていた。この精神性は、また一種の霊性であり、この霊性は人間に身近に神仏や霊魂が存在する事を感知させた。そ の為、神社仏閣の前では、自然に頭
(こうべ)を垂れる習慣がついた。
しかし、時代が益々物質かすると、神仏を敬
(うやま)う心が人間に向かい、神仏を観じるのではなく、人間を崇拝せよという主義が押し付けられた。これが民主主義であった。

民主主義は、不完全な人間を崇める主義である。その最たるものが「基本的人権」ではなかったか。人権を掲げる事により、人間が大事にされる錯覚を抱い た。主権在民で、人間こそ一番偉いのだと言う幻想を人類に齎した。この幻想により、人間は神とすれ違いの生活を行う事になる。そして、昨今では殆ど、神仏 の存在を感知できる人はいなくなった。

これは既婚年齢に達しても、結婚するより金儲けが先き言う考えがあり、また、仮に結婚できたとしても、男女の婚姻は快楽を含む性の貪
(むさぼ)りであると考え違いし、個人生活の謳歌こそ、現代人に与えられた特権であると幻想を抱いて居る事である。

世間では、既婚の年齢に達しながら、それが出来ず、男女が各々に片割れで暮らす人間をあまり信用しない。それは男女が一体となり協力しあうと言う姿が見 られない為である。また、事実、独身者より既婚者の方が、事を成就する速度は早く、その達成力も大きい。したがってその根本は男女二根交会であり、「鉢巻 き現象」
【註】ホ モの特長はアナル・セックスであるので、男役が女役の肛門から直腸を性器と見立てて挿入した場合、大腸菌の中に隠れるAIDS virusは、差し込んだ男役の男根に付着し、男根に浸透してエイズに至ると言う性病的な感染メカニズムがある。江戸時代には、この性病現象を「鉢巻き現 象」と言う名で素手に存在していた。時代が激動化し、唯物的に傾いて来ると物質主義の反動として、生物はホモ化する事はよく知られている。昨今では homosexual の略で男性同性愛者にこの語が充てられたり、gayが男性同性愛者に充てられ、急速に増加する現代の病床は時代を反映させていると言えるだろう)のホモではない。

“鉢巻き現象”は、衰退時に顕われる特異な現象である。国家が滅亡したり、大異変が起ったり、悪想念が蔓延すると、世の中全体には「ホモの元凶」である鉢巻き現象が起る。鉢巻き現象は様々な禍
(わざわい)を齎す。ホモに市民権を与えた国家は、必ず滅んでいる。衰退の憂き目を免れない。かつてのローマ帝国がそうでなかったか。

これは生物界を検
(み)ても一目瞭然であろう。
身近な生物現象として、
「腸内細菌の異変」が挙げられる。人間の腸内では、正しい機能の根元であった善玉菌が減少し、反対に悪玉菌が殖(ふ)え続けている。これが腸内細菌の異変である。本来、腸内環境を正しく保っていた善玉菌は、悪玉菌に殺され、あるいは善玉菌がホモ化して、悪玉菌に早変わりしている。
微生物のミクロ世界でこうした減少が起っている事は、それより大きなマクロ世界にも反映されるので、当然人間の社会でも同じ事が起こり始める。これが「鉢巻き現象」である。

腸内細菌のミクロ世界では、過密化すると「共食い」と言う現象が起るが、これは人間世界に当てはめれば、「殺人」や「傷害」と言うところであろう。同時 に過密化は、ホモ化を促進させた。現代人が、特に男同士において、急速にホモ化現象が起こっているのは、ミクロ世界に例えるならば、細菌同士のホモ化に匹 敵するもので、ここでの環境がが狂い始めた事を意味している。

昨今のアメリカではホモ化現象に市民権が与えられ、こうした人種が大手を振ってあらゆる世界に進出しているが、これは一種の衰亡現象である。国家が衰亡し、滅亡に至る過程には必ず同性愛が氾濫する事である。
それが大自然の掟
(おきて)であり、これは人間側の指向とか市民権と言うもので片付けられるものではない。

大自然の摂理は、異なるものがその欠点箇所を補う事により、物事が成就すると言う現象が起る。片割れだけではどうしようもないのである。そこで、本来「一
(いつ)」なるものが離れ離れになっているのであるから、片割れ同士は、もと一緒であった相手を探して彷徨(さまよ)い、それを探し求める運命が背負わされているのである。そして最後は、男女二根は交会により「一」になるのである。
この異性同士が「一」になることが非常に重要な事で、同性が「一」になる事はあり得ないのである。霊的には引き合わないからである。


エマニュエル・スウェデンボルグの肖像
 史上最大の霊能者だったと称される『私は霊界を見て来た』の著者エマニュエル・スウェデンボルグは、また巨大な霊媒師でもあった。スウェデンボルグは、 単なる神秘主義者ではなく、物理、天文、生理、経済、哲学、数学の学問分野においても、十八世紀最大の学者として知られ、その学識の高さは現代の水準にも 達すると言われる大学者であった。

このスウェデンボルグが、霊界探検において非常に興味深い話を、自らの著書に顕わしている。それは「霊界での男女の結婚」である。スウェデンボルグによれば、霊界でも結婚があると言われる。

『私は霊界を見て来た』の著書によれば、その結婚式の模様を次のように顕わしている。
「その霊は、また同じ川の辺りにやって来て、そこに広がる景色を見入っていた。それは前の日と同じであった。彼は、ここ数日前からこの同じ“日課”を繰り返していた。
だが、此処に坐って毎日同じ風景を眺
(なが)めていることが特別な意味のある事とは、彼自身にさえ思われなかった。それに彼は此処で何をするわけでもなく、ただ風景を眺めているだけだったのだからなおさらであった。
彼は自分でも、なぜ毎日ここに来るか分からなかったに違いない。しかし気が付いて見ると、また自分は同じ場所に来て、同じ風景の中にいるのを発見する……といったように彼はその日課を続けていたのである」

こうして始まる霊界での結婚物語は、スウェデンボルグが、霊界は“想念の世界”である事を、まず説明した上で始まる。そして、次のように綴
(つづ)る。

「霊界にも結婚と言う事があるのだと知れば世間の人々は驚きを隠し得ないだろう。
霊界の結婚も男女の霊の間で行われる点では、人間の結婚と少しも変わらないが、それでも相当な相違がある事は勿論である。
霊界の結婚は霊的近親感、親和感の絶対的な極致でだけ行われ、人間の場合に屡々
(しばしば)あるような世間的な考えといった要素は全く混じる事がない。これは霊が、その本来の姿で帰った形でなされるのであるから当然の事に過ぎない。したがって霊界での結婚は、同一の霊界の団体に属する霊だけの間で行われ、他の団体の霊との間ではあり得ない。
霊的親和感の極致は、此処に記した例でも分かるように、二人の男女の霊の頭上にダイヤモンドや金の輝きを放つ気体が表れることで表像される。

このような男女の霊の間では、その霊的な心は完全に一つになる。
霊の場合も男には理性、知性に優れ、女は情に優れているのは人間の場合とよく似ている。そこで霊が結婚すると、男の霊の理性・知性はそのまま女の霊に流れ入り、女の霊の情は男の霊の中にそのまま流れ入って、一つの人格ならぬ霊格が出来上がる。

この霊格は男女の霊が別々の場合より、遥かに優れた霊格であり、結婚した男女の霊の幸福感にも、霊的な能力も、霊界で求められる最高の物となる」と締めくくっている。
つまり、スウェデンボルグが説いているのは、「一
(いつ)」になることにより、その力は偉大であり、大いなる威力を持ったものであるとしている点である。
五色阿字による調伏法。三角「福の神」は恐るべき威力を発揮する。三角の折られた「福の神」は怨敵調伏を顕わす。
この呪法を用いられた者は、調伏により分裂を招く。神経や細胞がバラバラになり、痴呆状態となって、骨は痛み、肉は裂かれ、運悪く愛人とセックスしていたら、男の場合は最悪の状態を招く。

 この「一」の合体状態を、人間界に具現させると、真言立川流で説く「福の神」ということになる。「福の神」こそ、唯物的な物体ではあるが、実はこの物体は、同時に精神的な間力を持ち、それが唸(ねん)となって様々な現象を起こすと言う事なのである。この唸は「生霊(いきりょう)」と考えてもいいであろう。
生霊はもともと生きている人の怨霊
(おんりよう)で、祟(たた)りをするといわれるものであり、一般には「いきすだま」として知られている。

つまり、男女二根交会で作り出された、たっぷり愛液を吸い取った「福の神」は、その用い方によって、悪に善にも変化
(へんげ)すると言うものなのだ。
そして「福の神」は、折り方、畳み方で種々の働きを持つのである。



●「福の神」を用いた除難招福と立身出世の秘法

その他の、除難招福や立身出世の呪法も、かなりの修行を重ねて念力を遣う事には変わりがないが、出来れば自分の血は振り掛けず、食物や貴金属などの類を供物に備え、こうした略式で行うとよい。
除難招福は、一般の人にとっては、神仏を信仰する原点とも言うべきものであって、人が信心をする本来の姿がある。したがって除難招福については、真剣に祈念したくなると言うものである。

祈念とは、単に神仏に、祈り願う事だけではない。あるいは「願掛け」とも異なる。そこに挟まるものは、多くは祈願成就であり、祈願は何処までも祈願の「願い」の範囲を超越するものでない。則ち、単独成就は殆どこの現象界ではあり得ない事である。
自分が「○○したい」という願望は、願いであり、アクションの起らない願望であるから、その願いは成就される事がない。

一方、現象界ではアクションを起こす事が、法則の根元であるから、行動を起こす事により、それは行動に応じた現象を起こす。これは「唸」であっても同じ事だ。
男女二根により、交会して「福の神」を作れば、それは種々の方法と目的に応じて、それが変化の結果として現われ始める。

呪う時は、呪う時のように、祝福の時は祝福するように、それは変化の結果として表れ現象界に出現する。その根元を作り出す源は、「男女二根交会」にある。
これは先の述べた霊界での、スウェデンボルグの「霊界での結婚」を思い描いて貰えば得心いくだろう。

男女二根が交会し、合体すると言う事は、男女の精気が陰陽の違いから生ずる異種なるものを混合させると言う作用から、お互に交流が行われるのである。こ の交流は人間界では、陰陽の気の交流であり、これが霊界ならば、男の霊の所有する理性や知性は、そのまま女の霊の中に流れ込み、女の霊の持つ情は、そのま ま男の霊に流れ込んで、双方の霊が強力な力を得て、「一」になるのである。「一」こそ、もともとは本当の姿なのである。

人間界では「一なるもの」が避けれて、男女は各々別行動をとって来たのである。しかし、それは人間界においても「一」になれば凄まじい威力を発揮するということになる。

霊界探検者のスウェデンボルグは、霊界の「一」になる行為について、次にように言う。
「霊界でも、男女の霊の結婚には、餐宴
(さいえん)を催し、同じ団体の霊が沢山集まる。その時、集まった霊達は餐宴の席の上空に、この世では想像も出来ない、美しい少女の像が光り輝いて現われるのを見る。
これは霊界の結婚の至福を示す表象として知られている。

最後に霊界の結婚が、この世の結婚と違う点を挙げると、次のようなことである。これは霊的な心の合体の完璧
(かんぺきさ)さを示すわけだが、その他にも霊界では結婚した男女はお互いの霊としての体もすべて相手の中に入ってしまって、完全な一人の霊になってしまうことにもよる。

また、霊界での結婚に、男女の霊の間で肉体上の結合はない。これは霊界での結婚の目的が、二人の霊の悟りや幸福や理性、霊的能力の向上にあって、この世の結婚のように子孫の繁栄や繁殖を担うと言う事ではないからである」

スウェデンボルグは、人間界と霊界をコインの裏表、あるいは人間界をも包含する巨大な、不可視的世界が果てしなく広がっているとするが、人間界の存在目的は、霊界の為に将来の霊を産み出す為の「繁殖の場」が人間世界であるとしているのである。

ともあれ、人間の男女は霊的には、元々は一つであった事が分かる。したがって、元々一つであったものが、「一」になると本来の姿に戻り、これが威力を発揮するということが分かるであろう。
人間界で男女が一つになるのは、「交会」の時をおいて他にない。したがって、そこで作り出された「福の神」は強力な威力を持つ事は言うまでもない。

真言立川流では、現世の現象人間界の出現の理由を「万物は“阿”の一字より始まる」とし、これを真諦
(しんてい)としている。
また、この真諦こそ、呪術の基本である。真なる「一」から始まって、無数の万象に変化し、分裂していく。この分裂していく根本こそ、元は「一」なるものであった。この「理
(ことわり)」を応用すれば、呪術者は自己のエネルギーに、「呪の言葉」の乗せて飛ばす事が出来る。生霊とは、行して出現するのである。生霊こそ、人間の想念であり、この想念は様々な影響を及ぼす。

良い事も、悪い事も表裏一体の関係にある。この現実こそ、現象界の相対関係なのである。一方だけが存在する事はない。光は、影の存在があってこそ、光の存在が明確になる。影を取り除いて、光だけを抽出すれば、光は存在意義を失う。
これは天国もしくは極楽と、地獄が対峙し、各々の存在意義を認めている事に似たようなものである。地獄が消滅すれば、また天国も極楽も消滅してしまうのである。

美醜の「美」は、醜さが存在しているからこそ、美しさが際立つ。醜さが一掃されれば、美もまた消滅するのである。
始めがあるから終わりがあり、出口のないところに入口はない。したがって、最高に一念充実したと観じた時に「阿
(あ)」の字より発するのが始めであり、「吽(ん)」によって、総ては焉(おわ)る。

万物を産み出すのは「阿」である。「阿」によって万象が生み出される。「阿」を一心に念じ、それより発し、「吽」の一字で封じ込めるのである。一気に唸を吹き出し、怨敵
(おんてき)を分裂させたと観じる。これが呪術の真諦である。この「阿」の字の呪を受けた敵は、その威力により、神経や細胞がバラバラになる。同時に痴呆状態が訪れる。しかし、もとより、わが身に跳ね返って来る事は覚悟しなければならない。

唸は一方通行ではない。「呪のブーメラン」であることを知らなければならない。したがって、識
(し)っておいても遣うべきでない。「切り札」として最後まで持っておく事が大事だ。

一方、除難招福や立身出世の呪法も、やはり念力を込め、唸
(ねん)を飛ばす事には変わりない。この場合は、福の神に自分達の男女の血を振り掛ける必要はない。供え物は、食物や宝石・貴金属などである。

また、「福の神」は四方に畳み正方形にする。その正方形の四隅を切ってこれを「円形」にする。これを五色阿字の前に捧げ、供物のともに呪術の護摩壇
(ごまだん)を作る。但しこれは、あくまで“略式”な遣(や)り方である。また、枕頭に置く点においては、降伏法と同じである。

祈願者の男女は、合掌し、祈念の言葉を述べたら、夜具の中に入り、身体を密着させる。この密着はお互いの体温を巡回させる為だ。但しこれはあくまで、体 温を循環させる為だけのものであるから、交わってはならない。乳房を吸ったり、肉体の至る所を触りあって、体温のみ、上げる事を試みる。

枕頭の「五色阿字」には花を添え、香水を振り掛ければ、この修法ムードは更に高まるだろう。体温を上げる目的は、外護摩
(そとごま)の焔(ほのお)を観じる為に行うのであるから、男女はその想念の中で、外護摩で炊かれる護摩壇の火をはっきり意識しなければならない。

護摩壇の火焔を観じたら、呪文「オン・ア・ソワカ」を唱える。
この呪文の根本には、降伏法と同じ「阿」の理によるものだが、今度が逆に、分裂を来す現象を「一」に戻るように唸を飛ばす事である。ただ一心に「一」になることを念じて祈念することである。

その理由は、様々な心配事や、病原菌に取りつかれる災難から逃れて、雑物を駆逐
(くちく)し、純真な自己の帰する事のみを祈念するのである。これにより、法身たるわが身は、一切の災難が消えると観じる。そこで、ひたすら「一」の阿を観じる呪文となるわけである。そして、災難は消滅する。

次に、立身出世について述べる事にする。
やり方は前のものと同じであるが、「福の神」は、今度は四角に折っておかねばならない。合掌して、祈念を意識し、夜具に入って二根交会をする。立身出世を祈念する時のみ、二根交会が許される。
まず、祈念者たる男女は、合体し、強く結ばれる想念を抱く。強く抱く事により、そこに作り出される「快感」を護摩壇の焔とする為である。二根交会により激しく燃え上がり、これはあたかも不動明王の背中の火焔を思い抱かせる如きに、燃え上がる必要がある。

猛烈な美観の中で、交会し、然
(しか)も、漏らしてはならないと言う修法の厳しい掟(おきて)がある。万一、不覚にも漏らしてしまえば、その祈念は全く成就しないばかりか、その反動を喰らい体調を悪くするので、十分に注意しなければならない。
したがって、これを行う際は、既に述べた日取りを充分に検討して、男女共体調を整え、これに臨んではならない。安易な考えで行うと、その報いの跳ね返りは大きいので、細心の注意が必要である。

立身出世の呪文は、「オン・ア・サ・ソワカ」である。
ここでの「サ」は観音菩薩の種字である。観音菩薩は願いを聞き届ける仏であり、霊験あたかであり、法輪たる観音を念じ、「阿」の法力に力を込めて念ずる事である。



●秘法会得には欠かせないローリングとピッチングの大秘伝

 真言立川流には様々な祈念を行い、魅力ある修法並びに、霊験あらたかな呪術は、その究極の目的が、何と言っても猛烈な美観である。
既に、スウェデンボルグの霊界探検で述べたが、美観の行き着くところは、男女の交会によって、一体となり、その合体の姿は、霊的に見ると、霊界における結婚である。つまり男女は一つの霊人となり、強力な悟りを開く事である。

この「結婚」において、霊界では非常に高い霊格が現われ、男女の霊は最高の幸福感を得るとされている。
また、この時に男女の霊は、この世では想像も出来ない、「美しい少女の像」が光り輝やいてこれが現われると言う。ここにイメージしているものは、恐らく観音菩薩であろう。
人間社会での役目を終えた場合、次に待っているのは「死後の生活」であると思われる。死後の生活が有るか無いか、それは別として、人間は生まれた以上、 必ず死ぬ運命を背負っている。死後の生活を肯定した者も、否定した者も、必ず一度は死ななければならない。死して、霊界に至る。

ある意味で、現世と言う現象人間界は、男女二根交会は、霊界に旅立った後の「一
(いつ)」になる予備練習をしているのではないかと思われる節がある。男女が激しく愛しあい、吾が一生の伴侶を伴って、狂おしく燃えるのは、霊界で「一」になる下稽古を、この世で行っているのかも知れない。

真言立川流では、その都度、修法を変える事なく、何事も意の如くする「如意の秘法」があり、それを一大秘法としている。それは男女二根交会において、生 身のうちに高等な神通力を得て、交会を通じて極楽浄土を体感する秘法である。その秘法こそ、三次元稼動する“ローリング”と“ピッチング”である。

ローリング(rolling)とは、物体が回転する揺れを顕わすわけであるが、一般に用いられるのは、船などの左右にゆれる動揺であり、「横揺れ」のことである。それに対するものが、ピッチング(pitching)であり、船や飛行機の「縦揺れ」を顕わす。

さて、男根を船あるいは飛行機に喩
(たと)えたとしよう。そして女根を、男根が媒介して運行する大空か大海に喩えよう。
そのに通過する船や飛行機は、常にローリングとピッチングの影響下にあり、運行すると云うことは、「横揺れ」と「横揺れ」があることを覚悟しなければな らない。無事に運行する為には、大気や大海原の横揺れと、縦揺れに甘んじるだけでよいのであろうか。この稼動は、二次元的な平行移動でない事は明らかであ る。

二根交会以前の、単なる男女の性交は、多くの場合、不覚にも、単に二次元平行移動の「ピストン運動」に終始しているに過ぎない。特に男の場合は、こうし た愚を冒し、これが夫婦間、男女間で行われる性交だと思っている。この程度の性交の知識では、お粗末な限りである。

これに比べて、「交会」は違う。三次元稼動であり、前後のピストン運動だけではなく、左右に稼動しながら、更に高低をもって三次元稼動をするという事で ある。この稼動を充分に学び取り、この秘法を自分のものにしない限り、極楽浄土での浮遊を感得する事は出来ない。

しかし、三次元稼動をするには、些かの高騰技術を鍛練しなければならない。高騰技術の鍛練に備え、これを行う為の準備は次の通りである。

男は接して漏らさずを学ぶ為に、「毛細血管」の回路を開発する冷水浴をする。これは脳を健全に保つ、健脳術の実践である。
睾丸を健全にする為に、「金冷法」を行う。金冷法は躰を暖め、外側に突出している睾丸を冷やす。睾丸をベストの状態で冷却し、精嚢(せいのう)に、蓄えられた精気を保存・維持しておく為である。
男女とも、太陽と共に起き、太陽と共に寝る、早寝早起きの習慣を心掛ける。また、不摂生を避け、規則正しい生活をする。
少なくとも、女は午後十時までに就寝し、それ以降の時間は熟睡する事である。女の夜長は、憑衣の対象になり易く、多くの婦人病は憑衣と深く関係がある。
朝は、男女とも午前五時までに床を出て、冷水浴をする。但し、交互に湯と冷水の交互浴をすると結構状態がよくなる。
栄養のバランスと血液の健全を考えて、玄米穀物菜食を実践し、粗食・少食に心掛ける。長時間耐えられる為には、常に内臓を疲弊させる事なく、空腹にしておく事である。
交会は、小便などをした後に行わないこと。排尿により、精気が漏れているからである。交会を行う際は、予め準備して、出来るだけ気を漏らさない事である。
男女とも周天法(しゅうてんほう)を会得しておくと、交会に至った時に、お互いに来は循環し易くなり、交会に至りながら周天法を行う事ができる。
交会の時間を考え、夜遅くよりは朝方の方が、覚醒する時間が長いので、できるfだけ真夜中は避ける。また、夕暮れの大凶時(おおまかどき)は絶対に避け、便所や風呂場などの不浄な場も避ける。
10
普段から「勘」を高める訓練をしておくこと。交会の最中に、迫り来る危険を察知できるので、勘を養えば、「見通し」が立つ意識が覚醒する。
密教は呪法修験が中心となる術理を持つ。その特異なものが「密教黒魔術」である。この黒魔術は実に恐ろしいものである。
真言立川流の密教黒魔術は、秘仏「立川流髑髏
(どくろ)本尊」と、密教法具「人形杵(にんぎょうしょ)」による呪法修験である。密教では、煩悩(ぼんのう)を破砕し、菩提心(ぼだいしん)を表す法具を「杵」という。

立川流では「杵」という人形型の独鈷
(とつこ)が変化したものを「人形杵」と称し、密教房中術での形を象徴化し、この杵をもって、悟りを妨げるものを払う意味を持っている。
しかし、現代という時代は、死体の火葬が奨励され、土葬が日本では禁じられている関係上、髑髏
(どくろ)に対する哲学性が急速に薄れた。

髑髏は「ドクロ」と読み、「されこうべ」も、またドクロである。つまり、ドクロとは「曝れ頭」の意である。風雨にさらされてしらけた頭骨であり、野晒
(のざらし)を指す。そして現代では、個人がドクロを所持する事は禁じられている。そればまりか、人の死を「穢れ」と考える神道は、穢れと共に「懼(おそ)れ」を死者に抱いていた。
一方、真言立川流は、ドクロを本尊とする夜の宗教であったから、こうしたものを礼拝し、黒魔術を用いる宗教は、一般人から見て、余りにもグロテスク過ぎ、猟奇擬いで、邪宗のイメージを強めてしまったのである。

しかし、神道で言う「忌み嫌われる穢れ」は、相対二元対極を繰り広げる現象界にあって、絶対になくてはならぬ、光に対する影の部分を受け持っていた。相 対界は正と邪、善と悪、清と濁の二元論で常に対極する。しかし、これを無差別平等に置き換えたものが、仏教であり、また密教であった。この限りにおいて、 仏教は一元化する。一元論で包含されている。それを「一」という。

この「一」には生者も死者も同根とする考え方がある。この世もあの世も、同じ空間と時間の中に生き、両者は良き友と考えるのは「無差別平等」の世界である。
それは仏僧が死者の葬儀に立ち会い、死者を友として、冥土
(めいど)への旅のコースをアドバイスするのも、生死同根の思想からである。決して死者を忌み嫌われる穢(けが)れた不成物として、この世から追放するものではなかった。死者は単に肉体を失うだけだったのである。



0 件のコメント:

コメントを投稿